磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第82号(国分寺・薬師堂研究 一)
堀越氏延の鰐口 ── 見付端城主が寄進した金属の証言
大永2年銘の鰐口が語る中世の在地領主
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田市国分寺の薬師堂に伝えられた一口の鰐口には、大永2年(1522年)4月27日の年紀と、願主として源氏延・宝秀の名が鋳込まれている。本稿は、この金属製仏具の銘文を戦国期の在地社会を照らす一次史料として読み、見付端城主・堀越氏延の実像を検討する。銘文が確実に語るのは、府中薬師堂への奉納の事実、その年月日、東金谷の大工秀時、そして大旦那源氏延と法名宝秀の四点であり、これらは物質に定着した史実として扱いうる。一方、堀越氏を遠江今川氏の一族とし、駿河今川本家との緊張のなかで没落したとする理解は、後代の伝えに多くを負い、一次史料による裏づけは限られる。本稿はこの二つの層を混同せず、銘文が語りうる範囲と語りえない範囲とを腑分けする。あわせて本尊薬師如来坐像の年代測定(伐採1509〜1530年)との符合から薬師堂再興を推定しつつ、その推定が年代の一致に立脚する仮説であることを明示し、金属の証言をどう扱うかという方法上の問いへ接続する。
キーワード:鰐口銘文/堀越氏延/見付端城/国分寺薬師堂/遠江今川氏/在地領主/史料批判
1. 問題設定 ── 金属に刻まれた一行から何を読むか
戦国期の在地領主を研究しようとするとき、私たちはしばしば史料の乏しさに突き当たる。合戦の勝敗や大名家の興亡は編纂物や軍記に記されるが、一つの村や町を実際に押さえていた小規模な領主となると、その名すら文書に残らないことが珍しくない。名が伝わっても、いつ・どこで・何をした人物かを具体的に語る同時代の記録が欠けていれば、その像は後代の伝えや系譜のなかへ溶けてしまう。見付端城主・堀越氏延(ほりこし うじのぶ)も、まさにそうした輪郭の定まりにくい在地領主の一人である。
ところが氏延については、彼が確かにこの世に在り、ある日ある場所で信仰の行為を営んだことを、疑いなく証言する物がひとつ残っている。大永2年(1522年)4月27日、氏延が国分寺の薬師堂に奉納した鰐口(わにぐち)である。この鰐口は現在、袋井市篠ケ谷の岩松寺に所蔵され、静岡県指定文化財となっている1。表と裏に鋳込まれた銘文には、奉納の場所・年月日・鋳造した大工の名・そして願主である氏延の俗名と法名までが刻まれている。文書史料の乏しい在地領主にとって、これは彼の実在と行為を直接に伝える、きわめて貴重な一次史料である。
本稿の課題は、この鰐口銘文を戦国期在地社会の一次史料として読み解き、堀越氏延という人物と、彼が属したとされる堀越氏の実像に、可能な範囲で迫ることにある。ただしここで急いで確認しておきたいのは、鰐口が語りうることと語りえないことのあいだには、はっきりとした境界があるという点である。銘文は、奉納という一つの行為とそれに付随する情報を確実に伝える。だが、氏延がどのような家に生まれ、どのような領地を治め、どのような最期を迎えたかまでは、この金属の一行は何も語らない。それらは別の資料、多くは後代に編まれた伝えによって補われてきたものである。
この境界を曖昧にしたまま論を進めると、銘文が確実に語る事実と、後代の伝えが描く物語とが、同じ確からしさをもつかのように混じり合ってしまう。そこで本稿は、鰐口が定着させた情報を史実の層に、堀越氏の出自や没落をめぐる理解を伝承ないし推定の層に、それぞれ分けて扱う。史料で確認できることは「確認できる」と書き、後代の伝えに負う部分は「と伝えられる」と書き、年代の符合から導かれる推論は「と推定される」と書く。この書き分けを一貫させることが、乏しい史料から誠実に像を組み立てるための前提となる。
