磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第49号(竜洋・白羽民俗研究 一)
白羽の凧揚げ文化の起源 ── 遠州の風がはぐくんだ民俗
凧揚げの起源伝承と遠州の凧文化
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
太平洋に突き出た竜洋・白羽の台地は、冬から春にかけて風速十数メートルを超える遠州のからっ風にさらされる土地であり、この過酷な風のなかで竹と和紙の大凧を揚げる民俗が育まれてきた。本稿は「白羽の凧揚げ文化の起源」という問いを、凧そのものの起源・初凧習俗の起源・白羽での定着・糸切り合戦の技法・浜松まつりへの接続という複数の層に腑分けし、代表的な起源説明を史実・通説・推定・伝承の四つの確度層に照らして検討する。からっ風の気象的成因、遠州における初凧・凧合戦の風習が寛政年間の記録や明治期の隆盛と結びつくことは、気象解説や地域史料から確認できる。一方、白羽神社の祭礼と凧揚げが具体的にいつ結びついたか、糸切り合戦の技法がいつどの経路で浜松の大凧合戦へ伝わったかは、一次史料による裏づけを欠き未確認にとどまる。本稿はこの「未確認」と「記載なし」を区別しつつ、起源の一元化を退け、自然環境・信仰・生業・技法が累積して現在の凧揚げ文化を形づくった過程として記述する立場をとる。
キーワード:白羽/遠州のからっ風/初凧/糸切り合戦/浜松まつり/端午の節句/史料批判
1. 問題設定 ── 「凧揚げ文化の起源」とは何を問うことか
竜洋の白羽(しろわ)を冬に訪れると、電線が鳴り、歩くのも難しいほどの西風が吹き荒れる。遠州のからっ風である。太平洋に面し、西側に高い山をもたない白羽の台地は、この乾いた強風の通り道にあたり、古くから砂塵が舞い、家々を揺らす過酷な環境であった。その風の土地で、人々は竹と和紙の大凧を天高く揚げる民俗を育て、白羽独自の凧揚げ文化を花開かせてきた。本稿が対象とするのは、この凧揚げ文化の「起源」である。
ところが、いざ起源を問おうとすると、答えは一つに定まらない。地域では複数の由来が語り継がれ、また凧そのものの歴史、初凧という習俗の歴史、白羽という土地への定着、糸切り合戦という技法、そして近隣の浜松まつりへの影響が、しばしば「起源」という一語のもとに混然と語られる。これらは本来、時間の尺度も資料の性格も異なる別々の問いである。本稿の出発点は、この「起源」という語のなかに畳み込まれた複数の層を、まず解きほぐすことにある。
そこで本稿は、白羽の凧揚げ文化の起源を、次の五つの層に分けて考える。第一に、凧という道具そのものの起源。第二に、男児の誕生を祝って凧を揚げる初凧習俗の起源。第三に、その習俗が白羽という風の強い土地に根づいた経緯。第四に、糸を絡めて切り合う糸切り合戦という技法の成立。第五に、白羽の凧が浜松まつりの大凧合戦へ及ぼした影響である。この五層は互いに関わりつつも、確認できる資料の質を異にする。層を混ぜたまま起源を語れば、確度の低い伝えを史実のように扱い、あるいは確かな背景を伝説の一部と取り違える誤りに陥りやすい。
こうした腑分けを行う理由は、正解を一つ選び出すこと自体が目的ではないからである。地域史の記述にとって大切なのは、いま伝わっている複数の語りが、どのような資料的根拠のうえに立ち、どの程度信頼できるのかを、読者が自分で見定められる材料として並べることにある。断定を急げば、価値ある伝承を根拠薄弱として切り捨て、あるいは象徴的に語られた年紀を年代決定の根拠に取り違える。本稿は、そのいずれの過ちも避けるため、各層の資料的基盤を一つずつ点検していく。
