確かなこと
- 氏子九ヶ町、本町・横町・新町・中町・大当町・蟹町・砂町・田町・東町が大唐破風造りの一層舞台屋台を曳く。
- 屋台は方向転換用の楫棒を持たず、曳綱を強く引く力と車輪の滑りで狭い辻を曲がる。
- 夜の屋台は電球を使わず、提灯の蝋燭の灯のみで総漆塗り、金箔、彫刻の陰影を浮かび上がらせる。
- 彫刻には信州諏訪の立川和四郎一門、尾張名古屋の彫長一門、半田の彫常らの系譜が見える。
巨大なダシから、美術工芸の屋台へ
初期の掛塚まつりは、二階造りの曳舞台の上に巨大なダシを立てる形態であった。徳川末期にダシの慣習が廃れ、屋台本体を恒久化し、美術工芸を施す方向へ転換したとされる。
海運で栄えた掛塚には、信州、尾張、三河、遠州の技術が流れ込んだ。商人たちは競うように彫刻、塗り、金箔、天幕に力を注ぎ、町ごとの誇りを屋台に刻んだ。
九町の屋台一覧
町別の色は読みやすさのための識別色であり、掛塚九町に公式色が存在することを示すものではない。
| 町(組) | 制作年 | 主な彫刻師 | 代表意匠 |
|---|---|---|---|
| 大当町(大組) | 寛政10年(1798年)頃 | 彫雲堂吉門、立川和四郎富惇ら | 掛塚最古とされる。鬼板・懸魚「龍」、欄間「二見が浦」 |
| 新町(志組) | 慶応2年(1866年) | 立川和四郎冨重・冨種 | 鬼板・懸魚「石橋山合戦」、欄間「虎の子渡し」。腰板「浪に千鳥」 |
| 本町(ほ組) | 明治13年(1880年) | 立川専四郎冨種、鈴木伝十ら | 鬼板・懸魚「素戔嗚尊の八岐大蛇退治」、欄間「牡丹に獅子」 |
| 砂町(寿組) | 明治29年(1896年) | 伊藤松治郎(彫松)、大村善太郎ら | 鬼板「坂上田村麻呂」、懸魚「蛇化美女」 |
| 中町(な組) | 明治39年(1906年) | 伊藤松治郎(彫松)、早瀬利三郎 | 鬼板「天岩戸開き」、懸魚「天鈿女命」 |
| 横町(よ組) | 明治40年(1907年) | 伊藤松治郎(彫松)、野々垣清三郎ら | 鬼板「黄石公」、懸魚「張良」、欄間「青砥藤綱」 |
| 蟹町(可組) | 大正6年(1917年) | 新美常次郎(彫常)、伊藤松治郎ら | 鬼板「日本武尊と賊」 |
| 田町(田組) | 昭和27年(1952年) | 浦部一郎 | 鬼板・懸魚「源頼光 大江山の鬼退治」 |
| 東町(ひ組) | 平成9年(1997年) | 早瀬宏 | 鬼板「司馬温公 甕割の図」、欄間「桐に鳳凰」 |
意匠を読む
屋台彫刻には、二十四孝、司馬温公、黄石公と張良などの中国故事、素戔嗚尊、天岩戸、日本武尊などの神話、源頼光らの武者絵が並ぶ。商人が儒教的道徳や英雄譚を選んだ背景には、装飾欲求だけでなく、地域の秩序維持や子弟教育、教養を示す機能があったと推察される。
編集メモ
親ページや市文化財表記では「屋台8基が市指定」とする資料と「屋台9基」とする資料がある。本ページでは「九町が屋台を曳く」を基本とし、市指定の基数は資料により8基・9基の表記があると注記する。
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