失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 遠江国分寺史跡公園を読む

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第222号(遠江国分寺研究 史跡公園編)

遠江国分寺史跡公園を読む

遺跡を保存し活用する場の論理 ── 特別史跡の整備・表示をめぐる史料批判

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市中泉・国府台

要旨

遠江国分寺跡は国の特別史跡に指定され、その一帯は史跡公園として整備されている。本稿は、この史跡公園を「遺跡を保存し、同時に活用する場」として読み、保存と活用のあいだに生じる緊張を、史跡整備の思想として史料批判的に論じる。特別史跡としての指定、地表への遺構表示、園地としての整備といった記録は、公的な文化財行政の所産であり史実の層に置く。一方、遺跡を「見せる」「学ばせる」「憩わせる」ことの意義は、来訪者の理解や記憶に関わる推定の層に属する。本稿は両者を混同せず、保存が遺構の凍結を、活用がその解釈的な提示を志向するという構図のもとで、地表表示や復元がいかに来訪者の理解を方向づけるかを検討する。あわせて、741年の国分寺建立の詔にさかのぼる遺跡の来歴と、中泉・国府台という立地を、史跡公園の意味を支える背景として位置づける。結論として、保存と活用は択一ではなく、両者の均衡をどう設計するかという問いに帰着することを示す。

キーワード:遠江国分寺跡/特別史跡/史跡公園/史跡整備/保存と活用/復元表示/史跡の解釈

1. 問題設定 ── 史跡公園という装置をどう読むか

磐田市中泉、国府台と呼ばれる一帯に、遠江国分寺跡がある。奈良時代、国ごとに置かれた国分寺の遠江国における中心であり、その遺跡は国の特別史跡に指定されている。現在この一帯は、遺構の位置を地表に示しながら、園地として歩き、憩える形に整えられた史跡公園となっている。本稿が対象とするのは、この寺そのものの歴史ではなく、遺跡を「史跡公園」という形で残し、見せている、その営みのほうである。

遠江国分寺そのものについては、本論考シリーズですでに扱ってきた。伽藍と造営の全体像は総論で、寺がやがて衰え失われていく過程は廃寺の論考で論じている。本稿はそれらと主題を分ける。問うのは、失われた寺の跡地が、なぜ、どのように「保存すべきもの」とされ、さらに「見せるべきもの」へと整えられたのか、という点である。すなわち、遺跡を残し活用する場としての史跡公園の論理を、正面から扱う。

史跡公園は、一見すると素朴な施設に見える。芝の広がる園地に、礎石の位置や建物の輪郭が地表で示され、説明板が立つ。訪れる者はそこを歩き、かつての伽藍を思い描く。だが、この静かな空間は、決して自明の存在ではない。遺跡をそのまま埋め戻して人を寄せない選択も、逆に建物を原寸で復元して見せる選択もありえたなかで、いま目にする姿は、保存と活用をめぐる複数の判断が積み重なった結果である。史跡公園は、遺跡に対する一つの態度の表明にほかならない。

本稿の方法は、この史跡公園を構成する事柄を、確度の層に腑分けして読むことにある。特別史跡への指定、地表での遺構表示、園地としての整備といった記録は、文化財行政の所産であり、公的な文書によって確認できる史実の層に置く。他方、遺跡を「見せる」「学ばせる」「憩わせる」ことがどのような意味をもつのか、来訪者の理解や記憶にどう働くのかは、直接には測りがたい推定の層に属する。この二つを混同すると、行政の記録に書かれていない効果を史実であるかのように語り、あるいは整備の意図を過小に見積もる誤りに陥る。

あわせて、本稿では「未確認」と「記載なし」を区別する。ある整備の意図や年代について、一次史料に突き当たっていない状態(未確認)と、そもそも史料に記載がないこと(記載なし)とは、別の事柄である。整備の記録は比較的新しく、報告書や広報のかたちで残されている可能性が高いが、そのすべてを本稿の範囲で博捜したわけではない。確認できた範囲と、なお確認を要する範囲とを、はっきり分けて記す。

