磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第105号(向陽地区旧村史 一)
岩田・大藤・向笠 ── 丘陵と水がむすんだ村々
台地の谷と尾根に開けた集落
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
現在の磐田市向陽地区は、岩田・大藤・向笠という三つの旧村が明治以降の再編を経て一つの地区名にまとめられたものである。しかし三村は、天竜川に接する低地、磐田原台地上の乏水地、太田川・敷地川水系の低湿地という、性格を異にする自然条件のもとに立地していた。本稿は「向陽」という上位の地区名がこの地形的差異を覆い隠す面をもつことを出発点とし、三村それぞれの成立過程と集落・地名のかたちを、地形と水との関係から腑分けして読む。明治22年(1889年)の町村制による村々・新田の合併、1896年(明治29年)の郡制施行にともなう所属郡の変更、太田川の水害と治水の歴史、そして小字に残る合併前の旧村の輪郭を、素材とした地域資料に忠実に整理する。地名の由来や集落の成立年代は一次史料で確定しがたい部分が多いため、諸説を対等に併記し断定を避ける。丘陵の尾根と谷、そして水系が三村をゆるやかに結んできた過程として、向陽の旧村史を記述する立場をとる。
キーワード:向陽地区/岩田村/大藤村/向笠村/磐田原台地/太田川水系/小字
1. 問題設定 ── 「向陽」という名が覆い隠すもの
磐田市の向陽地区は、いま一つの地区名で括られている。だが、その範囲を旧村の重なりとして見直すと、まったく性格の違う三つの土地が同居していることに気づく。岩田・大藤・向笠──この三村は、それぞれ別の自然条件のもとに成立し、別の生業と集落のかたちを育んできた1。本稿の出発点は、この差異を均してしまわないことにある。
「向陽」という名は、比較的新しい地区区分の呼称であって、三村が長く保ってきた地形的な個性を直接には語らない。地区名だけを手がかりに地域を読むと、天竜川に近い村も、台地の上の村も、川と丘陵の境の村も、等しく一つの平面に並べられ、水との付き合い方や耕地の使い方の違いが視野から抜け落ちてしまう。地域史の記述において避けたいのは、まさにこの均質化である。上位の行政名が下位の土地の記憶を上書きしていく過程そのものを、本稿は観察の対象とする。
ここで採る方法は単純である。第一に、三村を一括りにせず、地形と水系という自然条件を軸にそれぞれを独立に読む。第二に、明治以降の行政再編──町村制と郡制──が、旧来の村々の輪郭をどのように塗り替えたかを追う。第三に、小字という生活の単位に残された旧村の痕跡から、行政区画の下に沈んだ記憶を読み戻す。この三段の手続きによって、「向陽」という一枚の名の下にたたみ込まれた土地の層を、もう一度開いてみたい。
あらかじめ確度の扱いについて述べておく。合併の内訳や災害の年月日・被害数値については、地域資料と複数の公開資料を突き合わせて記す。一方、地名の由来や集落の成立年代のように、一次史料に直接には突き当たらない事柄については、断定を避け、諸説を対等に併記する。とりわけ地名由来は、一つの語源説を史実のように語る誘惑が働きやすい領域である。本稿では、確かめられる事実と、そうでない推定・伝承とを語の水準で書き分け、両者を混同しないことを一貫した姿勢とする。素材とした地域資料そのものが、小字や寺社名に判読の余地を残し、今後の原本確認で更新する方針を明示していることも、この慎重さの根拠である。
三村を分けて読む本稿の姿勢は、既刊の論考とも接続する。台地のへりに並ぶ匂坂・寺谷・岩田の地形読みは別稿「匂坂・寺谷・岩田 ── 台地のへりに並ぶ村々の地形読み」で扱った。また、乏水の台地を潤した水利の営みについては別稿「磐田用水の歩み ── 台地を潤した水利の歴史」で論じている。本稿はこれらと重なる主題を、三村を横断する地形と水の視点から改めて束ね直すものである。
2. 旧郡と旧村の重なり ── 町村制と郡制の再編