あらかじめ、以下で用いる四つの確度層を定義しておく。第一に史実、すなわち編纂物・文書・観測など資料によって確認できる事柄。第二に通説、広く支持されているが一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。この四層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、以下の検討の基本姿勢となる。あわせて、一次史料に突き当たっていない「未確認」の状態と、史料に記述が存在しない「記載なし」の状態とを区別することも、本稿を通じて一貫して保つ。以下ではまず起源論の土台となる自然環境を押さえ、続いて凧史の背景、二つの起源説、比較と史料批判、湊町という地理的背景を経て結論に至る。
2. 起源論の前提としての自然環境 ── 遠州のからっ風と白羽の台地
凧揚げ文化の起源を論じる前に、確かな根拠のうえで語りうる範囲を確定しておきたい。白羽の凧文化を支えた最大の条件は、この土地に吹く風である。そして風の性質については、気象学の観点から確認できる事柄が多い。ここはまず史実に近い確度で押さえられる層である。
遠州のからっ風は、冬の北西季節風が中央の山地を越えて吹き下ろす際に生じる乾いた強風である1。日本海側で多くの水蒸気を雪として落とした空気は、山を越えたのち乾いた状態で遠州平野へ吹き付ける。フェーン現象によって積雪こそ少なく抑えられるが、体感温度を大きく下げるウインドチル、すなわち風による冷えをもたらす。御前崎付近では風速10メートル毎秒を超える強風が観測されることもあり、この風は遠州灘沿岸の砂丘に絶えず風紋を刻んできた。白羽をはじめとする竜洋の海岸部は、まさにこの風とともに生きてきた土地である。
白羽の地形が、この風をいっそう際立たせる。太平洋に突き出た台地は西側に遮る山をもたず、天竜川の谷筋を吹き下ろす風と、太平洋からの海風とが交差する位置にある。夏場には比較的穏やかな海風が吹く一方、秋から翌春にかけては西寄りの強風が卓越する。したがって白羽の暮らしは、一年を通じて風向きと風の強さを読みながら営まれてきた。凧を揚げるという行為が生活の技術として磨かれる下地は、この風の恒常性のなかにあった。
ここで、自然環境と凧文化の関係について、論理の順序を明確にしておきたい。強い風が吹くことは、凧揚げにとって必要な条件ではあっても、凧揚げ文化が生まれる十分な条件ではない。風が強ければどこでも大凧の民俗が育つわけではないからである。白羽の人々は、この厄介な風を嫌って避けるのではなく、「空へ荷物を届ける翼」として捉え直した。風の強さと方向を読み、それを受け流しながら高く上昇する頑丈な凧を作る技術を選び取ったところに、この土地の凧文化の特質がある。自然条件は起源の前提を用意したが、それを文化へ転じたのは人の側の選択である。この区別を欠くと、風という自然が凧文化を自動的に生んだかのような、環境決定論的な誤りに陥る。
白羽の凧そのものの造りも、この風への応答として理解できる。地元の良質な竹を細かく割いた骨組みに、手漉きの和紙を幾重にも貼り合わせた、直径数メートルに及ぶ大凧である。竹選びから紙貼り、彩色までを一人の職人が仕上げるのが伝統的なやり方で、強風に耐える強靭さと、気流を捉える繊細なバランスとを両立させるために、凧作りは一子相伝の職人技として世代を超えて受け継がれた。強い風にさらされる立地そのものが、より実戦的で頑丈な凧を要求し、技術を鍛えていったのである。袖浦村の塩づくりが遠州灘の潮風と砂丘を生業に転じた営みであったのと同じく、白羽の凧もまた、過酷な自然条件を文化と技術へ転じた沿岸集落の知恵の一つとして位置づけられる。
3. 凧の伝来と近世の普及 ── 背景としての凧史
白羽固有の起源説に入る前に、凧という道具そのものの歴史を、背景として押さえておく。凧の起源をどこに求めるかは、実は白羽に限らず、日本の凧一般をめぐって諸説がある層である。ここで確度を明示しておかないと、白羽の凧文化を過度に古く、あるいは過度に固有のものとして語ってしまいかねない。
