失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 各地に広がったお札降りと遠州

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第244号(幕末民衆運動研究)

各地に広がったお札降りと遠州

「ええじゃないか」前夜の民衆世界 ── 慶応期のお札降りを史料批判的に読む

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
遠州・広域(磐田市域含む)

要旨

慶応3年(1867年)の秋ごろから、東海地方に始まり畿内や江戸へと広がった「お札降り(御札降り)」は、伊勢神宮などの御札が天から降ったとされ、人々が祭壇を設けて「ええじゃないか」と乱舞した幕末の民衆運動である。本稿は、各地に記録された事例を史実(=そう記録されている水準)として確認したうえで、伝播の因果関係と遠州・見付における実態を推定および未確認に腑分けし、この現象を世直し・不安・信仰の交点として史料批判的に論じる。とりわけ、記録の残る事例と、伝播の経路をめぐる解釈とを同一平面で扱わないこと、そして「未確認」(一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(史料に無い)を区別することを方法上の柱とする。あわせて、見付天神裸祭で神事として行われる「お札ふり」と、幕末の民衆運動としての「お札降り」との混同を避け、両者を明確に区別する。遠州は東海道と伊勢街道が交わる情報の結節点にあり、この熱狂の伝播を読むうえで無視しえない位置を占める。

キーワード:お札降り/ええじゃないか/慶応3年/世直し/伊勢神宮/東海道/民衆運動

1. 問題設定 ── 「お札降り」と「お札ふり」を分ける

幕末の日本を語るとき、しばしば引かれるのが「ええじゃないか」の熱狂である。慶応3年(1867年)の秋から翌年にかけて、東海・畿内をはじめとする各地で、伊勢神宮などの御札が天から降ったとされ、人々が着飾って町へ繰り出し、酒食をともにしながら「ええじゃないか、ええじゃないか」と囃して乱舞したと伝えられる。この一連の現象の起点にあったのが、御札が降るという「お札降り(御札降り)」の噂であった。本稿は、この慶応期に各地へ広がったお札降りを主題とし、そのなかに遠州の位置を読むことを課題とする。

もっとも、本論に入る前に、名称上の混同をあらかじめ避けておかねばならない。磐田・見付には、見付天神裸祭の神事として行われる「お札ふり」がある。これは矢奈比賣神社の祭礼のなかで御札をまく所作を指す語であって、幕末の民衆運動としての「お札降り」とは、時代も性格も系譜も異なる別個の事象である。祭礼としての裸祭の起源や所作については別稿「見付天神裸祭 起源三説の学史的検討」で論じたとおりであり1、両者を同じ「おふだ」の語感で結びつけることは、史実の理解をかえって曇らせる。本稿が扱うのは、あくまで慶応3年前後に各地へ広がった民衆運動としてのお札降りであり、裸祭の神事とは区別する。

この区別を出発点に置くのには理由がある。地域史を書くとき、似た語で呼ばれる別々の事象は、しばしば一つの物語へと引き寄せられやすい。「見付にもお札が降った」という言い伝えを、そのまま裸祭の由来や、あるいは全国的なええじゃないかの一挿話として、無造作に接続してしまう危うさがある。だが記録の残る事例と、後世に結びつけられた解釈とは、確度の層が異なる。本稿は、この確度の層を混ぜないことを一貫した方法とする。すなわち、史料に記録されている事柄は史実として、学界で広く受け入れられている理解は通説として、根拠はあるが確定していない事柄は推定として、そして一次史料に突き当たっていない事柄は未確認として、語の水準で書き分ける。

とりわけ強調しておきたいのは、「未確認」と「記載なし」の区別である。ある事柄について「管見の限り一次史料に突き当たっていない」ことと、「史料を博捜した結果そのような記録が存在しないと言える」こととは、まったく別の判断である。前者は筆者の調査が及んでいない可能性を含む保留であり、後者は積極的な否定である。両者を混同すれば、調べ足りないだけの事柄を「なかった」と断じたり、逆に確証のない伝えを史実のように語ったりする誤りに陥る。以下ではこの区別を保ちながら、お札降りという現象と遠州の関わりを検討していく。

