失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語見付地区 / 一の谷中世墳墓群遺跡

見付・中世史 | 発掘・一部移築復元

一の谷中世墳墓群遺跡 ── 見付の町はずれに眠る888基の中世墓地

見付の町の西北のはずれ、水堀土地区画整理事業の地区内で発見された一の谷中世墳墓群遺跡。塚墓・土坑墓・集石墓・コの字形区画墓という4種類の墓が、合計888基見つかった中世の集団墓地である。磐田市教育委員会文化財課の資料をもとに、遺構の内容と、見付宿絵図に残る「四ツ塚」「化粧坂」との関わりを整理する。

一の谷中世墳墓群遺跡は、見付の町の西北のはずれに造られた、今から800〜400年ほど前の集団墓地である。小さな丘陵の上や東側の斜面を利用して、塚墓162基、土坑墓277基、集石墓428基、コの字形区画墓20基という4種類の墓が、合計888基造られていた。同じ場所にこれほど多くの種類の墓が数多く造られている例は、たいへん珍しいという。

本稿の要点

見付の町はずれに広がる中世の墓地

一の谷中世墳墓群遺跡は、見付の町の西北のはずれに位置する。小さな丘陵の上や、その東側の斜面を利用して墓が造られ、15,000平方メートルにおよぶ遺跡からは、中世のいろいろな種類の墓が見つかった。発掘調査は昭和59年(1984年)から昭和63年(1988年)まで、5年間にわたって行われている。

この頃の見付には、地方の政治を行う国府や守護所が置かれていた。また、東海道の重要な宿駅でもあり、遠江地方の政治や経済の中心地として発展していた。墓地には、ここで暮らしていた人々が葬られたと考えられる。

最初につくられたのは塚墓である。葬られたのは、国府や守護所の役人とその家族だったと考えられている。しばらくして、土坑墓や集石墓が造られるが、最後まで造られ続けたのは集石墓である。これらの墓には、塚墓に葬られた人に仕えていた人々や、有力な町民たちが葬られたと考えられている。

4種類の墓と、その造り方

一の谷中世墳墓群遺跡では、塚墓・土坑墓・集石墓・コの字形区画墓という4種類の墓が確認されている。

塚墓

土を山のように盛りあげて造った墓である。周囲を溝で区画して、内側に土坑(穴)を掘り、その中に遺体を埋葬している。その後、盛り土をして小さな山のような形に整える。なかには、埋葬せずに火葬をした跡に土だけを盛りあげたものや、盛り土の中に火葬した骨を納めたものもある。

土坑墓

穴を掘って、その中に遺体を埋葬した墓である。遺体は木製の棺に入れられていたようだが、なかには直接埋葬した場合もあったと考えられる。穴の底に小さな石を一面に敷き並べたり、棺の周囲を固定させるように詰めたと考えられる石が、底の縁に沿って並んでいる例も見られた。

集石墓

石を積み上げたり、並べたりして造った墓である。中央に火葬骨が納められている。骨は、壺や甕などの蔵骨器に入れられる場合もあるが、直接骨を納める場合が多いようである。中には木箱や曲物などの容器に入れられたと思われるものもある。

コの字形区画墓

斜面部を削りだして、溝をコの字形にめぐらせて区画した墓である。内側に、溝の縁に平行して石が置かれている場合がある。遺体は土坑を掘って埋葬している例が多く見られるが、不明なものもある。区画された中央部で蔵骨器が検出された例もあり、塚墓と集石墓の中間のような墓である。

火葬遺構

遺体を火葬にした跡である。浅めの穴を掘って、その中で行っている。中央に細い溝を掘って煙道をつけたり、一段掘りくぼめたりして、火力を増す工夫がされている例もみられた。地面の上で直接行う場合もある。一の谷中世墳墓群遺跡では、こうした火葬遺構が46ヶ所見つかっている。

出土品が語る、遠方との交流

愛知県の瀬戸、渥美、常滑で焼かれた甕や壺が蔵骨器に使われていた。中国から輸入された青磁や白磁も出土している。鎌、瓦器、硯、銅製五輪塔、鉄鏃、短刀、剃刀、和鏡は、遺体といっしょに納められた副葬品である。

一の谷中世墳墓群遺跡の主な出土品
出土品備考
石塔供養のために建てられたと考えられる石造物。
蔵骨器(瀬戸産・渥美産・常滑産)愛知県の瀬戸・渥美・常滑で焼かれた甕や壺を、火葬骨を納める容器として使用。
輸入陶磁器(青磁・白磁)中国から輸入されたもの。
鎌・瓦器・硯暮らしの道具や文具にあたる副葬品。
銅製五輪塔供養のための小型の塔。
鉄鏃・短刀・剃刀武具・刃物類の副葬品。
和鏡遺体とともに納められた鏡。

これらの出土品からは、見付の町が遠江の中心地として、遠方との交流を持っていたことがうかがえる。国府や守護所の役人とその家族、そしてこれに仕えた人々が葬られた墓地にふさわしく、瀬戸・渥美・常滑という当時の代表的な窯業地の製品や、中国からの輸入陶磁器までもが副葬されている。

見付宿絵図に残る「四ツ塚」と「化粧坂」

江戸時代の史料を参考にした見付宿の絵図には、中央の東海道を中心に栄えた見付の様子がよく描かれている。一の谷中世墳墓群遺跡は、この絵図に「四ツ塚」と書かれた場所にあたると考えられる。また、国府や守護所は、絵図に「端ノ城」と書かれた付近と推定されている。

「四ツ塚」の東に見える「化粧坂」は、鎌倉など中世に栄えた町に多い地名で、町や村の境界を示していると言われている。化粧坂の北東に造られた一の谷中世墳墓群遺跡は、見付の町域の外側に造られていたことがわかる。中世の墓地の多くは、生活の場である町の内側ではなく、その境界の外側に営まれた。一の谷中世墳墓群遺跡の立地は、見付という中世都市の広がりと、その境界の位置を今に伝えている。

一ノ谷公園として復元・公開

この一の谷中世墳墓群遺跡がある場所は、水堀土地区画整理事業の地区内で発見された遺構の一部を復元し、一ノ谷公園として公開されている。発掘調査で見つかった中世のいろいろな種類の墓のうち、代表的なものを型取りして移築し、調査の記録にもとづいて復元したものである。遺跡全体のようすは、縮尺1/75の模型にして磐田市埋蔵文化財センターに展示されている。

国府と守護所を擁した中世見付の町。その繁栄を支えた人々が眠る墓地は、町の内側ではなく、化粧坂の外側、一の谷の丘陵にひっそりと営まれていた。

参考資料

町の境界に営まれた墓地の記憶をたどると、見付の町がどこまで広がっていたかが見えてきます。相続した家、空き家、使わなくなった土地について、「売る・貸す・残す」の前に一度整理して考えたい方は、富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。

家・土地・空き家の整理について相談する
← 見付地区の入口ページへ戻る 全記事一覧を見る