以下ではまず、史料で確認できる指定・整備・表示の記録を押さえ(第2節)、続いて「保存」という行為の論理(第3節)と「活用=見せる」という行為の論理(第4節)を分けて検討する。そのうえで、両者のあいだに生じる緊張を史跡整備思想の対立軸として整理し(第5節)、史跡公園の空間構成(第6節)と地理的背景(第7節)を経て、結論に至る。

遺跡(遠江国分寺跡) 地下に眠る遺構・礎石・基壇 保存 残す・凍結する 活用 見せる・使う 解釈 意味づけ・表示 史跡公園を読む三つの視点 保存・活用・解釈は同じ遺跡に別々の態度として働き、史跡公園の姿を決める。
図1 史跡公園を読む三つの視点。同じ遺跡に対し、保存(残す)・活用(見せる・使う)・解釈(意味づける)という別々の態度が働く。本稿はこの三者の関係として史跡公園を読む。

2. 史料で確認できること ── 指定・整備・表示の記録

史跡公園の論理を論じる前に、公的な記録によって確認できる範囲を確定しておく。第一に、遠江国分寺跡が国の特別史跡に指定されているという事実である。特別史跡は、史跡のうち学術上の価値がとくに高いものとして文化財保護法にもとづき指定されるもので、遠江国分寺跡はその一つに数えられる1。この指定は、遺跡を国家的な保存の対象として位置づける行為であり、以後の整備・表示のすべてがこの指定を前提として営まれている。指定そのものは、文化財行政の文書に基づく史実として扱ってよい。

第二に、この遺跡が奈良時代の国分寺にさかのぼるという来歴である。国分寺は、741年(天平13年)の国分寺建立の詔にもとづき、諸国に一つずつ置かれた官立の寺院である2。遠江国分寺は、その遠江国における中心寺院であった。この造営年代や伽藍配置の詳細は、発掘調査と文献研究の蓄積によって明らかにされてきたところであり、その全体像は本論考シリーズの総論および一般向けの遠江国分寺跡の解説にゆずる。本稿で押さえておくべきは、史跡公園が対象としているのが、この古代の官寺の跡地であるという一点である。

第三に、遺跡が地表で「表示」されているという事実である。史跡公園では、地下に眠る遺構をそのまま掘り出して見せるのではなく、礎石や建物の位置を地表面に示す形で、かつての伽藍の輪郭を来訪者にたどらせている。こうした地表表示は、遺構本体を保護しながらその配置を可視化する、史跡整備の一般的な手法として知られる3。地表に何がどう示されているか、その具体的な仕様の細部については、整備報告書等の一次記録による確認を要するが、地表表示という方式が採られていること自体は、現地の状況および素材とした地域資料から確認できる。

ここで、記録の性格について一言しておきたい。特別史跡の指定に関わる文書、整備事業の報告書、市の広報記事といった資料は、いずれも近現代の文化財行政が生み出したものであり、古代の寺そのものを直接語る史料ではない。これらは「遺跡がどう扱われてきたか」を語る資料であって、「遺跡がどうであったか」を語る資料ではない。史跡公園を読むという本稿の課題にとっては、まさにこの「どう扱われてきたか」の記録こそが一次資料にあたる。古代史料と行政記録という、性格の異なる二種の資料を混同しないことが、以下の議論の前提となる。

最後に、確認の限界を明示する。整備がいつ、どのような方針のもとに、どの範囲まで行われたかという時系列と設計思想の細部については、本稿の調査範囲では一次記録に十分あたっておらず、未確認の部分を残す。これは「そうした記録が存在しない(記載なし)」という意味ではない。整備事業には通例、計画書や報告書が伴うのが常であり、それらを博捜すれば、本稿が推定として述べる部分の少なからずが史実へと確定できるはずである。本稿は、その確認をなお要する主題として、整備の思想を論じる。