凧そのものは大陸に淵源をもち、日本へは古代のうちに伝わったと考えられている。ただし、その伝来の時期や経路、当初の用途をめぐっては見方が分かれる。軍事的な信号や測量の用途に発したとする見方、農耕儀礼や厄除けの呪具に発したとする見方などがあり、いずれも一点で確定してはいない。中世から近世にかけて、凧は宮廷や武家の遊戯から次第に民間へ広がり、江戸時代に入って庶民の年中行事のなかに深く根づいていったとするのが、凧史のおおよその通説である。この大枠は白羽にもあてはまるが、白羽の凧文化を直接に古代へ接続する史料があるわけではない。凧という道具の古さと、白羽という土地での凧揚げ習俗の古さとは、論理的に別の事柄である。
遠州における凧の民間普及については、より確度の高いことが言える。遠州地方全体で見ると、端午の節句に祝いの凧を贈って揚げる風習は、江戸時代中期にはすでに広く行われていたことが記録に残る。嫁の里から初孫の誕生祝いとして凧が贈られる例も一般的であった。遠州における凧に関する記述は、遅くとも寛政年間(1789年〜1801年)の記録に見られるとされ2、白羽のような風の強い沿岸部は、この風習が特に盛んに根づいた土地の一つだったと考えられる。ここでは「寛政年間の記録に凧の記述が見える」という点は資料に裏づけられた事柄として扱えるが、その記録が白羽の凧を名指しで語っているかどうかは別の問いであり、本稿の範囲では確認できていない。
この節で確認できたことを整理すれば、次のようになる。凧という道具の古さ、および江戸中期以降の遠州における凧習俗の普及は、背景として確度をもって語りうる。しかし、それらはあくまで白羽の凧文化が置かれた一般的な土壌であって、白羽という土地に固有の起源を直接に説明するものではない。土壌の記述と固有の起源の記述を区別することが、次章以降の二説を評価する前提となる。
4. 第一説:初凧習俗を起源とみる説(伝承・民俗)
男児の誕生を祝う初凧を白羽の凧文化の起源とみる説
説の骨子。白羽の凧揚げ文化の中心には、初凧(はつだこ)がある。新しく生まれた男児の健やかな成長を願い、その名前と家紋を大書きした大凧を、端午の節句に揚げる習俗である3。この初凧の行事こそ白羽の凧文化の起こりであり、家族と地域の最も重要な祝い事として、戦国時代から江戸時代初期にかけて定着したと伝わる。
この説の説明力。初凧説は、白羽の凧文化を「風との闘い」ではなく「命の祝福」として読む視点を与える。大凧に子の名と家紋を大書きし、それを風の強い空へ揚げるという行為は、子の誕生を地域全体に告げ、その成長を祈る儀礼として、共同体の情緒によく適う。遠州一円に広がる端午の凧の習俗と地続きでありながら、風の土地・白羽ではその祝いが人一倍大きな凧となって表れた、という筋立ては説得力をもつ。
資料的裏づけと限界。初凧という習俗そのものが遠州で近世に広く行われていたことは、前章で見たとおり記録に裏づけられる。しかし、白羽における初凧が「戦国時代から江戸時代初期に定着した」という年代は、地域で語り継がれてきた伝承の層に属し、それを直接に裏づける一次史料は本稿の範囲では確認できていない。ここで注意したいのは、これが「そのような史料が存在しないと断定できる(=記載なし)」ことを意味しない点である。あくまで「管見の限り、定着の年代を裏づける一次史料に突き当たっていない(=未確認)」という状態である。戦国期という年代は、白羽の凧文化の古さを象徴的に語ったものと解し、年代決定の根拠に用いることは避けるのが穏当であろう。
習俗の含意。初凧が名前と家紋を大書きするという点は見過ごせない。凧は単なる玩具ではなく、家の継承と子の存在を天へ告げる媒体として機能した。嫁の里から初孫の祝いに凧が贈られる遠州の慣行と重ね合わせれば、初凧は家と家を結ぶ贈答の回路のなかにも置かれていた。白羽の大凧は、こうした祝いの心意が、風の強い土地で最大限に押し広げられた表現として読むことができる。
5. 第二説:農事・豊凶占いと白羽神社祭礼を起源とみる説(伝承)
