この記事の要点
中泉の地頭であり府八幡宮の神職でもあった秋鹿氏。天正元年(1573年)、屋敷地を徳川家康に献上し、その地は中泉御殿となりました。江戸期には代官・神職として地域に残り、明治以降は遊興街、料亭「海燕楼」、そして現在の中泉歴史公園へと姿を変えていきます。
本稿では、秋鹿氏の由緒と信仰の権威、家康への屋敷献上、中泉御殿としての新しい記憶、そして近代以降の土地利用の変遷を、4つのまとまりで整理します。
中泉御殿の詳しい史実は、補助ページ「資料で読む中泉御殿の史実」もあわせてご覧ください。
古い土地の相談を受けていると、よく感じることがあります。
土地を守るとは、何を守ることなのか。
家を残すことなのか。
名義を変えずに持ち続けることなのか。
先祖代々の場所を、できる限り動かさないことなのか。
もちろん、それも一つの考え方です。
けれど、磐田の歴史を見ていると、土地を守ることは、必ずしも同じ形で持ち続けることだけではないと感じます。
中泉に根を張った秋鹿氏の歩みは、そのことを教えてくれます。
土地を手放すことと、記憶を手放すことは同じではありません。
形を変えても、記憶は残る。
場所の意味は、次の時代へ渡すことができる。
それは、現代の相続した実家、空き家、古い家の整理にも通じる視点です。
秋鹿氏は、中泉の土地と信仰に深く関わった一族だった
秋鹿氏は、中世から近世にかけて、中泉の歴史に大きな足跡を残した一族です。
伝わるところによれば、秋鹿家は出雲国秋鹿郡に由来する姓とされ、初代の朝治が足利尊氏に仕え、その功によって遠江国中泉と羽鳥庄貴平の地頭職に任じられたといいます。以後、代々中泉に住み、今川、そして徳川へと、時代の主を変えながら関わり続けていきました。
出雲という遠い土地の名を姓に持ちながら、遠江中泉に根を下ろす。この由緒がどこまで史実で、どこから後世に整えられた家伝であるかは、慎重に見る必要があります。秋鹿家に伝わる先祖書や由緒書は、家康との結びつきを強調する性格を持つ資料でもあるからです。ただ、系譜を一つに断定することよりも、秋鹿氏がなぜ自らの由緒を必要としたのか、なぜその由緒が中泉の土地と結びついたのかを見るほうが、この一族を理解する近道になります。
秋鹿氏は、単なる武士ではありませんでした。中泉の地頭として土地に関わり、府八幡宮の神職としても地域の信仰に関わりました。土地の支配と、地域の精神的な支えが、一つの家に重なっていたのです。
一つの家が武力と信仰の両方を兼ねるという構図は、遠江に限った話ではありません。しかし中泉の場合、府八幡宮が古代遠江国府と結びつく由緒ある社であっただけに、その神職を担うことの重みは、単なる地方の一神社の世話役以上のものであったと考えられます。地頭として年貢や治安を握る手と、神職として祭礼を司る手。同じ一族がその両方を握っていたことが、秋鹿氏を中泉という土地から切り離せない存在にしていったのでしょう。
土地には、所有者の名前だけでは見えない層があります。
誰がそこに住んだのか。
誰が祭りを支えたのか。
誰が道や境界や年貢に関わったのか。
誰が地域の信仰を担ったのか。
秋鹿氏の記憶は、そうした土地の奥行きを考える入口になります。
土地の支配と祭祀の権威
中世の地域社会では、土地を持っているだけでは不十分でした。
年貢を集める。
治安を保つ。
境界を管理する。
寺社を守る。
祭りを支える。
地域の人々が納得する由緒を持つ。
そうした複数の役割が重なって、初めて在地の支配者として認められます。
秋鹿氏が府八幡宮の神職を兼ねたことは、単なる信仰心の問題だけではなかったはずです。府八幡宮は、古代遠江国府と深く関わる由緒ある神社です。その祭祀に関わることは、中泉という土地を精神的にも支える立場に立つことを意味しました。
土地と信仰。
屋敷と神社。
地頭と神職。
秋鹿氏は、その両方を抱えて中泉に存在していました。
現代の不動産では、所有権、登記、固定資産税、境界、接道といった制度の言葉で土地を見ます。それは安全な取引に不可欠です。
しかし、古い土地ほど、制度の言葉だけでは説明できないものがあります。屋号、氏神、墓、隣近所との関係、昔の道、古い水路。そうしたものが、土地の扱いを難しくもしますし、同時にその土地らしさを形づくっています。
家康に屋敷を差し出すという決断
戦国時代の終わり、遠江の覇権は今川氏から徳川家康へ移っていきます。
この時代の変化の中で、秋鹿家十五代の直朝は大きな決断をします。天正元年(1573年)、先祖代々の屋敷地一帯を、徳川家康に献上したのです。直朝は家康に仕え、府八幡宮の神官と代官を兼ねる立場になったと伝えられています。その褒美として、家康から御刀一腰と久保の土地を与えられ、秋鹿家は屋敷を新たな地へ移しました。
現代の感覚で考えると、先祖伝来の屋敷を差し出すことは、非常に大きな喪失に見えます。しかし、当時の秋鹿氏にとっては、新しい権力との関係を築き、一族が生き残るための判断でもありました。
土地を手放したから終わったのではありません。土地の意味が変わったのです。
この視点は、現代にも通じます。
相続した実家を売る。
古い家を解体する。
管理できなくなった空き家を整理する。
先祖代々の土地を次の人へ渡す。
それは、必ずしも「家の記憶を捨てる」ことではありません。記録し、整理し、家族で共有したうえで次へ渡すなら、それも一つの継承です。
中泉御殿という新しい土地の記憶
