磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第30号(豊岡中世城郭研究 一)
社山城址 ── 山あいの中世城郭を読む
縄張り・立地と豊岡の中世
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
豊岡地区社山地内に残る社山(やしろやま)城址は、敷地川を見おろす丘上に営まれた中世の城郭である。本稿は、確実な一次史料に乏しいこの城址を、立地・縄張り・年代・帰属の四つの観点から読み解く。地域資料が伝える文亀3年〔1503年〕という築城の年紀と、元亀3年〔1572年〕・天正10年〔1582年〕・天正18年〔1590年〕という三つの年は、武田氏と徳川氏が遠江をめぐって争った動乱の時代に、この城が関わっていた可能性を推測させる。だが築城の主体も、城主の系譜も、確実な文書によって裏づけられているわけではない。本稿は史実・通説・推定・伝承の四層を語の水準で区別し、一次史料に突き当たっていない「未確認」と、史料そのものが存在しない「記載なし」とを分けたうえで、縄張りの読み取りと立地の分析を手がかりに、社山城址を中世豊岡の在地勢力の動向のなかに位置づける。城主も築城年も一つに定まらないこの城を、確度の層を保ったまま、記録の薄い城郭として後世の調べに耐える形で書き留めることを試みる。
キーワード:社山城址/中世城郭/縄張り/敷地川/武田・徳川の争奪/在地勢力/豊岡
1. 問題設定 ── 記録の薄い中世城郭をどう読むか
豊岡地区の社山(やしろやま)地内に、社山城址と呼ばれる中世城郭の跡が残る。敷地川を西に見おろす丘陵の上に築かれた城で、いまは樹木におおわれ、明瞭な建物を伴わない。地表に残るのは、人の手で削り出された平坦地や、尾根を断ち切る溝状の地形といった、土の造作である。城が現役であった時代を直接に語る文書は乏しく、地域に伝わる資料も、名称と所在、いくつかの年代を書きとめるにとどまる1。本稿は、この記録の薄い城郭をどう読むかという方法上の問いから出発する。
中世の山城を扱うとき、まず直面するのは、史料の質と量の限界である。近世の城郭であれば、普請の記録や城主の交替を伝える文書が残ることも多いが、戦国期以前の在地の城は、その多くが築城の年も、城主の名も、廃城の経緯も、確実な一次史料をもたない。社山城もその例に漏れない。したがって城址を読む作業は、乏しい文字史料を、地表に残る地形の観察と、周辺の地理・交通の理解によって補い、なお残る空白を空白として書きとめる作業とならざるをえない。名所を一つだけ切り出して紹介するのではなく、丘と川と道と集落の関係を重ねて読むことが、記録の薄さを補う唯一の道である。
本稿がとる姿勢は、この論考シリーズを通じて一貫している。すなわち、確度の異なる情報を同じ平面で混同せず、史実・通説・推定・伝承の四つの層に腑分けして記述することである。社山城について「文亀3年〔1503年〕に築かれた」と地域資料は記すが、これを国家の編纂物に見える年紀と同じ重みで扱うことはできない。一方で、伝えられてきた年代を根拠が薄いとして切り捨てるのも誤りである。伝承は伝承の層で、推定は推定の層で、それぞれ正当に評価する。以下ではこの手続きに従って、立地・縄張り・年代・帰属を順に検討し、比較と背景を経て結論に至る。
あらかじめ用いる語を定めておく。史料によって確認できる事柄を史実、学界で広く受け入れられているが一点で確定しない事柄を通説、根拠はあるが未確定の事柄を推定、地域で語り継がれてきた事柄を伝承とする。さらに本稿では、一次史料に突き当たっていない状態を「未確認」、史料に記載が存在しないことを「記載なし」と呼び分ける2。この二つはしばしば混同されるが、前者は筆者の調査が及んでいないことを、後者は史料そのものの不在を意味する。社山城の築城年代や城主について本稿がとりうるのは、多くの場合「未確認」という慎重な留保であり、その留保を明示することそのものが、後の調査への引き継ぎになる。
2. 立地 ── 敷地川に臨む丘の眺望
