一、資料で見える中泉御殿の機能

企画展資料は、御殿を「将軍などが旅行や外出の際に休んだり泊まったりするために、城とは別に建てられた邸宅」と説明している。中泉御殿は、宿泊用の施設であると同時に、家康が中泉や大池周辺で鷹狩りを行うための拠点でもあった。ここで重要なのは、御殿を城そのものとして読むのではなく、休泊、狩猟、政治・軍事上の打ち合わせを支える別邸的な施設として読む点である。

上洛や駿府往復の途中に休む場所であることは、東海道沿いの拠点としての性格を示す。さらに、関ヶ原や大坂の陣前後の動静に関わる資料を重ねると、御殿は単なる休憩所ではなく、人と情報が集まる場所だったことが分かる。第2回で述べた「水と道の結節点」という見方は、この資料整理によってより具体的になる。

一方で、『遠州中泉古城記』は文政6年(1823年)に中泉代官で儒学者でもあった羽倉用九(簡堂)が撰んだ碑文原稿とされる。家康がこの地に小堡を築き、その後に城を営んだと伝えるが、これは江戸後期の史料である。同時代の実録として読むのではなく、中泉御殿の由緒が江戸後期にも整理され、地域の歴史意識の中で語られていたことを示す資料として扱うのが妥当である。

既存ページとの切り分け

ページ扱うこと本稿との関係
土地記憶録 第2回なぜ家康が中泉を選んだのかを、土地の読み方として考える。主論。資料の細部は本稿で補う。
中泉御殿のあった町中泉御殿と中泉代官所を含む、まちの概説。基礎解説。ここでは資料別に掘る。
中泉御殿と関ヶ原の戦い慶長5年(1600年)の家康滞在記録。一点集中の記事。ここでは御殿全体の機能を扱う。
なぜ中泉に駅ができたのか近代鉄道と中泉駅の立地。近代史。ここでは近世の御殿を中心にする。

二、秋鹿家・大池・府八幡宮を重ねる

提供資料で目を引くのは、秋鹿家の位置づけである。秋鹿家は、出雲国秋鹿郡に由来する姓とされ、初代朝治が足利尊氏に仕え、遠江国中泉と羽鳥庄貴平の地頭職に任じられたと伝える。以後、中泉に住み、今川・徳川に関わっていった。

15代直朝は家康に仕え、府八幡宮の神官兼代官となったとされる。資料は、当時の秋鹿家屋敷があった一帯を、現在の中泉字「御殿」と結びつける。天正元年(1573年)、直朝がこの土地一帯を家康に献上し、褒美として御刀一腰と久保の土地を与えられ、秋鹿家が移ったという筋で説明されている。

屋敷の南側には湿地帯である大池が広がり、鶴や鴨など、鷹狩りの獲物となる鳥が多くいたと考えられている。家康は浜松城へ移ったころから、秋鹿家の屋敷を旅宿とし、領地の視察と健康づくりを兼ねて大池で狩りを行ったと資料は述べる。ここで見えるのは、御殿の場所が空いた土地に突然選ばれたわけではないということである。秋鹿家、府八幡宮、大池、久保川、東海道が重なり、そこに家康の休泊と鷹狩りが乗っていった。

秋鹿家の先祖書や由緒は、家康との関係を後世に語る資料でもある。したがって、家康との結びつきを強調する性格を意識して読む必要がある。

一方で、秋鹿家文書や府八幡宮領に関わる資料がまとまって残ること自体、中泉御殿を読むうえで秋鹿家を外せないことを示している。

三、絵図・公図・発掘が示す御殿跡

中泉御殿を土地として見るうえで、絵図と公図は大きな手がかりになる。『中泉八幡宮領絵図』には「御殿」の地が描かれ、北側の土手や木々、濠が読み取れる。西から南へは内川、外川、大池が続き、御殿を囲む水の構えとして働いたと資料は読む。