741建立の詔(史実) 古代遠江国分寺造営 中世以降衰退・廃絶 近現代特別史跡指定 現在史跡公園・活用 ■ 古代(史実・遺跡の来歴) ■ 近現代(保存・活用の営み) 遺跡の来歴と保存・活用の位置
図2 遺跡の来歴と保存・活用の位置。緑は古代の遺跡そのものの時間、青・橙は近現代の文化財行政による保存と活用の時間を示す。史跡公園が扱うのは後者の営みである。

3. 「保存」とは何か ── 遺跡を残すという行為の論理

史跡公園を読むうえで、まず解きほぐすべきは「保存」という言葉である。遺跡を保存するとは、素朴には「壊さずに残す」ことを指す。だが、いざその中身を問うと、保存には複数の方式があり、それぞれが遺跡に対する異なる態度を含んでいる。保存とは一枚岩の概念ではなく、何を、どこまで、どのように残すのかをめぐる判断の束である。

遺跡保存の基本にあるのは、遺構そのものをできるだけ動かさず、地下に安定した状態で留めるという考え方である。発掘によって一度掘り出された遺構は、空気や雨水にさらされれば急速に劣化する。そこで多くの史跡では、調査を終えた遺構をふたたび土で覆い、地下で保護する「埋め戻し」が採られる。地表には遺構の位置だけを示し、本体は地中に守る。遠江国分寺跡の地表表示も、この埋め戻しによる保存を前提とした手法と考えられる。目に見えているのは遺構の「位置の写し」であって、遺構そのものではない、という点が肝要である。

この方式の含意は小さくない。埋め戻し保存のもとでは、来訪者が実際に目にするのは、地表に再現された輪郭であり、本物の遺構は足下の見えないところにある。保存が徹底されるほど、遺跡は「見えなくなる」。ここに、保存という行為が本来かかえる逆説がある。最も安全に残す方法は、遺跡を人の目から遠ざけ、地下に凍結することであり、その極限は、掘らず・触れず・見せずに封じておくことにほかならない。保存の論理を純粋に突き詰めれば、それは活用と正面から衝突する4

保存にはもう一つ、範囲をめぐる判断が伴う。特別史跡として指定される区域は、遺構の広がりに応じて画定されるが、その全域を同じ密度で保存し続けることは、現実には容易でない。指定区域の内と外、公有地化された部分とそうでない部分、既に市街化した周辺との境界──こうした線引きのそれぞれに、どこまでを残すのかという判断が刻まれている。史跡公園として整備された範囲は、遺跡の広がりのうち、公的な保存の網が確実にかけられた中核部分と見るのが妥当であろう。

さらに、保存は時間との関わりを避けられない。遺跡は指定された瞬間に完成するのではなく、その後も継続的な管理を必要とする。芝や樹木の維持、地表表示の補修、排水や地盤の管理といった日常の営みがなければ、史跡公園は数年で荒れ、地表表示は読み取れなくなる。保存とは一度きりの決定ではなく、担い手が世代を越えて引き受け続ける持続的な行為である。この持続の負担を誰がどう担うのかという問題は、次節で論じる活用の意義とも深く関わってくる。

以上を整理すれば、「保存」は、遺構本体の地下での凍結、指定区域の範囲画定、そして継続的な管理という、少なくとも三つの層をもつ。いずれの層においても、保存は「残す」ことの内実を具体的な方式へ翻訳する作業であり、その翻訳のしかたによって、遺跡が来訪者にどう現れるかが大きく変わる。史跡公園を読むとは、この翻訳の跡を読むことでもある。

露出保存 見える/劣化に弱い 埋め戻し+ 地表表示 位置は見える/本体は守る 非公開保存 見えない/最も安全 ← 見せる(活用寄り) 守る(保存寄り)→ 保存方式のスペクトル ── 見える度と守られる度は反比例する
図3 保存方式のスペクトル。露出保存から非公開保存へ向かうほど遺構は安全に守られるが、来訪者からは見えなくなる。地表表示は、その中間で見せることと守ることを両立させる折衷である。

4. 「活用(見せる)」の論理 ── 表示・復元と来訪者の理解

保存が遺跡を「残す」営みだとすれば、活用は遺跡を「使う」営みである。近年の文化財行政では、保存と並んで活用が重視されるようになった。遺跡を守るだけでなく、人々がそこを訪れ、学び、憩う場として役立てる。史跡公園という形式は、まさにこの活用の思想を空間として具体化したものである。では、遺跡を「見せる」とは、具体的に何をすることなのか。

