磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第20号(御厨・地名地形研究 一)
「貝塚」という地名 ── 消えた海岸線を読む
西貝塚・東貝塚と地形・地名の記憶
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田市には、海岸線から数キロ内陸に「西貝塚」「東貝塚」という地名が残る。海辺でない土地になぜ「貝塚」の名があるのか──本稿はこの問いを起点に、地名を古地形の記憶を読むための資料として検討する。まず考古遺跡としての貝塚と、地名としての貝塚を区別したうえで、縄文海進期に海が現在より内陸へ及んでいたこと、磐田原台地の縁辺がその海に面する高みであったことを、地形史の前提として整理する。次に石花貝塚など台地縁の考古資料と地名の分布とを重ね、両者が同じ地形条件の上に並ぶ関係を検討する。ただし当時の海岸線の正確な位置、地名の発生年代、「西」「東」の呼び分けの由来は、いずれも一次資料で確定できない。本稿はこれらを断定せず、事実・解釈・推測の三層に腑分けし、確度を保ったまま記述する立場をとる。あわせて西貝村・御厨村の近代の沿革を押さえ、地名が制度の変化を越えて残る過程を跡づける。
キーワード:西貝塚/東貝塚/縄文海進/磐田原台地/石花貝塚/御厨/埋蔵文化財包蔵地
1. 問題設定 ── 海辺でないのに「貝塚」
磐田市の住所のなかには、「西貝塚(にしかいづか)」「東貝塚(ひがしかいづか)」という地名がある。いずれも天竜川の河口から数キロ以上内陸に位置し、現在そこから海岸線は見えない。にもかかわらず、地名には「貝塚」とある。この一致しなさそのものが、本稿の出発点である。
貝塚とは、本来、貝を食べた人びとが殻を捨てた場所を指す。すなわち海の幸が手に入る環境を前提とする語である。現在の磐田市街地が海から離れた内陸であることは、地図の上で確認できる事実である。であれば、この土地に「貝塚」の名が残ること自体が、一つの問いとして立ち上がる。海が近かった時代がかつて存在したのか、それとも別の由来で「貝塚」の字が当てられたのか。地名は、その答えを直接には語らない。
本稿がとる姿勢を、あらかじめ述べておく。目的は、「西貝塚・東貝塚は縄文の海岸線に由来する」と一息に断定することではない。むしろ、地名という資料が古地形について何をどこまで語りうるのか、その限界を見きわめることにある。地名は土地の履歴を畳み込んで伝える貴重な手がかりであるが、同時に、由来を後づけで説明されやすく、発生の年代を自ら証言しない資料でもある。手がかりの価値と、資料としての弱さと、その両面を同じ天秤にかけたうえで読むこと──それが本稿の方法である。
この方法を採る理由は、郷土史の記述がしばしば陥る誤りを避けるためである。魅力的な由来譚を見つけると、私たちはそれを土地の「本当の起源」として語りたくなる。だが確度の低い推測を事実のように書けば、後の調べものはかえって迷路に入る。逆に、確証がないことを理由に地名の語りをいっさい退ければ、土地が長く保ってきた記憶を切り捨てることになる。本稿は、そのいずれの過ちも避けるために、以下では事実・解釈・推測という三つの水準を語の上で区別しながら論を進める。この区別は、素材とした一般向け記事「貝塚という地名」がとった枠組みを、史料批判の観点から引き継ぎ、精緻化するものである。
以下ではまず、「貝塚」という語が考古学の用語と地名とで意味の層を異にすることを確認し、次に縄文海進と磐田原台地という二つの地形史的前提を押さえる。そのうえで地形と地名の対応関係を検討し、西貝塚・東貝塚それぞれの近代の沿革を跡づけ、最後に地名を古地形の証拠としてどこまで用いてよいかを論じる。結論を先取りすれば、地名は海岸線の「年代」を確定する資料ではなく、古地形の存在を「示唆する」手がかりとして、慎重に扱うべき資料である。
2. 「貝塚」という語 ── 遺跡の貝塚と地名の貝塚
議論に入る前に、「貝塚」という語が二つの水準で使われることを分けておきたい。第一は考古学の用語としての貝塚である。これは、縄文時代などに人びとが食べた貝の殻を、長い年月にわたって一定の場所へ捨て続けてできた層・遺構を指す1。貝殻のほか、獣骨・魚骨・土器片・人骨などを含むこともあり、当時の食生活や環境を知る手がかりとして、遺跡の一種に数えられる。第二は地名としての貝塚である。「西貝塚」「東貝塚」のように、土地の呼び名として定着した「貝塚」がこれにあたる。