農事の節目や神社祭礼に凧揚げの起こりを求める説
説の骨子。凧揚げの起源を、子の祝いよりも農村の営みや神社の祭礼に求める見方がある。江戸期の遠州では、田植えを終えた初夏に空高く舞う凧を、その年の豊作を占う目安として見ることもあったと伝わる。また白羽の凧揚げは、白羽神社などの祭礼行事のなかに位置づけられて定着したとも語られる。この説に立てば、凧揚げは個の祝いである以前に、共同体の農耕と信仰に根ざした行事だったことになる。
この説の説明力。豊凶占いとしての凧という視点は、凧揚げを単なる子供の祝い事にとどめず、農村の暮らしのリズムと結びつけて説明する。田植え後の初夏という時期の指定は、端午の節句という暦の節目とも重なり、初凧習俗と農事儀礼とが同じ季節のなかで一つに束ねられていた可能性を示す。神社祭礼のなかに凧揚げを位置づける見方も、凧が個人の慶事を超えて地域の神事と関わっていたことを示唆する点で、凧文化の共同体的な性格をよく浮かび上がらせる。
資料的裏づけと限界。田植え後の凧を豊作の目安としたという伝えは、地域に語り継がれてきた伝承であり、それを一次史料で確認することはできない。とりわけ、白羽神社の祭礼と凧揚げが具体的にいつ結びついたのかは、本稿の範囲では確認できていない。神社の祭礼行事として凧揚げが語られること自体は事実だが、その結合がいつ成立したかを記す史料に、筆者はまだ突き当たっていない。ここでも「未確認」と「記載なし」を混同してはならない。祭礼と凧の結合を古態と決めつけることも、逆に後世の付会と断ずることも、現時点の資料では等しく根拠を欠く。
季節の読みとしての凧。豊凶占いという語り口が示すのは、凧が暦のなかに置かれていたという点である。田植えを終えた初夏という時期の指定は、凧揚げが農事暦の一つの節目に結びついていたことをうかがわせる。空高く舞う凧の高さや安定を、その年の作柄を読む手がかりとした心意は、風を読んで暮らしを立ててきた白羽の人々の生活感覚と地続きである。もっとも、こうした占いの作法が具体的にどのような手順で行われたかを記す史料は、本稿の範囲では確認できていない。豊凶占いとしての凧は、確かな年代や作法を伴った制度としてではなく、農村の季節感のなかに漂っていた心意として、伝承の層で受け止めておくのが穏当である。
二説の関係。初凧習俗説とこの農事・祭礼説は、対立する仮説というより、同じ凧揚げ文化の異なる側面を照らしている。初凧説は凧文化の「個と家の祝い」という核を、農事・祭礼説は「共同体と信仰」という核を説明する。両者が同じ季節、同じ土地で重なり合っていたと見るのが、伝承の語り口にもっとも忠実な理解であろう。
6. 諸説と技法の比較 ── 史料批判の観点から
ここまで見た二つの起源説と、それに関わる糸切り合戦の技法は、しばしば「どれが本当の起源か」という択一の問いのもとに並べられる。しかし各説・各要素は、依拠する資料の性格を異にする。初凧習俗は近世の記録に、農事・祭礼説は地域の口碑に、糸切り合戦の技法とその浜松への影響は近代の隆盛と伝承に、それぞれ基盤を置く。資料の層が異なるものを同一平面で優劣化するのは、方法として適切でない。以下の比較表は、各項目をその確度の層・内容・依拠資料・史料批判上の留意点において対等の粒度で並べ、確度の水準を可視化することを目的とする。
| 項目 | 確度の層 | 主な内容 | 依拠する資料 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| からっ風の自然環境 | 史実(科学) | 山越えの乾いた強風が白羽の台地に卓越する。 | 気象解説資料、風速観測。 | 凧文化成立の前提条件だが、風だけで文化の成立は説明できない。 |
| 初凧習俗説 | 伝承・民俗 | 男児誕生を祝い端午に大凧を揚げる習俗を起源とする。 | 遠州の近世の凧記録、地域の伝承。 | 習俗は記録に裏づくが、白羽での定着年代(戦国期)は未確認。 |
