磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第237号(天竜川池田渡船研究 四)
大通行と池田の渡船場
琉球使節から見付宿の歎願まで ── 非日常の大量通行が渡船・宿・助郷に与えた衝撃
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
参勤交代・将軍上洛・日光社参・朝鮮通信使・琉球使節の参府など、東海道を大人数で上下する公用の通行を、近世の在地社会は「大通行」と呼んだ。本稿は、天竜川の池田渡船場と、それを支えた助郷の村々を対象に、この非日常の大量通行がもたらした繁栄と負担の両面を検討する。嘉永3年(1850年)の琉球人参府に際して作成された「御持船人足書上帳」には、天竜川を渡すためだけに船頭百人ほどが動員されたことが記され、大通行の一回がいかなる態勢を要したかを具体的に伝える。他方、嘉永7年(1854年)の見付宿からの歎願書は、道中を運ばれる荷物の莫大さと宿駅・助郷の疲弊を訴える。本稿は、これらの記録に確認できる史実と、通行の頻度・負担の実態にかかる推定とを腑分けし、繁栄と負担という二つの顔を同一の史料から読み取る手続きを示す。「未確認」と「記載なし」を区別し、大通行を宿場史・渡船史・助郷史の結節点として位置づけることを課題とする。
キーワード:大通行/池田渡船場/琉球使節参府/御持船人足書上帳/参勤交代/助郷/見付宿歎願書
1. 問題設定 ── 「大通行」という非日常をどう読むか
近世の東海道を語るとき、日々の旅人や商荷の往来は、いわば背景の低音のように連続していた。だが、その連続する日常のうえに、ときおり桁違いの規模で押し寄せる通行があった。参勤交代の大名行列、将軍の上洛、日光社参、朝鮮通信使や琉球使節の参府──在地の史料が「大通行」と呼ぶこれらの公用通行は、通過する宿場や渡船場に、平時とはまったく異なる態勢を要求した。本稿が主題とするのは、この非日常の大量通行が、天竜川の池田渡船場と、それを支えた助郷の村々に何をもたらしたか、という問いである。
この問いには、あらかじめ方法上の断りを置いておく必要がある。大通行は、宿場を潤す晴れの機会であると同時に、それを支える村々にとっては重い夫役でもあった。この二面性を、どちらか一方に還元して語ることはたやすい。繁栄だけを語れば近世の交通は牧歌的な賑わいの記録になり、負担だけを語れば農民収奪の一色に塗りつぶされる。しかし史料が伝えるのは、同じ一回の大通行が、立場によって繁栄とも負担とも受け取られたという、両義の現実である。本稿は、この両義性を単純化せずに書き留めることを課題とする。
もう一点、確度の腑分けについて述べておく。大通行に関して残された史料は、個々の通行の際に作成された事務文書──人足や船の書上帳、歎願書、目録帳の類──が中心であり、これらは特定の一回について具体的な数値や態勢を伝える。だが、その一回がどれほどの頻度でくり返されたのか、農民一人あたりの負担が平時の何倍に及んだのかといった総体は、断片的な記録からただちには算出できない。したがって本稿では、史料に直接記された事柄を史実として扱い、頻度や負担の実態にかかわる総量的な判断は推定として明示し、両者を混同しない。加えて、一次史料に突き当たっていない事柄を「未確認」、史料に記載がないことを「記載なし」として、この二つを区別して用いる。
本稿が依拠する主たる史料は、豊田町郷土を研究する会が昭和51年(1976年)に編んだ『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』に翻刻・紹介された近世文書である1。渡船の起源や運営組織、助郷制度、大名との特約といった論点は、本論考シリーズの既刊で個別に論じてきた。本稿はそれらの延長線上に、「大通行」という通行の質そのものに焦点を絞り、渡船場と助郷がこの非日常をどう受け止めたかを読む。以下ではまず、大通行の一回を具体的に写し取る嘉永3年の史料を検討し、続いて通行の構造、繁栄と負担の両面、その史料批判、地理的背景を経て結論に至る。