この二つは、しばしば同じものとして語られるが、対応関係は自明ではない。地名の「貝塚」が、その地点に実在する貝塚遺跡に由来するのか、近隣の遺跡や地形の連想から後世に名づけられたのか、あるいはまったく別の語が「貝塚」の字に当てられたのか──これらは、地名ごとに個別に検討すべき問いである。地名の字面が遺跡を連想させるからといって、その地に相応の規模の貝塚遺跡が必ず存在するとは限らない。逆に、貝塚遺跡のある土地が「貝塚」を名乗るとも限らない。
したがって本稿では、「貝塚という地名がある」ことと「そこに貝塚遺跡がある」こととを、別の事実として扱う。前者は地図や行政資料で確認できる。後者は発掘調査や埋蔵文化財の記録によって確認される。両者が重なるのか、ずれるのかは、資料に即して一つずつ確かめるほかない。この区別を最初に立てておかないと、地名から遺跡の存在を、あるいは遺跡から地名の由来を、いずれも根拠なく往復する議論に陥りやすい。
もう一点、語の性格について補っておく。地名は、その土地に生きた人びとが世代を越えて呼び継いできた資料であり、文字で記録される以前から口の上に存在しうる。それゆえ地名は古い記憶を伝える力をもつ一方で、いつ、なぜその名が生まれたのかを自ら証言しない。文書に「貝塚」の表記が現れる時期は、地名そのものが成立した時期の下限を示すにすぎず、上限は原理的に遡りえない。この時間的な非対称性は、地名を古地形の証拠として用いるうえで、絶えず意識しておくべき制約である。
この制約は、「貝塚」のように土地の来歴を強く連想させる地名において、とりわけ働きやすい。字面が古い環境を鮮やかに指し示すため、私たちはその由来をただちに縄文の貝塚へ結びつけたくなる。だが、地名の表記が古い環境を連想させることと、その地名が実際にその環境から生まれたこととは、なお別の事柄である。「貝塚」という漢字表記そのものが、後世に由来が意識され、あるいは近世の文書化の段階で選び取られた可能性も、原理的には排除できない。地名を古地形の資料として読むとき、字面の喚起力と、発生過程の実証とを、慎重に切り分ける姿勢が求められる。本稿が以下で「事実」「解釈」「推測」を語のうえで区別するのも、この切り分けを手続きとして担保するためである。
3. 消えた海岸線 ── 縄文海進という前提
内陸に「貝塚」があることを説明する第一の鍵は、縄文海進(じょうもんかいしん)である。縄文時代の前期、おおよそ現在から約6000年前を中心とする時期に、地球規模の温暖化によって海面が現在より数メートル高くなり、日本各地で海が内陸の奥まで入り込んだ2。関東平野の奥に貝塚が点在することがこの海進の帰結として説明されるのは、その代表的な例である。
縄文海進そのものは、全国の地質調査や貝塚の分布から確認される、地形史上の事実として扱ってよい。海面が上がった時期には、平野や谷の低い部分に海水が入り込み、現在より内陸まで海や潟(かた)が広がっていた。海と陸の境目──すなわち当時の海岸線──に立った人びとは、そこで貝を採り、食べ、殻を捨てた。その捨て場が、のちに貝塚として残る。この一般的な機構は、磐田の地に固有のものではなく、日本列島の沿岸部に広く当てはまる。
ここから磐田原台地の縁辺へと話を移すと、確度の水準は一段下がる。台地の南から西にかけての縁辺が、縄文海進期にちょうど海や内湾に面していた可能性は高いと考えられるが、これは地形条件からの推論であって、当時の汀線を実測した資料に基づく確定ではない。台地の縁は、海に近く、しかも水につかりにくい高みであり、人が暮らすのに適し、貝塚が生まれる条件を備えていた──こう述べることはできる。だが、その縁のどこまでが海で、どこからが陸であったかを、現在の道路や等高線に重ねて一意に復元することはできない。
この復元の難しさは、二つの要因による。第一に、海面の高さは縄文海進の期間を通じて一定ではなく、時期によって上下した。ピークの汀線と、その前後の汀線とは同じ線ではない。第二に、海が退いたのちも地形は動き続けた。とりわけ天竜川が運ぶ土砂の堆積は、低地の陸化を進め、旧汀線のありかを覆い隠した。したがって、縄文の海岸線については「およそこのあたりまで海が及んでいた」という幅をもった理解にとどめるのが妥当であり、特定の年代に特定の線を引くことは、本稿の立場では避ける。
