磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第46号(見付・近代建築研究)
旧赤松家 ── 赤松則良と近代磐田の記憶
造船の父の邸宅と門・塀が語るもの
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
見付宿の北、河原町に赤レンガの門・塀を残す旧赤松家は、幕末に咸臨丸で渡米し、明治政府のもとで造船に携わった赤松則良の邸宅跡である。本稿は、この邸を「近代磐田の記憶」を担う場として読むにあたり、依拠しうる史料が主として磐田市の文化財解説である点をまず確認し、そこに記された赤松の経歴・建築年・移住の経緯を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けする。咸臨丸渡航や海軍中将への昇進は広く知られた事績である一方、「近代日本の造船技術の先駆者」という呼称は行政による顕彰的評価であり、その内実を一次史料で跡づける作業は別途要する。明治25年(1892年)の予備役編入と翌年の本籍移動という制度的事実と、「徳川家を慕って」という動機説明とは、資料の層を異にする。本稿は顕彰史観に依らず、門・塀・土蔵という現存物と行政解説とを突き合わせ、確度の層を保ったまま、旧赤松家が近代磐田の何を記憶しているのかを記述する立場をとる。
キーワード:旧赤松家/赤松則良/咸臨丸/近代造船/門・塀(県指定文化財)/磐田原開拓/史料批判
1. 問題設定 ── 邸宅を「近代の記憶」として読むということ
見付宿の北側、河原町のあたりを歩くと、赤レンガの門と塀が不意に目に入る。旧赤松家である。今は旧赤松家記念館として公開され、レンガ造の門をくぐった奥に、庭園と土蔵、そして記念館の建物が控える1。木造の白い旧見付学校とはまた異なる、重厚な明治の空気がここには流れている。この邸に晩年を過ごしたのが、幕末に咸臨丸で太平洋を渡り、近代日本の造船に携わった赤松則良(あかまつ・のりよし)である。
本稿の出発点は、この邸宅を「近代磐田の記憶」を担う場として読むという課題そのものにある。旧赤松家は、単に著名な人物が住んだ家として紹介されることが多い。しかし邸宅を地域史の対象とするとき、問われるべきはむしろ、その建物と人物について私たちが何をどの程度の確からしさで知りうるのか、という点である。門・塀・土蔵という現に残る物と、そこに付された解説とを突き合わせ、確度の異なる情報を同じ平面で混同しないための枠組みを、あらかじめ設定しておきたい。
こうした姿勢をとる理由は、近代建築や近代人物をめぐる記述が、しばしば顕彰の語法に引き寄せられるからである。「世界を見た男」「造船の父」といった形容は、それ自体が魅力的な物語を用意するが、物語の強さは、その細部が史料に裏づけられていることを保証しない。地域史の記述において必要なのは、正解の物語を一つ選び取ることよりも、いま伝わっている説明が、どのような資料の上に立ち、どこまでを語りうるのかを、読者が自分で判断できる材料として提示することにある。
本稿では、この判断のために四つの確度層を用いる。第一に史実、すなわち史料によって確認できる事柄。第二に通説、広く受け入れられているが一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承・顕彰、地域や行政が語り継ぎ、あるいは意味づけとして述べてきた事柄である。この四層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、以下の検討の基本姿勢となる。旧赤松家を扱う既刊の一般向け記事「旧赤松家と、海をわたった見付の人」は、赤松の生涯を親しみやすい物語として描いたが、本稿はその同じ素材を、確度の層を明示しながら再構成する。
以下ではまず、旧赤松家について私たちが依拠しうる史料の層を確認する(第2節)。続いて赤松則良の経歴を、確度の腑分けとともにたどり(第3節)、「造船の父」という顕彰的評価の扱いを論じる(第4節)。そのうえで、現存する門・塀・土蔵の指定区分と残存範囲を整理し(第5節)、見付移住の経緯を制度的事実と動機説明とに分けて検討する(第6節)。最後に、旧見付学校や見付宿と並ぶ近代磐田の複層のなかへ旧赤松家を位置づけ直し(第7節)、結論に至る(第8節)。
2. 依拠しうる史料の層 ── 行政文化財解説という基盤