あわせて、もう一つの符合を視野に入れておきたい。国分寺薬師堂の現本尊である薬師如来坐像は、木材の年代測定によって伐採年代が1509年から1530年の間と判明している。大永2年(1522年)という鰐口の年紀は、この幅のちょうど内側に収まる。像と鰐口という性格の異なる二つの資料が、偶然とは言いにくい近さで同じ時代の窓を指している。この符合をどう読むかは、氏延と薬師堂の関係を考えるうえで避けて通れない論点であり、本稿の後半で史料批判の対象とする。以下ではまず鰐口という資料そのものの性格を確認し、続いて銘文を精読し、願主と堀越氏の実像、本尊との符合、地理的背景を順に検討して結論に至る。
2. 鰐口という物質資料 ── 銘の器としての性格
鰐口は、社殿や仏堂の軒先、あるいは向拝に吊るされる円形扁平の金属製仏具である。参拝者は下に垂れた布縄を振り、鰐口の下縁を打ち鳴らして、神仏に自分の来訪を告げる。名の由来は、下縁が横に大きく裂けた開口部をもち、その形が鰐の口を思わせるところにあるとされる。見付や中泉の寺社を歩くと、今も軒先に鰐口を見かけることがあり、それ自体はさして珍しい法具ではない。だが本稿が注目するのは、鰐口が単なる音を出す道具ではなく、しばしば「銘の器」でもあったという点である。
中世から近世にかけて、鰐口の面には奉納者の名、奉納の年月日、奉納先の寺社名や地名、そして鋳造を手がけた工人の名などが鋳込まれることが多かった。金属に鋳出された文字は、木や紙に記された記録と違って火災や虫損に強く、堂宇が失われても、あるいは寺そのものが廃絶しても、鰐口だけが伝世して銘を今日まで運んでくることがある。堀越氏延の鰐口が、国分寺薬師堂を離れて袋井市の岩松寺に伝わり、なお銘を保っていることは、まさにこの物質資料としての強靭さを物語っている。堂も寺も移り変わったが、金属に刻まれた大永2年の一行は消えなかった。
物質資料としての鰐口には、文書史料にはない証明力がある。文書は書写の過程で誤りや改変が入りうるし、後世の偽作という問題もつきまとう。これに対し、銘を鋳込んだ鰐口は、その鋳造の瞬間に情報を金属へ封じ込める。もちろん鰐口にも後補や銘の追刻という問題はありうるから、無条件に一次史料として信頼できるわけではない。しかし、様式・鋳上がり・銘の書体が年紀と矛盾しない限り、鰐口銘は、記された年月日に奉納の行為が現に営まれたことを、かなり高い確度で保証する。堀越氏延の鰐口は静岡県指定文化財としての検討を経ており、大永2年銘を疑うべき積極的な理由は、本稿の調査範囲では見当たらない。
ここで一点、方法上の注意を加えておく。鰐口が高い確度で保証するのは、あくまで「銘に記された事柄」に限られる。すなわち、府中薬師堂への奉納があったこと、それが大永2年4月27日であったこと、東金谷の秀時が大工であったこと、願主が源氏延・宝秀であったこと──この範囲である。鰐口は、氏延がどのような身分の武将であったか、彼の家がどこから来てどこへ去ったかについては、直接には何も語らない。物質資料の証明力は強いが、その射程は銘の文面によって厳密に区切られている。この射程の限界を踏まえることが、鰐口を過大にも過小にも扱わないための鍵となる。
金属に刻む行為そのものにも、読み取るべき意味がある。木札や紙の願文であれば安価で手早く残せるところを、わざわざ大工に鋳造を発注し、俗名と法名まで刻ませて奉納するには、相応の財力と、名を後世に残そうとする明確な意志が要る。鰐口を懸けるという選択は、氏延がこの薬師堂への奉納を一過性の参詣ではなく、長く残る記念として位置づけていたことを示している。物質資料は、記された情報だけでなく、その物を作らせたという行為の重みによっても、奉納者の姿勢を伝えるのである。
3. 銘文の精読 ── 四行が語る場所・年紀・工人・願主
堀越氏延の鰐口の銘文は、表裏あわせて4行に分かれる。各行は簡潔だが、奉納にまつわる情報を過不足なく含んでいる。まず銘文そのものを掲げ、続いて各行が語る内容を確度の水準とともに検討しよう2。
| 面 | 原文 | 読み下し・現代語訳 | 情報の性格 |
|---|---|---|---|
| 表 | 遠江州豊田郡府中薬師堂 | 遠江国豊田郡府中(現在の磐田市見付・中泉周辺)の薬師堂であることを示す。 | 奉納先の所在。史実として確実。 |