2. 史料に見る大通行 ── 嘉永3年琉球人参府の御持船人足書上帳
大通行の一回がいかなる態勢を要したかを、具体的な数字とともに伝える史料として、嘉永3年(1850年)10月の琉球使節の江戸参府に関わる文書がある。「琉球人参府ニ付御持船人足書上帳」と題されたこの記録には、東海道天竜川を渡すためだけに、船頭百人ほどが動員され、定助船・高瀬船・小船など多数の船が差し出されたことが記されている2。琉球使節の参府は、江戸期を通じて幾度か行なわれた儀礼的通行であり、薩摩藩の管掌のもと、異国風の装いを保った行列が東海道を上下した。その一行が天竜川という一つの川を渡るという、旅程のなかのごく一区間に、これだけの船と人が集められたのである。
この書上帳が具体的に語るのは、まず動員の規模である。「船頭百人ほど」という数は、平時の渡船が抱えていた船方の人数を大きく超える。すなわち大通行に際しては、池田村・船越一色村の渡船専業者だけでは態勢が組めず、周辺の助郷から助船・助人足を大量に徴発して、はじめて一行を渡すことができた。使節を乗せる船、荷物を積む船、随行の人々を渡す船と、船は用途ごとに種別され、定助船・高瀬船・小船という記載は、その役割分担を今に伝えている。一回の渡河が、これほど周到な事前準備を要する事業であったことを、この文書は端的に示す。
ただし、史料批判の観点からは、この書上帳の性格を見誤らないことが肝要である。書上帳とは、必要な船と人足を調達するために、あらかじめ数量を書き上げて上申・確認した事務文書である。したがってそこに記された数は、実際に当日どおり動員された結果の記録ではなく、態勢を組むうえで見積もられた計画上の数量である可能性を含む。「船頭百人ほど」という「ほど」の一語も、概数として記されたことをうかがわせる。この数を実績値そのものと即断せず、大通行に備えて渡船組織が想定した動員規模の目安として読むのが穏当であろう。それでもなお、この目安が平時の桁を超えていたことは、記載の趣旨から動かない。
もう一つ注意すべきは、こうした書上帳が一回の通行ごとに作成されたという事実である。琉球人参府に限らず、大名の参府・帰国、公家の下向、婚儀の輿入れなど、大通行のたびに同種の文書が起こされ、そのつど渡船場は態勢を組み直した。現存するのは残った文書だけであり、失われた記録の背後には、書き上げられては消えていった無数の非常態勢があったと考えられる。一点の書上帳は、くり返された大通行の一断面にすぎない。この点を踏まえると、嘉永3年の記録は「例外的な一度」ではなく、「幾度もくり返された非日常の、たまたま残った一例」として読むべきものである。
3. 大通行の通行構造 ── 誰が何を運んだのか
大通行と一口に言っても、その内実は一様ではない。参勤交代の大名行列、将軍の上洛や日光社参、朝鮮通信使や琉球使節の参府、さらには大名家どうしの婚儀にともなう輿入れまで、性質を異にする通行が「大通行」という一語のもとに括られていた。これらに共通するのは、公用または準公用の権威を帯び、平時をはるかに超える人と荷を伴い、宿駅・助郷に正規の課役として負担を課しえたという点である。渡船場の側から見れば、通行の中身が何であれ、川を渡すという役務に変わりはなく、そのつど非常態勢を組む必要があった。
大通行の具体例として、婚儀にともなう通行の記録も残る。宝暦10年(1760年)、京の近衛家から奥州仙台藩へ嫁ぐ姫君の輿入れがあり、その一行もまた天竜川を渡った。池田渡船場をめぐる既述や大名家との特約に関する検討で触れたように、こうした大通行の際には、特約を結んだ大名家の御用を、池田村渡船方の特定の家が一手に差配する仕組みがあった3。つまり大通行は、単に渡船場に負担を課すだけでなく、その負担を誰がどう引き受けるかという在地の権益構造とも深く結びついていた。特定の家が大名家の御用を独占的に差配できたのは、大通行という高負担の役務が、同時に権威と結びついた名誉と実利をもたらす機会でもあったからである。
