磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第78号(福田・街道研究)
横須賀街道と福田 ── 海沿いのもう一つの街道
東海道の南を結んだ塩の道・信仰の道
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
東海道が幕府の公道として厚い記録に残る一方、その南、遠州灘の砂丘に沿って、もう一本の東西路が通っていた。横須賀城下と天竜川方面を結ぶ横須賀街道である。本稿は、福田を横断したこの在郷街道を対象に、公の記録に残りにくい生活の道を郷土史としてどう論じうるかを課題とする。まず天正6年〔1578年〕の横須賀築城に始まる城下町の史実と、福田に残る松並木・秋葉山常夜燈の記憶という確認しうる範囲を確定し、次に磐田市域内の具体的な道筋という未確認の領域を切り分ける。そのうえで、湊と湊を陸路で結んだ塩・魚・綿の物流と、常夜燈に象徴される火防信仰という二つの機能を検討し、東海道・秋葉道と対比して在郷街道の性格を位置づける。史実・推定・伝承の層を語の水準で書き分け、道筋の比定という未確認を史実と偽らないことを方法上の基本とする。結論として、横須賀街道を遠州南部の生活圏を束ねた背骨として、行政区分を越える海沿い文化圏の輪郭とともに記述する立場をとる。
キーワード:横須賀街道/在郷街道/福田/掛塚湊・福田湊/秋葉山常夜燈/塩の道/遠州横須賀文化圏
1. 問題設定 ── 記録に残らない道をどう論じるか
東海道は、幕府が定めた五街道の一つとして、宿駅・本陣・伝馬の制度に支えられ、参勤交代の大名行列が往来した公道である。道中奉行の管掌下にあり、宿方文書や道中記といった文書が数多く残る。ところが、その東海道の南、遠州灘の砂丘に沿って、もう一本の東西路が通っていた。横須賀城下と天竜川方面を結ぶ、横須賀街道と呼ばれる道である。福田を横断するこの道には、本陣も関所もなく、参勤の行列も通らない。かわりに、魚と塩と綿と人とが行き交った。こうした在郷の道は公の記録に残りにくく、これを郷土史の対象としてどのように扱うかが、まず問われなければならない。
在郷街道を論じる難しさは、依拠すべき一次史料の乏しさにある。宿駅制度に組み込まれた公道であれば、それを維持し統制するための文書が体系的に残るが、村と村とが日々の必要から踏み固めてきた生活の道は、まとまった記録を残さないことが多い。道の存在そのものは疑いえなくとも、その正確な道筋や、宿・立場といった沿道の施設を、文書によって一点ずつ跡づけることは容易でない。したがって、確実に言えることと、状況から推し量るにとどまることとを、厳密に切り分ける手続きが求められる。本稿が素材とした一般向けの記事も、確認できることとできないことを明示したうえで書かれていた。本稿はその区別を、史料批判の水準で引き受け直すことを企図する。
そこで、以下の検討で一貫して用いる語の水準を、あらかじめ定めておく。第一に史実、すなわち史料または別稿の調査によって確認できる事柄。第二に推定、根拠はあるが一点に確定できない事柄。第三に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。さらに「未確認」──管見の限り、それを裏づける一次史料に突き当たっていない状態──と、「記載なし」──史料を博捜したうえでそこに記述が存在しないと言える状態──とを区別する。この二つはしばしば混同されるが、含意はまったく異なる。前者は今後の調査で覆りうる暫定的な状態であり、後者は史料の側の沈黙を積極的に述べる判断である。年号は算用数字で示し、漢数字は固有名や数量の表現に限って用いる。
以下ではまず、横須賀城下の成立と街道の輪郭という、史料で確認できる範囲を押さえる(第2節)。次に、磐田市域内における具体的な道筋の比定という、最も未確認の度合いが高い領域を腑分けする(第3節)。そのうえで、この街道が担った二つの機能──湊と湊を結ぶ物流の道(第4節)と、常夜燈に象徴される信仰の道(第5節)──を順に検討し、東海道・秋葉道との対比を通じて在郷街道の性格を位置づける(第6節)。最後に、遠州南部という土地の地理的背景(第7節)を確認して結論に至る。まず図1に、東海道・秋葉道・横須賀街道という性格の異なる三本の道が、磐田という土地でどのように交わっていたかの見取り図を示す。
