失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

磐田物語南部地区 / 水利史

南部・中泉・見付/水利制度史|公開 2026年8月19日

今之浦用排水組合から悪水組合へ
――低湿地を管理した明治の制度

今之浦の低湿地を変えたものを、昭和の区画整理だけで説明することはできない。地域資料は、明治24年の「今之浦用排水組合規約」、明治30年の道路開通に伴う工事、明治45年の「今之浦悪水組合」設置を記す。水を入れることと逃がすこと、道を通すこと、土地所有者が費用を分けることを一続きの地域運営として読み直す。

排水は一軒の田だけでは解決できない

今之浦は、見付・国府台・中泉の台地に囲まれた低地である。雨水は高い場所から集まり、川の水位や潮の影響によっては外へ流れにくい。ある田だけに溝を掘っても、その下流が詰まっていれば水は引かない。反対に、上流側が勝手に大量の水を流せば下流側の田が被害を受ける。低湿地の排水は土地一筆ごとの私事ではなく、水路につながる土地全体の共同課題になる。この性格は、古い水面から市街地へ変わる過程を扱う今之浦と大之浦や、旧河道と大池を分けて考える今之浦と大池の消滅・埋立てを読む前提でもある。

『磐田ことはじめ 第一編 町内の風土記』は、明治24年に「今之浦用排水組合規約」が設けられたと記す。「用排水」という語には、農地へ必要な水を送る用水と、余分な水を外へ出す排水の両方が含まれる。今之浦では水が多すぎる時だけでなく、稲作に必要な時期に水を配ることも調整しなければならなかったはずである。ただし、今回確認できた資料は規約の存在を要約するにとどまり、加入区域、組合員、負担金、役員、違反時の扱いまでは示していない。規約があるという事実と、その条文内容を推測することは分ける必要がある。

組合化の意味は、工事を共同化するだけではない。堤、水門、樋、溝は造った後にも泥上げや草刈り、破損時の修繕を要する。利益を得る土地と負担を受ける土地が一致しない場合、誰がどれだけ費用と人足を出すかが争点になる。規約は、そのような利害を毎回一から交渉せず、継続して処理する枠をつくる。現存する条文を未確認の段階で具体的な負担割合は書けないが、個別農家ではなく「組合」という名で事業を担ったこと自体が、今之浦の水問題が広域的だったことを示す。

ここで「組合」を現在の土地改良区と同じ制度だと考えるのも早い。明治期には水利土功会、普通水利組合、町村組合など制度が変化し、地域資料の呼称と法令上の名称が一致しないことがある。今之浦用排水組合がどの法令に基づき、町村役場とどう関係したかは、規約原本の表紙、認可印、議会記録で確認すべき事項である。本稿では、地域資料に記された名称をそのまま用い、後代の制度名へ置き換えない。

また、排水の歴史を「湿地を克服した成功物語」だけにしないことも大切である。湿地は水鳥や植物の生息地であり、水を一時的に蓄える場所でもあった。農地と居住地にとっての悪条件が、生態系や洪水調節には別の役割を持つことがある。明治の組合は当時の生産と生活を守るために水を管理したのであり、現代の環境評価をそのまま遡らせることはできない。目的と時代条件を区別して読む必要がある。

明治24年・30年・45年――組織と道路が重なる

地域資料が示す第一の節目は、1891年(明治24年)の規約である。第二の節目は1897年(明治30年)で、見付町が「今之浦道路開通」に伴う支障木材の伐採を決議したと記される。資料は、払い下げられた木材の太さなどから、沼地の中に幅広い自然林があった当時の姿を想像している。ここで確実なのは道路工事に関連する伐採決議の記載であり、樹種、伐採本数、道路の全線形は未確認である。それでも、排水路だけでなく道路を通すことが、低地利用の条件だったことは読み取れる。

道を低地へ通すには、路盤を水面より高く保ち、横切る水を樋や橋で逃がさなければならない。道路は移動を便利にする一方、築堤のように水の流れを遮ることもある。したがって道路開通と排水計画は別々の事業ではなく、互いの設計を必要とする。現在の整然とした街路からは見えにくいが、明治30年の工事記録は、今之浦が見付と中泉の間をつなぐ空間へ変わり始めた早い段階を伝える。南の低地を渡る道の一般的な読み方は見付から福田・掛塚方面へ向かう旧道とも比較できる。

第三の節目が1912年(明治45年)である。資料の表現は「既設組合を改組して今之浦悪水組合設置」であり、単に排水機を一台据えたという記述ではない。「悪水」は汚物を含む水だけを意味せず、農地や居住地にとって不要となった余水・停滞水を指す歴史的な水利用語である。用排水の双方を掲げた組合から、排除すべき水を名に掲げる組織への改組は、排水問題の比重が増した可能性を示す。ただし、改組理由を記した議案や事業計画を見ないまま、目的の変化を断定することはできない。