通行が運んだのは、人だけではない。行列には夥しい荷物が随行し、道中の宿駅と助郷はこれを継ぎ送る役を負った。荷物の量は通行の格に応じて増減し、格の高い通行ほど、宿駅・助郷の負担は重くなった。渡船場においても、人を渡すことと荷を渡すことは別の役務であり、荷を積む高瀬船と人を乗せる船とが区別されていたことは、前章に見た書上帳の船種の記載からもうかがえる。大通行の負担は、行列の人数だけでなく、随行する荷の総量によっても規定されていたのである。
ここで、通行の頻度について確度を明示しておきたい。参勤交代は制度として定期的にくり返され、東海道を上下する大名行列は年間を通じて絶えなかった。将軍の上洛や日光社参、外国使節の参府は、これに比べれば稀な出来事であった。したがって、大通行の総体は、頻繁にくり返される参勤交代の恒常的負担と、稀にしか起こらないが一度の規模が突出する儀礼的通行との、二層から成っていたと考えられる。ただし、池田渡船場が年間に何回の大通行を扱ったかを示す集計的な記録には、本稿の範囲では突き当たっていない。頻度の総量は、これを史実として断定せず、制度の性格から導かれる推定として述べるにとどめる。
4. 繁栄の側面 ── 宿場と渡船場が受けた恩恵
大通行は、負担の面のみで語られがちであるが、通過する宿場町にとっては恩恵の源でもあった。史料も、大通行が幾百回となく行なわれるなかで、通過する宿場町は繁盛し、商工業の発展に役立ったと記す。それによって交通路の改善が進み、文化の向上に役立った側面もあったという4。大人数の通行は、宿泊・飲食・荷継ぎ・修繕といった需要を一時に生み、宿場の商人や職人に現金収入をもたらした。渡船場の側でも、公用通行に伴う船賃や役銭は、渡船組織の収入の一部を構成した。
この繁栄の論理を、もう少し立ち入って考えてみたい。近世の宿場経済は、日常の旅人相手の商いだけでは、宿駅を維持する費用を十分に賄えなかった面がある。宿場は幕府の交通政策のもとで人馬継立の義務を負い、その義務を果たすための負担は重かった。大通行は、その負担の源であると同時に、まとまった需要を宿場にもたらす機会でもあった。多くの人が一度に通れば、それだけ落とす銭も増える。宿場の側には、大通行を単なる災難としてではなく、収入の機会として迎える現実的な動機があった。繁栄と負担は、しばしば同じ通行の表裏をなしていた。
渡船場についても同様のことが言える。平時の渡しでは、渡船組織の収入は日常の旅人・荷物の船賃に依存していたが、大通行は一時に大量の役務と、それに伴う役銭を発生させた。むろん、公用通行の船賃が実費を十分に償ったかどうかは別の問題であり、後述するように負担の側面も大きい。だが、大通行が渡船場の存在意義を公権力に向けて可視化し、渡船特権の維持や、大名家との特約という実利につながっていったことは見のがせない。渡船の家が大名家の御用を差配する権益を保持しえたのは、大通行という高負担の役務を引き受ける主体として、渡船組織が不可欠であったからにほかならない。
この実利の一端は、大名家と渡船方とのあいだに結ばれた渡船の特約に見て取れる。特約は、大通行という高負担の役務を安定して差配する見返りに、特定の家へ御用を保証する取り決めであり、負担と実利が一組の仕組みとして制度化されていたことを示す。大通行は、渡船方にとって重い義務であると同時に、その義務を独占的に担うことで在地の格を確保する足場でもあった。負担を引き受ける主体だけが実利を得るという、この構造の非対称性は、繁栄の分配が在地の身分と権益に沿って偏っていたことを、渡船方の側から裏づける。
もっとも、この繁栄を過大に描くことには慎重でありたい。史料が「繁盛」「商工業の発展」と記すとき、その恩恵が宿場や渡船場の内部でどのように分配されたかまでは、必ずしも明らかでない。宿場の有力商人と零細な住人、渡船の特権的な家と徴発される助郷の農民とでは、同じ大通行から得るものが大きく異なったはずである。繁栄の語が覆い隠しがちなこの分配の不均衡こそ、次章で見る負担の側面と表裏をなす。繁栄は在地社会に等しく行きわたったのではなく、その分配は在地の権益構造に沿って偏っていたと見るべきである。