旧赤松家の検討に入る前に、私たちが依拠しうる資料の性格を確定しておく必要がある。管見の限り、旧赤松家と赤松則良について現在もっとも参照しやすい記述は、磐田市の公式ウェブサイトが公開する文化財・施設の解説である。具体的には、記念館の概要と開館情報を載せる施設案内のページ、県指定文化財「旧赤松家門・塀」を説明する文化財のページ、そして展示や季節の話題を伝える「旧赤松家だより」の類がそれにあたる2。本稿の事実記述は、この行政解説を主たる基盤とする。
ここで確認しておきたいのは、行政の文化財解説が、それ自体は一次史料ではないという点である。文化財の指定説明や施設案内は、指定の根拠となった調査や由緒書をふまえて自治体が編んだ二次的な記述であり、来歴の要点を一般向けに整理したものである。したがってそこに記された年紀や経歴は、多くの場合、指定時の調査報告や関係資料に遡って初めて一次史料に突き当たる。行政解説を出発点とすること自体は妥当だが、そこに述べられた事柄をただちに「史料で確認された史実」と同一視することはできない。
この区別は、旧赤松家の場合にとりわけ意味をもつ。というのも、赤松則良の経歴には、咸臨丸渡航や海軍軍人としての歩みのように国政史・海軍史の側から広く知られた事柄と、見付移住や磐田原開拓のように地域に固有で行政解説以外に参照先を見いだしにくい事柄とが、混在しているからである。前者は他の史料と照合して確度を高めやすいが、後者は行政解説が事実上ほぼ唯一の依拠となり、その一文の重みが相対的に大きくなる。層の異なる情報を、依拠資料の性格ごとに扱い分ける作業が求められる。行政解説は簡潔であるがゆえに、複数の来歴が一続きの文へ圧縮されやすく、読み手の側でその圧縮を解きほぐさなければ、由来の異なる事柄が地続きの事実として受けとられてしまう。旧赤松家の記述を読むとは、この圧縮された一文を、もとの複数の層へ丁寧に押し戻していく作業でもある。
もう一点、方法上の区別を明示しておく。本稿が「未確認」と述べるとき、それは「そのような史料が存在しないと断定できる(=記載がない)」ことを意味しない。あくまで「管見の限り、その点を裏づける一次史料に突き当たっていない(=未確認)」という状態を指す。旧赤松家をめぐっては、建物の棟ごとの正確な建築年次や、赤松本人が磐田原の開拓にどこまで直接関与したかといった細部について、行政解説の記述以上に踏み込むための一次史料を、本稿は確認できていない。この「未確認」と「記載なし」の区別を、以下の各節で一貫して保持する。
したがって本稿は、行政解説を軽んじるのでも鵜呑みにするのでもなく、それが二次的な整理であることを前提に、そこに記された各事項を確度の層へ振り分けていく。国政史・海軍史と照合できる事柄は通説として、地域固有で行政解説に依る事柄はその旨を明示したうえで、それぞれの位置を保ったまま記述する。この禁欲的な手続きが、旧赤松家を後世の調べものに耐える形で書き留めるための前提となる。
3. 赤松則良の経歴 ── 咸臨丸から海軍中将へ
赤松則良が歴史の表舞台に現れるのは、幕末のことである。安政の末、日本はアメリカと結んだ修好通商条約の批准書を交換するため、使節を派遣することになった。その使節を乗せた艦の随行艦として太平洋を渡ったのが、勝海舟や福澤諭吉が乗り組んだことで知られる咸臨丸である。赤松則良もこの船に乗り組んでおり、そのときわずか19歳であったと伝えられる3。日本人の乗員が自力で太平洋を横断したこの航海は、一般に万延元年(1860年)のこととして知られる。
サンフランシスコへの航海は、嵐にもまれる困難な旅であった。当時の日本人にとって、太平洋を渡って異国へ赴くことは容易に想像しがたい経験であり、そこに20歳にも満たない青年が加わっていた事実は、赤松が早くから将来を嘱望された俊英であったことをうかがわせる。渡航時に19歳であったとすれば、逆算して天保の末年ごろの生まれとなるが、正確な生年は行政解説の範囲を超えるため、本稿では断定を控える。帰国後、赤松はふたたび海を渡り、オランダへ留学して、近代海軍の要である造船の技術を本格的に学んだとされる。