| 表 | 大永二天壬午四月廿七日東金谷秀時大工 | 大永2年(1522年、壬午の年)4月27日、東金谷の秀時という大工が鋳造した。 | 年紀・工人。史実として確実。 |
| 裏 | 奉懸国分寺御宝前鰐口一掛之事 | 国分寺の御宝前(本尊の前)に、鰐口一掛けを懸け奉る旨。 | 奉納の趣旨。史実として確実。 |
| 裏 | 大旦那源氏延棟梁願主宝秀欽之誌之 | 大旦那(施主)源氏延、棟梁として願主となった宝秀が謹んで記す。 | 願主。俗名と法名は同一人と解される。 |
第一行「遠江州豊田郡府中薬師堂」は、奉納先の所在を示す。府中とは遠江国府の置かれた地を指す呼称で、現在の磐田市見付・中泉周辺にあたる。国分寺の薬師堂が「府中薬師堂」と記されていることは、この堂が府中という地域的まとまりのなかで認識されていたことを伝える。豊田郡という郡名も同時代の行政区分と合致しており、この一行は地理的な確度が高い。
第二行「大永二天壬午四月廿七日東金谷秀時大工」は、年紀と工人を伝える。大永2年は西暦1522年にあたり、干支の壬午(みずのえうま)とも矛盾しない。干支が併記されていることは、年紀の内的な整合を裏づける要素として重要である。「東金谷」は現在の島田市金谷の周辺にあたる地名とみられ、鋳造を手がけた大工・秀時がその地の職人であったことをうかがわせる。府中の堂に懸ける鰐口を、大井川の対岸に近い金谷の工人が鋳造したという事実は、当時の金属工芸の需給が一定の地理的広がりをもっていたことを示す傍証でもある。
第三行「奉懸国分寺御宝前鰐口一掛之事」は、奉納の趣旨を述べる。ここで注目されるのは、第一行が「府中薬師堂」と記すのに対し、第三行が「国分寺御宝前」と記している点である。すなわち、この薬師堂が国分寺の系譜に連なる堂として認識されていたことが、銘文の内部からも確認できる。古代の国分寺伽藍はこの時すでに失われて久しかったが、薬師堂は「国分寺」の名を保ちつつ、府中の一角で信仰の場として生き続けていた。銘文のこの二つの呼称は、廃寺の記憶と現に営まれる信仰とが、一つの堂のうちに重なっていたことを、当事者の言葉で伝えている。
第四行「大旦那源氏延棟梁願主宝秀欽之誌之」は、願主を記す。「大旦那」は奉納の施主を意味し、その名を「源氏延」とする。続く「棟梁願主宝秀」の宝秀は、堀越氏延の法名と解される。俗名(源氏延)と法名(宝秀)を並べて記す形式は、この時代の奉納銘文にしばしば見られるもので、施主が仏事に深く関わっていたことを示す。氏延が源姓を称していることは、彼の家が源氏を出自として意識していたことをうかがわせるが、称する姓と実際の系譜とを直ちに同一視できないのは、後述する史料批判の対象である。
4. 願主・堀越氏延 ── 俗名と法名のあいだ
銘文の第四行に並ぶ「源氏延」と「宝秀」は、俗名と法名という、一人の人物の二つの顔である。この並記から読み取れることを、慎重に腑分けしておきたい。まず確実なのは、氏延が単に武将として薬師堂に寄進したのではなく、法名をもつ仏道の実践者として奉納に臨んでいたという点である。法名を刻ませるという選択は、この奉納が氏延にとって信仰上の意味をもつ行為であったことを、彼自身の言葉で裏づける。
「宝秀」という法名が、出家による正式の戒名なのか、あるいは在家のまま授かった号なのかは、銘文からは判別できない。中世の武士のあいだでは、家督を譲ったのちに剃髪して法体となる例も、在家のまま法名を称する例も広く見られた。したがって宝秀の号だけをもって、氏延がこの時すでに家督を退き隠居の身にあったと断ずることはできない。ここは「未確認」──すなわち法名の性格を確定する史料に、本稿の調査範囲では突き当たっていない──と記すにとどめる。
俗名の「氏延」についても、一言しておく。「氏」の一字は、遠江今川氏をはじめ今川一門の通字として知られる。氏延の名にこの字が含まれることは、彼の家が今川一門に連なるという後述の理解と整合的である。ただし通字の共有は、同族意識や擬制的な連なりによっても生じうるものであり、名の一字だけで血縁の系譜を確定することはできない。名に刻まれた「氏」の字は、堀越氏と今川一門との結びつきを考える手がかりではあるが、それ自体が系譜の証明にはならない。