5. 負担の側面 ── 助郷の村々と見付宿の歎願
繁栄の裏で、大通行の負担を最も重く担ったのは、助郷を務める村々の農民であった。史料は、大通行が助郷農民の犠牲のうえに成り立っていたことを指摘し、とりわけ将軍の上洛のような大規模な通行が重なる年には、農民は極めて低廉な賃銭で強制的に課役を課され、その負担のあまりの重さに、宿駅から逃げ出す者さえあったと伝える5。渡船場の助郷は、平時にも助船・助人足を出す義務を負っていたが、大通行の際にはその徴発が一挙に膨れ上がり、農事の繁忙期と重なれば、村の生産そのものが脅かされた。助郷制度の骨格については本論考シリーズの助郷をめぐる既刊で詳しく論じたが、大通行はその負担が極限まで振れる局面であった。
この負担の重さを、在地の側から訴えた記録として、嘉永7年(1854年)に見付宿から出された歎願書がある。そこには、東海道往還の負担が近隣の諸家に多大の被害を与えているという趣旨が記され、道中を運ばれる荷物の量や、宿駅・助郷の負担がいかに大きかったかを物語っている。とりわけ注目されるのは、この歎願書が「異国船渡来近年ニ而道中御進送之荷物莫大之御儀」と述べ、外国船の来航をきっかけに、道中を運ばれる荷物がいっそう莫大になっていったことをうかがわせる点である。嘉永6年(1853年)のペリー来航に象徴される対外的緊張が、東海道の物流量を押し上げ、宿駅・助郷の負担をさらに加重していた時代状況が、この一句から読み取れる。
歎願書という史料の性格にも、批判的な目を向けておく必要がある。歎願書は、負担の軽減や助成を求めて上位の権力に差し出される文書であり、その性質上、負担の重さを強調する方向に叙述が傾く。したがって、そこに記された被害の訴えを、そのまま客観的な実態の記録として受け取ることはできない。とはいえ、これを割り引いて読むにしても、見付宿がわざわざ歎願に及ばねばならないほどの負担が現に存在したことは、文書の存在それ自体が証している。歎願書は、負担の絶対量を測る物差しとしてよりも、負担が在地の耐えうる限度に接近していたことを示す指標として読むのが適切である。
負担の構造をもう一段掘り下げると、その重さは単に量の問題にとどまらなかった。第一に、課役は極めて低廉な賃銭で強制されたため、農民は労働に見合う対価を得られなかった。第二に、大通行は時期を選ばず、農事の繁忙期に重なれば、田畑の作業を犠牲にして人足に出ざるをえなかった。第三に、負担は村ごとに割り当てられたため、助郷に指定された村とそうでない村との間に、負担の不均衡が生じた。逃散すなわち宿駅から逃げ出す者が現れたという伝えは、この三重の圧力が、個々の農家の存立を脅かす水準にまで達しえたことを示している。繁栄の語が宿場全体の賑わいを描くのに対し、負担の記録は、その賑わいを底で支えた個々の村と農家の疲弊を映し出す。
6. 繁栄と負担の史料批判 ── 記録の性格を腑分けする
ここまで、大通行がもたらした繁栄と負担の両面を、それぞれ異なる史料から読み取ってきた。両者を並べて論じるにあたっては、依拠する史料の性格が根本的に異なることに注意を払う必要がある。繁栄を語るのは、後世に編まれた地域史の記述や、渡船の権益にかかわる記録であり、負担を語るのは、当事者が差し出した歎願書や、動員の実務を記した書上帳である。史料の性格が異なれば、そこから引き出せる事柄の確度も、叙述の傾きも異なる。以下の比較表は、本稿が扱った主要な記録を、その性格・内容・確度・史料批判上の留意点において対等に並べ、確度の水準を可視化することを目的とする。
| 史料・記述 | 年次 | 記録の性格 | 読み取れる内容 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| 御持船人足書上帳 | 嘉永3年(1850年) | 動員の計画・上申文書 | 琉球人参府の渡河に船頭百人ほど、定助船・高瀬船・小船を動員。 | 書上=計画値の可能性。当日の実績と即断せず、動員規模の目安として読む。 |
