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見付地区 | 古写真・絵葉書

見付宿を愛宕神社から俯瞰する ── 一枚の絵葉書が伝える宿場の家並み

大きく枝を広げた一本の木の下から、瓦屋根が波のように連なって奥の森へ吸い込まれていく。「Mitsuke Totomi」と刷られた古い絵葉書は、高台から見付宿の町なかを見下ろした一枚である。手前の樹木の大きさから、撮影地点は愛宕神社の境内あたりと推定される。発行者も撮影年代もわからないこの絵葉書を手がかりに、いま歩く見付の町の下に眠っている風景をたどってみたい。

愛宕神社境内の高台から俯瞰した見付宿の景観を写した絵葉書、東海道五十三次の内 見付。手前に大きな樹木、中央に瓦屋根の連なる街道の町並み、その中ほどに塔状の火の見櫓が写る
絵葉書「東海道五十三次の内 見付(Mitsuke Totomi)」。手前の樹木越しに、瓦屋根の連なる見付宿の家並みを高台から見下ろす。中ほどに塔状の構造物(火の見櫓と推定される)が立つ。 所蔵:佐口行正氏(許可掲載)/発行者・撮影年代は資料上確認できない。

一枚の絵葉書に写る町

絵葉書の下辺には「Mitsuke Totomi」の欧文と、「東海道五十三次の内」の文字が刷られている。トウミ(Totomi)は遠江、すなわち見付が属した旧国名である。東海道五十三次の宿場のひとつ、遠江国の見付を写した絵葉書だと読み取れる。

ただし、そこから先はわからないことが多い。誰がいつ発行したのか、どこの写真館や版元が手がけたのか、絵葉書そのものからは判読できない。私製の絵葉書が広く出回るようになるのは明治後期以降のことで、この一枚もその流れのなかで作られた可能性は高いが、具体的な年代を絵葉書の図柄だけから断定することはできない。ここでは、写っているものそのものを丁寧に見ていくことにする。

撮影地点はどこか

まず目を引くのは、画面の右手前に大きく枝を広げる一本の木である。幹の太さと枝ぶりから、かなりの古木であることがうかがえる。これほどの木が単独で高い位置に立ち、そこから町を見下ろせる場所は、見付の地形のなかでもそう多くない。

見付の町の東の縁には、愛宕山と呼ばれる高まりがあり、そこに愛宕神社が鎮座している。旧東海道を東から見付宿へ入るとき、まず愛宕の杜を過ぎ、坂を下って宿場の家並みへ入っていく道筋になっている。手前の古木を神社の社叢の一部と見れば、この絵葉書は愛宕神社の境内、あるいはその周辺の高台から西へ町を見下ろして写した一枚と推定される。断定はできないが、樹木の大きさと俯瞰の角度は、その推定とよく合う。

写真に写るものを読み解く

瓦屋根の連なり

画面の中央を、瓦屋根が幾重にも重なりながら奥へと続いていく。屋根と屋根のあいだにわずかに見える細い筋が、旧東海道の本通りである。通りの両側に家々が向かい合って軒を連ね、その並びが遠くの森へ吸い込まれるように収束していく。宿場町らしい、間口をそろえて建ち並ぶ家並みの密度が、屋根の重なりだけで伝わってくる。

塔のような構造物

屋根の海のなかほどに、周囲より一段高く、細い塔のような構造物が立っている。四本の脚で組まれた櫓状のかたちからみて、火の見櫓と考えられる。町のどこからでも見えるように高く組まれ、火災や異変をいち早く知らせる役割を担った建物である。

町を囲む森

家並みの先には、こんもりとした森が横たわり、町を背後から包み込んでいる。神社や寺の社叢、あるいは屋敷林がつらなったものだろう。台地の縁に開けた見付の町が、緑の帯にふちどられていた様子が見て取れる。

火の見櫓とは何か

絵葉書の中ほどに写る塔状の構造物について、もう少し補っておきたい。

この絵葉書に写る櫓が、いつ建てられ、いつまで立っていたのかは、この一枚からはわからない。それでも、瓦屋根の連なりの真ん中に一本すっと立つ姿は、当時の見付が火の用心にどれだけ気を配っていたかを、静かに物語っている。