| 農事・祭礼説 | 伝承・口碑 | 豊凶占いや白羽神社祭礼に凧揚げの起こりを求める。 | 地域の口碑、農事伝承。 | 祭礼と凧の結合時期は一次史料未確認。古態とも付会とも断定できない。 |
| 糸切り合戦=浜松源流説 | 推定・伝承 | 白羽の糸切り技法が浜松の大凧合戦の源流の一つとなった。 | 浜松まつりの由来、湊町の技術伝承。 | 浜松の隆盛は明治期に確認できるが、伝播経路は未確認。 |
この比較から見えてくるのは、諸説が競合しているというより、それぞれが白羽の凧文化の異なる側面に光を当てているという事実である。からっ風は文化の「自然的前提」を、初凧説は「個と家の祝い」を、農事・祭礼説は「共同体と信仰」を、糸切り合戦は「技法と競技性」を説明する。一つの説で凧文化の全体を覆おうとすると、他の側面が視野から抜け落ちる。起源を一点に還元するのではなく、これらの層が累積して現在の凧文化を形づくったと見るのが、資料の実態に即した理解である。
史料批判の観点からは、初凧の定着年代、祭礼との結合時期、糸切り合戦の伝播経路という三点に、いずれも「一次史料が未確認である」という同一の限界が課される。この限界は各説に等しく課されるのだから、それを理由に特定の説だけを退けることはできない。むしろ問うべきは、各説がどの資料層に立脚し、その層の資料がどこまでを語りうるのか、という点である。気象観測は自然条件を、近世の記録は習俗の普及を、地域の口碑は共同体の記憶を、それぞれ異なる仕方で証言する。どの層も単独では起源を確定できず、また確定できないことをもって説の価値を否定することもできない。
この整理は、郷土史の記述にとって一つの含意をもつ。地域の歴史を書くとき、私たちはしばしば「本当のところはどうだったのか」という問いに引き寄せられ、複数の伝えのなかから一つの正解を選ぼうとする。しかしその態度は、確度の異なる情報を無理に一つの平面へ押し込め、選ばれなかった伝えを切り捨てることにつながりやすい。ここで採った四層の腑分けは、そうした性急な一元化を避け、それぞれの伝えを、それが属する層のなかで正当に評価するための手続きである。確認できることは史実として、地域が語り継いできたことは伝承として、それぞれの位置を保ったまま書き留める。これは凧文化に限らず、地域史一般に適用できる記述の作法であると考える。
7. 背景としての湊町 ── 糸切り合戦と浜松まつりへの接続
起源をめぐる諸説を検討したうえで、なお視野に入れておくべきは、白羽の凧文化を支えた社会的背景である。とりわけ、白羽の凧揚げの最大の見どころである糸切り合戦(いときりがっせん)は、この地の生業と深く関わる。糸切り合戦とは、単に高く揚げるだけでなく、他の凧と空中で激しく糸を交差させ、摩擦で相手の糸を切り落とす競技である。太い麻糸に細かなガラス粉を塗った特別な糸、いわゆるビードロ糸を用い、息をのむような空中戦が展開された。
この技法の背後にあるのが、湊町の気風である。船のロープを扱う技術に長けた沿岸の暮らしが、糸を張り、絡め、切るという凧の技法に反映されたと伝わる。天竜川河口の掛塚湊を擁するこの地域では、廻船と漁労を生業とする人々の縄綯いと糸繰りの技が、日常のなかで磨かれていた。貴船神社と海の安全を祈る水神信仰に見られるように、掛塚湊の船頭や廻船問屋の文化は、竜洋の沿岸集落に独自の技術的な蓄積を残した。凧の糸を操る技法が、この湊町の手仕事の延長線上に育ったと見るのは、無理のない理解である。
白羽の糸切り合戦の技術は、のちに浜松まつりで知られる大規模な大凧合戦の源流の一つとなったと伝えられる。浜松の初凧・凧合戦が今のような形で本格化したのは明治20年(1887年)頃とされ4、長男の誕生を祝って凧を揚げる初凧の風習は、浜松の旧城下町だけでなく、白羽をはじめとする遠州各地の沿岸集落にも広がっていた。浜松の旧城下町では、伝馬町・連尺町・紺屋町・鍛冶町など職人町ごとに凧の意匠や技を競い合う文化が発達したが、白羽のような沿岸の集落では、常に強風にさらされる立地そのものが最良の稽古場となり、より実戦的で頑丈な凧作りの技術が磨かれていったと考えられる。