| 見付宿歎願書 | 嘉永7年(1854年) | 負担軽減を求める陳情文書 | 往還の負担が諸家に及ぶこと、異国船渡来で荷物が莫大化したこと。 | 負担を強調する傾きをもつ。絶対量より「限度への接近」を示す指標として読む。 |
| 大名特約・輿入れの記録 | 宝暦10年(1760年)ほか | 権益・御用の記録 | 大名家の御用を特定の家が差配。婚儀の輿入れも大通行を成した。 | 渡船の家の側の記録であり、負担の分配の偏りは背後に置かれやすい。 |
| 繁栄をめぐる後世の記述 | 近代以降の編纂 | 地域史の総括的記述 | 宿場の繁盛・商工業の発展・交通路と文化の向上。 | 恩恵の分配の不均衡を捨象しやすい。繁栄の語の内実に留意。 |
この対照から見えてくるのは、繁栄と負担が、別々の時代や別々の通行に属するのではなく、同一の大通行を異なる立場・異なる史料が照らし出した結果だという事実である。書上帳は動員の規模を、歎願書は負担の切迫を、権益の記録は特約の実利を、後世の記述は宿場全体の賑わいを、それぞれ伝える。どの一つを取っても大通行の全体像には届かず、四者を突き合わせてはじめて、恩恵と負担が表裏をなす通行の実像が立ち上がる。特定の史料だけに依拠すれば、繁栄一色にも負担一色にも描けてしまう危うさが、ここにある。
史料批判の観点からとくに強調したいのは、書上帳と歎願書という、実務・陳情の二種の文書が、いずれも叙述の目的をもって書かれているという点である。書上帳は態勢を組むために数を見積もり、歎願書は救済を得るために負担を訴える。文書は中立の観察記録ではなく、それぞれの実務的・政治的な目的のもとに編まれている。この目的の傾きを読み込んだうえで、なお両文書に共通して浮かび上がるのは、大通行が平時の桁を超える態勢と負担を要したという事実である。目的の異なる二つの文書が同じ方向を指し示すとき、その一致は個々の記載の額面以上に信頼に値する。
あわせて、確度の腑分けを改めて整理しておく。天竜川を渡すために百人規模の動員が想定されたこと、外国船渡来を機に荷物が増大したと歎願書が述べたことは、史料に直接記された史実である。他方、大通行が年間に何回に及んだか、農民一人あたりの負担が平時の何倍であったかといった総量は、断片的な記録からは算出できず、制度の性格から導かれる推定にとどまる。そして、個々の大通行の当日にどれだけの人足が実際に川辺に立ったかを記す実績記録には、本稿の範囲で突き当たっていない(未確認)。これは、そうした記録が存在しなかったこと(記載なし)を意味しない。未確認と記載なしの区別を保つことが、断片的な近世文書から過度の一般化に走らないための歯止めとなる。
7. 背景としての地理 ── 天竜川と池田渡船場の位置
大通行の負担がとりわけ渡船場に集中した背景には、天竜川という地理的条件がある。東海道は、遠江国のほぼ中央で天竜川という大河を横切らねばならず、そこには橋が架けられなかった。橋がないという一事が、渡船を東海道の交通の隘路とし、通行の一切をこの渡し場に集約させた。大名行列であれ使節であれ、天竜川を越えるには船に頼るほかなく、渡船場は通行の種類を選べぬまま、あらゆる大通行の重みを一身に受け止める位置に置かれていた。
この隘路としての性格が、大通行の際の負担を特異なものにした。街道の平坦な区間であれば、通行は流れて過ぎていくが、渡船場では一行が川辺に滞留し、渡河の順を待ち、船に分乗して対岸へ渡るという、時間を要する作業が発生する。大人数の通行ほど渡河には長い時間がかかり、その間、船と人足は拘束され続けた。渡船場が平時の何倍もの態勢を組まねばならなかったのは、この滞留と分乗という渡河特有の事情による。街道の一点でありながら、渡船場は通行が「詰まる」場所であり、その詰まりを解くために、周辺の助郷が動員されたのである。
池田の渡船場が、こうした大通行を長年にわたり担いえたのは、渡船を専業とする池田村・船越一色村と、それを支える定助郷・大助郷の重層的な組織があったからである。平時の運営を担う渡船専業の村々の周囲に、助船・助人足を出す助郷の村々が幾重にも配され、大通行という非常時には、この外縁の助郷が一挙に動員された。渡船場は単独の施設ではなく、天竜川西岸の在地社会全体を後背に控えた、いわば流域的な組織体であった。大通行は、この組織体の動員能力が試される最大の局面であり、渡船場の存立は、周辺の村々がその負担にどこまで耐えうるかにかかっていた。