2. 横須賀城下と在郷街道 ── 史料で確認できる範囲
街道の検討に入る前に、その名の由来となった横須賀という町について、確認できる範囲を確定しておく。横須賀は、現在の掛川市南部、旧大須賀町にあたる地である。天正6年〔1578年〕ごろ、武田方の高天神城に対抗するため、徳川家康の命によって横須賀城が築かれたと伝えられる1。江戸時代に入ると、横須賀城は譜代大名の居城となり、その城下は遠州南部の政治・経済の中心として機能した。城下町とは、単に城主の居所ではなく、人と物とが集まり、商いが立ち、周辺の村々を経済的に束ねる地域の中心地でもある。横須賀もまた、遠州南部一帯の産物が集散する結節点であった。ここまでは、城郭史・地方史の資料によって確認できる史実として扱ってよい。
この横須賀城下から西へ、太田川を渡り、福田・掛塚方面を経て天竜川方面へと至る東西の道が、横須賀街道と呼ばれた。東海道が幕府の定めた公道であるのに対し、横須賀街道は、地域の生活と物流が育てた在郷の街道である。両者は「街道」の語を共有しながら、その成り立ちを異にする。東海道が国家的な制度として上から敷かれた道であるのに対し、横須賀街道は、人々の日々の往来が下から踏み固めた道であった。この性格の違いは、後述するように、残された史料の量と質の差となってあらわれる。城下町の中心から周辺の村々へと伸びる複数の道の一つとして、この街道が存在したこと自体は、地理的な整合からも無理なく認めうる。
次に、福田の側に残る手がかりを確認する。福田地域には、横須賀街道の松並木の記憶が残ることが別稿で確認されている2。砂丘地帯を通る道は、豊浜の黒松防風林と同じ発想のもとに、飛砂と潮風から旅人と道とを守るため、松に縁どられていた。松並木は景観のためではなく、絶えず海から吹きつける潮風と飛砂に抗って道を保つための、いわば生きた防護壁であった。道筋にはまた、秋葉山常夜燈が立ち、夜の道行きを照らしたことも確認できる。街道といっても本陣や関所があるわけではなく、この道を行き交ったのは、漁売りの天秤棒、綿の荷車、嫁入りの行列、祭りの屋台の巡行といった、村と村との日常であった。松並木の一部や常夜燈が今日まで伝わることは、この道が確かに人々の生活の路であったことを、物として証している。
ここで、確認できることの範囲を明確に区切っておきたい。横須賀城とその城下の歴史、そして福田地域に横須賀街道の松並木・秋葉山常夜燈の記憶が残ることは、資料および別稿によって確認できる。しかし、それらは街道の「存在」と「性格」を示すものであって、街道の「正確な経路」を一点ずつ跡づけるものではない。城下町があり、そこから西へ道が伸び、福田に並木と燈籠の記憶が残る──ここまでは史実の層に置いてよい。だが、その道が磐田市域内で具体的にどの筋を通っていたかという問いは、これとは別の、より困難な問題である。節を改めて、この経路の比定という難問に向き合う。
3. 経路の比定という難問 ── 史実と推定の腑分け
横須賀街道をめぐって最も慎重を要するのは、その経路の比定である。街道が福田を通ったこと自体は、松並木・常夜燈の記憶によって支えられる。しかし、磐田市域内において、この街道が現在のどの道にあたるのか、その正確な道筋は、今回の調査では確定できていない5。宿や立場といった沿道施設の詳細も同様である。これは「そのような道筋が存在しなかった」ことを意味するのではない。あくまで「管見の限り、道筋を一点に確定しうる一次史料に突き当たっていない」という、未確認の状態である。この区別を崩して、推定を史実のように語ることは避けなければならない。
在郷街道の経路比定が難しい理由は、いくつかある。第一に、生活の道は時代とともに少しずつ位置を変える。耕地の整理、河川の付け替え、集落の移動といった要因により、同じ「街道」と呼ばれる道でも、その実際の筋は世代を越えて動きうる。第二に、砂丘地帯を通る道は、飛砂や高潮によって埋没・付け替えを繰り返しやすく、旧道の痕跡が地表から失われやすい。第三に、公道であれば絵図や国絵図に描かれる道筋も、在郷の道は正式な絵図に記載されないことが多く、記録の側からも追跡しにくい。これらの事情が重なって、道筋の比定は、単純な文書の照合では解けない問題となっている。