もっとも、海岸線を一点で確定できないことは、海が内陸へ及んでいたこと自体の否定を意味しない。両者は確度の異なる別の主張である。海が現在より内陸へ入り込んでいたという大枠は、全国の貝塚分布や堆積物の調査から支持される。他方、その汀線が磐田原台地の縁のどこを走ったかという細部は、資料の限界ゆえに幅をもたざるをえない。この「大枠は確かだが細部は幅をもつ」という状態は、地形史の記述にしばしば現れるものであり、大枠の確かさを細部にまで及ぼして断定すれば、資料の裏づけを越えた復元図を描くことになる。地名の「貝塚」は、この大枠の海の記憶を土地の側から証言する手がかりではあっても、細部の汀線を復元する物差しにはならない。
4. 磐田原台地 ── 海と陸を分けた高み
内陸の「貝塚」を説明する第二の鍵が、磐田の地形そのもの──磐田原台地(いわたはらだいち)である。これは磐田市の中央を南北にのびる、周囲よりひと段高い台地で、天竜川の東に位置する。河川が運んだ砂礫が長い年月をかけて段丘となったもの、すなわち河岸段丘(かがんだんきゅう)にあたり、周囲の低地より高く、台地の上は水はけがよい3。見付の市街はこの台地の南端にあり、台地と低地の境目である崖線・縁辺には、湧き水や古い集落が並ぶ。この台地の性格は、隣接する岩田地区の村々を扱った台地縁辺の地形読みでも論じたとおり、磐田の集落立地を規定する骨格である。
台地が河岸段丘であること、周囲の低地より高いことは、地形分類の資料から確認できる事実である。一方、台地のふもとの低地は、もとは海や潟であり、のちに湿地・水田となった土地が多い。この「高い台地」と「低い土地」の組み合わせが、貝塚の立地を考えるうえで鍵となる。縄文海進で海が低地に入り込んだとき、台地の縁は海を見下ろす岸辺となった。そこに人が住み、貝を採って暮らしたと考えるのは、地形条件に照らして無理のない解釈である。
地名としての「貝塚」だけでなく、磐田には実際の縄文貝塚も知られている。代表的なものが石花貝塚(せっかかいづか)で、磐田原台地の縁辺に位置する縄文時代の貝塚遺跡である4。台地の縁に人が暮らし、近くの水辺で採った貝を食べていたことを示す遺跡であり、磐田に縄文の海が近かったことを物語る、地形と暮らしの証拠の一つとされる。台地とその周辺には、縄文・弥生から古墳時代にいたる多くの遺跡が分布しており、台地が古くから人の住みやすい場所であったことがうかがえる。銚子塚古墳をはじめとする台地上の古墳群についても、本論考シリーズで別に論じた。
ここで、地形条件と地名の分布とを重ねてみる。「西貝塚」「東貝塚」という地名と、石花貝塚のような実在の貝塚遺跡とが、同じ台地の縁辺という地形条件の上に並んでいることは、単なる偶然とは考えにくい。海に近かった時代の記憶が、遺跡として、また地名として、二重に残されていると読むことができる。ただしこれは、地形条件を媒介とした解釈であって、地名の一つ一つが特定の遺跡に直接由来することを証明するものではない。前節で述べた語の二層──遺跡の貝塚と地名の貝塚──の区別は、ここでも保持しなければならない。地形が両者を同じ縁辺に並べたことと、地名が遺跡から直接生まれたこととは、別の主張である。
台地の縁辺という立地の意味を、もう少し敷衍しておきたい。台地と低地の境目は、水はけのよい高みでありながら、崖下の湧き水や低地の水辺に近いという二重の利点をもつ。飲み水や採集の場に近く、しかも増水や高潮の被害を受けにくいこの縁辺は、縄文以降も一貫して人の住みやすい場所であり続けた。石花貝塚のような縄文貝塚が縁辺に営まれ、のちの古い集落や大字もまた縁辺に沿って並ぶのは、この立地条件が時代を越えて働いた結果と考えられる。地名の「貝塚」がこの縁辺に位置することも、同じ立地の連続のなかに置いて理解できる。すなわち、貝塚遺跡・古集落・「貝塚」地名は、いずれも「台地の縁」という一つの地形条件が呼び寄せた現象であり、その意味で無関係ではないが、だからといって地名が遺跡から直接派生したと断ずる根拠にはならない。地形条件による共起と、直接の由来関係とを、ここでも区別しておく必要がある。