社山城址の性格を考えるうえで、最初に確かめるべきは立地である。城は社山地内、敷地川に臨む丘陵の上にある。豊岡地区は、天竜川の東に広がる沖積地と、その背後に連なる山地・丘陵とが接する場所にあり、平地と山地のあいだを縫うように谷筋が入り込む。社山城が置かれた丘は、こうした平地と山地の境目に突き出した高まりであり、麓の川と、川沿いに延びる道とを見おろす位置を占める。中世の城が、こうした境目の丘を選んで営まれることには、地理上の必然がある。
丘の上に城が置かれる理由は明快である。第一に、周囲を見わたす眺望は、敵の接近をいち早く察知することを可能にする。第二に、斜面そのものが天然の防御となり、麓からの攻め上りを困難にする。第三に、川や道といった交通の要衝を押さえることで、人と物の流れを掌握できる。社山城の丘は、この三つの条件をいずれも備えている。敷地川は、山地から流れ出て平地へ向かう水の道であると同時に、その谷は人の往来する陸の道でもあった。城はその道を扼する位置にあり、立地そのものが城の存在理由を語っている。
敷地川に沿う谷は、遠江の平野部と、北の山地・信濃方面とを結ぶ経路の一つにあたる。城がこの谷の出口付近を押さえていることは、社山城が単なる一集落の詰めの城ではなく、地域を越えた交通に関わる拠点であった可能性を示唆する。もっとも、これはあくまで立地から導かれる推定であって、城が実際にどの範囲の交通を統制していたかを直接に記す史料は未確認である。地形が語ることと、文書が語ることとを、ここでも分けておきたい。立地の良さは城の重要性を推測させるが、それを証明するのは地形ではなく史料である。
なお、城の足もとを流れる敷地川そのものも、地域の履歴を考えるうえで見落とせない。川は水田を潤す用水であると同時に、洪水をもたらす脅威でもあり、また物資を運ぶ道ともなりうる。城が川に臨む位置を占めることは、防御や交通の便だけでなく、川という資源と危険の双方を管理する立場にあったことをも意味する。中世の在地の拠点が、水辺との緊張をはらんだ関係のうえに営まれたことは、社山城を読むうえでも念頭に置いてよい。川筋の変化や旧河道は、後年の地形図や低地の地名にその痕跡をとどめることがあり、城と川の関係を復原する手がかりとなる。
現在、城址の周辺には神社や学校が所在し、丘のふもとには人の暮らしが営まれている。こうした現況の要素は、城が現役であった中世の景観とは切り離して考える必要がある。神社の鎮座や学校の立地は近世以降の土地利用の反映であって、中世城郭の構造を直接には語らない。とはいえ、城址が長く地域の人々の目印であり続け、その足もとに集落や信仰の場が営まれてきたこと自体は、この丘が地域の暮らしのなかで持ってきた位置の重さを物語る。豊岡の里山と自然を読むときと同じく、土地の使われ方の変化を時代ごとに腑分けする視点が、城址を読むうえでも欠かせない。
3. 縄張りを読む ── 中世山城の構造と読み取りの方法
城郭を読むもう一つの手がかりは、縄張り、すなわち城の平面構成である。縄張りとは、曲輪(くるわ)と呼ばれる平坦な区画をどう配置し、それらを堀や土塁でどう防御し、どこに出入口を設けるか、という城の設計そのものを指す。石垣や天守をもたない中世の山城では、この土の造作の配置こそが、城の年代や性格を推し量る最大の資料となる。文書が語らない城について、地表そのものが史料となる場面である。
中世山城の縄張りを構成する要素は、いくつかの型に整理できる3。尾根の上を削って造る平坦地が曲輪であり、その中心となる最も高い区画を主郭または本丸と呼ぶ。曲輪と曲輪のあいだ、あるいは城内へ通じる尾根を断ち切るために掘られた溝状の防御施設が堀切である。斜面を人工的に削って急峻にした造作を切岸といい、掘った土を盛り上げて築いた土手状の防御が土塁である。出入口にあたる虎口(こぐち)は、敵の直進を妨げるためにしばしば折れを伴う。これらの要素の組み合わせ方に、築城の技術と時代の特徴があらわれる。
