向笠竹之内の池之谷新田
――大身旗本加々爪氏の開発と「深田」に挑んだ三百年
磐田原台地の東斜面に深く切れ込んだ谷筋・向笠竹之内の「池之谷(いけのや)」。江戸時代前期の明暦2年(1656年)、大身旗本・加々爪甲斐守忠知の手で用水池が干拓され新田となったが、元が池底であったために腰まで沈む「黒ブク」の深田となり、農民たちは松丸太を敷いて耕作を続けた。昭和の土地改良と現代の変貌まで、谷あいの三百年にわたる土地史をたどる。
向笠史談会編『ふる里向笠』(1984年)116~123頁「加々爪甲斐守と池之谷」。寺田家所蔵古文書(明暦2年・寛文10年検地記録)、地域古老の伝承、および筆者自身の耕作体験(昭和46年の道路陥没・隆起事件、耕耘機水没の苦心、暗渠排水工事)を記録した生活誌である。
磐田原台地東縁の谷筋と「池之谷」の立地――地形が作った閉鎖空間
磐田原台地の東斜面は、北から南へ向かって幾条もの尾根と谷が手の指を広げたように交互に張り出している。台地上は乾いた赤土(洪積層)が広がる一方、開析された谷筋には湧水が集まり、独特の湿地帯を形成してきた。向笠竹之内の地誌において、その典型的な谷あいの集落として知られるのが「池之谷(いけのや)」である。
見付から見付山梨街道を北上し、茨木坂を登って元天神から東へ進むと、台地の東縁に出る。そこから約2キロメートルにわたる坂を下りきった底地に、南北に細長く切れ込んだ谷間が開けている。谷の幅は狭いが奥行きは非常に深く、西側の台地崖線と東側の丘陵に挟まれた、日当たりの悪い陰湿な山峡であった。谷の奥には約3町歩(約3ヘクタール)の田園が広がり、その奥の傾斜地には茶畑が2町歩ほど続き、さらに奥山は松や雑木の林へと連なっていた。民家は山裾に沿ってわずか5〜6軒が点在するだけの、かつては極めて静寂で孤立した集落であった。
地名の「池之谷」が示す通り、この場所は古くは自然の地形を利用した広大な「用水池」であった。池の周囲は大木が生い茂り、道らしい道もなく、柴刈りや薪拾いの里人が分け入る程度で、青く澄んだ豊富な水が湛えられ、「深いところには龍神が潜んでいるのではないか」と恐れられるほどの水面であったという。池の出口にあたる谷あいの最も狭隘な部分には頑丈な堤防が築かれており、その堤防は現在も道路の基盤として痕跡をとどめている。この天然の巨大な貯水池は、近隣の集落にとってかけがえのない生命の源泉であった。
谷の奥へ吹き込む湿った風と、台地からの浸透水は、年間を通じて豊かな水量を保たせる反面、一度大雨となれば谷底全体に水が滞留しやすい閉鎖的な地形を作り出していた。近世以前、この谷間を水田として開墾する発想が生まれなかったのは、池の持つ巨大な保水能力が、下流の平野部を干ばつから守るための不可欠な水利施設として機能していたからにほかならない。
池之谷の地形的な孤立性は、周辺の集落構造にも色濃く反映されていた。西側の台地の上には広大な原野が広がり、東側の丘陵の向こうには敷地川が流れているものの、池之谷そのものはすり鉢の底のように外部から遮断された空間であった。谷の奥深くに足を踏み入れると、昼間でも鬱蒼とした木々の影が差して薄暗く、台地から絶え間なく湧き出す清水が谷底を潤していた。この豊かな湧水環境こそが、近世以前に巨大な用水池として維持されていた最大の理由であった。池には大蛇や龍神が棲むという伝説が生まれたのも、人が容易に近づけない底知れぬ深さと、神秘的な水辺の静寂が人びとの信仰心と畏怖の念をかき立てたからであろう。この水は、下流に暮らす農民たちにとって、まさに神仏の恵みそのものであった。
明暦2年、加々爪甲斐守の用水池干拓と中井用水――大身旗本と農民の対立
この天然の用水池が耕地へと変貌した契機は、江戸時代前期の明暦年間(1650年代)にさかのぼる。当時、この一帯を領有していた旗本・加々爪甲斐守忠知(かがつめ かいのかみ ただとも)による新田開発であった。
加々爪氏はもと今川氏の家臣であったが、今川氏の衰退に伴って徳川家康に従い、江戸幕府旗本として重用された。遠江国山名郡・豊田郡をはじめとする十数ヶ村・9,500石を領する大身旗本となり、現在の磐田市新池などに知行地を有していた。大名(1万石以上)昇格を目前にした加々爪氏は、所領を増やして大名に列することを強く望み、領内の荒地や池沼を積極的に開墾・干拓して石高への編入(新田開発)を推し進めていた。その開発目標として目を付けられたのが、竹之内の池之谷用水池であった。向笠西寺田家に伝わる古文書の記録によれば、明暦2年(1656年)、「加々爪甲斐守検地池之谷新田開発」が行われ、尾張国から呼び寄せられた孫太夫・為助という兄弟2人の手によって池の水が抜かれ、新田としての開発が強行された。
領主の権力によって一方的に用水池を干拓されたことは、下流の農民たちにとって死活問題であった。古くからこの池の水は、向笠竹之内、向笠西村、篠原の3ヶ村の田畑を潤す貴重な農業用水だったからである。農民たちは当然のことながら池の廃止に激しく反対したが、「泣く子と地頭には勝てぬ」の言葉通り、領主の威圧の前に反対運動は圧殺された。水源を奪われた3ヶ村の農民は、直ちに深刻な水不足に直面した。川の水に頼るほか道がなくなった3ヶ村は、他領との厳しい折衝を重ね、新たな用水路を開削することを余儀なくされた。これが「中井用水(なかいようすい)」である。