この後背地としての助郷の広がりは、渡船場の負担能力の限界をも規定した。助郷の村々は、平時から助船・助人足・野道人足といった多様な役を割り当てられ、大通行の際にはこれらが一挙に加重された。動員可能な人足の総数は、後背の村々がその年に抱える農事の繁閑に左右され、無限ではない。大通行が短期間に集中すれば、助郷の動員は容易に限界へ達し、隣接する在の村々へ応援を求めることになった。渡船場の運営能力とは、施設や船の数ではなく、後背の在地社会がどこまで人を出しうるかという、社会的な容量の問題であった。見付宿の歎願が負担の限度への接近を訴えたのは、まさにこの容量が試された局面であったと読める。
地理はまた、大通行の負担を時期によって左右した。天竜川は増水すれば川留めとなり、通行は水の引くのを待たねばならなかった。大通行が川留めと重なれば、一行は宿場に足止めされ、宿駅の負担はさらに増した。逆に渇水期には渡河が容易となったが、それでも大人数の渡河には相応の態勢を要した。天竜川という自然が、大通行の受け止め方を年ごと・季節ごとに変え、渡船場と助郷はその変動に応じて態勢を組み替えねばならなかった。大通行の負担を一定の数値として論じにくいのは、この自然条件による変動の大きさにも一因がある。
8. 結論 ── 大通行を渡船史の結節点として読む
本稿は、参勤交代・将軍上洛・琉球使節参府などの「大通行」を切り口に、天竜川池田渡船場と助郷の村々が、この非日常の大量通行をどう受け止めたかを検討した。嘉永3年(1850年)の琉球人参府の御持船人足書上帳は、天竜川を渡すためだけに船頭百人ほどが動員される態勢を伝え、嘉永7年(1854年)の見付宿歎願書は、外国船渡来を機に増大した荷物と宿駅・助郷の負担を訴えた。この二つの史料は、性格を異にしながら、大通行が平時の桁を超える態勢と負担を要したという一点で一致する。
得られた見取り図は、繁栄と負担の両義性に尽きる。大通行は、宿場を潤し、商工業を発展させ、渡船の権益を可視化する恩恵の源であると同時に、助郷の農民に低廉な賃銭の課役を強い、逃散する者さえ出すほどの負担の源でもあった。この二つの顔は、別々の通行に属するのではなく、同一の大通行が在地の立場の違いに応じて示したものである。繁栄を語る後世の記述と、負担を訴える当事者の歎願とを突き合わせてはじめて、通行の実像が両義的なものとして立ち上がる。どちらか一方の史料だけに依れば、大通行は繁栄一色にも負担一色にも描けてしまう。
したがって本稿の立場は明確である。大通行は、宿場史・渡船史・助郷史のいずれか一つに属する主題ではなく、それらが交わる結節点として読むべきものである。書上帳を渡船の動員史として、歎願書を助郷の負担史として、権益の記録を宿場の経済史として別々に扱うのではなく、同一の通行が生んだ複数の記録として突き合わせるとき、近世東海道の交通が在地社会に及ぼした重層的な作用が見えてくる。そのうえで、史料に直接記された事柄を史実とし、頻度や総量の判断を推定とし、当日の実績記録を未確認として、確度の層を混同しないことが、断片的な近世文書を扱う際の禁欲的な作法となる。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を記しておく。第一に、大通行の頻度と、そのつど作成された書上帳の残存状況を、近世の宿駅・渡船関係文書を博捜することで整理する余地がある。これは、いま「推定」にとどめた通行頻度を「通説」へ、「未確認」にとどめた実績を「史実」へ押し上げていく作業に属する。第二に、外国船渡来と東海道の物流増大との関係は、幕末の対外的緊張が在地社会に及ぼした影響として、渡船・助郷の枠を超えて検討されるべき主題である。第三に、繁栄の恩恵が在地社会でどのように分配されたかは、宿場・渡船の内部の階層構造に立ち入ってはじめて明らかになる。大通行という非日常の一回一回が、渡船場と助郷にどのような痕跡を残したか──その一点ずつの記録を、確度の層を保ったまま積み上げていくことが、天竜川池田渡船研究の次の課題である。渡船経済のしくみや外国船来航の影響については、本論考シリーズの関連稿とあわせて読まれたい。