銘文から確実に言えるのは、次のことである。氏延という名の、源姓を称し、宝秀という法名をもつ人物が、大永2年4月27日に府中の薬師堂へ鰐口を奉納した。この一文の範囲を超えて氏延の人物像を語ろうとすると、私たちはただちに後代の伝えや傍証に頼らざるをえなくなる。銘文が描く氏延は、信仰篤く、名を後世に残す意志をもち、金谷の工人に発注できるだけの財力を備えた在地の有力者である。だが彼の家系、領地の範囲、生没年、そして最期については、この鰐口は沈黙している。次章では、その沈黙を埋めてきた堀越氏をめぐる理解を取り上げ、それがどの程度の史料に支えられているかを検討する。
5. 堀越氏という在地領主 ── 史料の限界と史料批判
遠江今川一門としての堀越氏
通説の骨子。堀越氏は、遠江今川氏の一族とされる家で、現在の袋井市堀越を本拠としていたと伝えられる。今川氏の本家筋にあたる駿河今川家とは別系統でありながら、遠江における今川一門として一定の勢力を保っていたとみられている。しかし戦国期に入り、駿河今川本家との緊張が高まるなかで攻められ、堀越氏はやがて没落したと伝えられる3。氏延はこの堀越氏に属し、見付端城を居城として、中泉・見付を含む府中周辺を押さえる位置にあったと考えられている。
この理解の説明力。堀越氏を遠江今川一門とする理解は、氏延が「氏」の通字を名に含むこと、本拠地とされる堀越の地名が今もその名を残すこと、そして府中という要地の近傍に居城を構えていたこととよく整合する。遠江における今川一門の在地展開という大きな枠組みのなかに氏延を置くことで、一在地領主の存在が、戦国期遠江の政治秩序と結びついて理解できるようになる。府中の薬師堂への手厚い奉納も、この地域を押さえる有力者としての氏延の立場に照らせば、無理なく説明がつく。
史料的裏づけと限界。ここで史料批判の目を向けねばならない。堀越氏の出自・系譜・没落を語る記述の多くは、後代に編まれた地誌・系図・軍記の類に負っており、大永2年前後の同時代文書によって一点ずつ確認できるわけではない。系図や軍記は、家の由緒を整えるために後世の観点から出自を今川一門へ結びつけたり、没落の経緯を劇的に語ったりする傾向をもつ。したがって「堀越氏=遠江今川一族」「駿河今川本家に攻められ没落」という理解は、現時点では通説ないし伝承の層に置くのが穏当であり、一次史料による確定とは区別されるべきである。鰐口銘が確実に語る氏延の実在と、後代の伝えが描く堀越氏の来歴とを、同じ確からしさで並べてはならない。
武将としての氏延。氏延個人についても、武将としての事績を記す同時代の記録は多くない。一方で、連歌師らとの交流が伝えられており、これが事実であれば、氏延が単なる在地の武人にとどまらず、中央の文化に触れる素養を備えた人物であったことになる。連歌の会は当時、各地の領主が中央の文化人と結ぶ回路であり、在地領主の文化的な広がりを示す指標となる。ただしこの交流の伝えもまた、それを裏づける一次史料の博捜を経て初めて確度を上げうるものであり、本稿では推定の域にとどめる。氏延の文化的素養と鰐口奉納の篤い信仰とは、互いに矛盾せず、府中周辺を治めた有力者の一つの像として整合的に結びつく。
この史料批判は、氏延の像を痩せさせるためのものではない。むしろ、どこまでが確実でどこからが伝えなのかを見定めることで、堀越氏という在地領主の研究を、次の一次史料の発見へ向けて開いておくためのものである。府中周辺の中世城館や在地領主については、見付の統治構造を扱った見付守護所をめぐる論考や、戦国期の見付の町人・自治を扱った論考とあわせて読むことで、氏延が置かれた政治的環境の輪郭がより立体的に見えてくる。堀越氏の来歴を確定できないという現状は、この地域の中世史がなお多くの空白を抱えていることの反映であり、鰐口はその空白のなかに確かに立つ一つの足場である。
6. 本尊薬師如来坐像との符合 ── 二つの資料が指す一点