5. 海から村へ ── 地形史の時間軸
ここまで見た縄文海進と磐田原台地という二つの前提を、時間軸の上に並べ直しておきたい。「貝塚」という地名が、海辺の記憶からやがて村の名へと変わっていく流れを、大づかみに整理するためである。ただし各時期の年代はおおよその目安であり、地域や資料によって幅があることを、あらかじめ断っておく。
約2万年前の最終氷期には、海面は現在よりはるかに低く、海岸線は沖合にあった。この時期に、のちに台地となる地形の骨格が形づくられていく。次いで約6000年前の縄文前期、縄文海進のピークを迎え、海面が高くなって海が内陸まで入り込む。台地の縁辺が海辺となり、人がそこで貝を採り、貝塚が形成される。この段階が、地名の「貝塚」がさす記憶の最も古い層にあたると考えられる。
縄文後期から弥生・古墳時代にかけて、海は少しずつ退き、低地が広がる。潟や湿地が残るなかで、台地の上には集落や古墳が営まれ、海辺は次第に遠ざかっていく。中世から近世には、天竜川の堆積によって低地の陸化がさらに進み、海岸線は南へ後退する。陸となった低地が開かれて村が成立し、「貝塚」が村や小字の名として定着していったと見られる。そして明治から昭和にかけて、河川改修や耕地整理で地形が整えられ、西貝塚などが近代の村・大字となり、やがて合併によって磐田市域へと組み込まれていく。
こうして時間軸の上に置くと、「貝塚」が一時に生まれた地名ではなく、縄文の海から海退、そして低地の村へという長い地形の変化の上に、古い記憶として残されたものと見えてくる。もっとも、この時間軸の各段階を地名の成立と厳密に対応づけることはできない。地名が文字資料に現れるのは近世以降であり、それ以前の口伝の段階については史料を欠く。したがってこの年表は、地形史の枠組みのなかに地名を位置づける見取り図であって、地名の発生年代を確定する資料ではない。この点は、次節で扱う地名の分化の問題とあわせて、慎重に留保しておく必要がある。
6. 西貝塚と東貝塚 ── 地名の分化と村の沿革
「西貝塚」「東貝塚」は、方角を冠した対の地名である。だが両者は、近代の行政区画のうえでは別々の村に属していた。この節では、それぞれの沿革を史料で確認できる範囲で押さえ、そのうえで「西」「東」の分化という、確定しがたい問いに触れる。
西貝塚を含む地域は、明治の町村制のもとで村を構成し、のちに西貝村(にしがいむら)としてまとまった。そして1940年(昭和15年)11月1日、見付町・中泉町・天竜村とともに合併し、磐田町が発足する5。西貝村は、磐田町をかたちづくった四つの町村の一つであった。さらに1948年(昭和23年)に磐田町は市制を施行して磐田市となる。西貝村の区域は「西貝地区」として現在に引き継がれ、西貝塚・安久路(あくろ)・上南田・城之崎・西之島・東山などの大字を含む。この西貝地区の変遷については、素材記事のほか、西貝地区を扱った磐田物語の各ページに詳しい。
一方、東貝塚は御厨(みくりや)村に属し、御厨村は1955年から1957年にかけての編入によって磐田市域に加わった。東貝塚は現在、御厨地区の地名であり、鎌田・新貝・稗原などと同じ御厨地区を構成する。御厨という地名そのものが伊勢神宮の神領に由来する古い名であることは、鎌田御厨の記事や、鎌田神明宮を扱った本論考シリーズの御厨論考で論じたとおりであり、東貝塚もこの御厨という中世的な枠のなかに置かれてきた地名である。御厨地区の全体像については、御厨地区総論もあわせて参照されたい。
ここで、二つの地名が属した枠の性格の違いにも触れておきたい。西貝地区は、西貝塚・安久路・上南田・城之崎・西之島・東山といった大字を束ねる近代以降の地域区分であり、その名は「西貝村」という近代の自治体名に由来する。これに対し御厨は、伊勢神宮の神領という中世的な由緒をもつ古い地名であり、近代の御厨村はその古名を継承したものである。すなわち西貝塚は近代的な地域名の枠のなかに、東貝塚は中世に遡る地名の枠のなかに、それぞれ置かれてきた。同じ「貝塚」を名に含みながら、両者が身を寄せる上位の枠は、由来の時代を異にする。この非対称は、二つの「貝塚」が別々の歴史的文脈のなかで受け継がれてきたことを示しており、「西」「東」という対の呼称が両者の共通の起点を必ずしも意味しないことを、側面から支える事情でもある。