ただし、この浜松への接続については、史料批判の観点から慎重な留保が必要である。浜松まつりの凧合戦が明治期に隆盛したことは確認できるが、白羽の糸切り合戦の技術が「いつ、どの経路で」浜松の大凧合戦へ伝わったのかという個別の伝播経路については、一次史料による裏づけが取れていない5。したがって「白羽が浜松の源流である」という言い方は、地域に伝わる由来としては尊重すべきだが、確定した史実としてではなく、推定の層に置くべきである。沿岸集落と城下町とがともに遠州の凧文化を担い、相互に影響し合ったという大きな枠組みは確からしいが、その具体的な流れの向きや時期までを一次史料で辿ることは、現時点ではできない。この点は、白羽の凧を過度に「浜松まつりの起源」として持ち上げる語り口への、必要な歯止めである。
この背景を支えたのは、天竜川河口に開けた掛塚湊とその周辺の共同体である。掛塚祭の屋台と屋台囃子に見られる祭礼文化の厚みが示すように、この地域には、生業に根ざした手仕事と、それを祝祭へと押し上げる共同体の力が蓄えられていた。凧作りの一子相伝の技も、糸切り合戦の実戦的な技法も、こうした湊町の社会構造のなかで世代を超えて受け継がれた。現在でも、白羽の凧揚げは地元の保存会や青年たちによって守られており、強風をついて大空へ舞い上がる大凧の勇姿は、自然の猛威を人の知恵と団結で誇りある地域文化へ転じた、竜洋の人々の営みを象徴している。
8. 結論 ── 起源論から重層性の記述へ
本稿は、白羽の凧揚げ文化の起源を、道具・習俗・定着・技法・影響という五つの層に分け、初凧習俗説・農事祭礼説という二つの起源説と、糸切り合戦という技法の位置づけを、史実・通説・推定・伝承の四層に照らして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。遠州のからっ風という自然環境は、気象の観点から確度をもって語りうる史実の層にある。初凧習俗と農事・祭礼に凧揚げの起こりを求める語りは、遠州の近世の記録に支えられつつも、白羽における定着の年代や祭礼との結合時期は、本稿の範囲では未確認である。糸切り合戦の浜松まつりへの接続は、明治期の隆盛こそ確認できるが、伝播の経路は推定の層にとどまる。
これだけの層が重なると、「結局どれが本当の起源か」と一つの起点へ還元したくなる。しかし起源を一元化することは、この凧文化が抱えてきた複数の意味層を切り捨てることにほかならない。からっ風という自然、初凧という家の祝い、農事と神社祭礼という共同体の営み、湊町の糸を操る技、そして浜松まつりとの響き合い──これらが長い時間のなかで折り重なり、現在の白羽の凧揚げ文化を形づくってきた。起源が一点に定まらないことは、この文化の弱みではなく、むしろ自然・信仰・生業・技法という複数の系譜が一つの民俗へ束ねられてきたことの証左である。
したがって本稿の立場は明確である。凧文化の起源論は「唯一の起点を探す作業」から「意味の層を分離し、それぞれの確度を記述する作業」へと組み替えられるべきである。史実・通説・推定・伝承を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別し、伝承を史実の劣位に置かず、地域の由来を確定した史実と偽らない。この禁欲的な手続きこそが、白羽の凧文化を後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。