比定の手がかりと限界。それでも、比定を進めるための手がかりがないわけではない。松並木や常夜燈といった沿道の遺物の位置、旧道特有の緩やかな屈曲、湊や渡し場との地理的な整合、そして古老の記憶や近世の絵図といった資料は、いずれも道筋を推し量る材料となる。ただし、これらは組み合わせて初めて一定の蓋然性を生むものであって、単独では決め手を欠く。遺物の位置は道の近傍を示すが道そのものの中心線を与えず、古老の記憶は貴重だが世代を経るほど不確かになり、絵図は縮尺と描法に固有の歪みを含む。したがって、これらを突き合わせて描かれる経路は、確定された史実ではなく、蓋然性の高い推定として提示するほかない。
この禁欲的な態度は、消極的な留保のように見えるかもしれない。しかし、確定できないことを確定できないと述べることは、それ自体が郷土史の記述として価値をもつ。誤った一点を史実として書き留めれば、それは後続の調べものを誤らせ、覆すべき定説として長く残りかねない。むしろ、未確認の領域を未確認として正確に画定しておくことが、次の調査者に対して、どこから手をつければよいかを示す道標となる。本稿が道筋の比定に踏み込まないのは、材料が足りないからであって、材料が足りないという事実こそを、ここに記録として残しておきたい。
4. 物流の道 ── 塩・魚・綿と湊の連環
横須賀街道の第一の機能は、物流にあった。この街道の経済的な役割は、遠州灘沿いの湊と町とを横につなぐことにある。西の端には天竜川河口の掛塚湊、途中には太田川河口の福田湊、そして東には横須賀城下とその外港の役割を担った湊々があった3。福田湊の発展については本論考シリーズの別稿で扱ったとおりであり(第24号・福田湊の発展と遠州の漁業史)、これらの湊は遠州南部の海運を支える要であった。海が荒れて船が出せないとき、あるいは小口の荷を運ぶとき、湊と湊とを陸路で結ぶこの道が生きた。
とりわけ重要だったのが、海の道と陸の道との結び目としての役割である。当時の物流の大動脈は、なんといっても船であった。米も塩も綿も、大量の荷を運ぶなら海路が最も速く、安い。しかし遠州灘は荒波の難所として恐れられ、風が強まれば船はたちまち出られなくなる。そうしたとき、湊で足止めされた荷を次の湊へと陸送でつないだのが、この横須賀街道であった。海が閉じれば陸が開くという相互補完の関係によって、遠州南部の物流は途切れることなく回り続けた。街道沿いの村々は、その中継を担う人足や馬を出し、荷の積み替えや宿の世話をして、暮らしの糧を得ていた。道は、沿道に生きる人々にとって、そのまま生業の場でもあったのである。
この街道が運んだ品のなかで、副題にも掲げた塩について、確認できることと推し量るにとどまることを分けて述べておきたい。塩は、海に近い村々にとって身近な産物であると同時に、内陸へ向けて流通する重要な商品でもあった。海辺で得られた塩が陸路を通って内陸の村々へ運ばれる道は、各地で「塩の道」と呼ばれてきた。遠州灘沿岸においても、海が荒れれば塩や魚といった海の産物が陸路で継送されたであろうことは、地理的な整合から推し量られる。ただし、福田周辺における製塩の具体的な規模や、塩がこの街道を通って内陸のどこまで運ばれたかという流通の実態は、素材とした資料の範囲では詳らかでない。したがって「塩の道」としての側面は、海辺の立地と物流の一般的なありようから導かれる推定として提示するにとどめ、具体の裏づけは今後の課題とする。
物流の道としての性格は、福田の産業とも深く結びついていた。福田の織物が育った背景には、原料と製品とを運ぶ地域の交通網がある(福田の織物)。綿の原料が湊から運び込まれ、織り上がった製品がまた湊から積み出されていく──その一連の流れを陸で支えたのが、この街道であった。産業は、それを運ぶ道とともに育つ。福田が織物の町として栄えた背景には、海の湊と、それをつなぐ横須賀街道という、目立たないが確かな物流の骨組みがあった。東海道が「国の道」として全国の交通を担ったのに対し、横須賀街道は遠州南部の経済圏を内側から束ねる、いわば「地域の背骨」として機能していたと考えられる。