ここまでは、近代の町村沿革として史料で確認できる範囲である。問題は、「西貝塚」「東貝塚」という対の呼び分けが、いつ、どのように生まれたのかという点にある。可能性としては、少なくとも二つが考えられる。一つは、もともと一つの「貝塚」という地名の地域が、あるとき東西に分かれて呼び分けられるようになったとする見方。もう一つは、別々に生まれた二つの「貝塚」地名が、たまたま位置関係から「西」「東」で区別されるようになったとする見方である。前者であれば、両者は共通の起点をもつことになり、後者であれば、名の一致は偶然に近いものとなる。
この二つの見方のいずれが正しいかを、本稿は決しない。西貝塚が西貝村に、東貝塚が御厨村にと、近代には別々の村に属していたことは、両地が行政的に切り離されていたことを示すが、それ自体は地名の発生過程を語らない。地名がいつ文字資料に現れるかを丹念に追い、両地の「貝塚」表記の初出を比較する作業が要るが、それは本稿の範囲を超える。したがって「西」「東」の分化については、地名の発生過程として今後の調査を要する未確認の論点である、と記すにとどめる。ここで「未確認」と述べるのは、管見の限り分化の経緯を裏づける一次資料に突き当たっていないという意味であり、そうした資料が存在しないと断ずるものではない。
7. 地名をどこまで証拠にできるか ── 事実・解釈・推測の腑分け
ここまでの検討を、確度の水準ごとに整理しておきたい。地名を古地形の資料として用いるとき、私たちは事実・解釈・推測という三つの水準を往き来している。この三者を語のうえで混同しないことが、地名から土地の履歴を読む作業の要となる。以下の表は、本稿が扱った事項をこの三層に振り分け、それぞれについて何がどこまで言えるのかを可視化するものである。
| 事項 | 確度の層 | 内容 | 依拠する資料 | 留意点 |
|---|---|---|---|---|
| 縄文海進の存在 | 事実 | 約6000年前を中心に海面が数メートル高く、海が内陸へ及んだ。 | 全国の地質・貝塚分布、地形学の概説。 | 磐田での具体的な汀線位置までは保証しない。 |
| 磐田原台地の性格 | 事実 | 天竜川がつくった河岸段丘で、周囲の低地より高い。 | 地形分類図、治水地形分類図。 | 台地の高さと、貝塚立地の適否は別に論じる。 |
| 石花貝塚の存在 | 事実 | 台地縁辺の縄文貝塚遺跡が確認されている。 | 発掘調査報告、埋蔵文化財資料。 | 個々の地名との直接の由来関係は別問題。 |
| 台地縁=海辺説 | 解釈 | 台地の縁が海進期に海辺となり、貝塚と地名が並んだ。 | 地形条件からの推論。 | 汀線を実測した資料に基づく確定ではない。 |
| 縄文の海岸線の位置 | 推測 | 「およそこのあたり」までの幅でしか復元できない。 | —(確定資料を欠く) | 海面変動と後世の堆積により一意に定まらない。 |
| 「西」「東」の分化 | 推測 | 共通の起点か、別個の地名の方角区別かは不明。 | —(初出比較が未了) | 近代の村の別属は分化過程を語らない。未確認。 |
この腑分けから見えてくるのは、地名が古地形について語りうる範囲の限界である。縄文海進の存在や台地が河岸段丘であることは、地名とは独立に確認できる事実であり、地名はそれを補強しない。地名が固有に担うのは、むしろ「台地の縁が海辺であった」という解釈と、それを土地の記憶として長く保ってきたという事実である。地名は、海岸線の年代を確定する物差しではなく、古地形の存在を土地の側から証言する手がかりとして読むべき資料なのである。
史料批判の観点からは、地名を扱う際に二つの誤りに注意したい。第一は、地名の字面から遺跡や古地形を過剰に読み込む誤りである。「貝塚」の字があるからその地に貝塚遺跡が必ずあった、と結論すれば、語の二層の区別を踏み越えることになる。第二は、逆に、確証がないことを理由に地名の証言を全面的に退ける誤りである。地名は口伝の資料として、文字記録より古い記憶を伝えうるのだから、一次史料に現れないことをもって無価値と断ずるのは行きすぎである。この二つの誤りのあいだで、地名を「解釈の手がかり」として過不足なく用いる態度が求められる。