幕末という時代は、こうした若者たちの好奇心と気概によって動いていった。古い体制が崩れ、新しい国の形を誰も知らないまま手探りでつくっていくその最前線に、海の向こうの技術を持ち帰る役目を担った青年たちがいた。赤松則良もその一人であった。ただし、ここで注意しておきたいのは、咸臨丸の名だけで赤松の生涯を語り切らないことである。咸臨丸渡米は、赤松の長い経歴の入口にすぎず、その後のオランダ留学と明治期の造船技術こそが、彼を近代日本の技術史に位置づける核心である。
明治の世になると、赤松は新政府のもとでその学びを発揮したとされる。近代国家として立つには強い海軍が要り、海軍には軍艦を自らつくり、修理し、維持する技術が欠かせない。赤松はその造船技術に関わる技術者・軍人として活動し、やがて海軍中将にのぼり、男爵の位も授けられたと説明される。横須賀をはじめとする造船の現場が、彼の学んだ知識の活かされる場であったと語られるが、個々の事績の具体的な内容と時期を一次史料で跡づける作業は、本稿の範囲を超える。ここでは、海軍中将・男爵という到達点までの歩みを、国政史・海軍史とも整合する通説の水準で確認しておく。
この経歴を確度の層で見ると、咸臨丸渡航や海軍中将・男爵といった事柄は、海軍史・国政史の側から広く知られており、通説として扱いうる。他方、オランダ留学の時期や造船事績の細部は、行政解説の要約に依る部分が大きく、一次史料での裏づけは本稿では未確認である。以下の図は、この歩みを年代順に示したうえで、確度の層を色で区別したものである。
4. 「造船の父」という顕彰的評価をどう扱うか
磐田市の公式ページは、赤松則良を「近代日本の造船技術の先駆者」と位置づけている4。この呼称は、赤松の歴史的な意義を端的に伝える便利な標語であると同時に、扱いに慎重を要する顕彰的評価でもある。本節では、この評価を史料批判の観点からどう位置づけるかを論じる。
「近代日本の造船技術の先駆者」という位置づけ
評価の骨子。赤松は、幕末に海外の造船技術に触れ、オランダ留学でそれを学び、明治政府のもとで海軍の造船に携わった。この経歴を要約する形で、行政解説は彼を近代造船の先駆者と呼ぶ。人物の意義を一語で伝える標語として、この呼称は有効に機能してきた。
この評価の性格。「先駆者」という語は、後世から振り返って、ある人物を一つの系譜の起点に位置づける評価の語である。それは事績の要約であると同時に、評価する側の視点を含む。行政の文化財解説がこの語を用いるのは、指定された文化財の意義を来訪者に伝えるという実務上の目的にかなうからであり、その意味で呼称は正当である。だが呼称の妥当性は、赤松が造船のどの局面に、どの程度、どのように関与したかという具体的な事績によって支えられねばならない。
史料的裏づけと限界。赤松の造船事績の細部を一次史料で跡づける作業は、海軍史・技術史の専門的な検討を要し、本稿の範囲を超える。したがって本稿は、「近代日本の造船技術の先駆者」という評価を、行政による顕彰的評価として受けとめ、それを確定した史実の記述と同一視しない。この評価を否定する材料も、逆にその内実を細部まで裏づける一次史料も、本稿では確認していない。呼称は呼称として尊重しつつ、その内実の検証は今後の課題として開いておく。
顕彰的評価を史実から切り分ける作業は、決して人物を貶めるためではない。むしろ、評価の語をそのまま史実として流通させることが、かえって人物の実像を見えにくくするからである。標語は覚えやすく、繰り返されるうちに検証を経ないまま定着しやすい。地域史の記述が果たすべきは、標語を提供することではなく、標語がどのような事実の上に立っているのかを、読者がたどり直せる形で示すことにある。以下の表は、赤松則良と旧赤松家をめぐる主要な事項を、確度の層・内容・依拠資料・留意点の四つの粒度で並べ、評価と事実の区別を可視化したものである。
| 事項 | 確度の層 | 主な内容 | 依拠する資料 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| 咸臨丸渡航 | 通説(史実) | 幕臣として太平洋を渡航、19歳。勝海舟・福澤諭吉らと同船。 | 文化財課解説、海軍史・幕末史の一般的知見。 | 渡航年(1860年)は一般に知られるが、生年は行政解説の範囲外。 |
| オランダ留学・造船習得 | 通説 | 帰国後オランダへ留学し造船技術を学んだとされる。 | 文化財課解説。 | 留学の時期・内容を裏づける一次史料は本稿では未確認。 |
| 海軍中将・男爵 | 通説 | 明治政府下で造船に携わり、海軍中将・男爵に至る。 | 文化財課解説、海軍史。 | 個々の事績の具体は本稿では立ち入らない。 |