5. 信仰の道 ── 秋葉燈と海沿いの祈り
横須賀街道の第二の機能は、信仰にかかわる。福田の道筋には、秋葉山常夜燈が立っていたことが別稿で確認されている4。常夜燈は、夜の道行きを照らす実用の灯であると同時に、火防の神として広く信仰された秋葉山への祈りを、道の傍らに形として刻んだものである。街道沿いに常夜燈が立つという事実は、この道が単なる物流の路にとどまらず、人々の信仰の営みと分かちがたく結びついていたことを示している。旅人は燈籠の灯を頼りに夜道を歩き、同時にその灯を掲げ続ける講の営みを通じて、火伏せの加護を願った。
ここで、海沿いの横須賀街道と、北へ向かう秋葉道との関係に触れておきたい。秋葉信仰の中心は、天竜川の上流、北の山中にある秋葉山であり、そこへ向かう道が秋葉道である(第43号・秋葉道と二俣街道)。磐田から北へ向かう信仰の道が秋葉道であるとすれば、海沿いを東西に走る横須賀街道は、それとは直交する軸をなす。にもかかわらず、この海沿いの道にも秋葉山への常夜燈が立っていた。このことは、秋葉信仰が特定の一本の参詣路に限られず、遠州南部の生活圏の隅々にまで浸透していたことを推測させる。火を扱う暮らしを営む者にとって、火防の神への祈りは、内陸であれ海辺であれ、等しく切実であった。海沿いの村々に立つ常夜燈は、その切実さが道の風景として結晶したものと考えられる。
信仰の道としての性格は、松並木の由来とも響き合う。前節でも触れたように、砂丘地帯を通る道の松並木は、飛砂と潮風から道を守るための実用の備えであった。しかし同時に、老松の並木は、道行く人々にとって、幾世代にもわたって受け継がれてきた営みの証でもあった。松を植え、その根で砂を留め、枝で風をやわらげるという営みは、一代では完結しない。並木を保つことは、道を後の世へ手渡そうとする、いわば世代を越えた祈りにも似た営為であった。今日、福田の旧道に残る一本の老松は、そうした先人の営みが百年を越えて生き延びた姿にほかならない。実用と信仰とが分かちがたく重なるところに、この街道の風景の厚みがある。
もっとも、信仰の道という側面についても、確認の度合いを見きわめておく必要がある。常夜燈が街道沿いに立っていたことは別稿で確認できる史実であり、それが秋葉信仰にかかわることも、燈籠の性格から言ってよい。しかし、この街道が秋葉参詣の経路としてどの程度用いられたか、あるいは沿道にどのような講が組織されていたかといった、信仰の具体的な組織のありようは、本稿の調査範囲では未確認である。常夜燈という物が信仰の存在を証すことと、その信仰が街道を舞台にどう営まれたかを跡づけることとは、別の作業に属する。ここでも、確認できる史実の層と、なお推し量るにとどまる層とを、混同しないようにしたい。
6. 三つの道の比較と史料批判
ここまで、横須賀街道を物流と信仰という二つの機能から検討してきた。この街道の性格をより明確にするために、東海道・秋葉道という他の二本の道と対比しておきたい。三本の道は、いずれも磐田という土地を通りながら、その成り立ちと機能を大きく異にする。東海道は幕府が制度として敷いた公道であり、秋葉道は信仰の目的地へ向かう参詣の道であり、横須賀街道は生活と物流が育てた在郷の道である。国の道、信仰の道、暮らしの道という三つの性格を並べると、それぞれが遠州南部の交通のどの側面を担っていたかが見えてくる。以下の比較表は、三本の道をその管理主体・主たる通行・残された史料の性格において対等の粒度で並べ、在郷街道の位置を相対的に浮かび上がらせることを目的とする。
| 道 | 性格 | 管理・成立 | 主たる通行 | 史料の残り方・確度 |
|---|---|---|---|---|
| 東海道 | 国の公道 | 幕府が制度として敷設・管理。 | 参勤交代、公用旅行、飛脚、一般旅人。 | 道中奉行・宿方文書など体系的に残る。経路は確定。 |