本稿の素材とするのは、平成6年度『磐田市歴史セミナー資料集』第7回「ええじゃないか ── 見付のお札ふり ──」であり、その内容の一般向けの整理は磐田物語の関連記事「各地に広がったお札降りと遠州」に譲る2。本稿はそれを、全国的なお札降りの展開のなかに置き直し、確度の層を明示しながら論考として再構成することを企図する。以下ではまず記録された事例を確認し、現象の構造を分析し、伝播の経路と遠州での実態を腑分けし、類縁する民衆運動との異同を整理したうえで、背景と結論に至る。

お札降り 幕末の民衆運動 慶応3年(1867)前後 御札降下→乱舞 =本稿の主題 お札ふり 見付天神裸祭の神事 矢奈比賣神社の祭礼 御札をまく所作 =別稿で論じた別事象 ≠(別系譜) 名称の似た二つの別事象を分ける 「おふだ」の語感で両者を結びつけないことが、本稿の出発点である。
図1 お札降りとお札ふりの弁別。幕末の民衆運動と裸祭の神事は、名称は似るが時代も性格も系譜も異なる別個の事象である。本稿は前者のみを扱う。

2. 史料に記録された慶応3年のお札降り

まず、史料によって記録が確認できる範囲を確定しておきたい。お札降りとええじゃないかについては、当時の各地の村方文書や商家の書留、日記類に断片的な記録が残されており、それらをもとに、慶応3年(1867年)の秋ごろから翌慶応4年(1868年)春にかけて、東海地方を中心に畿内・江戸方面へと現象が広がったことが、広く受け入れられている3。ここで「記録が確認できる」と述べるのは、あくまで「そう書き残されている」という水準においてである。御札が実際に天から降ったか否かという問いと、御札が降ったと当時の人々が受けとめ、その受けとめを書き残したという事実とは、峻別しなければならない。史料が証言するのは後者であり、本稿が史実として扱うのもこの水準に限られる。

記録に共通して現れる要素は、おおむね次のようなものである。ある家の軒先や屋根、あるいは路上に、伊勢神宮をはじめとする神仏の御札が落ちているのが見つかる。それは神が降臨したしるしとされ、その家では御札をまつる祭壇を設け、酒や餅をふるまい、近隣の者が集まって幾日も飲食と歌舞に興じる。人々は異装で町を練り歩き、「ええじゃないか」の囃子詞とともに乱舞したという。地域によって囃子詞や作法には差があり、御札が降ったとされる神社の名も一様ではないが、御札の降下を契機として共同的な祝祭が発生するという骨格は、多くの記録に共通して見られる。

ここで史料批判の観点から留意すべき点が二つある。第一に、これらの記録の多くは、現象が過ぎ去ったのちに回想的に書き留められたものを含み、また村や町の側の視点から記されている。したがって、記録に現れる「盛り上がり」の程度や日数には、書き手の立場や誇張が入り込む余地がある。第二に、御札を意図的にまいた者がいたのではないかという疑いは、当時から一部で語られていた。討幕派による民心攪乱の策とみる見方も後世に提起されたが、これを裏づける確実な一次史料は乏しく、現在では特定の主体による組織的な演出という理解には慎重論が強い。本稿もこの点は推定の域を出ないものとして扱う。

史料批判をもう一歩進めるなら、記録の残存そのものに偏りがあることも見落とせない。お札降りのような一過性の熱狂は、村や町の公的な帳簿には残りにくく、むしろ個人の日記や商家の書留といった私的な文書に、断片的に書きとめられることが多い。したがって、ある地域に記録が乏しいことは、そこで現象が乏しかったことを必ずしも意味しない。私的な文書は、書き手の関心や偶然に左右されて残るからである。記録の濃淡を現象の濃淡へと安易に読み替えないという史料批判の基本は、断片的な記録に依らざるをえないこの主題において、とりわけ厳しく問われることになる。