| 「造船の先駆者」呼称 | 顕彰的評価 | 近代日本の造船技術の先駆者と位置づける。 | 磐田市公式。 | 行政の顕彰。内実の一次史料での跡づけは別途要する。 |
| 門・塀・土蔵の建築 | 通説 | 明治20年代に建てられたとされる。 | 文化財ページ。 | 「20年代」と幅があり、棟ごとの年次は未確認。 |
| 見付移住(1893年) | 史実(行政解説) | 1892年に予備役、翌年本籍を見付へ移す。 | 文化財課解説。 | 制度的事実。移住の動機は別の層に属する。 |
| 磐田原の茶園開拓 | 通説・推定 | 一族・代理人の手で磐田原台地の開拓が進む。 | 文化財課解説。 | 赤松本人の直接関与の度合いは解釈を要する。 |
5. 門・塀・土蔵 ── 指定区分と現存範囲の腑分け
旧赤松家の文化財としての中心は、残された赤レンガの門・塀・土蔵である。行政解説によれば、これらは明治20年代に建てられたもので、明治建築の特徴をよく伝えるとされる。指定の区分には注意が要る。県指定文化財として名を挙げられているのは「旧赤松家門・塀」であり、土蔵を含む建物群については、県・市の指定文化財として扱われていると説明される5。門・塀と、土蔵を含む建物群とで、指定の枠組みが異なる点は、旧赤松家の文化財としての性格を読むうえで見落とせない。
ここで確認しておきたいのは、現存するのが門・塀・土蔵であって、赤松の邸宅そのものが全体としてそのまま残っているわけではない、という事実である。むしろ邸宅本体が完全な形では伝わらないからこそ、門・塀・土蔵という周縁の構築物が、屋敷の構えと時代の空気を伝える手がかりとして重みを増している。近代建築を文化財として読むとき、私たちはしばしば、残された部分から失われた全体を推し量る作業を強いられる。旧赤松家もその例に漏れない。
建築年についても、腑分けが必要である。行政解説は「明治20年代」と幅をもって述べており、門・塀・土蔵の各棟が正確に何年に建てられたのかを一点で確定する記述は、本稿の範囲では確認できない。赤松が本籍を見付へ移したのが明治26年(1893年)であることを考えあわせれば、これらの構築物が移住の前後に整えられていったと推し量ることはできるが、それは制度的事実からの推定であって、棟ごとの建築年を直接記す史料に基づくものではない。したがって本稿は、建築年を「明治20年代」という行政解説の幅のまま記述し、それ以上の精度を装わない。
赤レンガという素材そのものも、旧赤松家の性格を語る。同じ見付にある旧見付学校が白い木造の擬洋風建築であるのに対し、旧赤松家はレンガと洋風意匠によって、もう一つの近代を示す。木造校舎が教育制度と地域の学びを象徴するとすれば、レンガの門・塀は、海外の経験を経た人物が明治の技術と美意識を背景に構えた邸宅の表情を伝える。同じ近代でも、公共の学校建築と個人の邸宅とでは、担い手も意匠の由来も異なる。木造の擬洋風が地域の職人が西洋建築を見よう見まねで翻案した産物であるとすれば、レンガ造の門・塀は、海外の建築を実地に見た人物の美意識がより直接に反映した構えとして読むこともできる。見付という土地に、木造とレンガという二つの近代の様式が並び立っている点は、この地区の近代を読むうえで示唆に富む。旧見付学校については別稿の一般向け記事が扱っており、あわせて参照されたい。
下の図は、現存する門・塀・土蔵と、その指定区分を整理した模式図である。建物の姿はレンガ造という特徴を示すための図式であり、実際の意匠・配置・寸法を写したものではない。指定の枠組みが門・塀と建物群とで分かれることを、視覚的に確認するための図として用いる。
6. なぜ見付だったのか ── 制度的事実と動機説明の分離
これだけの経歴をもつ人物が、公職を退いたのち、晩年を過ごす地として選んだのが見付であった。行政解説によれば、赤松は明治25年(1892年)に予備役となり、翌年、本籍を見付へ移してこの邸を築いた。世界をその目で見た人物が、最後に腰を落ちつけたのが東海道の宿場町・見付だったのである。ここで問うべきは、「なぜ見付だったのか」という問いを、どの層の情報として扱うか、である。