縄張りの読み取りは、地表に残る微地形を丹念に観察し、それを地形図や測量図に写し取る作業から始まる。どの平坦地が人工の曲輪で、どの窪みが堀切か、どの高まりが土塁かを判別し、それらの配置から城の中心と防御の重点を推定する。ただしこの読み取りには限界もつきまとう。土の造作は時とともに崩れ、後世の開墾や植林、道の付け替えによって改変される。地表面の観察だけでは、造作の新旧や、複数の時期の重なりを見分けることは難しい。確実な判断には発掘調査を要するが、社山城址について詳細な発掘の成果を、本稿は確認できていない。
縄張りの型は、しばしば築城の年代を推し量る手がかりともなる。単純な曲輪と堀切からなる城は古い段階を、複雑な虎口や横堀を発達させた城は戦国後期の技術を示すと、一般には理解される。もっとも、この編年には地域差も大きく、単純な構造がそのまま古さを意味するとは限らない。社山城についても、仮に将来の測量で縄張りの全体が明らかになったとしても、それだけで築城年代を一点に定めることは難しい。地表の造作が語るのは、多くの場合、城が最終的に到達した姿であって、その姿へ至る過程は、複数の時期の重なりとして読み解かねばならない。
したがって、社山城の縄張りについてここで断定的なことは述べられない。述べうるのは、この城址が中世山城一般の構造を読み取るための対象となりうること、そして立地から見て、尾根を利用した曲輪の配置と、尾根続きを断つ堀切を備えていた蓋然性が高いこと、という一般的な推論にとどまる。個々の造作の有無や規模については、現地の詳細な測量と発掘の成果を待つほかない。ここでも「未確認」と「記載なし」を混同せず、造作が存在しないのではなく、存在を裏づける調査成果に本稿が達していないという状態を、正確に記しておく。
4. 築城年代の諸説 ── 文亀の年紀と元亀・天正の画期
社山城の築城年代については、地域資料に複数の年が現れる。素材とした地域資料は、文亀3年〔1503年〕という築城に関わる年紀とともに、元亀3年〔1572年〕・天正10年〔1582年〕・天正18年〔1590年〕という三つの年を書きとめる。これらの年は、性格の異なる二つの説明枠へ整理できる。一つは城の起こりを16世紀初頭に置く見方、もう一つは城が歴史の動きのなかに現れる時期を16世紀後半の動乱に求める見方である。以下、両者を確度の層を分けて併記する。
文亀3年〔1503年〕を築城年とする説
説の骨子。城の起こりを16世紀初頭、すなわち今川氏が遠江への支配を強めていく時期に置く。この年紀は地域資料が伝えるものであり、在地の勢力によって最初の城が営まれたとする見方に対応する。文亀3年という具体的な年が伝えられていること自体が、この城がその頃には成立していたという地域の理解を映している。
資料的裏づけと限界。文亀3年の築城を記す確実な一次史料は未確認であり4、この年紀は伝承の層に属する。16世紀初頭の遠江が今川氏の支配下へ組み込まれていく時代であったことは通史と整合するが、その時代背景と社山城の築城とを直接に結ぶ文書はない。年紀を史実の年代決定に用いることはできないが、地域が城の起こりをこの時期に置いてきたという記憶それ自体は、資料として尊重すべきである。
元亀・天正期の動乱に城の画期を求める説
説の骨子。元亀3年〔1572年〕以降、武田信玄・勝頼と徳川家康が遠江をめぐって激しく争った5。社山城が軍事的に用いられ、あるいは大きく改修された画期を、この動乱の時期に置く見方である。地域資料が書きとめる元亀3年・天正10年・天正18年という三つの年は、いずれもこの遠江争奪の節目にあたる。
時代背景。天正元年に先立つ元亀3年〔1572年〕、武田信玄は遠江へ侵攻し、三方ヶ原で徳川・織田の連合を破った。天正10年〔1582年〕には武田氏が滅び、遠江から武田の勢力が退く。天正18年〔1590年〕、徳川家康が関東へ移封され、徳川による遠江支配の一段階が終わる。これら三つの年は、遠江の政治秩序が大きく動いた節目であり、境界地帯の城の運命を左右した時代の枠組みである。
