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磐田物語中泉地区 / 秋鹿家

中泉人物史 / 神主・地頭・代官

府八幡宮神主・秋鹿家

出雲から中泉へ、地頭・神職・代官の系譜

秋鹿(あいか)家は、府八幡宮の神主を世襲した家である。しかし、その姿は神職だけでは捉えきれない。家の由緒は出雲国秋鹿郡からの移住を伝え、中世には地頭、近世には中泉御殿用地の提供者、さらに幕府代官として語られる。本稿は、由緒書の伝承と年代を伴う記録を区別しながら、室町期から明治までの秋鹿家を通覧する。

1. 「秋鹿」はどこから来たのか

「秋鹿」は「あいか」と読む。府八幡宮編『府八幡宮ものがたり』は、明治初期にまとめられた秋鹿家の由緒書を紹介し、家の祖先が出雲国秋鹿郡に住んだ武士であったと伝える。初代を秋鹿左京亮朝治とし、遠江へ下向して府八幡宮の神主になったという筋書きである。

由緒書はさらに、橘諸兄の後裔、出雲守、足利尊氏への奉仕、今川範国への属従を一続きに語る。ただし、これは後世に家が自らの来歴を整理した文書であり、すべてを同時代史料で確認したものではない。「出雲から来た」という伝承と、個々の人物・官職を同じ確度で扱うことはできない。

由緒が伝えること

出雲国秋鹿郡を出自とし、初代朝治が遠江へ来た。

年代資料で追えること

建武期以後、秋鹿家と中泉・府八幡宮を結ぶ記録が現れる。

追加確認が必要

橘氏系譜、出雲守歴任、移住の具体的時期と経路。

2. 建武期の地頭職と府八幡宮

冊子が引く由緒書では、朝治は建武元年(1334年)に羽鳥庄貴平郷と中泉両郷の地頭職を得て、同時に府八幡宮神主になったとされる。また建武4年(1337年)の安堵状が紹介され、貴平郷の収入が神社運営を支えたと説明される。

この時期、遠江へ入った今川範国は地域の軍事的秩序を整えた。冊子は、建武4年に中泉八幡領での乱暴を禁じた文書にも触れ、足利・今川勢力の保護と神領の維持を結びつける。ここから見える秋鹿家は、祭祀だけを行う家ではなく、土地支配を介して神社を維持する中世武士でもあった。

読み方の注意:建武元年の任命は由緒書の記述、建武4年の安堵・禁制は冊子が紹介する文書による。文書原本、宛所、所蔵、全文の再照合が次の課題である。

3. 朱印高250石が意味したもの

徳川家康の時代、15代直朝は大きな転機を迎える。冊子によれば、天正6年(1578年)、直朝は中泉の屋敷を御殿用地として差し出して久保村へ移り、家康から刀を受けた。小田原攻めや江戸・船橋にも従い、慶長5年(1600年)に旧地へ戻ったという。この土地の物語は秋鹿氏という土地の記憶で詳しく扱っている。

慶長8年(1603年)、府八幡宮は250石の朱印高を得たとされる。朱印状は、従来の先例に従って神社領を認め、諸役を免じ、祭祀に励むよう命じる趣旨だった。250石は一家の私有財産というより、神社の祭祀・社殿・神職を支える制度的な収入基盤として読む必要がある。

対象朱印高(冊子掲載)所在地
小国大明神590石森町
五社大明神・諏訪大明神各300石浜松
神明宮260石磐田
府八幡宮250石磐田

4. 神主であり、幕府の代官でもあった

秋鹿家の特徴は、神主職と幕府代官職を一つの家が兼ねた点にある。直朝以後、16代朝正、17代朝重、18代道重らは将軍に仕え、帰郷後に代官として遠江の各地を管轄したと冊子は記す。朝正は関ヶ原の戦いに従い、朝重は将軍家に近侍したのち父の死後に帰郷、道重も江戸で将軍に仕えたとされる。

代官の管轄は長上・浜名・引佐・敷知・豊田郡など広域に及んだといい、神主家が幕府の地方行政にも関わったことになる。祭祀を通じた地域代表性、神領の経営、幕府行政が秋鹿家で重なったのである。ただし、代官職は19代朝就の時代、代官世襲制の廃止により転換した。中泉御殿の史実と併読すると、屋敷提供から御殿・代官所へ至る変化が立体的に見える。