| 秋葉道 | 信仰の道 | 秋葉山参詣のため往来が育てた道。 | 秋葉講の参詣者、荷を伴う旅人。 | 常夜燈・道標が残る。主要経路は追いやすいが枝道は不確か。 |
| 横須賀街道 | 在郷の道 | 城下と湊・村を結ぶ生活・物流が育てた道。 | 魚・塩・綿の荷、人足と馬、嫁入り、祭り。 | 松並木・常夜燈の記憶は残るが、市域内の道筋は未確認。 |
この比較から見えてくるのは、三本の道が優劣の関係にあるのではなく、それぞれ交通の異なる側面を担っていたという事実である。東海道が全国を貫く「縦の制度」であったとすれば、横須賀街道は遠州南部の生活圏を横に束ねる「地域の背骨」であった。そして秋葉道は、その両者と交わりながら、人々の祈りを北の山へと導いた。三本は互いを排除するのではなく、性格の異なる交通を分担して、一つの土地の暮らしを成り立たせていた。一本の有名な道だけで地域の歴史を語ろうとすると、こうした分担の構造が視野から抜け落ちてしまう。
史料批判の観点からは、三本の道のあいだに、記録の残り方の顕著な差があることを見落としてはならない。東海道は制度の道であるがゆえに、それを維持し統制する文書が豊富に残り、経路の比定に迷うことはほとんどない。これに対し、秋葉道や横須賀街道のような在郷の道は、常夜燈や道標といった沿道の遺物こそ残すものの、道筋そのものを一点ずつ跡づける文書には乏しい。この記録の非対称は、道の重要性の差ではなく、道を敷いた主体の違い──国家か、地域の生活か──に由来する。したがって、史料が乏しいことをもって在郷街道の歴史的な意義を低く見積もるのは、方法として誤っている。むしろ、記録に残りにくい道ほど、遺物と地理と記憶という文書以外の手がかりを丁寧に束ねる作業が求められる。
この整理は、郷土史の記述一般に対しても一つの含意をもつ。地域の歴史を書くとき、私たちはしばしば、豊富な記録の残る対象へと引き寄せられ、記録の乏しい対象を「わからないもの」として脇へ置いてしまいがちである。しかし、記録の量は、その対象が人々の暮らしにとってどれほど重要だったかを、そのまま反映するわけではない。むしろ、日々の生活に密着した道ほど、当たり前のものとして記録されずに終わることが多い。横須賀街道を論じることは、この記録の偏りを自覚し、文書の沈黙の背後にあった暮らしの往来を、遺物と地理から復元しようとする試みでもある。断定を急がず、確度の層を保ちながら手がかりを積み上げていく姿勢が、ここでも一貫して求められる。
7. 背景としての地理 ── 遠州の十字路と海沿い文化圏
横須賀街道を物流と信仰の道として検討したうえで、なお視野に入れておくべきは、この街道が織り上げた文化の広がりである。道は、物や祈りだけでなく、人の縁を運ぶ。福田に見られる祭りの屋台の文化、あるいは各地の神社の行事といった信仰の分布は、東海道筋よりもむしろ、この海沿いの帯に沿って連なっているように見える(福田の東西屋台)。行政の区分でいえば磐田市・掛川市・袋井市にまたがるこの一帯には、いわば「遠州横須賀文化圏」とでも呼ぶべき帯が、海沿いに横たわっている。街道を補助線として引くと、こうした文化のまとまりの輪郭が見えやすくなる。
なぜ、道に沿って文化が似通うのだろうか。それは、道が人の往来を規定するからである。祭りの屋台をつくる大工の腕は、道を伝って隣の村へと伝わる。嫁入りや養子縁組は、往来のある村どうしで結ばれることが多い。ある神社の信仰が広まるのも、参詣の道があってこそである。人が行き来する範囲が、そのまま言葉や習俗の似通う範囲となる。遠州弁のなかでも海側の言葉に共通の癖があるといわれるのも、この東西の往来の名残と考えられる。文化圏とは、つまるところ人の往来の圏であり、その往来を担ったのが、ほかならぬ横須賀街道であった。今日の市や町の境界線ではなく、かつて人々が実際に歩いた道を頼りに地域を眺め直すと、行政地図には引かれていない、もう一つの磐田南部の姿が浮かび上がってくる。