見せることの中核にあるのは「表示」である。前節で触れた地表表示は、単に遺構の位置を示す技術であるだけでなく、来訪者に対して「ここに何があったか」を語りかける解釈の装置でもある。礎石の位置が示されれば、来訪者はそこに柱が立ち、屋根がかかっていたさまを想像する。建物の輪郭が芝の上に描かれれば、伽藍の規模が身体の尺度で感じ取られる。表示は、地下に凍結された遺構と、その意味を知らない来訪者とをつなぐ翻訳者の役割を果たす。

ここで注意を要するのは、表示が必然的に「解釈」を含むという点である。何をどこまで示し、何を示さないか。どの時期の姿を基準に復元的に見せるか。説明板にどのような言葉を添えるか。これらの選択のすべてが、来訪者の理解を一定の方向へ導く。表示は中立ではありえない。地表に描かれた輪郭は、発掘の成果にもとづく最も確からしい復元案の一つであっても、それ自体が「こう理解してほしい」という解釈の提示なのである。来訪者が受け取る「かつての国分寺の姿」は、遺跡そのものではなく、表示という解釈を経由した像である5

活用の手法には、地表表示よりもさらに踏み込んだものもある。基壇を立体的に再現する、建物の一部を原寸で復元する、といった手法は、来訪者の理解を助ける力が強い反面、危うさも大きい。復元が精巧であるほど、来訪者はそれを「本物のかつての姿」と受け取りやすい。だが復元は、必ず現在の知見にもとづく仮説の造形であり、後の研究で覆されうる。復元表示は、来訪者の理解を助けると同時に、確定していない解釈を既成事実のように見せてしまう危険をあわせもつ。見せる力が強いほど、解釈を誤って伝える危険も強まるという関係がここにある。

それでも、活用には保存にはない固有の意義がある。第一に、教育の場としての意義である。史跡公園は、地域の子どもや来訪者が、古代の国家と地方の関わりを、書物ではなく身体で学ぶ場となりうる。第二に、記憶の継承の場としての意義である。人が訪れ、歩き、語り合う場であってこそ、遺跡は忘れられずに次の世代へ受け継がれる。誰も訪れない完全に封じられた遺跡は、物理的には最も安全でも、人々の記憶からは失われやすい。活用は、保存された遺跡に社会的な生命を吹き込む営みである。これらの意義は、行政の記録に効果として明記されるとは限らず、多くは推定の層にとどまるが、活用という営みが目指すところとして読み取ることはできる。

第三に、活用は保存を支える現実的な基盤ともなる。人々が訪れ、価値を認める史跡だからこそ、継続的な管理の費用や労力が社会的に正当化される。誰の目にも触れない遺跡の維持を、長期にわたって支え続けることは容易でない。活用は、保存の持続を可能にする循環の一部でもある。ここにおいて、保存と活用は単純に対立するのではなく、たがいを必要とする関係へと反転する。この両義的な関係こそ、次節で正面から扱う主題である。

地下の遺構 本体・史実 地表表示・解説 解釈の装置 (中立ではない) 来訪者の理解 再構成された像 復元は 加速も歪みも 見せることの翻訳 ── 遺跡から理解像へ 来訪者が受け取るのは遺跡そのものではなく、表示という解釈を経た像である。
図4 見せることの翻訳。来訪者が受け取る「かつての国分寺の姿」は、地下の遺構そのものではなく、地表表示と解説という解釈の装置を経由した像である。復元はその翻訳を助けると同時に歪める危険をもつ。

5. 保存と活用の緊張 ── 史跡整備思想の対立軸

ここまでの検討から、保存と活用は、遺跡に対する二つの異なる要求として立ち現れる。保存は遺構をできるだけ動かさず、見せず、地下に凍結することを志向する。活用は遺跡を見せ、使い、人を招き入れることを志向する。この二つの要求は、しばしば同じ遺跡の上で正面から衝突する。史跡整備とは、この緊張をどこかの均衡点で解決する作業にほかならない。