秋鹿氏の屋敷跡には、徳川家の代官頭・伊奈忠次に命じて改修・整備がおこなわれ、中泉御殿として姿を整えていきます。天正6年(1578年)頃に小規模な砦として築かれたのが始まりとされ、天正15年(1587年)頃に整備が完成したと伝わります。
当時、江戸から駿府・浜松へと向かう将軍の宿泊・休憩施設は、全国に約90か所設けられていたといい、中泉御殿もその一つに数えられました。北側には土塁と水堀がめぐらされ、南側は湿地帯の大池を望む要害の地であったといい、単なる休憩所以上の防御性を備えていたことがうかがえます。屋敷の南に広がっていた大池には、鶴や鴨など、鷹狩りの獲物となる鳥が多くいたと考えられており、家康は浜松城へ移ったころから、この地を旅宿とし、領地の視察と健康づくりを兼ねて大池で鷹狩りをおこなったとも伝えられています。
秋鹿氏、府八幡宮、大池、そして東海道。これらが重なる場所に、家康の休泊と鷹狩りが乗っていった。中泉御殿は、空いた土地に突然選ばれたのではなく、すでにそこにあった地域の重なりの上に築かれたのだと考えると、この地の成り立ちがより立体的に見えてきます。
一つの屋敷地が、在地領主の館から、徳川政権の拠点へ変わる。これは、土地の使われ方が大きく変わった瞬間です。
しかし、その変化の前に秋鹿氏がいたことを忘れてはいけません。
土地の記憶は、現在そこに何が建っているかだけでなく、そこに至るまでの所有、移転、献上、代替地、関係性の積み重ねで成り立っています。
不動産の仕事でも、登記簿や公図だけでは見えない土地の履歴があります。
誰が持っていたのか。
なぜ手放したのか。
なぜ形が変わったのか。
どんな役割を担ってきたのか。
秋鹿氏の屋敷跡は、そのことを考えさせてくれます。
代官、神職、そして近代の土地利用へ
江戸時代に入ると、秋鹿氏は中泉で代官職を務め、府八幡宮の神職としても地域に残ります。しかし、幕府の地方支配が官僚化していくにつれ、世俗の代官職からは離れ、神職としての役割に重心を移していきます。
さらに明治維新になると、社領や神職のあり方が大きく変わり、秋鹿家の特権的な地位も失われていきます。
それでも、旧秋鹿家の土地は消えませんでした。ただし、その後の歩みは、決して穏やかなものばかりではありません。秋鹿家の旧邸地があった一角には、後年「中泉遊廓」と呼ばれる遊興街が形成された時期があったと伝わります。太平洋戦争後には、磐田に駐留した占領軍向けの慰安施設として使われ、その後は売春防止法が施行されるまで、いわゆる遊興街としての性格を持っていたとされています。この遊廓に由来する料亭「海燕楼(かいえんろう)」は、幕末期の建物を使いながら営業を続けていましたが、建物の老朽化を理由に平成10年(1998年)に閉店したといいます。
一つの土地が、
- 在地領主・秋鹿氏の屋敷
- 徳川家康の御殿
- 代官所周辺の行政空間
- 神職の家の記憶
- 近代の遊興街、そして料亭「海燕楼」
- 地域住民の手で整備された中泉歴史公園
へと変わっていく。
これは、土地が形を変えながら記憶を重ねていく例だと思います。明るい歴史ばかりではなく、遊興街という影の時代もあった。それでも目を背けずに記録しておくことが、土地の記憶を次へ渡すということなのだと思います。現在、旧秋鹿家の邸地は地域住民の手で整備され、「中泉歴史公園」として公開されています。
家を残すことだけが、記憶を守ることではない
現代の相続や空き家の相談でも、同じようなことがあります。
親の家を売ってよいのか。
先祖代々の土地を手放してよいのか。
古い建物を壊してよいのか。
自分の代で終わらせてしまうようで申し訳ない。
そうした気持ちは、とても自然なものです。
けれど、建物を残すことだけが、記憶を守ることではありません。
写真を残す。
家の来歴を記録する。
古い書類を確認する。
屋号や地名を聞き取る。
必要であれば、解体前に家の姿を撮影しておく。
土地の履歴を家族で共有してから、売却や整理を考える。
そうすることで、家や土地の記憶は、形を変えて残ります。
秋鹿氏の歩みを見ても、土地は同じ形で残り続けたわけではありません。屋敷は御殿になり、御殿は代官所になり、代官所の周辺は遊興街になり、そして今は歴史公園になっている。それでも、いま中泉の歴史を語るうえで、秋鹿氏の記憶は欠かせません。
土地を手放しても、記憶は手放さなくてよい
不動産の整理は、時に避けられません。
相続人が遠方にいる。
管理できない。
税金が重い。
建物が危険になっている。
家族で維持する人がいない。
そういう現実はあります。
けれど、土地を手放すことと、記憶を手放すことは同じではありません。
土地には、価格だけでは見えない記憶があります。その記憶をどう受け止め、どう記録し、どう次へ渡すか。
秋鹿氏という一族の歩みは、磐田の歴史であると同時に、現代の私たちが家や土地をどう扱うかを考える手がかりでもあります。
屋敷を差し出し、形を変え、それでも地域の記憶として残っていく。
土地とは、そういうものなのだと思います。
古い家・相続した土地・空き家で迷っている方へ
磐田市で相続した実家、古い家、空き家、先祖代々の土地の扱いに迷っている場合、まずは「何を残すか」を整理してから判断することが大切です。
売ること、壊すこと、手放すことは、記憶を捨てることではありません。記録してから整理する。家族で共有してから次へ渡す。
富士ヶ丘サービスでは、地域の記憶と不動産実務の両面から、磐田市の土地や家の整理についてご相談を承ります。