注
- 本稿の近世文書に関する記述は、豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』(豊田町教育委員会発行、昭和51年〔1976年〕3月)に翻刻・紹介された史料に依拠する。個別文書の原本の所在・伝来については同書の記載に従う。↩
- 「琉球人参府ニ付御持船人足書上帳」嘉永3年(1850年)による。「船頭百人ほど」の「ほど」は概数表現であり、書上帳が動員の計画・上申文書である性格を踏まえ、記載数を当日の実績値と同一視しない。↩
- 宝暦10年(1760年)の近衛家から仙台藩への輿入れ、および大名家と池田村渡船方の特約については、前掲『天竜川池田の渡船』および本論考シリーズ既刊で扱った記録による。↩
- 大通行による宿場の繁盛・商工業の発展・交通路と文化の向上に関する総括的記述は、前掲『天竜川池田の渡船』の記載による。恩恵の在地社会内部での分配については、同書は詳述していない。↩
- 将軍上洛時の低廉な賃銭による課役、および逃散に関する伝えは前掲『天竜川池田の渡船』による。嘉永7年(1854年)見付宿歎願書の引用句「異国船渡来近年ニ而道中御進送之荷物莫大之御儀」も同書に拠る。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 t050 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・推定・未確認・記載なし)を語の水準で区別し、書上帳・歎願書に直接記された数量・文言を史実、通行頻度・負担総量を推定、当日の実績記録を未確認として扱った。既刊190・228・233と重複を避け、大規模通行のインパクトに軸を置いた。
参考文献・参考資料
- 豊田町郷土を研究する会編『郷土研究資料第二集 天竜川池田の渡船』豊田町教育委員会発行、昭和51年(1976年)3月。
- 「琉球人参府ニ付御持船人足書上帳」嘉永3年(1850年)、前掲『天竜川池田の渡船』所収。
- 見付宿歎願書、嘉永7年(1854年)、前掲『天竜川池田の渡船』所収。
- 仙台藩御用通行目録帳、宝暦10年(1760年)関係史料、前掲『天竜川池田の渡船』所収。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 静岡県編『静岡県史』通史編・近世(静岡県、該当章)。
- 児玉幸多『宿駅』(近世交通史・助郷制度の概説)。
- 大石慎三郎ほか編『近世の東海道と宿駅』(交通史関係論集、該当章)。
- 佐口行正氏所蔵史料。
- 磐田物語 t050「大通行と池田の渡船場 ── 琉球使節から見付宿の歎願まで」 https://iwata-monogatari.net/t050.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之の磐田論考 第228号(助郷関係) https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/228/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 t049「大名と渡船の特約」 https://iwata-monogatari.net/t049.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 t047「渡船を支えた助郷たち」 https://iwata-monogatari.net/t047.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。