資料的裏づけと限界。社山城がこの争奪において、どちらの陣営に、どのように用いられたかを個別に確定する一次史料は、本稿では未確認である。地域資料が伝える年紀と、遠江全体の画期とが一致することは示唆的だが、それは城が動乱の時代に存在したことを推測させるにとどまり、城の具体的な役割や帰属を証明するものではない。時代の画期を城の画期へ直ちに読み替えることには、慎重でありたい。
この二つの説は、排他的ではない。16世紀初頭に在地の城として起こり、後半の動乱のなかで軍事的に再編・改修されたと考えれば、両者は一つの城の異なる段階を語っていることになる。中世の城が単一の時点で完成せず、時代の要請に応じて姿を変えたことを踏まえれば、この重層的な理解のほうが実態に近い。築城年代を一つに決める問いから、城がどの段階でどのような意味をもったかを腑分けする問いへ、視点を組み替えるべきである。以下の表に、年代をめぐる情報を確度の層とともに整理する。
| 年〔和暦〕 | 確度の層 | 内容 | 依拠する資料 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| 1503年〔文亀3年〕 | 伝承 | 在地勢力による築城の年紀として伝えられる。 | 地域資料(お宝見聞帳ほか)。 | 築城を裏づける一次史料は未確認。今川の遠江進出とは整合するが直結する文書はない。 |
| 1572年〔元亀3年〕 | 史実(時代)/推定(城) | 武田信玄の遠江侵攻・三方ヶ原の戦い。城の軍事利用の画期とみる。 | 県史・市史等の通史、戦国史研究。 | 遠江情勢は史実。社山城の関与・役割は未確認で推定にとどまる。 |
| 1582年〔天正10年〕 | 史実(時代) | 武田氏の滅亡。遠江から武田勢力が退く。 | 通史。 | 大枠の史実。社山城との個別の結びつきは未確認。 |
| 1590年〔天正18年〕 | 史実(時代) | 徳川家康の関東移封。徳川の遠江支配が一段落する。 | 通史。 | 廃城時期との関係は推定。城の終末を直接記す史料は未確認。 |
5. 城主・帰属をめぐって
築城年代とならんで確定しがたいのが、城主すなわち城を管掌した主体である。社山城の城主について、素材とした地域資料は具体的な人名を明示しない。地域には城にまつわる言い伝えが残る場合もあるが、確実な文書によって城主の系譜を跡づけることは容易でない。本稿もまた、確実な史料に裏づけられない人名をここに書き加えることはしない。城主を名指すことよりも、城主が置かれていた政治秩序の枠組みを描くことのほうが、確度の点で誠実である。
一般に、遠江の在地の城は、今川氏の支配下では今川に従う国衆(くにしゅう)が管掌し、武田の侵攻期にはその一部が武田方へ転じ、徳川の遠江平定とともに徳川方の統制下に入る、という帰属の変転をたどることが多い。社山城もまた、こうした遠江の国衆の動向のなかに置かれていた蓋然性が高い。だが「蓋然性が高い」ことと「そうであったと確認できる」こととは異なる。城主の系譜を確定するには、当該地域の国衆に関わる文書の博捜を要し、それは本稿の範囲を超える。ここで示せるのは、社山城が帰属の変転にさらされる境界の城であったという構造的な位置づけまでである。
もう一つ留意すべきは、中世の城の「城主」という概念そのものが、近世の一円的な領主とは性格を異にする点である。戦国期の在地の城は、単一の主が排他的に領有したというより、複数の在地領主の連合や、上位権力から預けられた在番の武士によって、時期ごとに管掌の形を変えることがあった。社山城の主体を一人の人物へ帰そうとすること自体に、時代の実態にそぐわない面がある。城主を問うよりも、この城を支えた在地の共同性の広がりを問うほうが、実りある問いかもしれない。
帰属の変転という視点は、社山城を孤立した一城として見るのではなく、遠江全体の政治秩序の変動のなかに位置づける手がかりを与える。守護・守護代の支配から、国衆の割拠、そして戦国大名による領国化へと向かう流れは、遠江の中世を貫く大きな動きであった。守護支配の拠点をめぐる問題は見付守護所についての別稿で論じたが、社山城のような在地の城は、その守護支配が及ぶ末端、あるいはそこから自立していく在地勢力の拠点として読むことができる。見付の守護所が遠江支配の中枢を象徴するとすれば、社山城は、その中枢から離れた谷あいで独自の防御を営んだ在地の側の視点を伝える。