三村の個性を読む前に、それらが束ねられていった行政の枠組みを確認しておく。素材とした地域資料には、旧磐田郡・旧豊田郡・山名郡といった、現在の行政区分とは異なる郡名が現れる。これらは単に古い呼び名というにとどまらず、寺社の由緒、村の合併、用水や道路、学校区のまとまりを考えるための手がかりとなる。地域の見え方を大きく変えたのは、明治22年(1889年)の町村制である2。複数の村や新田が合併して岩田村・大藤村・向笠村となり、役場・学校・村社・公民館といった公共施設が地域の中心を示す目印になった。
合併の内訳を見ると、それぞれの村がどのような小村・新田の集まりであったかが具体的にわかる。岩田村は、匂坂新村・寺谷村・寺谷村出作間・寺谷置新田・次郎作新田・匂坂上村・匂坂中村・伝右衛門新田・寺谷新田という、匂坂と寺谷を軸にした複数の村・新田が合併して成立した。大藤村は、大久保村・平松村掛下村出作場・藤上原村が合併してでき、磐田原台地の縁にあった小さな集落がひとつにまとまった村であった。向笠村は、向笠竹之内村・向笠西村・篠原村・笠梅村・向笠新屋村(大部分)・太田村(一部)・山名郡岩井村が合併して発足した豊田郡向笠村を起点とする。
ここで注意を要するのは、所属郡の変遷が村ごとに一様でなかった点である。いずれの村も明治22年時点ではまだ豊田郡に属していたが、1896年(明治29年)の郡制施行にともなって、向笠村・大藤村の所属郡が磐田郡へと変更された。同じ地域のなかでも、村ごとに合併の経緯や所属郡の変遷が異なっていたことは、地域史を読むうえで見落とされがちな点である。郡の帰属は、単なる行政上の線引きにとどまらず、どの郡役所を仰ぎ、どの範囲の村々と生活圏を共有したかという、地域の向きを規定する要素でもあった。
この再編を、旧村の側から見るか、新しい行政村の側から見るかで、風景は反転する。新しい村の側から見れば、町村制は散在する小村・新田を一つの自治体へまとめ、近代的な行政と教育の単位を立ち上げた画期である。しかし旧村の側から見れば、それは長く保ってきた村としての自立性が、より大きな枠のなかへ吸収されていく過程でもあった。匂坂上・匂坂中といった村名が「岩田村」の内部の一部分となり、藤上原・大久保が「大藤村」の一集落となる。行政上の主語が村から大字・小字へと降格していくこの動きは、のちに小字の項で見るように、地名の層として長く残ることになる。
史料の性格にも一言しておきたい。合併の内訳や郡の変遷は、府県の統計書や町村制関係の公文書、地域資料の記載を突き合わせて確認できる範囲の事柄であり、比較的確度の高い層に属する。一方で、それぞれの小村・新田がいつ成立したのか、村名がどのような由来をもつのかといった、より古い層の問いになると、一次史料は乏しくなり、断定はできなくなる。本稿は、確かめられる近代の再編を土台に据えつつ、その下に横たわる古い層については推定と伝承の語で慎重に扱う。
3. 岩田 ── 天竜川に沿う低地の村々
岩田を読む鍵は天竜川である。川に近いということは、水の恵みだけでなく、水害・堤防・渡河・耕地の変化をあわせて引き受けるということでもあった。岩田村は、匂坂新村・寺谷村・寺谷村出作間・寺谷置新田・次郎作新田・匂坂上村・匂坂中村・伝右衛門新田・寺谷新田という、匂坂と寺谷を軸にした村々と新田が合併して成立した。村名に「新田」を含むものが複数あることは、この一帯が近世を通じて開発の前線であったこと、すなわち天竜川がもたらす沖積地を少しずつ耕地へと変えていった歴史を物語る。
匂坂・寺谷という中心的な地名は、磐田原台地の縁と天竜川の低地との接するあたりに位置する。この崖線と低地の境目は、水を得やすく、かつ洪水の直接の被害を受けにくい微高地として、古くから集落の立地に選ばれてきた場所とみられる。台地のへりに村々が並ぶこの地形的な条件については、匂坂・寺谷・岩田を主題とした別稿でより詳しく論じた。本稿では、その地形読みを踏まえたうえで、岩田を向陽三村の一つとして、大藤・向笠との対比のなかに置き直すことを課題とする。
ここで地名の由来について触れておくが、断定は避けたい。「匂坂」の読みや語源、「寺谷」が寺院に由来する地名なのか谷地形を指す地名なのかといった問いは、いずれも一次史料で一義に確定できるものではなく、諸説が併存する。「岩田」という村名についても、台地の地質や地形に関わるとする見方や、より古い地名を継承したとする見方などが考えられるが、本稿が依拠する素材資料はこれらの語源を確定していない。したがって本稿では、これらの地名由来を推定・伝承の層にとどめ、確定した史実としては扱わない。地名の語源を性急に一つに決めることは、しばしば後世の連想を古代の事実へと投影する誤りを招く。