とはいえ、記録の性格に留保を置くことは、現象そのものの実在を疑うことを意味しない。各地に独立して残る複数の記録が、同じ時期に、似た骨格をもつ出来事を証言している以上、慶応3年前後に東海・畿内を中心とする広い範囲で、御札の降下を契機とした民衆の熱狂が現に生じたことは、史実として認めてよい。問われるべきは、その現象が「なぜ」「どのように」広がったのか、そしてその広がりのなかで遠州がどのような位置を占めたのか、という点である。これらは記録そのものよりも一段解釈を要する問いであり、確度の層としては推定に属する。次章以降ではこの区別を保ちつつ検討を進める。

1867 夏噂の萌芽 1867 秋東海で顕在化 1867 冬畿内・江戸へ 1868 春沈静化へ 王政復古(1867年12月)・戊辰戦争(1868年〜)と時期が重なる点に留意 お札降りの時間的展開(記録に基づく概略)
図2 お札降りの展開年表。慶応3年秋の東海での顕在化から、冬の畿内・江戸への波及、翌春の沈静化へという流れは、政治的激動の時期と重なる。日付の細部は史料により差がある。

3. 現象の構造 ── 御札の降下から乱舞へ

お札降りという現象を理解するには、記録に共通する骨格を、いくつかの段階に分けて捉えるのが有効である。個々の事例には地域差があるが、そこに繰り返し現れる構造を取り出すことで、この現象が単なる偶発的な騒ぎではなく、一定の作法をもった集団行動であったことが見えてくる。ここで示すのは、記録から帰納される一般的な段階であって、すべての事例が同じ順序をたどったと主張するものではない。

第一の段階は、御札の発見である。軒先や路上に神仏の御札が落ちているのが見いだされ、それが神の降臨のしるしと解釈される。第二の段階は、祭壇の設営と饗応である。御札の落ちた家がこれをまつり、酒食を用意して近隣にふるまう。この饗応は、しばしば貧富の別なく開放的に行われたと伝えられ、日常の身分秩序が一時的に緩む契機となった。第三の段階は、集団の乱舞と練り歩きである。異装した人々が「ええじゃないか」と囃しながら町を練り、歌い踊る。第四の段階は、沈静と日常への回帰である。数日から時に十数日にわたって続いた熱狂は、やがて自然に収束していったとされる。

この四段階のうち、社会史的にとりわけ注目されてきたのが、第二・第三段階における秩序の一時的な転倒である。饗応の開放性、異装、身分を超えた乱舞といった要素は、日常の抑圧を一時的に解除する祝祭的な性格をもつ。近世の民衆運動を論じた研究では、こうした「世直し」的な気分の噴出として、お札降りとええじゃないかを位置づける見方が有力である。ただし、これを民衆の政治的自覚の表現と読むか、宗教的な熱狂の発露と読むか、あるいは幕末の社会不安が生んだ一時的なパニックと読むかについては、なお解釈が分かれる。本稿の立場は、これらを排他的な選択肢とは見ず、一つの現象が世直し・不安・信仰という複数の動機を同時に含みうるとする点にある。この点は第7章で改めて論じる。

もう一点、構造上の特徴として、この現象が「伝播する」ものであったことを確認しておきたい。ある町でお札降りが起きたという知らせは、街道や河川を通じて隣接する町へ伝わり、次はわが町にも御札が降るのではないかという期待と不安を生んだ。この期待の連鎖が、現象を面的に広げていく原動力となった。御札の降下そのものが人為か偶然かという問いとは別に、「降ったらしい」という情報が伝わることで、次の地域が現象を受け入れる準備を整えていく。お札降りは、物理的な御札の移動である以上に、情報と期待の伝播であった。実際、ある町の熱狂が隣町へ伝わるとき、そこで働いていたのは御札という物の移動だけではない。「あの町では御札が降って大変な騒ぎになっている」という語りそのものが、聞く者の心に、次はわが身にも起こるのではないかという予感を植えつけた。物の移動よりも語りの伝播のほうが速く、そして広かったと考えられる。この理解は、次章で遠州の位置を考えるうえで鍵となる。