この文化圏の広がりは、より大きな地理の構図のなかに置くと、いっそう明確になる。東海道と、北へ向かう秋葉道、そして海沿いの横須賀街道──この三本の道を一枚の地図に重ねると、磐田という土地の姿が立体的に見えてくる。東西に貫く幕府の大動脈たる東海道、そこから北の山へと信仰の旅人を導く秋葉道、そして南の海沿いを東西に走る暮らしの街道たる横須賀街道。磐田は、この性格の異なる三本の道が交わる、まさに遠州の十字路であった。国の道と、信仰の道と、暮らしの道。その三つが一つの土地で出会っていたことが、磐田という町に、多様な人と物と文化とが集まる下地を用意していた。性格の違う道が交わる場所には、人と情報が集まり、市が立ち、新しいものが生まれる。磐田が古くから遠州の要地であり続けた理由の一つは、この道の交わりにあったと考えられる。
もっとも、こうした文化圏の把握もまた、確度の層を意識して述べておく必要がある。屋台や行事や言葉に共通性が見られること自体は観察できるが、それらがすべて横須賀街道という一本の道の往来によって生じたと断定するには、なお慎重でありたい。文化の伝播には、街道以外にも、河川の舟運や、より広域の商業網、あるいは領主支配の枠組みといった複数の経路が関与しうる。街道はその重要な一つではあるが、唯一の要因ではない。したがって「遠州横須賀文化圏」という把握は、街道を補助線とした推定として提示するものであり、その内実を一つずつ跡づける作業は、なお今後に残されている。
8. 結論 ── 在郷街道を地域史にどう位置づけるか
本稿は、東海道の南、遠州灘の砂丘に沿って通った在郷街道・横須賀街道を、福田との関わりから検討してきた。得られた見取り図は次のとおりである。横須賀城下の成立と、福田に残る松並木・秋葉山常夜燈の記憶は、資料および別稿によって確認できる史実である。これに対し、磐田市域内における街道の正確な道筋、宿・立場の詳細、そして街道の成立した正確な年代は、本稿の範囲では未確認にとどまる。この街道は、湊と湊とを陸路で結ぶ物流の道であると同時に、常夜燈に象徴される信仰の道でもあり、二つの機能を一身に担っていた。
この検討を通じて確認できたのは、在郷街道を論じることの意義が、失われた道筋を復元することそれ自体にあるのではない、という点である。もちろん道筋の比定は重要な課題であり、絵図と古老の記憶による照合は今後も進められるべきである。しかし、それ以上に大切なのは、記録に残りにくい生活の道を、確度の層を保ちながら書き留めておくことにある。国の道である東海道が豊富な文書を残すのに対し、暮らしの道である横須賀街道は、松並木と常夜燈という物と、地域の記憶とを残すにとどまる。この記録の非対称は、道の重要性の差ではなく、道を敷いた主体の違いに由来する。文書の沈黙の背後に、確かに人と物と祈りとが行き交った往来があったことを、遺物と地理から復元しようとすること──それが在郷街道研究の核心である。
したがって本稿の立場は明確である。横須賀街道は、遠州南部の生活圏を横に束ねた「地域の背骨」として、また行政区分を越える海沿い文化圏を織り上げた道として、地域史のなかに位置づけられるべきである。その際、確認できる史実と、なお推し量るにとどまる推定と、地域が語り継いできた伝承とを、語の水準で厳密に書き分ける。とりわけ、道筋の比定という未確認の領域を、あたかも確定した史実であるかのように語ることは、周到に避けなければならない。「未確認」を「未確認」として正確に画定しておくことこそが、次の調査者に対する誠実な道標となる。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、磐田市域内の道筋の比定は、近世の絵図と古老の記憶とを系統的に突き合わせることで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、副題に掲げた「塩の道」としての側面は、遠州灘沿岸の製塩と塩流通の実態に立ち入ることで、推定を史実へと押し上げていく作業が残されている。第三に、秋葉信仰が街道を舞台にどのような講として組織されていたかという信仰の具体像も、なお調査を要する。これらはいずれも、本稿が設定した確度の層のなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。福田の旧道をたどって一本の老松を見いだしたなら、それはただの並木ではなく、遠州南部の暮らしと祈りとを東西に運び続けた在郷街道の、生き残りの一本かもしれない。横須賀街道は、記録の乏しさのなかにこそ豊かな往来の記憶を秘めた、海沿いのもう一つの街道なのである。