最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、白羽神社の祭礼と凧揚げがいつ結びついたかについては、近世・近代の地方文書や祭礼記録を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、糸切り合戦の技法と浜松まつりの大凧合戦との関係は、両地の凧の意匠・糸・戦法を系統的に比較することで、影響の向きと時期をより精確に描きうる。第三に、遠州の沿岸集落に共通する「風と生きる」生業の技術史のなかに、白羽の凧をどう位置づけるかは、製塩や漁労を扱う本論考シリーズの他稿と併せて検討されるべき主題である。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。起源を一つに決める誘惑を退け、確度の層を保ったまま資料を積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、白羽の風が育てた凧揚げ文化の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 遠州のからっ風は、冬の北西季節風が中央山地を越える際にフェーン現象を伴って乾いた強風となる。御前崎付近では風速10メートル毎秒を超える観測例がある。気象解説資料「遠州のからっ風」による。↩
- 遠州における凧の記述は、遅くとも寛政年間(1789年〜1801年)の記録に見られるとされる。ただし当該記録が白羽の凧を名指しで語るか否かは本稿では確認できていない。↩
- 初凧は、男児の誕生を祝い、その名前と家紋を大書した大凧を端午の節句に揚げる習俗である。嫁の里から初孫の誕生祝いに凧を贈る遠州の慣行と結びつく。↩
- 浜松まつりの初凧・凧合戦が現在の形で本格化したのは明治20年(1887年)頃とされる。浜松まつり公式ウェブサイト「浜松まつりの歴史」「凧揚げ合戦」による。↩
- 白羽神社の祭礼と凧揚げが結びついた時期、および糸切り合戦の技法が浜松の大凧合戦へ伝わった経路については、一次史料による裏づけを欠く。本稿はこれらを「未確認」として、確定した史実とは区別して扱う。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 r006「白羽の風と凧揚げ文化の起源」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、からっ風の気象的成因と寛政年間・明治期の凧記録を確認できる事柄、白羽神社祭礼との結合時期や糸切り合戦の浜松への伝播経路を未確認の事柄として扱った。
参考文献・参考資料
- 磐田物語 r006「白羽の風と凧揚げ文化の起源 ── 強風の台地が育んだ空への情熱」 https://iwata-monogatari.net/r006 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 『竜洋町史 通史編・史料編』竜洋町。
- 『遠州掛塚港の廻船史』。
- 『天竜川河口域の歴史と民俗』。
- 『遠州の屋台と祭り文化の歴史』。
- 浜松まつり公式ウェブサイト「浜松まつりの歴史」「凧揚げ合戦」 https://www.hamamatsu-matsuri.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 気象解説資料「遠州のからっ風」(からっ風の成因・風速・フェーン現象)。
- 白羽神社(竜洋)由緒。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 静岡県『静岡県史』民俗編(該当章)。
- 日本凧の会編『日本の凧』ほか凧史に関する概説。
- 磐田物語 大石浩之の磐田論考 第41号「袖浦村の塩づくり」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/041/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 佐口行正氏所蔵史料。