緊張が最も鋭く現れるのは「見せる」ことをめぐってである。遺構を露出して見せれば、来訪者の理解は深まるが、遺構は劣化にさらされる。地下に埋め戻して守れば、遺構は安全だが、来訪者には何も見えない。地表表示は、この両極のあいだにある折衷である。位置だけを地表に写し、本体は地下に守る。見せることと守ることを、ぎりぎりのところで両立させようとする工夫が、地表表示という手法には込められている。遠江国分寺跡の史跡公園が地表表示を基調としていると考えられることは、この折衷を選び取った態度の表れと読める。

もう一つの緊張は「どこまで復元するか」をめぐって生じる。復元をしなければ、来訪者は遺跡の意味を読み取りにくい。だが復元をすれば、確定していない解釈を既成事実として提示する危険が生じ、後の研究による修正も難しくなる。ここには、来訪者の理解しやすさと、解釈の可逆性・慎重さとのあいだのトレードオフがある。地表表示にとどめる選択は、理解しやすさをある程度犠牲にしても、解釈を押しつけず、後の修正に開いておくという態度に対応する。何を選ぶかは、遺跡をどう扱うべきかという思想の表明である。

これらの緊張を一覧にすると、史跡整備の判断がいくつかの軸のうえに置かれていることが見えてくる。次の表は、保存を重んじる態度と活用を重んじる態度とを対置し、それぞれが何を得て何を手放すのかを整理したものである。いずれかが正解というのではなく、遺跡の性格と地域の状況に応じて、均衡点が選び取られる。

表1 保存を重んじる態度と活用を重んじる態度の対置 ── 史跡整備の判断軸
判断軸保存を重んじる態度活用を重んじる態度史跡整備上の含意
遺構の扱い埋め戻し・地下で凍結露出・立体復元で提示安全と可視性は反比例。地表表示は折衷。
来訪者の理解解釈を押しつけない復元で理解を助けるわかりやすさと解釈の可逆性が競合。
空間の性格近づけない聖域歩ける・憩える園地史跡公園は後者に軸足を置く。
持続の基盤行政の責任で維持来訪と共感が維持を支える活用が保存の社会的正当化を生む。
時間への態度現状を将来へ凍結各時代の利用に開く遺跡の意味は世代ごとに更新される。

この表から読み取れるのは、保存と活用が単なる対立ではなく、たがいを条件づけ合う関係にあるという点である。保存なくして活用する対象はなく、活用なくして保存を支える動機は細る。史跡公園は、この二つの要求を、地表表示という技術と園地という空間によって、一つの均衡点に落とし込んだ場である。その均衡点は固定されたものではなく、時代の要請や研究の進展に応じて、たえず問い直される。

史跡整備の思想としてみたとき、遠江国分寺跡の史跡公園が体現しているのは、保存に確かな軸足を置きながら、地表表示と園地という穏やかな手法で活用へ手を伸ばす態度であると考えられる。原寸復元によって過去を断定的に見せるのではなく、遺構の位置を静かに示して来訪者の想像に委ねる。この抑制的な姿勢は、解釈を押しつけず、後の研究に道を開いておくという点で、史料批判的な態度と通じ合う。ただし、この評価は現地の状況と地域資料から導いた本稿の読みであって、整備計画の設計思想を記した一次記録による裏づけは未確認であることを、あらためて断っておく。

守る度(保存)→ ↑ 見せる度(活用) 露出 復元 地表表示 折衷点 埋め戻 非公開 保存と活用のトレードオフと地表表示の位置
図5 保存と活用のトレードオフ。横軸に守る度、縦軸に見せる度をとると、露出復元と非公開保存は両極に、地表表示は両者を結ぶ折衷点に位置する。史跡公園はこの折衷点に均衡を求める。