もう一点、地名研究に固有の時間的制約を改めて確認しておく。地名が文字資料に現れる時期は、その地名の成立時期の下限を示すにすぎない。「貝塚」の表記が近世の文書に見えるとしても、それは地名が近世に生まれたことを意味せず、口伝としてはるかに古く遡る可能性を排除しない。逆に、いくら古く遡りうるとしても、その上限を一次資料で押さえることはできない。この非対称性ゆえに、地名から古地形を読む作業は、つねに「幅をもった推定」の域にとどまる。断定を避けることは、慎重さの表明である以上に、資料の性格そのものが要請する手続きなのである。
こうした腑分けの作業は、土地の実務にも通じる含意をもつ。貝塚や遺跡のある土地は、埋蔵文化財包蔵地として地図にまとめられていることがあり、その範囲で土木工事を行う際には事前の届け出が必要とされ、発掘調査が求められる場合がある。地名や旧地形は、こうした包蔵地のありかを推し量る最初の手がかりになる。埋蔵文化財の制度そのものについては別稿に譲るが、地名を古地形の資料として読む本稿の視点は、土地の履歴をあらかじめ確かめておくという実際的な作業と、地続きのものである。
最後に、地名を古地形の資料として扱う作法を、他の資料との組み合わせのなかに位置づけておきたい。地名は単独で用いるべき資料ではない。旧版地形図や治水地形分類図は、台地の縁と低地の境目を可視化し、地名が示唆する古地形の骨格を裏づける。発掘調査報告は、地名の連想を実在の遺跡の有無に照らして検証する。近世・近代の文書は、地名表記の初出をたどり、成立時期の下限を押さえる手がかりとなる。これらの資料と突き合わせて初めて、地名は古地形の証言として力をもつ。地名だけを根拠に古環境を語れば推測の域を出ないが、地形分類・考古資料・文献の三者と重ね合わせれば、推測の一部は解釈へ、解釈の一部は事実へと格上げされていく。本稿が示した三層の腑分けは、この資料の組み合わせによる確度の押し上げを見通すための、いわば作業の設計図である。
8. 結論 ── 地名を古地形の資料として読む
本稿は、西貝塚・東貝塚という内陸の「貝塚」地名を手がかりに、消えた海岸線の記憶を読む作業を試みた。得られた見取り図は次のとおりである。縄文海進の存在と磐田原台地が河岸段丘であることは、地名とは独立に確認できる事実である。台地の縁が海進期に海辺となり、そこに石花貝塚のような貝塚と「貝塚」地名が並んだという読みは、地形条件にもとづく解釈である。そして、当時の海岸線の正確な位置と、「西」「東」の呼び分けの由来は、いずれも一次資料で確定できない推測の域にとどまる。
この三層の腑分けが示すのは、地名という資料の効きどころと限界である。地名は、海岸線の年代を確定する物差しではない。それが担うのは、古地形の存在を土地の側から証言し、その記憶を制度の変化を越えて保ち続けるという役割である。西貝塚が西貝村から磐田町、磐田市へと上位の枠を変えながらも大字として名を保ち、東貝塚が御厨村から磐田市へと編入されてなお御厨地区の地名として残る──この地名の粘り強さこそ、地名が古い記憶を運ぶ器であることの証左である。
したがって本稿の立場は明確である。地名を古地形の資料として読む作業は、「地名から起源を断定する作業」から「地名が証言しうる範囲を見きわめ、その確度を記述する作業」へと組み替えられるべきである。事実・解釈・推測を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別し、地名の字面から遺跡を過剰に読み込まず、また確証の欠如を理由に地名の証言を切り捨てない。この抑制のきいた手続きこそが、土地の記憶を後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。
最後に、本稿が残した課題を記しておく。第一に、縄文海進期の汀線の復元は、ボーリング資料や治水地形分類図の読み込みによって、「幅をもった推定」の精度を高める余地がある。第二に、「西貝塚」「東貝塚」の分化については、両地の「貝塚」表記の初出を近世・近代の文書に博捜し、比較することで、未確認の状態を一歩進めうる。第三に、地名の貝塚と実在の貝塚遺跡との対応は、埋蔵文化財の分布と地名の分布を重ね合わせる作業によって、より精確に描きうる。これらはいずれも、本稿が設定した三層の枠組みのなかで、推測を解釈へ、解釈を事実へと押し上げていく地道な作業に属する。海が退いたあとに残された地名を、性急に起源へ還元するのではなく、確度の層を保ったまま読み続けること──その先にこそ、磐田の消えた海岸線の像が、少しずつ結ばれていくはずである。西貝地区・御厨地区それぞれの集落史については、本論考シリーズで稿を改めて論じたい。