明治24年から45年まで二十一年ある。この間に規約、道路、改組が記録されることは、今之浦の開発が一度の大工事で完成したのではなく、小さな制度整備を積み重ねた過程だったことを示す。水路を掘るだけでは、出水のたびに土砂が戻る。道を造るだけでは、冠水すれば通れない。組織だけを設けても、費用や技術が不足すれば工事は進まない。制度、土木、土地利用を三つの列に分けた年表を作ると、同じ年に何が結びついたかを検証しやすい。

地域資料の記載読めること追加確認
1891(明治24)今之浦用排水組合規約用水・排水を共同管理する枠規約全文、区域、負担
1897(明治30)道路開通と支障木材の伐採決議低地利用に道路工事が加わる路線、樹種、本数、工法
1912(明治45)既設組合を改組し今之浦悪水組合を設置排水を名に掲げる組織へ認可文書、施設、会計

表の年は出発点であって完成年ではない。規約の制定日と工事着手日、施設完成日、供用開始日は異なる場合がある。明治45年の記録を「排水機設置年」と言い換えないのは、この区別を守るためである。機械排水がいつ始まったかは、ポンプ購入記録、動力、設置場所、運転日誌を確認して別に記すべきである。

「十年一作」の記憶から、昭和の区画整理へ

組合ができても、今之浦の水問題がすぐ解消したわけではない。『磐田ことはじめ』は、その後も大雨のたびに一帯が池の状態を繰り返し、稲作について「十年一作の今之浦」と言われたと記す。この表現を、十年に一回だけ必ず収穫できたという統計値にしてはならない。収穫が安定しない厳しさを強調する地域の言い回しであり、実際の作況を復元するには年ごとの収量、降雨、冠水日数が必要である。語りは数値の代用品ではなく、住民が不安定さをどう記憶したかを示す資料である。

昭和41年の周辺開発計画、区画整理組合、河川改良、道路・宅地整備は、こうした明治以来の試行の上に置かれる。今之浦一~五丁目が扱う新市街地の成立は、白紙の低地へ突然都市計画を描いた話ではない。先行する水利組織が、水を共同で扱う区域と経験を蓄えていた。その制度が昭和の区画整理組合へ直接継承されたかは未確認だが、同じ土地で共同負担と広域工事が繰り返された連続性は検討に値する。

一方、明治の組合区域と現在の今之浦一~五丁目を同じ線で囲うことはできない。水は行政界を越えて流れ、組合区域は受益地・排水区域によって定められる。後の町名整理や区画整理で地番と自治会境界も変わった。史料を地図化するなら、現在の町界、旧大字界、推定排水区域を異なる線種で表示し、確定していない区間は破線にする必要がある。

今後の調査で優先したいのは、規約原本と町会議事録である。規約からは役員・費用・区域を、議事録からは道路と伐採の理由を、会計書からは工事の規模を確かめられる。新聞記事や古写真があれば、湛水時の水深や道路の位置も補える。資料を集める際は、後世の回想と同時代文書を区別し、写しには原本所在と作成年を添える。

用排水組合から悪水組合へという名称の変化は、今之浦を「自然の沼」から「管理すべき土地」へ読み替える過程を映す。ただし、組合ができたから自然が消えた、あるいは住民全員が同じ利益を得たとまでは言えない。上流と下流、農地と宅地、道路利用者と土地所有者では利害が違う。合意の内容と対立の有無を確かめることが、制度を人びとの歴史として描く次の段階になる。

聞き取り資料を集める場合は、「水が出た」という語の意味も確かめたい。川があふれたのか、雨水が排出できず内側にたまったのか、地下水位が上がったのかで、必要な施設は異なる。年月、場所、水が来た方向、引くまでの日数を聞き、同日の気象記録と照合する。体験談を否定せず、水理現象の種類を分けることで、組合が何を解決しようとしたかを具体化できる。

さらに、明治期の名称を現代の防災制度へ接続するときは、組織の連続を証明する文書が要る。今之浦悪水組合が改称・解散・統合のどの経路で後の区画整理組合へ関係したのか、現時点では分からない。役員名簿、財産引継書、水路台帳が残れば、制度の継承と断絶を人物・施設の両面から追える。「先駆けだった」という評価は、その確認後に置くべきである。

用語の注意。 「悪水」は歴史的水利用語として資料名を尊重して用いる。現在の水質汚濁を直接意味する語ではない。「組合」も現行の土地改良区と同一視せず、法的根拠の確認を待つ。

参考資料・史料上の限界

更新履歴:2026年8月19日公開。明治24年・30年・45年の記録を、用語解説と検証課題を付して整理。

この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。