岩田の生業と暮らしは、天竜川との距離によって規定された。川に近い低地は肥沃である一方、堤防の維持と洪水への備えを絶えず必要とした。近世から近代にかけて、この一帯の耕地は、川の流路の変化や治水事業に応じてかたちを変えてきたと考えられる。新田の開発、用水の引き回し、堤の普請といった営みは、いずれも川という強大な自然に向き合う共同の労働であった。台地上の大藤が水の乏しさに悩んだのとは対照的に、岩田はむしろ水の豊かさとその制御に、暮らしの重心を置いてきた地域だといえる。
もっとも、岩田を「水に恵まれた村」と単純に描くこともまた正確を欠く。天竜川は恵みであると同時に脅威であり、その両面性こそが岩田の暮らしを規定した。豊かな沖積地は洪水のたびに姿を変え、耕地の帰属や境界をめぐる調整を人々に強いた。川に沿って生きるとは、この不確実性を織り込みながら村を維持し続けることであった。匂坂・寺谷を軸に複数の新田が寄り集まって岩田村が成立したという事実そのものが、川の恵みと脅威のあいだで少しずつ土地を拓き、守ってきた累積の結果なのである。
4. 大藤 ── 磐田原台地上の乏水の暮らし
大藤では、磐田原台地が主役となる。岩田が水の豊かさとその制御を課題としたのに対し、大藤の暮らしを規定したのは、水の乏しさそのものであった。台地の上は、川から高く隔たり、地表を流れる水に恵まれない。素材とした資料も、台地上の水の得にくさ、井戸、天水、畑地、茶や桑などの作物、公民館を中心にした地域運営に触れている。大藤村は、大久保村・平松村掛下村出作場・藤上原村が合併して成立した、台地の縁の小さな集落を束ねた村であった。
乏水の台地では、水をいかに確保するかが暮らしの根幹を成した。深い井戸を掘り、天から降る雨を溜め、限られた水で営める作物を選ぶ。稲作に適した豊かな水を欠くこの土地では、畑作が中心とならざるをえず、茶や桑といった、比較的乾いた土地でも育つ作物が選ばれてきた。台地の上に畑と茶園と集落が織りなす景観は、水の制約が長い年月をかけて刻みつけた、この土地固有の生業のかたちである。公民館を中心にした地域運営という記述も、散在する集落が乏しい資源のもとで共同を保つための仕組みとして読むことができる。
台地の乏水を根本から変えたのが、天竜川の水を台地へ導く用水事業であった。台地を潤した水利の歴史については別稿で詳しく論じたが、大藤のような台地上の村にとって、水の到来は生業の条件を書き換える出来事であった。水利の整備以前と以後とで、台地の農業が担いうる作物や収量の幅は大きく異なる。大藤を読むということは、この乏水から灌漑への転換を、一つの村の生活史として跡づけることでもある。ただし、用水がいつ・どの範囲まで大藤の耕地に及んだかの具体は、本稿の素材資料だけでは細部まで確定できず、この点は磐田用水を扱った別稿および今後の原本確認に委ねる。
大藤という村名についても、地名由来を断定することは控える。合併を構成した村の一つに藤上原村があり、「藤」を含む地名がこの一帯に見られることから、村名の「藤」がそれらと関わるとみる見方は自然ではある。しかし、「大藤」という村名そのものが合併に際して新たに選ばれた合成的な名なのか、より古い地名を継承したものなのかは、素材資料からは一義に定まらない。植物のフジに由来するとする説、地形や旧地名に由来するとする説など複数が想定されるが、いずれも確証を欠く。したがって本稿は「大藤」の語源を推定の域にとどめ、一つの説を史実として語ることはしない。
大藤の事例が示すのは、地形の制約が生業を規定し、生業が集落のかたちを規定するという、地域史の基本的な連関である。水に乏しい台地であればこそ、畑と茶園が広がり、散在する集落が公民館を核にゆるやかに結ばれた。この連関を丁寧に跡づけることは、台地という一見のっぺりした地形の内側に、水をめぐる無数の工夫と労働が積み重なっていたことを見えるようにする。台地は、ただ平坦な高地なのではなく、水の乏しさと折り合いをつけてきた人々の営みの舞台なのである。