見付宿と東海道五十三次

見付は、江戸から数えて東海道五十三次の28番目の宿場にあたる。天竜川を控えた交通の要地で、遠江国の国府が置かれた土地の流れをくむ、遠江きっての古い町場である。街道を行き交う旅人、荷を運ぶ人馬、宿を営む家々が集まり、宿場としてのにぎわいを長く保ってきた。

絵葉書に写る瓦屋根の連なりは、そうした宿場町の骨格がまだ色濃く残っていた時期の見付の姿である。宿場の由来や範囲そのものについては、別の記事(見付宿の成立と宿場範囲)でも扱っているので、あわせて読んでいただきたい。ここでは、街道の両側にびっしりと家が建ち並ぶ「宿場のかたち」が、高台からの一望のなかにはっきりと見て取れることを確かめておきたい。

愛宕神社と見付の町

愛宕神社は、火伏せ(火除け)の神として各地でまつられてきた。町を見下ろす高台に愛宕がまつられ、その足もとの町なかに火の見櫓が立つ――この絵葉書は、はからずも、火から町を守ろうとする二つのものを一枚のなかに収めている。神に祈る高台と、人が見張る櫓とが、同じ画面のなかで町の安全を見守っているように見える。

高台の杜から見下ろせば、町は屋根の連なりとして一望でき、その全体を森がやわらかく囲んでいる。神社の杜が町を包み込むように広がるこの景観は、見付という土地が、台地の縁とそこに育った木々とともにかたちづくられてきたことを感じさせる。

今の見付を歩く手がかり

いま同じ場所に立っても、この絵葉書とまったく同じ風景を見ることはできない。瓦屋根の家並みの多くは建て替わり、本通りは道路の拡幅を経て、宿場町らしい密度感は薄れている(見付の路地裏と生活道路参照)。火の見櫓も、いまはその姿を確かめられない。

それでも、手がかりが消えたわけではない。町の東の縁に高まりがあること、そこから西へ町が開けていること、旧東海道が家並みのあいだをまっすぐに貫いていること――絵葉書が示す町の骨格は、いまの見付を歩いてもたどることができる。どの木がこの古木にあたるのか、櫓が立っていたのは通りのどのあたりか、といった細部は現時点では断定できない。現地を歩き、古地図や他の古写真と突き合わせながら、少しずつ確かめていくべき部分である。

一枚の絵葉書から

発行者も年代もわからない一枚の絵葉書が、それでも、失われた見付の家並みと、町を見守った櫓と、町を包んだ森を、いまに伝えている。写っているものを丁寧に読み、わからないことはわからないまま残しておく。そうやって一枚ずつ古写真を読み解いていくことが、いまは見えなくなった見付の町を、もう一度たどり直す作業になる。同じ絵葉書をお持ちの方、写っている建物や櫓についてご存じの方がいれば、掲示板から教えていただけるとありがたい。

参考資料・作成方針

  • 絵葉書「東海道五十三次の内 見付(Mitsuke Totomi)」(所蔵:佐口行正氏、許可掲載)。発行者・撮影年代は資料上確認できない。
  • 磐田物語 m119.html(見付宿の成立と宿場範囲)
  • 磐田物語 m083.html(見付の路地裏と生活道路:本通り拡幅の記述)
  • 磐田物語 m088.html(見付の古写真・絵葉書から消えた建物を復元する)
  • 磐田物語 c019.html(佐口行正氏所蔵史料 目録)
  • 愛宕神社・火の見櫓・東海道見付宿に関する一般的な知識

著者:大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)。撮影地点(愛宕神社境内の高台)、塔状構造物(火の見櫓)はいずれも写真から読み取れる推定であり、発行者・撮影年代とあわせて資料上は断定できない。確認できる事実(絵葉書の実在と刷り文字、見付に愛宕神社が鎮座すること)と、そこから考えられる推測とを分けて記述した。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。