寛文6年(1666年)から寛文10年(1670年)ごろ、御殿廃止直前の時期に描かれたとされる絵図では、御殿の建物そのものは描かれていない。だが、地形、川、池、道、周辺の田畑が残り、御殿がどのような環境の中にあったかを考える材料になる。建物が描かれないことは、資料価値がないという意味ではない。むしろ、御殿を支えた地形の輪郭を読む資料になる。

『中泉公図第三号御殿ほか』では、公図作成当時の小字名が示され、御殿跡に関わると推測される小字をたどることができる。資料は、濠の内側に沿った半円状の土地の連なりを、土塁跡を示すものとして読む。地名と地割りが、建物が消えた後も御殿の輪郭を残している。

発掘調査でも、御殿・二之宮遺跡から大手門と推定される柱穴、建物跡、塀跡、土塁や濠跡が確認されている。江戸時代の絵図や昭和初期の地籍図に示された地形と、発掘成果が重なる点は、御殿跡を「伝承」だけでなく考古資料からも考えられることを意味する。

資料ごとの確かさ

資料・手がかり読めること扱い方
中泉八幡宮領絵図御殿、内川、外川、大池、道、周辺の田畑。御殿周辺の地形を読む基本資料。
大池絵図・悪水川流れ絵図御殿廃止後も、大池や手長橋跡などの記憶が残る。水辺と鷹狩りの場を考える補助資料。
中泉公図字御殿跡など、小字と地割りの痕跡。近代以降の地籍から御殿跡の輪郭を読む。
御殿・二之宮遺跡の発掘柱穴、建物・塀、土塁、濠跡。考古資料として扱える事実。
移築伝承泉蔵寺山門、常楽寺本堂などに御殿由来の伝承がある。部材年代の検討を伴う伝承として扱う。

四、滞在記録と伝承を分けて読む

企画展資料は、『家忠日記』『当代記』『駿府記』『駿府政事録』『御年譜』などを手がかりに、家康の中泉滞在例を列挙している。天正16年(1588年)の御鷹野、文禄・慶長期の通過・滞在、関ヶ原前後、大坂の陣前後の動静などである。慶長5年(1600年)の関ヶ原前の滞在については、既存の中泉御殿と関ヶ原の戦いで扱った。今回の資料で見えてくるのは、それが孤立した一回ではなく、家康が中泉を繰り返し使っていた流れの中にあるという点である。

林羅山『丙申紀行』の中泉の項では、家康が毎年のように中泉御殿で鷹狩りを楽しみ、自分も供をした時のことを思い出していると資料は紹介する。これは中泉御殿が、武断的な軍事拠点であるだけでなく、大御所家康の日常的な移動と狩りの場でもあったことを伝える。

一方、磐田市域には、見付の御清水、冷酒の由来、船隠しの池、半場の姓、帯金家の由来など、家康をめぐる多くの伝承がある。これらは地域の記憶として価値があるが、古文書・絵図・発掘成果と同じ扱いにはしない。史実、後世の由緒、土地の伝承を分けて並べることで、中泉御殿と家康の姿はかえって読みやすくなる。

第2回で述べた「中泉を選んだ理由」は、地形や水の話だけでは終わらない。今回の資料を重ねると、秋鹿家の屋敷、大池の水辺、御殿の休泊機能、鷹狩り、東海道と池田渡船、御殿跡の発掘成果が一つの土地に集まっていたことが見えてくる。中泉御殿は、土地の条件と在地の人間関係と家康の移動が重なる場所だった。

磐田市歴史文書館 第26回企画展「中泉御殿にて家康、泰平の世づくりを練る - 徳川家康と磐田」配布資料(提供PDF 20260710074428109.pdf)。

磐田市歴史文書館 第16回企画展「徳川家康と磐田」出展目録・解説(提供PDF 20260710074540499.pdf)。

磐田物語「家康はなぜ見付ではなく中泉を選んだのか」「中泉御殿のあった町」「中泉御殿と関ヶ原の戦い」。

絵図や公図を読むと、いまの土地にも古い水路、道、地名、家の移転の記憶が重なっていることが分かる。相続した家、空き家、使わなくなった土地について、背景も含めて整理したい方は、富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。

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