御札の発見神の降臨 祭壇・饗応秩序の緩み 乱舞・練りええじゃないか 沈静・回帰日常へ お札降りの四段階(記録からの帰納) 中央二段階(赤)に、身分秩序が一時的に緩む祝祭的性格が集中する。
図3 お札降りの現象構造。御札の発見から祭壇・乱舞を経て沈静に至る四段階のうち、中央の二段階に秩序転倒の祝祭的性格が集中する。順序は事例により前後する。

4. 伝播の経路とその因果をめぐる推定

お札降りが東海地方から畿内・江戸へと広がったという時間的順序は、複数の記録の日付を突き合わせることで、おおむね跡づけられる。しかし、「なぜその順序で広がったのか」という因果の説明になると、確度は一段下がる。ここからは史実の記述ではなく、記録の分布から導かれる推定の領域に入ることを、あらかじめ明示しておきたい。

伝播を説明する枠組みとして最も自然なのは、街道と人の移動に着目する見方である。東海道をはじめとする主要街道は、参勤交代・商用・参詣といった日常的な人の往来を支えており、噂や情報が高速で伝わる回路であった。とりわけ幕末には、御蔭参りに象徴される伊勢参詣の文化が民衆に深く根づいており、伊勢神宮の御札という象徴が広範に共有されていた。御札が降るという現象が、伊勢信仰を共有する街道沿いの町々に、抵抗なく受け入れられていったと考えるのは、無理のない推論である。街道は、御札という物と、御札が降ったという情報の、双方を運ぶ動脈であった。

もっとも、この街道伝播説にも留保が要る。第一に、現象の広がりが街道沿いに整然と一方向へ進んだと単純化することはできない。記録の残り方には偏りがあり、記録が残らなかった地域で現象がなかったとは限らない。ここでも「記載なし」を「不在」と読み替えてはならない。第二に、伝播を物理的な人の移動だけで説明しきれるかは疑問が残る。前章で述べたとおり、お札降りは情報と期待の伝播という側面をもつ。ある地域が現象を受け入れるには、そこに社会不安や世直しへの期待といった、受け入れの土壌があらかじめ存在していた必要がある。伝播は、街道という経路と、各地の受容の土壌という二つの条件が重なって初めて生じたと考えるべきである。

この観点から遠州の位置を見ると、その地理的条件は伝播の結節点として無視できない。遠州は東海道が東西に貫く地であり、同時に、そこから伊勢へ向かう参詣路とも連絡していた。すなわち遠州は、東からの情報と西からの情報、そして伊勢という信仰の中心とを結ぶ十字路にあった。この地理的条件からすれば、遠州がお札降りの伝播圏から外れていたとは考えにくい。ただし、これはあくまで地理からの推論であって、遠州の具体的な事例が史料でどこまで裏づけられるかは、次章で慎重に腑分けする必要がある。地理的な蓋然性の高さと、個別事例の史料的な裏づけとは、別の水準の問題だからである。この論点は、幕末の磐田地方における民衆の不安を論じた別稿とも接続する4

伊勢御札の源泉 畿内早期展開 三河・尾張東海の中核 遠州街道の十字路 お札降りの伝播経路(推定) 正確な地理座標ではなく、経路の骨格を示す模式図。因果は推定の域にある。
図4 伝播経路の模式図。伊勢を象徴的な源泉とし、東海道沿いに東進する経路のなかで、遠州は東西の情報と伊勢参詣路が交わる結節点に位置する。矢印の因果は推定である。