5. 向笠 ── 川と丘陵の境、太田川の水害と治水
向笠は、川と丘陵の間にある。太田川・敷地川・小藪川などの水系と、低地・丘陵の境に暮らしがあり、水害・開発・伝承の記憶が濃く残る地域である。向笠村は、向笠竹之内村・向笠西村・篠原村・笠梅村・向笠新屋村(大部分)・太田村(一部)・山名郡岩井村が合併して成立した豊田郡向笠村を起点とし、笠梅・向笠上・向笠中・向笠下・向笠竹之内・向笠西・向笠新屋といった集落名が、水系・低地・寺社・伝承と結びついている。
向笠を特徴づけるのは、太田川との関係である。太田川は、たびたび地域に大きな被害をもたらしてきた川でもあった。1974年(昭和49年)の台風第8号では、太田川の本川で堤防が3箇所にわたって決壊し、磐田市内で家屋の全壊・流失が計87戸、床上・床下浸水があわせて2,240戸に達したと記録されている3。この数値は、川に近い暮らしがどれほどの危険と隣り合わせであったかを、具体的な規模で示している。台地上の大藤が水に乏しい土地であったのとは対照的に、向笠は水に近すぎることによる困難を抱えてきた地域だといえる。
この被害を教訓として、太田川の治水は新たな段階へ進んだ。太田川ダムの建設が検討されるようになり、1980年度(昭和55年度)に多目的ダムとしての事業が始まり、2002年(平成14年)10月29日には本体工事に着手した4。向笠の集落が水系との距離感を持って営まれてきた背景には、こうした洪水と治水の長い歴史が横たわっている。人々は水の近くに暮らしの利を求めつつ、同時に水から身を守る工夫を重ねてきた。堤防の決壊という一度の災害が、ダム建設という数十年がかりの治水事業へとつながっていく過程は、川と生きる地域の時間の長さを物語る。
向笠の集落名を眺めると、水と丘陵の境という地形が、地名の分布にも影を落としていることがうかがえる。向笠上・向笠中・向笠下という上中下の呼び分けは、しばしば地形の高低や川に沿った位置関係を反映する呼称であり、水系との距離のなかで集落が段階的に配置されてきたことを示唆する。ただし、これらの上中下がそのまま標高や川からの距離に対応すると断ずるには、なお現地の地形との照合が必要であり、本稿ではこれを推定の域にとどめる。
地名由来については、ここでも慎重でありたい。「向笠」という地名が「笠」を含む一群の集落名(笠梅・向笠竹之内など)と関わることは地名の分布から推測できるが、その「笠」が何に由来するのか──地形の形状を笠に見立てたものか、より古い地名や人名に由来するものか──は、素材資料からは確定できない。同様に「篠原」「笠梅」といった地名も、植生や地形に由来するとみる見方が想定できるものの、いずれも確証を欠く。本稿はこれらを併記するにとどめ、一つの語源説を採用して他を退けることはしない。地名は、確実に読める部分と、なお判読・考証の余地を残す部分とを、同じ地表の上に重ねてもっている。
6. 小字を読む ── 地名に残る旧村の輪郭
小字は、行政地名よりも小さな生活の単位である。田畑・屋敷・谷・沢・山・寺社・道・水路に関わる呼び名が残り、地図だけでは見えにくい土地利用の記憶を伝える。三村を貫いて見えてくるのは、行政上の村がいくら塗り替えられても、暮らしの単位としての小字が合併前の旧村の輪郭を長く保ち続けたという事実である5。小字を読むことは、単に地名を確認する作業ではなく、行政区画がどれだけ塗り替えられても地域の記憶が下の層に残り続けることを確かめる作業でもある。
大藤の小字である大久保・藤上原・藤野・平松掛下入作といった名は、明治22年の合併前の村名(大久保村・藤上原村・平松村掛下村出作場)がそのまま小字として残った例である。行政上の村としては大藤村という一つの名にまとめられても、暮らしの単位としての小字は、合併前の村の輪郭を長く保ち続けた。向笠の小字である笠梅・向笠上・向笠中・向笠下・向笠西・向笠新屋も同様に、合併前の向笠竹之内村・向笠西村・篠原村・笠梅村・向笠新屋村といった旧村名の系譜をたどることができる。