この問いには、性格の異なる二つの答えが用意されている。一つは制度的事実としての答えである。明治25年の予備役編入、翌年の本籍移動という手続きは、日付を伴う制度上の事実であり、行政解説に記された経緯として比較的確度が高い。もう一つは動機説明としての答えである。磐田市文化財課の説明では、赤松が徳川家を慕って見付に居を構え、その一族や代理人の手によって磐田原の開拓が進められたとされる。「徳川家を慕って」という一句は、移住の内面的な動機を語るものであり、これは制度的事実とは資料の層を異にする。
両者を混同しないことが肝要である。本籍を移したという事実は制度の記録として確認しうるが、その移住が「徳川家を慕って」なされたという動機づけは、行政解説が伝える説明であって、本人の言葉や同時代の一次史料に遡って裏づけられたものとは限らない。動機説明は、しばしば後世が人物の選択に意味を与えるために語られる。徳川ゆかりの旧幕臣が、徳川との縁を求めて落ちつき先を選んだという筋立ては、人物像と整合的で理解しやすいが、その整合性そのものが史料的裏づけを代替するわけではない。本稿は、この動機説明を伝承的な意味づけの層に置き、制度的事実と切り分けて扱う。
晩年の営みとして語られる磐田原の茶園開拓についても、同様の腑分けが要る。行政解説は、開拓が赤松の一族や代理人の手で進められたと述べている。この記述に従えば、開拓は必ずしも赤松本人が現場で采配したものとは限らず、赤松家という家の事業として、あるいは代理人を通じて進められた側面をもつ。海軍・造船という国家規模の仕事に携わった人物の家が、晩年には台地の開拓と地域の産業に関わっていく。その転換は興味深いが、赤松本人の直接の関与がどの程度であったかは、行政解説の文言からは一義に定まらず、解釈を要する。開いた茶園がその後の磐田原の茶づくりにつながったと語られる点も、地域産業史の主題として別途検討されるべきである。
見付という選択は、この土地の履歴とも無関係ではない。見付は古代の遠江国府が置かれたとされる地であり、近世には東海道の宿場として栄えた。国府・宿場・学校と層をなす見付の歩みは、旧幕臣が落ちつき先に選ぶだけの厚みをこの町に与えていた。見付宿の街道としての性格については東海道・見付宿を扱う一般向け記事が、見付という町の重層的な歩みについては見付の歴史と町内案内が、それぞれ整理している。旧赤松家は、こうした厚みをもつ町の北縁、河原町に構えられた。
7. 近代磐田の複層のなかの旧赤松家
旧赤松家を一邸の来歴として閉じるのではなく、近代磐田という広がりのなかへ置き直してみたい。見付には、宿場町、学校、寺社、そして近代の住宅が、時代の層をなして重なっている。旧見付学校は教育制度と地域の学びを、見付宿は東海道の交通と商いを、矢奈比賣神社の祭礼は共同体の信仰を、それぞれ体現する。旧赤松家は、そこに近代の個人住宅という層を加える。海外の経験を経た旧幕臣が、宿場町の北縁にレンガの邸を構えたという事実は、明治という時代が地方の町にもたらした変化の一断面を示している。
この複層のなかで旧赤松家がもつ固有性は、それが「外から来た近代」と「土地に根ざした暮らし」との接点にある点にある。咸臨丸とオランダ、海軍と造船といった、見付の外で積まれた経験が、晩年には磐田原の開拓や見付での生活という、土地に根ざした営みへと着地する。門・塀・土蔵は、その着地の物証である。国家規模の技術史と、一つの宿場町の地域史とが、赤松則良という個人を介して交差する地点に、旧赤松家は建っている。
もっとも、こうした「交差」の語りにも史料批判は及ぶべきである。外の近代と土地の暮らしが赤松において一つに結ばれたという見立ては魅力的だが、それを裏づけるのは、経歴の各断片と、行政解説の記述と、現存する構築物である。断片を一本の線に結ぶのは、書き手の解釈にほかならない。本稿は、その解釈を一つの読み方として提示しつつ、断片そのものと解釈とを混同しないよう努める。旧赤松家を近代磐田の記憶として読むとは、この解釈の作業を、資料の層を明示しながら遂行することにほかならない。
同じ見付を主題とする本論考シリーズの既刊として、見付天神裸祭の起源三説を史料批判の観点から検討した第1号がある。祭礼という無形の伝承を四層に腑分けした第1号と、近代建築という有形の物証を確度の層で読む本稿とは、対象を異にしながら、確度を混同しないという方法において通じている。有形の文化財であっても、それに付された来歴・評価・動機説明は、無形の伝承と同じく確度の腑分けを要する。この点で、旧赤松家の研究は、見付という土地の記憶を確度の層とともに書き留めていく作業の一環に位置づけられる。