注
- 横須賀城は、天正6年〔1578年〕ごろ、武田方の高天神城に対抗するため徳川家康の命によって築かれたと伝えられる。築城年をめぐっては地方史料に幅があり、本稿は「ごろ」を付して概略の年紀として扱う。城下および旧大須賀町の沿革は掛川市の地方史資料による。↩
- 福田地域に横須賀街道の松並木の記憶が残ることは、磐田物語 f039「横須賀街道の松並木を地域の記憶として読む」による。砂丘地帯の防風・防砂の発想は f006「豊浜の黒松防風林」と共通する。↩
- 掛塚湊については磐田物語 r036「掛塚湊の成立と廻船問屋」、福田湊については f001 および本論考シリーズ第24号による。湊の存在は史実として扱うが、街道を介した継送の量的実態は未確認である。↩
- 福田の道筋に秋葉山常夜燈が立っていたことは、磐田物語 f038「福田地域の秋葉山常夜燈を地域の記憶として読む」による。講の組織など信仰の運営実態は本稿では未確認とする。↩
- 磐田市域内における横須賀街道の正確な道筋、および宿・立場の詳細は、素材記事 f051 の付記のとおり今回の調査では確定できておらず、絵図・古老の記憶による確認を課題とする。本稿はこれを「未確認」として扱い、「記載なし」とは区別する。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 f051 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・推定・伝承)を語の水準で区別し、横須賀城下の成立や松並木・常夜燈の記憶を史実、市域内の道筋・宿立場・塩流通の実態を未確認ないし推定として扱った。
参考文献・参考資料
- 横須賀城および旧大須賀町に関する資料(掛川市)。
- 『掛川市史』『大須賀町史』該当章(横須賀城・城下町の項)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(近世の交通・産業に関する章)。
- 福田町史編さん関係資料(福田地域の交通・産業)。
- 佐口行正氏所蔵史料(福田・掛塚方面の街道・湊関係)。
- 遠州灘沿岸の製塩・塩流通に関する一般文献。
- 秋葉山常夜燈および秋葉信仰に関する地方資料。
- 磐田物語 f051「横須賀街道と福田 ── 海沿いのもう一つの街道」 https://iwata-monogatari.net/f051.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 f039「横須賀街道の松並木を地域の記憶として読む」 https://iwata-monogatari.net/f039.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 f038「福田地域の秋葉山常夜燈を地域の記憶として読む」 https://iwata-monogatari.net/f038.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 r036「掛塚湊の成立と廻船問屋」 https://iwata-monogatari.net/r036.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第24号「福田湊の発展と遠州の漁業史」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/024/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第43号「秋葉道と二俣街道 ── 磐田から北へ向かう道」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/043/ (最終閲覧:2026年7月25日)。