城主を確定できないことは、しかし社山城の価値を減じない。名の残る城が政治史の骨格を語るのに対し、名の残らない城は、記録に残らなかった多くの担い手の営みを、地表の造作として今に伝えている。誰がこの丘を削り、堀を掘り、やがて城を去ったのか。その具体的な答えは伝わらないが、彼らが確かにここで生き、争い、備えたことは、削り出された平坦地と溝が証している。城主の名の空白は、在地社会の厚みを消すものではなく、むしろその匿名の厚みを指し示している。
6. 中世豊岡の在地勢力と社山城
社山城を、より広い中世豊岡の社会のなかに置き直してみたい。豊岡一帯、とりわけ敷地川流域は、平地の農業と、山地の資源、そして谷を通る交通が交わる場であった。山あいの集落は、田畑を耕すと同時に、山の恵みを利用し、谷を行き交う人と物の流れに関わって暮らしを立てた。在地勢力は、こうした複合的な土地の条件の上に成り立っていた。城は、そうした在地の暮らしと支配の結節点として、地域の生活圏のなかに埋め込まれていたと考えられる。
遠江は、東の駿河(今川)と、北の信濃・甲斐(武田)、そして三河から進出する徳川という、複数の勢力の接触する境界地帯であった。境界地帯の城は、勢力の消長に応じて帰属を変え、ときに最前線の軍事拠点となる。社山城の立地は、まさにこの境界の力学のなかに置かれている。敷地川の谷が信濃方面へ通じる経路の一部であったとすれば、武田氏の遠江侵攻に際して、この城の位置は看過しがたい意味を帯びる。谷の道を扼する丘は、攻める側にとっても守る側にとっても、押さえておきたい要地であった。
ただし、こうした地政学的な読みは、魅力的であるだけに慎重を要する。地図の上で経路と城を結びつけ、大勢力の動きに個々の城を組み込む叙述は、しばしば実証を越えて物語化する。社山城が武田・徳川の争奪において具体的にどのような役割を果たしたかは、繰り返すが本稿では未確認である。地理が示す蓋然性を推定として述べることと、それを史実として語ることのあいだには、越えてはならない一線がある。境界の城であったという構造的な位置づけと、特定の合戦で特定の役割を果たしたという個別の事実とを、混同してはならない。
境界の地に生きた在地社会は、大勢力のいずれに従うかを、しばしば生き延びるための選択として迫られた。今日の目からは日和見に映る帰属の変転も、当事者にとっては共同体の存続を賭けた判断であった。社山城の帰属が確定しがたいことは、裏返せば、この城を営んだ人々が、そうした厳しい選択のただ中に置かれていたことの反映でもある。城の沈黙は、選択の記録が文書として残されにくかった在地社会の位置を、そのまま映している。
それでも、中世豊岡の在地勢力の動向という文脈は、社山城址を読むうえで欠かせない背景である。城は、それを築き、守り、やがて放棄した人々の営みの痕跡である。大勢力の興亡の陰で、谷あいの在地社会は、田を耕し、山を利用し、道を行き交いながら、自らの拠点として城を営み、維持した。城址の土の造作は、名を残さなかった在地の人々が、この境界の地で生き延びるために築いた、防御と生活の構造そのものである。中世豊岡を読むとは、この匿名の営みの厚みを、地表の痕跡から読み起こすことにほかならない。
7. 史料批判 ── 何が確認でき、何が未確認か
本節では、ここまでの検討を史料批判の観点から総括する。まず確認できたことを整理する。社山城址が豊岡地区社山地内、敷地川に臨む丘陵上に所在すること、これは現地と地域資料の双方から確認できる。城が眺望と防御に適し、川と道という交通の要衝を扼する立地にあること、これは地形から読み取れる。周辺に神社や学校が所在するという現況も確認できる。これらは、確度の高い出発点として本文の基礎に据えてよい事柄である。