旧赤松家記念館は、平成16年(2004年)に開館し、赤松家ゆかりの文化財や寄贈資料を展示している。行政の施設案内によれば入館は無料で、開館日や時間、休館日には所定の定めがある。現地を訪ねる際は、まず道路側から門と塀の連なりを見て、次にレンガの積み方、土蔵との位置関係、庭園の奥行きを確かめるとよい。展示を通して、赤松則良を咸臨丸の一場面だけでなく、見付に暮らした一人の人物として捉え直すことができる。ただし来訪にあたっては、開館情報が変わりうるため、事前に最新の案内を確認されたい。
最後に、旧赤松家を訪ねるための便を、行政案内に基づき確認しておく。記念館は見付宿の北側、河原町に位置し、公共交通ではJR磐田駅前のバスターミナルから遠鉄バスに乗り、「河原町北」で下車して徒歩わずかと案内されている。門・塀・土蔵という有形の物証と、記念館の展示という解説の場とが、同じ敷地で出会う。現存物を前に、そこに付された来歴・評価・動機説明のそれぞれが、どの確度の層に属するのかを思い起こすとき、旧赤松家は、近代磐田の記憶を確度とともに読むための、格好の教材となる。
8. 結論 ── 顕彰から記憶の腑分けへ
本稿は、見付・河原町に残る旧赤松家を、赤松則良の邸宅跡として、史実・通説・推定・伝承/顕彰の四層に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。咸臨丸渡航や海軍中将・男爵といった赤松の歩みは、海軍史・国政史とも整合する通説として扱いうる。他方、「近代日本の造船技術の先駆者」という呼称は行政による顕彰的評価であり、その内実を一次史料で跡づける作業は本稿の範囲を超える。門・塀・土蔵は明治20年代の建築とされるが棟ごとの年次は未確認で、現存するのは邸宅全体ではなく周縁の構築物である。見付移住は1892年の予備役・翌年の本籍移動という制度的事実として確認しうる一方、「徳川家を慕って」という動機説明はそれとは別の層に属する。
これらの事項を一つの感動的な物語へ束ねることは容易である。世界を見た男が、最後に東海道の宿場町を選び、土に向き合って余生を送った──この筋立ては魅力的で、覚えやすい。しかし、そのわかりやすさこそが、確度の異なる情報を一つの平面へ押し込め、評価の語を史実のように流通させる危うさをはらむ。地域史の記述が引き受けるべきは、物語を提供することではなく、物語がどのような事実と評価の上に立っているのかを、読者がたどり直せる形で示すことである。
したがって本稿の立場は明確である。近代人物・近代建築の記述は、「顕彰を語る作業」から「情報を確度の層へ腑分けし、それぞれの確からしさを記述する作業」へと組み替えられるべきである。現存物・来歴・評価・動機説明を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別し、顕彰的評価を確定した史実と偽らない。この禁欲的な手続きこそが、旧赤松家という近代磐田の記憶を、後世の調べものに耐える形で残す方途である。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、赤松則良の造船事績の具体的な内容と時期は、海軍史・技術史の一次史料に遡って初めて確度を高めうる主題であり、本稿は通説の水準にとどまった。第二に、門・塀・土蔵の棟ごとの建築年次は、指定時の調査報告や建築の実地調査によって、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第三に、磐田原の茶園開拓における赤松家と代理人の関与のあり方は、地域産業史の主題として、開拓関係の記録に即して別に検討されるべきである。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。顕彰の標語に安住する誘惑を退け、確度の層を保ったまま資料を積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、旧赤松家という一邸が抱える近代磐田の記憶の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 旧赤松家記念館の公開・開館情報については、磐田市公式ウェブサイト「施設ガイド 旧赤松家記念館」による。記念館は平成16年(2004年)8月に開館したとされる。↩