この対応関係は、地名を史料として読むうえで重要な手がかりを与える。すなわち、現在の小字を合併前の村名と照らし合わせることで、行政再編によって主語の座を降りた旧村が、地表のどこに位置していたかをおおよそ復元できる。小字は、いわば行政地図の下に沈んだ旧村の地図であり、二つの層を重ね合わせることで、村の再編がどのように土地を束ね直したかが見えてくる。以下の表は、三村について、合併前の主な村・新田と、そこに残る小字ないし集落名の対応を、確認できる範囲で整理したものである。
| 旧村 | 主な地形・水との関係 | 生業の傾向 | 合併前の主な村・新田 | 残る小字・集落名(例) |
|---|---|---|---|---|
| 岩田村 | 天竜川に接する低地。台地の縁と低地の境。 | 低地の耕作・新田開発。水害と治水が課題。 | 匂坂上・匂坂中・匂坂新・寺谷ほか新田各村。 | 匂坂・寺谷・各新田名。 |
| 大藤村 | 磐田原台地上の乏水地。川から高く隔たる。 | 畑作中心。茶・桑。井戸・天水に依存。 | 大久保・平松村掛下村出作場・藤上原。 | 大久保・藤上原・藤野・平松掛下入作。 |
| 向笠村 | 太田川・敷地川・小藪川と丘陵の境。低湿地。 | 川沿いの耕作。水害の常襲と治水の歴史。 | 向笠竹之内・向笠西・篠原・笠梅・向笠新屋・太田(一部)・岩井。 | 笠梅・向笠上中下・向笠西・向笠新屋。 |
この表を作るにあたって、あらためて確認しておくべき限界がある。素材とした地域資料そのものが、小字や寺社名に判読の余地を残し、今後の原本確認・地域資料確認で更新する方針を明示している。したがって、ここに整理した小字・集落名は、現時点で読み取れる範囲のものであって、確定した一覧ではない。とりわけ、合併前の村名と現在の小字とがどこまで厳密に一対一で対応するかは、原本の字限図や旧高帳との照合を待って初めて精確になる。本稿の表は、その照合作業の出発点となる見取り図として提示するものである。
各地区の沿革や小字の細目については、岩田(岩田地区の成立と匂坂・寺谷の記憶)・大藤(大藤地区の成立と磐田原台地の暮らし)・向笠(向笠地区の成立と太田川・敷地川の記憶)それぞれの個別ページに譲る。本稿はあくまで三村を横断して読むことを主眼とし、細目の考証はこれらの個別ページと今後の原本確認に委ねる。
それでも、小字と旧村名の系譜的な対応という大きな傾向は、三村に共通して確認できる。行政の再編が村という単位を上書きしても、その下で人々が日々用いる地名は、合併前の輪郭を保ち続けた。この二層構造こそが、向陽という一つの地区名の下に、なお岩田・大藤・向笠という三村の記憶が生き続けている理由である。地名は、上位の行政名が変わっても容易には消えない、地域のもっとも根強い記憶装置なのである。
7. 台地の谷と尾根 ── 地形が結んだ三村
ここまで三村を分けて読んできたが、最後に、それらをゆるやかに結んでいる地形の側から全体を眺め直したい。向陽の三村は、たしかに天竜川の低地・磐田原台地・太田川水系という別々の条件のもとに立地した。だが、これらは無関係にばらばらに存在するのではなく、磐田原台地とその両裾の低地という一つの地形の骨格のなかに、位置を分かち合って並んでいる。台地という尾根と、その両側に刻まれた谷──岩田の側の天竜川低地と、向笠の側の太田川・敷地川低地──が、三村を高低差のなかで結んでいる。
この地形の骨格を意識すると、三村の差異は対立ではなく、一つの地形が生み出した変奏として見えてくる。台地の上に立てば水は乏しく、台地を降りて川に近づけば水は豊かになり、同時に洪水の危険も増す。大藤の乏水と、岩田・向笠の水害とは、同じ地形の高低差が別々の場所に現した、いわば表と裏の現象である。台地の谷と尾根に開けた集落という副題は、この認識を言い表している。集落は、尾根の上にも、谷の縁にも開かれたが、そのいずれもが、台地という共通の地形を基準として位置づけられている。
水もまた、三村を結ぶ媒介であった。台地の乏水を癒すために天竜川の水が用水として導かれ、川沿いの低地では堤とダムによって水がなだめられた。恵みとしての水と、脅威としての水──その両面と向き合う営みが、台地の上と裾とで別々のかたちをとりながら、しかし同じ「水との交渉」として三村を貫いている。岩田の新田開発も、大藤の井戸と用水も、向笠の堤防と治水も、突き詰めれば、この土地で水をどう手なずけるかという一つの問いへの、地形ごとに異なる答えなのである。