5. 遠州・見付での実態 ── 史料と未確認の腑分け

前章までで、遠州がお札降りの伝播圏に含まれる蓋然性が地理的に高いことを述べた。では、遠州や見付における具体的な実態は、史料でどこまで確認できるのか。ここが本稿でもっとも慎重を要する部分である。地理的な蓋然性から「遠州でも当然お札降りがあったはずだ」と結論を先取りすることは、推論を史実に格上げする誤りにつながる。あくまで史料に即して、確認できることと未確認のことを腑分けしなければならない。

素材とした平成6年度『磐田市歴史セミナー資料集』第7回では、見付宿にお札降り(見付では「お札ふり」とも呼ばれたと解される)に関わる出来事があったことを示す史料名として、見付宿大略記、永野家書留、庚申中掛銭帳などが挙げられている5。これらの史料名が資料集に記載されていること自体は確認できる事実である。すなわち、見付宿に幕末のお札降りに関わる記録が伝わっていること、そして地域の歴史セミナーでそれが主題として取り上げられたことは、記録の水準で確かめられる。この限りにおいて、遠州・見付がお札降りと無縁でなかったことは、史実として認めてよい。

他方で、留保すべき点も明確にしておかねばならない。第一に、これらの史料の原文にあたって、見付宿でのお札降りの具体的な日付・規模・作法を、筆者自身が直接に検証したわけではない。したがって、見付宿の事例がどの程度の広がりをもち、どのような形をとったのかについては、本稿の段階では未確認とせざるをえない。これは「見付宿にお札降りがなかった」という否定ではなく、「その実態を裏づける一次史料に、筆者がまだ十分に突き当たっていない」という保留である。第二に、見付宿でこの現象が「お札ふり」とも呼ばれた場合、前述した裸祭の神事としての「お札ふり」と語が重なるため、後世の伝承のなかで両者が混同された可能性も否定できない。ある言い伝えが幕末のお札降りを指すのか、祭礼の所作を指すのかは、文脈に即して慎重に判別する必要がある。

この語の重なりは、単なる用語上の紛らわしさにとどまらない問題をはらむ。仮に見付宿で幕末に御札降下の現象があったとしても、それが後世に語り継がれる過程で、毎年繰り返される裸祭の「お札ふり」の記憶と溶け合い、両者の区別が失われていった可能性がある。逆に、裸祭の所作にまつわる言い伝えが、幕末の一回的な熱狂の記憶として語り直されることもありうる。伝承は、時とともに近い語をたぐり寄せ、一つの物語へまとまろうとする性質をもつ。だからこそ、ある言い伝えがどちらの「おふだ」を指すのかを、文脈と史料に即して腑分けする作業が、遠州のお札降りを論じる前提として欠かせない。

この腑分けから見えてくるのは、遠州・見付のお札降りが、「伝播圏に含まれる地理的蓋然性は高いが、個別事例の実態は未確認の部分を多く残す」という中間的な確度にある、ということである。地域史としては、この中間状態をそのまま記述することにこそ意味がある。無理に断定して「見付でも盛大なええじゃないかがあった」と語ることも、逆に史料の直接検証が済んでいないことを理由に「見付は無縁だった」と切り捨てることも、いずれも誤りである。史料名が伝わっているという事実を史実として記録し、その先の実態は今後の検証課題として明示的に留保する。これが、現段階で採りうる最も誠実な記述だと考える。断定を急がず、確度の中間にとどまる事柄を中間のまま書き留めておくことこそ、後年の検証に道を開く態度だからである。

6. お蔭参り・お札降り・ええじゃないかの異同

お札降りを幕末の民衆運動として位置づけるには、それと類縁する諸現象との異同を整理しておく必要がある。しばしば一括りに語られがちなお蔭参り・お札降り・ええじゃないかは、相互に関連しつつも、指し示す事柄の水準が異なる。これらを混同することは、現象の理解を粗くする。以下の比較表は、三者を性格・時期・中心的行為・遠州との関わりにおいて並置し、その異同を可視化することを目的とする。なお、用語の一般的な区別については関連記事「お蔭参り・お札降り・ええじゃないかの違い」にも整理があり、本稿はそれを論考の水準で補うものである。