- 本稿が主に依拠するのは、磐田市公式の「旧赤松家記念館」施設案内、「旧赤松家門・塀」文化財解説、「旧赤松家だより」等の行政解説である。これらは指定の根拠資料をふまえた二次的な記述であり、一次史料そのものではない。↩
- 咸臨丸への乗り組み、渡航時19歳、オランダ留学、造船習得については磐田市文化財課の経歴解説による。太平洋横断は一般に万延元年(1860年)のこととして知られるが、赤松の生年は行政解説の範囲を超えるため本稿では断定しない。↩
- 「近代日本の造船技術の先駆者」という位置づけは磐田市公式ページによる。本稿はこれを行政による顕彰的評価として扱い、事績の細部を裏づける一次史料は本稿では未確認である。↩
- 門・塀が県指定文化財として名を挙げられ、土蔵を含む建物群が県・市の指定文化財として扱われる点、および明治20年代の建築とされる点は、磐田市公式の文化財解説による。棟ごとの正確な建築年次は本稿では未確認とする。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 m014「旧赤松家と、海をわたった見付の人」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承/顕彰)を語の水準で区別し、咸臨丸渡航・海軍中将・男爵を通説、「造船の先駆者」呼称を顕彰的評価、1892年予備役・1893年本籍移動を制度的事実、「徳川家を慕って」を動機説明=伝承の層として扱った。
参考文献・参考資料
- 磐田市「施設ガイド 旧赤松家記念館」磐田市公式ウェブサイト https://www.city.iwata.shizuoka.jp/shisetsu_guide/toshokan_bunka/tenji/1003506.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田市「旧赤松家門・塀」(県指定文化財)磐田市公式ウェブサイト https://www.city.iwata.shizuoka.jp/sports_midokoro/bunkazai/kenshitei/1002055.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田市「旧赤松家だより」磐田市公式ウェブサイト https://www.city.iwata.shizuoka.jp/sports_midokoro/bunkazai/bunkazainitsuite/1002026.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 m014「旧赤松家と、海をわたった見付の人」 https://iwata-monogatari.net/m014 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 m015「旧見付学校と、学びのまち磐田」 https://iwata-monogatari.net/m015.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 m017「東海道・見付宿の面影」 https://iwata-monogatari.net/m017.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 m018「磐田市見付の歴史と町内案内」 https://iwata-monogatari.net/m018.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之「見付天神裸祭 起源三説の学史的検討」大石浩之の磐田論考 第1号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/001/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田市(編)『磐田市史』通史編(近代の章)、磐田市。
- 磐田市教育委員会(編)指定文化財関係資料(旧赤松家門・塀の項)。
- 文部省(編)『日本近代造船史』関係文献(横須賀造船所史を含む)。
- 咸臨丸渡米に関する幕末外交史の概説(勝海舟・福澤諭吉らの記録を含む)。
- 佐口行正氏所蔵 見付関係史料。