6. 空間構成を読む ── 史跡公園という場の設計

保存と活用の均衡は、抽象的な理念にとどまらず、史跡公園の空間そのものに刻まれている。ここでは、史跡公園という場がどのような要素で構成され、それらがどう来訪者の経験を組み立てるのかを読む。史跡公園は、遺構の位置を示す表示面、来訪者が歩く動線、意味を伝える解説、そして全体を包む園地という、いくつかの層が重なった空間である。

第一の層は、遺構表示の面である。伽藍の中心をなした建物の位置が地表に示され、来訪者はそれをたどることで、かつての寺の骨格を読み取る。ここで示されるのは点や線であって、立体ではない。来訪者は、示された輪郭を手がかりに、失われた立体をみずからの想像で補う。この「補い」を促すことこそ、地表表示という手法の要点である。すべてを見せてしまえば想像の余地は消え、何も見せなければ手がかりが失われる。表示面は、その中間で来訪者の想像を導く。

第二の層は、動線である。来訪者がどこから入り、どの順に歩き、どこで立ち止まるか。史跡公園の園路は、来訪者の身体を遺跡のなかへ導き入れ、伽藍の規模を歩測させる。書物で「規模が大きい」と読むのと、実際にその広がりを歩いて渡るのとでは、理解の質が異なる。動線は、遺跡の空間的な大きさを身体の経験へと翻訳する装置である。歩くという行為を通じて、来訪者は古代の空間の尺度を自分の足で確かめる。

第三の層は、解説である。説明板や案内は、表示された遺構に言葉を添え、来訪者の理解を方向づける。前節までに述べたとおり、この解説は中立ではなく、一定の解釈を含む。何を語り、何を語らないか。史実として断定するか、推定として留保するか。解説の書きぶりは、来訪者が遺跡をどう受け取るかを左右する。史料批判の観点からは、解説が確度の層を区別して記しているか──確認できる事実と、推定される事柄とを、来訪者が取り違えない書き方になっているか──が、史跡公園の質を測る一つの目安となる。

第四の層は、園地としての性格である。芝や樹木に囲まれ、歩き、憩える空間であること。この園地性は、史跡公園を単なる遺構の展示場ではなく、日常のなかで人が立ち寄れる場に変える。地域の人が散歩し、子どもが遊び、来訪者が休む。そうした日常の使われ方を通じて、遺跡は生活の風景の一部となり、記憶に根を下ろす。園地性は、活用の思想が最も柔らかく現れる層である。ただし、園地としての快適さを追えば、遺跡としての厳粛さや、遺構保護の要請と競合しうる。ここにも、保存と活用の緊張が小さな形で反復されている。

これら四つの層は、たがいに独立しているのではなく、一つの経験として重なり合う。来訪者は、園地を歩きながら遺構の輪郭をたどり、解説を読んで意味を補い、身体でその規模を測る。史跡公園を設計するとは、この重なりを組み立て、保存された遺跡を来訪者の経験へと開く作業にほかならない。空間構成を読むとは、その設計の意図を、でき上がった場から逆にたどる作業である。

園地(芝・樹木・憩い) 遺構表示 位置の写し 解説板 意味の付与 想像の補い 立体の再構成 動線(歩いて規模を測る) 史跡公園の空間構成 ── 四つの層が来訪者の経験を組み立てる 表示・解説・想像・動線が園地のなかで重なり、遺跡が経験へと開かれる。
図6 史跡公園の空間構成。遺構表示・解説・来訪者の想像・動線という層が、園地のなかで一つの経験として重なる。設計とは、この重なりを組み立て、遺跡を来訪者に開くことである。

7. 背景としての地理 ── 中泉・国府台と遺跡の位置

史跡公園の意味は、それが置かれた土地から切り離しては読めない。遠江国分寺跡は、磐田市中泉、国府台と呼ばれる一帯にある。この地名が示すとおり、周辺は古代の遠江国府に関わる地とされ、国分寺はその国家的な宗教施設として、国府にほど近い位置に営まれた。国分寺・国府・総社といった古代の官的施設が近接して分布するこの一帯は、遠江国の古代における中心の一つであったと考えられる。史跡公園は、その中心の記憶が地表に残された数少ない場である。