表1 お蔭参り・お札降り・ええじゃないかの異同 ── 性格・時期・中心的行為・確度
現象性格主な時期中心的な行為遠州との関わり(確度)
お蔭参り伊勢への集団参詣近世に周期的に発生抜け参り・集団での伊勢参宮。街道沿いとして通過・参加は通説。
お札降り御札降下の噂と受容慶応3年(1867)前後御札の発見・祭壇の設営・饗応。伝播圏に含まれる蓋然性は高いが実態は未確認。
ええじゃないか集団的な乱舞・祝祭慶応3〜4年異装・練り歩き・囃子詞での乱舞。お札降りに伴う現象として推定される。

この表から読み取れるのは、三者が時間的にも論理的にも連なりつつ、指す水準を異にするという点である。お蔭参りは、近世を通じて周期的に繰り返された伊勢参詣の集団行動であり、お札降り・ええじゃないかの直接の前身ではないが、伊勢信仰を民衆に広く根づかせた文化的な土壌をなした。お札降りは、その伊勢の御札が「降る」という一段特異な現象であり、慶応3年前後に集中して生じた。そしてええじゃないかは、お札降りに伴って発生した乱舞・祝祭の局面を指す語である。したがって「お札降り」と「ええじゃないか」は、しばしば同じ出来事の別の側面を指しており、前者が契機を、後者が集団行動の様態を表すと整理できる。

この三者の関係を踏まえると、遠州・見付の事例を評価する際にも、どの水準の話をしているのかを明確にする必要が生じる。お蔭参りの通過地としての遠州は、比較的確度の高い通説の水準で語れる。しかしお札降り・ええじゃないかの局面になると、前章で述べたとおり、地理的蓋然性は高いものの個別事例の実態は未確認にとどまる。同じ「幕末の民衆の熱狂」という括りのなかでも、どの現象について、どの確度で語っているのかを取り違えないことが肝要である。表は、その取り違えを防ぐための見取り図として機能する。

お蔭参り 伊勢参詣の土壌 近世に周期的 お札降り 御札降下の噂 =契機 ええじゃ ないか 遠州 通過は通説 実態は未確認 三現象の連なりと確度の差 ええじゃないかはお札降りに内包される局面。遠州との関わりは現象ごとに確度が異なる。
図5 三現象の関係図。お蔭参りが土壌をなし、お札降りが契機を、ええじゃないかがその内側の乱舞の局面を表す。遠州との関わりは現象ごとに確度が異なる。

7. 背景としての世直し・不安・信仰

お札降りとええじゃないかを、単なる集団的な錯乱や一過性の騒ぎとして片づけることはできない。この熱狂の背後には、幕末という時代が抱えた深い社会的動揺があった。本章では、この現象を世直し・不安・信仰という三つの動機の交点として読み、なぜ慶応3年という時点に集中して噴出したのかを考える。ただし、これらの動機の比重をどう見積もるかは解釈に属し、確定的な断定はできないことを、あらかじめ断っておく。

第一の動機は、世直しへの期待である。幕末には物価の高騰、凶作、打ちこわしといった社会不安が各地で高まり、既存の秩序が揺らぐなかで、現状の一挙の変革を願う「世直し」の気分が民衆のあいだに広がっていた。お札降りに伴う饗応の開放性や身分秩序の一時的な緩みは、この世直しへの願望が祝祭の形をとって噴き出したものと読むことができる。第二の動機は、不安である。政治的激動のただなかで、明日の暮らしがどうなるか見通せないという集団的な不安が、神仏の御札という超越的なしるしにすがる心性を生んだ。御札が降ることは、混沌のなかに神の意志を読み取ろうとする、不安の裏返しでもあった。混沌のなかで人が超越的なしるしを求めるのは、時代を問わず見られる心性であり、幕末のお札降りもその一つの現れとして位置づけられる。ただし、それを普遍的な心理へ解消してしまえば、慶応3年という特定の時点に集中して噴出した理由を説明できない。普遍的な不安の心性と、特定の時代状況とを、両方同時に視野に収める必要がある。

