磐田物語
磐田物語磐田の祭り掛塚まつり / 湊町と継承

掛塚まつり特集|子ページ4

湊町の栄華と、いまの継承

掛塚まつりは、港の富が生んだ祭りである。港の機能が失われた後も、屋台と囃子は繁栄の生きた証として残った。

確かなこと

暴れ天竜と湊町

天竜川河口では堆積によって中州や川中島が発達した。掛塚の人びとは「暴れ天竜」の水害に抗うため、曲輪や輪中の治水構造を築いた。河輪、堀之内などの地名は、その痕跡である。

上流からは筏や角倉船で木材が下り、上流の人々はその代金で米、麦、塩、味噌、醤油などを掛塚で購った。木材問屋が握った富が、祭礼を育てる経済基盤となった。

巨大ダシの時代

初期には巨大なダシを立て、その制作に3か月から6か月を要したとされる。一説に3万両、あるいは5万両を投じたと伝承されるが、この金額は史実として断定しない。

「1度見ぬも馬鹿、2度見るも馬鹿」と評された熱狂も、地域の言い回しとして紹介するにとどめる。

衰退と残された祭り

明治13年(1880年)、掛塚商船組合は「掛塚港廻船之碑」を貴船神社境内に建立した。しかし、港の実態はすでに消えつつあった。鉄道と港湾環境の変化により、製材所や問屋は対岸の浜松・中ノ町へ移転し、町は衰退へ向かった。

それでも屋台群と祭囃子は残った。港の富そのものは失われても、富が作った文化は、祭礼という形で町に残り続けたのである。

連合会という合意形成

掛塚まつりは各町代表で構成する連合会が統括してきた。明治32年(1899年)には、年番町が警護巡査へ3円90銭、鰻9人前相当の謝礼を出した記録がある。同年の大火で横町・田町の先代屋台が焼失すると、明治34年に連合会から慰労金2円が出された。

昭和4年(1929年)には、河川工事で曳き出しを見合わせかけた蟹町を、連合会が区長と交渉して全町曳き出しを実現した。連合会は、町同士の紛争調停と合意形成の機関として機能してきた。

祭礼スケジュール

祭礼中は中心市街地で交通規制が行われ、公共交通や臨時駐車場の利用が推奨される。

いまの継承

約10年前、旧廻船問屋・旧津倉家住宅が磐田市へ寄贈され、のち国登録有形文化財となった。市民組織「みんなと倶楽部 掛塚」が結成され、旧津倉家住宅を地域活性化拠点として活用している。

祭礼期間には旧津倉家住宅、旧掛塚郵便局舎、靍谷家住宅などが一般公開され、ガイドツアーや全国祭屋台写真展も行われる。祭礼の存続は、血縁・地縁の義務から、文化的価値を共有する市民活動へ移りつつある。有形の町家と無形の祭りを両輪にする取り組みは、地域再生の一つの形である。

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