5. 幕末の秋鹿家――奉納・学問・地域文化

20代朝郷、21代光朝、22代周朝、23代宗朝も将軍への御目見えを続けたとされる。22代周朝は文化8年(1811年)に白塩硝200貫を献上して褒賞を受け、24代朝道は弘化2年(1845年)の本丸火災時に献金した。嘉永6年(1853年)と安政7年(1860年)には参府したという。

朝道の時代には、安政地震で倒れた石鳥居を氏子の支援で木造に再建した。嘉永元年(1848年)銘の手洗鉢も残ると冊子は伝える。朝道は国学・和歌にも関心を寄せ、歌会に参加した人物だったとされる。秋鹿家の歴史は政治権力との関係だけでなく、地域の奉納文化と知的活動の歴史でもある。

6. 明治維新――世襲神主職の終わり

25代朝敬の時、幕府は倒れた。秋鹿家は遠州報国隊を支援し、朝敬と一族も活動に加わったと冊子は記す。しかし新政府は寺社領を上知し、府八幡宮の朱印高250石も失われた。明治6年(1873年)には、世襲してきた神主職も制度上解かれたという。

一方で秋鹿家は、明治初期に屋敷の一部を学校へ寄付した。『中泉町誌』の記述では、旧玄関・書院を仮校舎として中泉小学校の前身が開校したとされる。武家・神主の屋敷空間が、近代教育の場所へ読み替えられたのである。旧屋敷跡は後に中泉公園となり、27代朝成が昭和10年前後に宮司を務めたこともあった。冊子刊行時、成文氏が氏子総代を務めていたと記される。

7. 秋鹿家と大場家――二つの神職家

秋鹿家大場家
中心的な職神主・宮司として神社を代表大禰宜として祭祀・社務を支える
政治との接点地頭、幕府代官、将軍への奉仕神職実務、吉田家裁許、地域教育
近代への接続屋敷の学校利用、旧神主家として継承大場重光の学問・寺子屋

この区分は冊子の叙述を整理したもので、全時期に固定された職掌とは限らない。大場家の系図問題と神仏習合については府八幡宮の大場家を参照されたい。

8. 史料の限界と、調査を深化させる道筋

本稿の基礎資料は府八幡宮編・発行『府八幡宮ものがたり』である。同冊子は秋鹿家由緒書、安堵状、朱印状、奉納品、屋敷図、『中泉町誌』などをつないで通史を構成している。ただし、本稿はそれらの原本をすべて直接照合したものではない。

今後は、①建武4年文書の全文・花押・伝来、②歴代将軍朱印状の連続性、③各代の代官支配地と任期、④泉蔵寺にあるとされる墓所・過去帳、⑤秋鹿家由緒書の成立過程、⑥屋敷から仮校舎への転用記録を個別に確認したい。由緒を否定も無批判に肯定もせず、同時代文書へ一項目ずつ接続することが、次の調査になる。

秋鹿家関係年表

建武元〜4年(1334〜1337年)
由緒書が地頭職・神主職の取得を伝え、冊子は安堵状・禁制を紹介する。
天正6年(1578年)
15代直朝が中泉御殿のため屋敷を提供したとされる。
慶長8年(1603年)
府八幡宮に朱印高250石。
江戸時代
歴代が神主と幕府代官を兼ね、将軍に奉仕。
安政年間
24代朝道の時代、地震後に鳥居を再建。
明治初年
遠州報国隊を支援。朱印地上知、神主世襲制廃止。
明治6年(1873年)前後
秋鹿家屋敷の一部が中泉の学校教育に利用される。

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参考資料

  • 府八幡宮編・発行『府八幡宮ものがたり』2007年10月1日、52〜57頁
  • 同冊子が紹介する秋鹿家由緒書、建武4年安堵状、徳川家康朱印状、『中泉町誌』ほか(原本未照合)

更新履歴

  • 初版公開。出自伝承から明治維新までを史料の確度を分けて整理した。