国分寺が国府の近くに置かれたことには、明確な理由がある。国分寺は、741年の詔にもとづき、国家が国ごとに設けた官寺であり、地方統治の宗教的な中核をなした。国司が政務をとる国府と、鎮護国家の祈りを担う国分寺とは、地方支配の車の両輪であった。したがって国分寺跡の立地は、単に一つの寺の跡というにとどまらず、古代国家が遠江という地方をどう統べようとしたかを、空間として今に伝える。史跡公園を歩くことは、その古代の統治の骨格の一角に立つことでもある。

もっとも、遠江国府そのものの所在については、なお論点が残る。国府が中泉・国府台の周辺に置かれたとする見方は有力であるが、その具体的な位置や範囲をめぐっては議論があり、一点に確定しているとは言い難い。この国府所在論は本稿の主題を超えるため立ち入らないが、国分寺跡と国府との地理的な関係を語るとき、その前提となる国府の位置そのものがなお検討を要する問いであることは、明記しておかねばならない。国分寺跡が確かな遺跡として地表に残されているのに対し、国府の像はより不確かなままにとどまる。この確度の差は、史跡として何が残り、何が残らなかったかという、保存の歴史そのものの反映でもある。

近現代に目を転じれば、中泉は駅や街道、商工業の記憶が集まる地であり、近代以降の磐田を考える入口の一つである。古代の官寺の跡地が、こうした近代都市の縁辺に残されたことは、偶然ではない。市街化の圧力のなかで遺跡が失われずに残ったのは、特別史跡としての指定という、近現代の保存の営みがあったからにほかならない。史跡公園は、古代の遺跡であると同時に、それを守ろうとした近現代の意志の産物でもある。この二重性を読むことなしに、史跡公園を理解することはできない。より広い地域史の文脈は、中泉地区の記録や、遺跡を地域の記憶として読み直した一般向けの記事にゆずる。

地理的な背景は、保存と活用の緊張にも一つの色合いを与える。市街地に近く、人が訪れやすい立地であることは、活用にとっては好条件である。だが同時に、市街化の圧力は遺跡の保存にとって不断の脅威でもある。中泉・国府台という立地は、活用の容易さと保存の困難さとを、同時にこの遺跡へもたらしている。史跡公園という選択は、この土地の条件のもとで、遺跡を守りつつ人に開くための、一つの現実的な解であったと読むことができる。

8. 結論 ── 保存と活用の均衡へ

本稿は、遠江国分寺史跡公園を「遺跡を保存し、同時に活用する場」として読み、その論理を史料批判的に検討した。得られた見取り図は次のとおりである。特別史跡としての指定、地表による遺構表示、園地としての整備は、近現代の文化財行政が生み出した記録であり、史実の層に置かれる。他方、遺跡を見せ、学ばせ、憩わせることの意義は、来訪者の理解や記憶に関わる推定の層に属する。この二つを混同せず、それぞれの層のなかで正当に評価することが、史跡公園を読む前提となる。

保存という行為は、遺構本体の地下での凍結、指定区域の範囲画定、継続的な管理という複数の層をもち、その論理を突き詰めれば、遺跡を人の目から遠ざける方向へ向かう。活用という行為は、表示と復元によって遺跡を見せ、教育と記憶継承の場をつくり、さらには保存の持続を社会的に支える基盤ともなる。この二つは、同じ遺跡の上で緊張し、また補い合う。史跡整備とは、この緊張をどこかの均衡点で解決する作業であり、遠江国分寺跡の史跡公園は、地表表示と園地という抑制的な手法によって、保存に軸足を置きつつ活用へ手を伸ばす均衡を選び取っていると読める。

この抑制的な均衡には、史料批判と通じ合う態度が認められる。原寸復元によって過去を断定的に見せるのではなく、遺構の位置を静かに示して来訪者の想像に委ねること。それは、確定していない解釈を既成事実として押しつけず、後の研究に道を開いておくという点で、確度の層を区別して記す本稿の方法と響き合う。史跡公園は、遺跡についての一つの「読み」を空間として提示する装置であり、その読みが断定に傾くか、留保に開かれているかは、来訪者が遺跡をどう理解するかを深く左右する。