第三の動機は、信仰である。前述のとおり、伊勢信仰は近世を通じて民衆に深く根づいており、伊勢の御札という象徴は広範に共有されていた。お札降りは、この既存の信仰の枠組みがあったからこそ、御札の降下という現象を「神の降臨」として意味づけ、共同の祝祭へと組織することができた。信仰は、世直しの願望と不安とを、一つの行動へとまとめあげる回路を提供したのである。もし伊勢の御札という共有された象徴が存在しなければ、同じ社会不安も、これほど広範で共通した形の熱狂には結晶しなかったであろう。世直しという社会的動機、不安という心理的動機、信仰という文化的枠組み――この三つが交わる一点に、お札降りの熱狂は生じた。どれか一つに還元しては、この現象の厚みを取り逃がす。

そして、この三つの動機が慶応3年という時点で臨界に達した背景には、政治の激動があった。同年の秋から冬にかけては、まさに討幕の動きが加速し、12月には王政復古の大号令が発せられる。翌年には戊辰戦争が始まる。お札降りの熱狂が、この政治的激動と時期的に重なることは、偶然とは考えにくい。ただし、両者の関係をどう見るかは慎重を要する。政治的緊張が民衆の不安と期待を高め、それが熱狂の噴出を準備したという見方は妥当だが、逆に熱狂を特定の政治勢力が意図的に演出したとする見方には、前述のとおり確実な裏づけがない。本稿は、政治的激動を熱狂の背景条件として位置づけつつ、両者を直接の因果で結ぶことには慎重な立場をとる。民衆の熱狂は、政治の道具であった以前に、時代の不安と願望が信仰の形をとって噴き出した、民衆自身の表現であったと見るべきである。

お札降り 熱狂の噴出 世直し 秩序変革の願望 不安 激動下の心性 信仰 伊勢の御札 三つの動機の交点としてのお札降り
図6 世直し・不安・信仰の交点。お札降りの熱狂は、この三つの動機が一点で交わったところに生じた。いずれか一つへの還元は現象の厚みを取り逃がす。動機の比重は解釈に属する。

8. 結論 ── 熱狂を確度の層に分けて記述する

本稿は、慶応3年(1867年)前後に各地へ広がったお札降りとええじゃないかを主題とし、そのなかに遠州の位置を読むことを試みた。得られた見取り図は次のとおりである。各地に独立して残る複数の記録が、同時期に、御札の降下を契機とする民衆の熱狂を証言している以上、この現象が東海・畿内を中心に現に生じたことは、記録の水準で史実として認めてよい。他方、伝播の因果や遠州・見付の個別事例の実態は、地理的蓋然性は高いものの、一次史料による直接の裏づけの点では未確認の部分を多く残す。史料名が伝わっているという事実と、その実態が検証済みであることとは、別の水準にある。

本稿が一貫して採ったのは、この確度の層を混ぜないという方法である。記録に残ることは史実として、広く受け入れられた理解は通説として、記録の分布から導かれる説明は推定として、そして一次史料に突き当たっていない事柄は未確認として、語の水準で書き分けた。とりわけ「未確認」と「記載なし」を区別し、調べ足りないだけの事柄を「なかった」と断じることも、確証のない伝えを史実のように語ることも避けた。この禁欲的な手続きは、幕末の民衆運動という、記録が断片的で解釈の誘惑が大きい主題においてこそ、いっそう重要である。