次に、確認できていないことを明示する。築城の年も、城主の名も、廃城の経緯も、確実な一次史料によっては裏づけられていない。地域資料が伝える文亀3年〔1503年〕の年紀は伝承の層にとどまり、元亀3年〔1572年〕・天正10年〔1582年〕・天正18年〔1590年〕の三つの年は、遠江全体の画期としては史実だが、社山城との個別の結びつきは推定である。縄張りの具体的な構成も、詳細な測量・発掘の成果を本稿は確認できていない。これらはいずれも「記載なし」ではなく「未確認」、すなわち今後の史料調査によって前進しうる余地を残した状態である。
ここで、本稿が依拠した地域資料の性格にも触れておく。素材とした記録は、地域の名所や史跡を紹介する目的で編まれた二次的な資料であり、一次史料を博捜した学術的な城郭研究の成果ではない。したがってそこに記された年代や名称は、出発点としての手がかりであって、それ自体を結論としてはならない。文化財資料、中世城館の悉皆調査、発掘報告、古文書との照合を経てはじめて、確度の層を一段押し上げることができる。地域資料の価値は、こうした本格的な調査への入口を提供する点にあり、その入口を結論と取り違えないことが、記録を扱う者の責務である。
あわせて、地域資料が伝える情報を否定的に扱わないことも重要である。二次資料であることは、内容が誤りであることを意味しない。地域資料は、公的な調査が及ぶ以前から、住民の記憶と関心によって史跡を書きとめてきた。そこに記された年代や名称は、後の調査が検証すべき仮説として、確度の低い層に置いたまま保存する価値がある。一次史料に達していないことを理由に伝えを消去してしまえば、検証すべき手がかりそのものが失われる。確度の層を分けて記すのは、伝えを退けるためではなく、伝えを検証可能な形で残すためである。
確度の四層と、「未確認/記載なし」の区別という二つの道具は、記録の薄い城郭を扱う際にとりわけ有効である。断定を急げば、伝承を史実と偽り、あるいは価値ある伝えを根拠薄弱として捨てる誤りに陥る。逆に、確認できないことを確認できないと明記しておけば、その空白は後の調査が埋めるべき課題として残る。社山城址のように文書に恵まれない対象こそ、この禁欲的な手続きが、記録を後世の調べに耐える形へ整える。以下に、確度の四層と読み取りの手順を図示する。
8. 結論 ── 記録の薄い城郭を書き留める
本稿は、豊岡地区社山地内の社山城址を、立地・縄張り・年代・帰属の四つの観点から読み、記録の薄い中世城郭をいかに書き留めるかを試みた。得られた見取り図は次のとおりである。城が敷地川に臨む丘上に所在し、交通と防御の要件を満たす立地にあることは確認できる史実である。一方、文亀3年〔1503年〕の築城年紀は伝承の層にとどまり、元亀・天正の三つの年は遠江情勢の画期としては史実だが、社山城との個別の結びつきは推定である。縄張りの具体像と城主の系譜は、いずれも本稿の範囲では未確認である。
これだけの空白を前にすると、いっそ確度の高い部分だけを述べて済ませたくもなる。しかし空白を空白として明記することは、記述の弱さではなく、後の調査への引き継ぎである。社山城址が示すのは、記録に恵まれない城こそ、地域の中世社会の実相を土の造作として今に伝えているという逆説である。名の残らない在地の城が、境界の谷あいで生きた人々の営みを、削られた丘の形として保存している。起源や城主を一つに決めることよりも、確度の層を保ったまま資料を積み上げることのほうが、この城を後世へ手渡す確かな道である。
本稿が残した課題を明記する。第一に、縄張りの実測と発掘によって、造作の構成と新旧を明らかにすること。第二に、遠江の在地国衆に関わる文書の博捜によって、城主・帰属の未確認を一歩前進させること。第三に、敷地川流域の交通路を復原し、城の立地の意味を交通史のなかで裏づけること。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。断定を急がず、確度の層を保ったまま調べを重ねること──その地道な手続きの先にこそ、社山城址という記録の薄い城郭の像が、少しずつ結んでいくはずである。城址の丘は、いまも問いを発し続けている。それに答えていくのは、地域の記録を一つずつ積み上げる営みにほかならない。文亀の年紀を伝えた人々、元亀・天正の動乱を生きた人々、そして名を残さずこの丘を削った人々──その誰の記憶も切り捨てず、確度の層を保ったまま書き継いでいくこと。それが、記録に恵まれない一つの城址を、磐田の中世を読み解くための確かな足場へと育てていく道であると、本稿は考える。