したがって本稿の立場は明確である。史跡公園は、遺跡を保存するか活用するかという択一の問いではなく、保存と活用の均衡をどう設計するかという問いに帰着する。両者は対立するようでいて、たがいを必要とする。保存なくして活用する対象はなく、活用なくして保存を支える動機は細る。史跡公園を読むとは、この均衡がどの点に置かれ、その均衡が来訪者に何を、どのような確度で伝えているかを読むことである。

最後に、本稿が確認しえなかった課題を明記しておく。第一に、整備事業の時系列と設計思想については、計画書や整備報告書といった一次記録を博捜することで、本稿が推定として述べた部分の多くを史実へと確定できる余地がある。第二に、地表表示や解説の具体的な仕様が、確度の層をどこまで区別して来訪者に示しているかは、現地での丹念な観察を要する。第三に、国府所在論との関係は、国分寺跡の立地の意味をさらに深めるうえで、別に検討されるべき主題である。これらはいずれも、本稿が設定した史実・推定・未確認・記載なしの区別のなかで、未確認を史実へと押し上げていく作業に属する。遺跡を保存し活用するとはどういうことか──その問いは、遠江国分寺史跡公園という具体的な場を丹念に読み解くことを通じて、なお開かれ続けている。

本稿の舞台である中泉・国府台の一帯には、古代の遺跡とともに、時代を重ねてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。遺跡を保存し次代へ手渡すことと、暮らしの舞台となった土地を受け継ぐことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 特別史跡は、史跡のうち学術上の価値がとくに高いものとして文化財保護法にもとづき指定される。遠江国分寺跡の指定内容については、文化庁「国指定文化財等データベース」特別史跡の項を参照。指定年等の一次確認は本稿の範囲では立ち入らない。
  2. 国分寺建立の詔は、741年(天平13年)に聖武天皇の名で発せられ、諸国に国分寺・国分尼寺を置くことを命じた。『続日本紀』該当条による。
  3. 発掘後の遺構を埋め戻し、地表に位置を表示する手法は、史跡整備の一般的な方式として知られる。個別の史跡での具体的な仕様は、各整備報告書による確認を要する。
  4. 遺構本体を安全に保つほど来訪者からは見えなくなるという保存と可視性の逆説は、史跡整備の議論で繰り返し指摘されてきた論点である。
  5. 表示・復元が来訪者の理解を一定の方向へ導くという性格は、史跡の「解釈」をめぐる問題として論じられる。本稿は、地表に示された輪郭を、遺跡そのものではなく解釈を経由した像として扱う。

付記:本稿は一般読者向け記事 n059 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。特別史跡としての指定・整備・地表表示の記録を史実、遺跡を見せ・学ばせ・憩わせることの意義を推定として区別し、整備の設計思想の細部については「未確認」と「記載なし」を分けて扱った。

参考文献・参考資料

  • 文化庁「国指定文化財等データベース」特別史跡の項 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 文化財保護法(昭和25年法律第214号)関係条文。
  • 文化庁編『史跡等整備のてびき』(該当版)。
  • 『続日本紀』天平13年(741年)国分寺建立の詔。
  • 磐田市教育委員会『特別史跡遠江国分寺跡』整備・保存関係報告(該当年)。
  • 遠江国分寺跡発掘調査に関する報告類。
  • 奈良文化財研究所ほか 史跡整備・遺構表示に関する報告・論考。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 磐田市『広報いわた』遠江国分寺史跡公園関連記事。
  • 佐口行正氏所蔵史料。
  • 磐田物語 n059「遠江国分寺史跡公園を地域の記憶として読む」 https://iwata-monogatari.net/n059.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 n016「遠江国分寺跡と、古代磐田のはじまり」 https://iwata-monogatari.net/n016.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • NPO磐田まちづくりネットワーク「磐田お宝見聞帳」記事ID 143「遠江国分寺史跡公園」(Internet Archive 保存データ、最終閲覧:2026年7月26日)。