したがって本稿の立場は明確である。お札降りという熱狂は、世直し・不安・信仰という三つの動機が政治的激動の時点で交わったところに噴出した、民衆自身の表現として読むべきである。それを特定の政治勢力の演出に還元することにも、単なる集団的錯乱として片づけることにも、本稿は与しない。そして遠州は、東海道と伊勢参詣路が交わる情報の十字路として、この熱狂の伝播圏に含まれる蓋然性が高い地でありながら、その具体的な実態はなお検証を待つ、中間的な確度の対象として記述されるべきである。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、見付宿大略記・永野家書留・庚申中掛銭帳といった史料の原文にあたり、見付宿のお札降りの日付・規模・作法を直接に検証することで、現在「未確認」とした部分を史実の水準へと押し上げる余地がある。第二に、見付における「お札ふり」という語が、幕末の民衆運動を指すのか裸祭の神事を指すのか、伝承のなかでの語の用法を弁別する作業が要る。第三に、遠州の他の宿場や在方における事例の有無を、周辺地域の村方文書に探ることで、伝播圏における遠州の位置をより精確に描きうる。これらはいずれも、本稿が設定した確度の層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく地道な作業に属する。熱狂を一つの物語へ回収する誘惑を退け、確度の層を保ったまま記録を積み上げていくこと――その先にこそ、幕末の遠州に生きた人々が、何を恐れ、何を願い、何にすがったのかという民衆世界の輪郭が、少しずつ像を結んでいくはずである。

本稿が扱った見付や中泉には、幕末の熱狂を経てなお受け継がれてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 見付天神裸祭の神事としての「お札ふり」および祭礼の起源については、本論考シリーズ第1号を参照。祭礼としての性格は本稿の主題とは別系譜である。
  2. 平成6年度『磐田市歴史セミナー資料集(全9回)』磐田市教育委員会、第7回「ええじゃないか ── 見付のお札ふり ──」。一般向けの整理は磐田物語 c043 による。
  3. お札降りとええじゃないかの時期・展開については、幕末民衆運動を扱う諸研究に共通する理解による。ここでは「そう記録されている」水準を史実として扱い、御札降下の物理的当否には立ち入らない。
  4. 幕末の磐田地方における物価高騰・社会不安と民衆心性については、磐田物語 c041 を参照。
  5. 見付宿大略記・永野家書留・庚申中掛銭帳などの史料名は、前掲『磐田市歴史セミナー資料集』第7回の読み取りメモに基づく。原文の直接検証は本稿では未了であり、実態は未確認とする。

付記:本稿は一般読者向け記事 c043「各地に広がったお札降りと遠州」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・未確認)を語の水準で区別し、各地に記録された事例を史実、伝播の因果と遠州での実態を推定および未確認として扱った。見付天神裸祭の神事「お札ふり」との混同は一貫して避けた。

参考文献・参考資料

  • 平成6年度『磐田市歴史セミナー資料集(全9回)』磐田市教育委員会、第7回「ええじゃないか ── 見付のお札ふり ──」。
  • 見付宿大略記(前掲資料集第7回の読み取りメモに所載)。
  • 永野家書留(前掲資料集第7回の読み取りメモに所載)。
  • 庚申中掛銭帳(前掲資料集第7回の読み取りメモに所載)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、幕末・維新期の章)。
  • 静岡県『静岡県史』通史編(近世)。
  • 西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書、1983年。
  • 藤谷俊雄『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』岩波新書、1968年。
  • 宮田登『近世の流行神』評論社、1972年。
  • ええじゃないか関連の民衆運動史に関する各種概説。
  • 磐田物語 c043「各地に広がったお札降りと遠州」 https://iwata-monogatari.net/c043.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 c039「お蔭参り・お札降り・ええじゃないかの違い」 https://iwata-monogatari.net/c039.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 c041「幕末の磐田地方と民衆の不安」 https://iwata-monogatari.net/c041.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第1号「見付天神裸祭 起源三説の学史的検討」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/001/ (最終閲覧:2026年7月26日)。