丘陵と水が三村を結ぶという本稿の見立ては、あくまで地形と生業の連関から導かれる推定であって、三村が歴史上一体の共同体を成していたと主張するものではない。前章までに見たとおり、合併の経緯も所属郡の変遷も村ごとに異なり、それぞれが独自の来歴をもつ。地形が結ぶといっても、それは人々が意識的に一つの地域を形づくったという意味ではなく、同じ地形の骨格の上に別々の暮らしが営まれ、結果として比較可能な関係のなかに置かれている、という意味である。この区別を保つことが、地理的背景を語りながら過度な一体化に陥らないための歯止めとなる。
そのうえで、なお「向陽」という現在の地区名を、単なる新しい呼称として退けるべきではない。三つの旧村を一つの地区として括ったこの名は、行政の都合による命名であると同時に、台地とその両裾という地形の骨格が現実に三村を近接させてきたことの、いわば事後的な追認でもある。名が土地の記憶を覆い隠す面と、名が土地のまとまりを言い当てる面と──その両方を見据えることが、向陽という地区名を歴史のなかに正しく位置づける道であると考える。
三村を横断して見たとき、もう一つ浮かび上がるのは、地名という記憶の粘り強さである。合併で村名が大字・小字へと降格しても、また地区名が「向陽」へと更新されても、匂坂・寺谷・大久保・藤上原・笠梅・向笠といった地名は、地表のうえに残り続けた。地形が三村の暮らしの条件を規定し、その条件のもとで営まれた生活が地名として結晶し、地名がまた行政再編を越えて記憶を運ぶ──この循環こそが、向陽という地区の歴史の厚みを支えている。次の図は、地形・生業・地名という三つの層が相互に規定し合う関係を模式化したものである。
8. 結論 ── 差異を均さずに読む向陽の旧村史
本稿は、現在の向陽地区を構成した岩田・大藤・向笠の三村を、地形と水との関係から腑分けして読んできた。得られた見取り図は次のとおりである。岩田は天竜川の低地にあって水の豊かさとその制御を課題とし、大藤は磐田原台地上の乏水地にあって畑と茶園の暮らしを営み、向笠は太田川水系と丘陵の境にあって水害と治水の歴史を刻んだ。三村は別々の自然条件のもとに立地したが、磐田原台地とその両裾という一つの地形の骨格のうえに、位置を分かち合って並んでいる。
行政の再編は、この三村を一つの枠へ束ねていった。明治22年(1889年)の町村制が散在する村・新田を三村へまとめ、1896年(明治29年)の郡制施行が向笠村・大藤村の所属郡を変え、やがて「向陽」という地区名が三村を一括する。しかしその下で、小字と集落名は合併前の旧村の輪郭を保ち続けた。上位の名が更新されても、地表の地名は容易には消えない。この二層構造を読むことが、向陽の旧村史を厚みのあるものとして記述する鍵である。
したがって本稿の立場は明確である。向陽の歴史は、三村の差異を「向陽」という一つの名へと均して語るのではなく、その差異を保ったまま、地形が生んだ変奏として記述されるべきである。史料で確かめられる近代の再編や災害の数値は事実として押さえ、地名の由来や集落の成立年代のように一次史料に突き当たらない事柄は、諸説を併記して断定を避ける。確かめられることと、なお確かめられないこととを混同しないこの禁欲的な手続きこそが、地域の記憶を後世の調べものに耐える形で残す方途である。
最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、小字と合併前の村名との対応は、原本の字限図や旧高帳との照合を経て初めて精確になるものであり、本稿の表はその照合の出発点にすぎない。第二に、大藤の台地へ用水がいつ・どの範囲まで及んだかは、水利史の側からさらに跡づける必要がある。第三に、地名の由来については、本稿が推定・伝承の域にとどめた読み筋を、より広い地名分布のなかで比較検討する余地が残る。これらはいずれも、確かめられることの範囲を一歩ずつ広げていく作業に属する。差異を均さず、確度の層を保ったまま資料を積み上げていくこと──その地道な手続きの先に、丘陵と水が結んだ向陽三村の姿が、少しずつ像を結んでいくはずである。三地区それぞれの成立と寺社・伝承の細部については、岩田・大藤・向笠を個別に扱う続編で稿を改めて論じたい。
注