注
- 本稿が素材とした地域資料は、NPO磐田まちづくりネットワーク「磐田お宝見聞帳」記事ID14「社山(やしろやま)城址の歴史と自然」および、これを地区史へ読み直した磐田物語 y023 である。いずれも一次史料ではなく、地域の史跡を紹介する二次的資料である点に留意する。↩
- 本稿でいう「未確認」は、管見の限り関連する一次史料に突き当たっていない状態を指し、「記載なし」すなわち史料そのものが存在しないと確認された状態とは区別する。両者を混同しないことが、記録の薄い対象を扱う際の要点である。↩
- 曲輪・堀切・切岸・土塁・虎口といった縄張りの用語と、地表観察による読み取りの方法については、中世城館研究の概説に拠る。用語の適用にあたっては、社山城の実測図に基づくものではなく、中世山城一般の構成を示す枠組みとして用いた。↩
- 文亀3年〔1503年〕の築城年紀は地域資料が伝えるものであり、これを裏づける同時代の一次史料は本稿の調査範囲では未確認である。今川氏の遠江進出という時代背景とは整合するが、年紀と築城とを直接に結ぶ文書は見いだせていない。↩
- 元亀・天正期の遠江をめぐる武田・徳川の抗争については、県史・市史の通史および戦国史の研究に拠る。ここで述べる遠江情勢は史実だが、社山城が個々の局面で果たした役割を記す一次史料は未確認であり、城との結びつきは推定にとどまる。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 y023 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、城の所在・立地を史実、遠江の情勢を通説、城の役割・帰属を推定、文亀3年〔1503年〕の築城年紀を伝承として扱った。
参考文献・参考資料
- NPO磐田まちづくりネットワーク「磐田お宝見聞帳」記事ID14「社山(やしろやま)城址の歴史と自然」。Internet Archive 採取データ(採取日:2026年6月28日)。
- Internet Archive 保存ページ http://web.archive.org/web/20170912200348/http://otakara-iwata.net/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 y023「社山城址の歴史と自然を地域の記憶として読む」 https://iwata-monogatari.net/y023 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 静岡県『静岡県史』通史編2 中世(静岡県)。
- 『日本城郭大系』第9巻(静岡・愛知・岐阜)、新人物往来社、1979年。
- 静岡県教育委員会『静岡県の中世城館跡』(静岡県教育委員会)。
- 中井均『中世城館の考古学』高志書院。
- 小和田哲男『駿河今川氏十代』戎光祥出版。
- 平山優『武田氏滅亡』角川選書、2017年。
- 本多隆成『定本 徳川家康』吉川弘文館、2010年。
- 磐田物語「豊岡地区トップ」 https://iwata-monogatari.net/01009-toyooka.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之「見付守護所 ── 遠江守護支配の拠点をめぐって」磐田物語・大石浩之の磐田論考 第2号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/002/ (最終閲覧:2026年7月25日)。