注
- 貝塚の定義は、コトバンク所収『日本大百科全書』『世界大百科事典』ほか各辞典の「貝塚」項による。考古学では遺跡の一種として扱われる。↩
- 縄文海進の年代・海面高については、地形学・第四紀学の概説による。おおよそ約6000年前を中心とする時期とされ、地域差がある。↩
- 磐田原台地が天竜川の河岸段丘であることは、国土地理院の治水地形分類図および地形分類の資料による。↩
- 石花貝塚については、磐田市教育委員会等による発掘調査報告および埋蔵文化財関連資料による。所在地・範囲・年代の詳細は文化財担当の資料によるのが確実である。↩
- 西貝村が1940年(昭和15年)11月1日に見付町・中泉町・天竜村と合併して磐田町を成立させたこと、御厨村が1955〜57年に磐田市へ編入されたことは、『磐田市史』および町村変遷の資料による。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 u001「『貝塚』という地名」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(事実・解釈・推測)を語の水準で区別し、縄文海進の存在・磐田原台地の河岸段丘性・石花貝塚の存在・西貝村の合併を事実、台地縁=海辺説を解釈、海岸線の位置および「西」「東」の分化を推測として扱った。
参考文献・参考資料
- 磐田物語 u001「『貝塚』という地名 ── 西貝塚・東貝塚と消えた海岸線」 https://iwata-monogatari.net/u001 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田市公式ウェブサイト(文化財・埋蔵文化財・遺跡に関する案内、地区・大字の情報) https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- ウィキペディア「西貝村」 https://ja.wikipedia.org/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- ウィキペディア「御厨村 (静岡県)」 https://ja.wikipedia.org/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- ウィキペディア「縄文海進」 https://ja.wikipedia.org/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- コトバンク(『日本大百科全書』『世界大百科事典』ほか)「貝塚」「縄文海進」「河岸段丘」の各項 https://kotobank.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 角川『日本地名大辞典22 静岡県』角川書店(西貝塚・東貝塚・石花貝塚ほかの項)。
- 平凡社『日本歴史地名大系 静岡県の地名』平凡社(西貝塚・東貝塚ほかの項)。
- 国土地理院「地理院地図」および旧版地形図・治水地形分類図 https://maps.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、地形・沿革の該当章)。
- 磐田市教育委員会・磐田市文化財課ほか 発掘調査報告書・文化財関連公開資料(石花貝塚ほか)。
- 磐田物語 c010「磐田市の町村合併史」 https://iwata-monogatari.net/c010.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 u020「御厨地区総論」 https://iwata-monogatari.net/u020.html (最終閲覧:2026年7月25日)。