- 向陽地区が岩田・大藤・向笠の三旧村から成ること、および各村の地形的性格については、磐田物語の向陽地区総論ページ(素材記事)による。↩
- 明治22年(1889年)の町村制施行にともなう各村・新田の合併内訳は、素材記事の記載による。合併村名の細部・判読は今後の原本確認で補強する方針が原資料に明示されている。↩
- 1974年(昭和49年)台風第8号による被害(太田川本川の堤防3箇所決壊、磐田市内の家屋全壊・流失計87戸、床上・床下浸水あわせて2,240戸)は、静岡県交通基盤部の公開資料および素材記事による。細部の数値は今後の原本確認で補強しうる。↩
- 太田川ダムは1980年度(昭和55年度)に多目的ダム事業として着手され、2002年(平成14年)10月29日に本体工事へ着手した。静岡県交通基盤部の公開資料および素材記事による。↩
- 小字が合併前の旧村名の系譜をたどれること、および大藤・向笠の小字例は素材記事の記載による。小字・寺社名には判読の余地があり、原資料は今後の更新を明示している。↩
付記:本稿は一般読者向けの向陽地区総論ページ(k030)の内容を、郷土史研究者向けに、地形・水系・行政再編・地名の確度という観点から再構成した論考版である。合併内訳・災害数値など公開資料で確かめられる事柄を事実として扱い、地名由来・集落の成立年代など一次史料に突き当たらない事柄は諸説を併記して断定を避けた。
参考文献・参考資料
- 磐田物語「岩田・大藤・向笠をつなぐ丘陵と水の記憶」(向陽地区旧村史・総論) https://iwata-monogatari.net/k030.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語「匂坂・寺谷・岩田 ── 台地のへりに並ぶ村々の地形読み」 https://iwata-monogatari.net/k001.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之「匂坂・寺谷・岩田 ── 台地のへりに並ぶ村々の地形読み」『大石浩之の磐田論考』第89号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/089/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之「磐田用水の歩み ── 台地を潤した水利の歴史」『大石浩之の磐田論考』第58号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/058/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語「岩田地区の成立と匂坂・寺谷の記憶」 https://iwata-monogatari.net/k031-iwata.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語「大藤地区の成立と磐田原台地の暮らし」 https://iwata-monogatari.net/k032-ofuji.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語「向笠地区の成立と太田川・敷地川の記憶」 https://iwata-monogatari.net/k033-mukasa.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 地域資料PDF「岩田地区・大藤地区・向笠地区」該当ページ(画像PDF、2026年6月26日確認)。
- 静岡県交通基盤部「太田川ダム/太田川の河川災害の歴史」 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- Wikipedia「向笠村」「大藤村(静岡県)」「岩田村(静岡県)」「磐田郡」 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- Wikipedia「昭和49年台風第8号」 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 佐口行正氏所蔵史料。