鰐口銘の検討に、もう一つの資料を重ね合わせよう。国分寺薬師堂の現在の本尊は、像高106センチメートルの薬師如来坐像である。磐田市教育委員会がこの像に用いられた木材の年代を調べたところ、伐採年代は1509年から1530年の間と判明した4。大永2年(1522年)という鰐口の年紀は、この21年の幅のちょうど内側に収まる。像と鰐口という、性格の異なる二つの資料が、偶然とは考えにくい近さで同じ時代を指しているのである。
この符合を、素材とした『国分寺ものがたり』は次のように読む。すなわち、堀越氏延が薬師堂そのものを新造あるいは大修理し、新しい本尊と鰐口を同時に整えて奉納したものとみられる、と5。像と鰐口という別々の資料が同じ時代の窓を指し示していることを、単なる偶然ではなく、氏延による薬師堂再興という一つの事業の裏づけとみる読みである。この解釈は、二つの独立した資料が同一の年代へ収束するという事実に立脚しており、相応の説得力をもつ。
ただし、ここでも確度の腑分けが要る。年代の符合が示すのは、あくまで「本尊の用材伐採と鰐口奉納が近い時期に行われた」という事実までである。氏延が本尊の造立そのものに直接関与したこと、あるいは薬師堂の建物を新造・大修理したことを直接記す史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。年輪年代が示すのは用材の伐採年であって、造像の完成年とは厳密には一致しない場合もあり、伐採から造像までに時間差が介在する可能性も残る。したがって「氏延による薬師堂再興」は、二つの資料の符合から導かれる有力な推定ではあるが、確定した史実として断定することはできない。
もっとも、推定であることは価値の低さを意味しない。異なる性格の資料が独立に同じ時代を指すという状況は、歴史の推論においてしばしば決定的な手がかりとなる。仮に氏延の本尊造立への直接関与が将来の史料によって裏づけられれば、この推定は史実へと押し上げられるだろう。逆に、それを否定する史料が現れる可能性も理屈のうえでは残る。現段階でなしうるのは、符合という事実を正確に記録し、そこから引ける推論の射程を明示することである。少なくとも、大永2年前後に薬師堂をめぐる何らかの造営・整備の動きがあり、その中心近くに氏延がいたことは、二つの資料から高い蓋然性をもって描くことができる。
『国分寺ものがたり』はさらに、この奉納に、廃寺となった古代寺院の記憶を絶やすまいとする氏延の自負が込められていたのではないか、とも読む。これは資料から直接に裏づけうる事柄ではなく、著者による解釈である。だが、銘文が「府中薬師堂」と「国分寺御宝前」という二つの呼称を併せもつことを思えば、廃絶した国分寺の名を保ちながら現に信仰の場を営むという意識が、当事者のうちに働いていたことは、銘文の内部からもうかがえる。氏延の内心を確かめる術はないが、彼が古代寺院の記憶を宿す堂へ、名を残す形で寄進したという行為の構図は、動かない。
7. 背景としての地理 ── 廃寺の記憶と戦国期の在地信仰
鰐口と本尊が指し示す大永年間の薬師堂を、地理と歴史の文脈のなかに置き直しておきたい。奉納の舞台となった薬師堂は、古代の遠江国分寺の系譜を引く堂である。国分寺は8世紀の国家的造営によって諸国に置かれた官寺であり、遠江国分寺もまた府中の地にその伽藍を構えていた。だが中世に至るころにはその壮大な伽藍は失われ、大永2年の時点では、境内の一角に残る薬師堂が、かろうじて古代寺院の記憶を今に伝える存在となっていた。国分寺の歴史的な歩みは、国分寺ものがたりの特集に詳しい。
この廃絶と存続の重なりは、鰐口銘の二つの呼称に、そのまま映し出されている。「府中薬師堂」という呼称は、現に府中の一堂として営まれる信仰の場を指し、「国分寺御宝前」という呼称は、その堂が古代国分寺の系譜に連なることを示す。堀越氏延が寄進したのは、単なる村堂ではなく、古代寺院の記憶を宿した堂であった。戦国の争乱のただなかにあって、府中の人々にとって薬師堂への信仰が絶えることなく続いていたこと、そしてその信仰を在地の有力者である氏延が物質的に支えていたことが、鰐口という一点の資料から読み取れる。
氏延の居城とされる見付端城の位置も、この文脈に関わる。見付端城は見付台地の東端、国分寺跡にほど近い一帯にあったとされ、中泉・見付を含む府中周辺を押さえる位置にあったと考えられている。居城と薬師堂とが地理的に近接していたことは、氏延がこの堂への奉納を、自らの勢力圏の要にある信仰の場への手厚い関与として行ったという理解と整合する。在地領主が自領の中核をなす寺社を支えることは、信仰の表現であると同時に、その地を治める者としての立場を目に見える形で示す営みでもあった。ただし見付端城の具体的な構造や存続年代については、なお発掘・文献の両面から検討を要する主題であり、ここでは氏延の活動の地理的背景として押さえるにとどめる。
戦国期の在地信仰という観点からも、この奉納は示唆に富む。中央の政治秩序が動揺し、大名家の興亡が激しく入れ替わる時代にあって、在地の寺社は、地域の共同体をつなぎとめる結節点であり続けた。氏延のような在地領主が寺社へ寄進を重ねることは、動乱のなかで地域の秩序と記憶を保とうとする営みでもあった。府中薬師堂への鰐口奉納は、その一つの具体的な現れとして読むことができる。とりわけ、金谷の工人にわざわざ鰐口の鋳造を発注し、俗名と法名まで刻ませて奉納したという事実は、氏延がこの堂への関与を、単なる一過性の参詣ではなく、地域に長く残る記念として意識していたことを物語る。廃絶した古代寺院の名を保ちながら現に信仰を営むという構図は、変転の時代にあって過去との連続を求める心性を、静かに映し出している。在地の有力者が古い堂を支えるという営みが積み重なることで、古代寺院の記憶は途切れることなく次の時代へと手渡されていった。
薬師堂の歴史は、大永年間で終わるわけではない。氏延の奉納ののちも、この堂は戦国末の焼失や、江戸初期の中泉代官による再興といった浮沈をくぐり抜けていく。氏延の鰐口奉納は、その長い薬師堂史の一齣であり、廃寺から近世の再興へと連なる流れのなかに位置づけて初めて、その意味が十全に見えてくる。江戸初期の再興については中泉代官と薬師堂の再興を扱った記事に譲るが、戦国期の氏延の寄進と近世の代官の再興とが、同じ薬師堂をめぐる信仰の連続のなかにあることは、記憶されてよい。
8. 結論 ── 金属の証言をどう扱うか
本稿は、堀越氏延が大永2年(1522年)に国分寺薬師堂へ奉納した鰐口の銘文を、戦国期在地社会の一次史料として読み解いてきた。得られた見取り図は次のとおりである。鰐口銘が確実に語るのは、府中薬師堂への奉納、その年月日、東金谷の大工秀時、そして大旦那源氏延と法名宝秀という四つの情報であり、これらは物質に定着した史実として扱いうる。文書史料の乏しい在地領主にあって、その実在と信仰の行為を疑いなく証言するこの鰐口は、きわめて貴重な足場である。
他方、堀越氏を遠江今川一門とし、駿河今川本家に攻められ没落したとする来歴は、後代に編まれた地誌・系図・軍記に多くを負う通説ないし伝承であり、大永2年前後の同時代文書によって一点ずつ確認できるわけではない。名に含まれる「氏」の通字や本拠地とされる堀越の地名は、今川一門との結びつきを考える手がかりではあるが、それ自体が系譜の証明にはならない。鰐口が確実に語る氏延の実在と、後代の伝えが描く堀越氏の来歴とを、同じ確からしさで並べてはならない。両者は資料の層を異にする。
本尊薬師如来坐像の年代測定(伐採1509〜1530年)と鰐口の年紀(1522年)との符合は、氏延による薬師堂再興という推定を支える有力な根拠となる。異なる性格の二つの資料が独立に同じ時代の窓を指すという状況は、歴史の推論において軽くない意味をもつ。しかし、氏延が本尊造立そのものに直接関与したことを記す史料は本稿の範囲では未確認であり、この点は推定にとどめて、確定した史実と偽らない。年代の一致が語りうる範囲を正確に見定めることが、符合を過大に読まないための手続きである。
したがって本稿の立場は明確である。金属に刻まれた証言は、その文面の範囲においては高い確度をもつ一次史料として尊重し、文面の外にある事柄については、後代の伝えや推定であることを明示して層を分ける。「確認できる」「と伝えられる」「と推定される」「未確認である」という語の水準を混同しないこと──この禁欲的な書き分けこそが、乏しい史料から在地領主の像を誠実に組み立てる方途である。堀越氏延という一人の在地領主は、その来歴の多くをなお伝えの霧のなかに残しているが、大永2年4月27日に彼が府中の薬師堂へ鰐口を懸けたという一事だけは、500年を経た金属の上に、今も動かぬ事実として立っている。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を記しておく。第一に、堀越氏の出自・系譜・没落については、大永年間前後の同時代文書や、今川氏関連史料の博捜によって、通説の一部を史実へ、あるいは別の像へと押し上げうる余地がある。第二に、見付端城の構造・存続年代は、発掘調査と文献の突き合わせによって、氏延の勢力圏をより具体的に描きうる主題である。第三に、氏延と連歌師らとの交流の伝えは、連歌関係史料のなかにその痕跡を探ることで確度を上げうる。これらはいずれも、鰐口という確かな一点を起点として、その周囲の空白を一次史料で埋めていく作業に属する。金属の証言が指し示す方向へ、なお調べを重ねていきたい。
注
- 堀越氏延奉納の鰐口は、現在袋井市篠ケ谷の岩松寺に所蔵され、静岡県指定文化財となっている。↩
- 銘文の釈読は小杉達『国分寺ものがたり』(国分寺奉賛会、2022年、26~27頁)に依拠する。「東金谷」は現在の島田市金谷周辺にあたる地名とみられる。↩
- 堀越氏を遠江今川氏の一族とし、駿河今川本家との緊張のなかで没落したとする理解は、後代に編まれた地誌・系図・軍記の類に多くを負う。大永2年前後の同時代文書による一点ごとの確認は、本稿の調査範囲では及んでいない。↩
- 本尊薬師如来坐像(像高106センチメートル)の用材は、磐田市教育委員会の年代測定により、伐採年代が1509年から1530年の間と判明している。年輪年代の示す伐採年と造像の完成年とは厳密には一致しない場合がある点に留意を要する。↩
- 氏延による薬師堂再興という読みは、鰐口の年紀と本尊用材の伐採年代の符合に基づく推定であり、氏延の本尊造立への直接関与を記す史料が残っているわけではない。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 n038 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、鰐口銘が語る奉納の事実・年月日・工人・願主を史実、堀越氏の出自・没落および氏延の本尊造立への関与を通説・伝承ないし推定として扱った。
参考文献・参考資料
- 小杉達『国分寺ものがたり』国分寺奉賛会、2022年(令和4年)、26~27頁。
- 堀越氏延奉納鰐口 銘文(岩松寺蔵、静岡県指定文化財、袋井市篠ケ谷)。
- 磐田市教育委員会「国分寺薬師堂 薬師如来坐像 用材年代調査資料」。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市)。
- 磐田市『磐田市史』資料編 中世(磐田市)。
- 袋井市『袋井市史』通史編(袋井市)。
- 静岡県『静岡県史』通史編 中世(静岡県)。
- 静岡県教育委員会編『静岡県の文化財』指定文化財目録。
- 磐田市教育委員会編 遠江国分寺跡関連 発掘調査報告書。
- 見付・中泉地域の中世城館に関する調査報告(磐田市教育委員会)。
- しずおか文化財ナビ(静岡県) https://www.pref.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 n038「堀越氏延の鰐口 ── 大永2年、見付端城主の寄進」 https://iwata-monogatari.net/n038 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第2号「見付守護所 ── 遠江守護支配の拠点をめぐって」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/002/ (最終閲覧:2026年7月25日)。