中井用水は、向笠中村と深見の境を流れる小藪川を堰き止め、曲がりくねった水路で中村の田園を導水し、一旦敷地川に落とした上で、さらに竹之内欠下の払(取水口)から導入して3ヶ村を灌漑する極めて迂遠な水路であった。小藪川の水量だけでは不足するため、敷地川との合流点に通称「落合の板」と呼ばれる堰を設け、敷地川の水も取り入れた。日照りが続けば、わずかな水をめぐって分水争いが絶えず、田へ水を引き入れる苦労は並大抵のものではなかった。この中井用水は、昭和19年(1944年)に近代的な磐田用水が通水するまでの実に280年余りにわたり、加々爪氏の池干拓の代償として農民たちが維持し続けた苦闘の遺産であった。なお、加々爪甲斐守忠知は貞享2年(1685年)に不正事件により幕府から断罪され改易となったが、干拓された池之谷の田んぼと中井用水はそのまま残された。
「松丸太」を敷いて歩いた深田――黒ブクの泥と耕作の難渋
池を干拓して造成された池之谷の新田そのものも、通常の田畑とはまったく異なる過酷な耕作環境であった。もともと池の底に堆積した泥地であるため、水が抜けず、極度にくびれた「深田(ふかでん)」となったのである。
土壌は「黒ブク」と呼ばれる特有の真っ黒な泥土であった。これは真菰(まこも)や水草などの有機物が長年腐植して堆積した泥炭質の土壌で、乾燥させれば燃え上がる性質を持ち、田面に立つとまるで地震のようにブカブカと揺れる軟弱地盤であった。深い場所では泥が腰まで達した。足を踏み入れれば自力で抜くことができなくなるため、農家では泥の最深部に「松の丸太」を何本も沈めて埋め込み、その丸太の上を綱渡りのように伝い歩きながら田植えや稲刈りを行った。一度田に入れば全身が真っ黒な泥にまみれるため、地域の若い女性たちからは最も敬遠される田んぼであったという。
日当たりが悪いうえに地温も上がらず、稲の生育は極めて遅かった。肥料を与えても底なしの泥の深みへと流亡してしまい、収穫量は平野部の美田に遠く及ばなかった。唯一の救いは、泥が柔らかいために手による草取り作業が容易だった点だけであったが、それも過酷な重労働の前には慰めにもならなかった。それでもこの地に生きる農民たちは、代々受け継いだ田を捨てることなく、泥にまみれながら米を作り続けた。
戦後、農業の近代化に伴って耕耘機などの小型トラクターが普及した際も、池之谷の田だけは例外であった。機械を田に入れた途端、底なしの深みへとズブズブと沈み込み、エンジンまで泥に浸かって立ち往生した。家族総出でも引き上げられず、隣近所の人手を総動員してロープで引っ張り出さねばならず、「これなら鍬で手作業した方がましだった」と苦笑いすることが度々あったと筆者は述懐している。機械化の恩恵からも取り残された池之谷は、近世以来の原始的な労働形態を昭和四十年代まで引きずることとなった。
黒ブクと呼ばれる泥炭土壌での農作業は、肉体的な苦痛を極めた。水田に足を入れると、「ズブッ」という音とともに膝頭が泥に吸い込まれ、一歩を踏み出すごとに強烈な泥の粘着力によって足が締め付けられた。埋め込まれた松の丸太は泥のなかで滑りやすく、バランスを崩せば顔面から泥海へと転倒した。田植えの季節には、冷たい地下水と泥炭の低温が足腰を芯から冷やし、リウマチや神経痛を患う農民が後を絶たなかった。収穫期には、刈り取った稲束を泥に濡らさないよう、頭上に掲げながら一本の丸太の上を慎重に歩いて畔まで運ばねばならなかった。重労働に耐えかねた農民たちが、山すその「柿の木様」に足腰の平癒を祈願して草履やわらじを奉納した背景には、この池之谷の深田がもたらした過酷な労働実態が深く結びついていたのである。
昭和の土砂沈下・暗渠排水から向笠の中心地へ――土地利用の現代史
この過酷な深田に決定的な転機が訪れたのは、昭和46年(1971年)前後のことであった。周辺での土砂採取事業に伴い、池之谷の田んぼを横断して幅6〜7メートルのダンプカー用道路が新設されることになった。
工事前日、業者は大型ダンプで大量の山土を運び入れ、田の上に高さ2メートルもの盛土を行った。ところが翌朝、工事現場に向かった関係者は驚愕した。盛り土の重みに耐えかねた軟弱地盤が完全に陥没して田んぼの高さまで沈み込み、その圧力によって、道路の両側にあった水田の泥面が2メートルも隆起して盛り上がっていたのである。土木専門業者さえも困惑させたこの珍現象は、池之谷の底なしの軟弱さを如実に物語る出来事であった。土を入れれば入れるほど泥が周囲を押し上げるという、まさに天然の泥湖の記憶が生きていた。
その後、地域一帯で本格的な圃場整備・土地改良事業が実施された。深田に暗渠(あんきょ)排水管を埋設して地下水位を下げ、客土を行って地盤を固めたことで、池之谷の田は三百年にわたる泥の苦闘から解放され、トラクターが自在に走行できる近代的な美田へと生まれ変わった。水路は中央に整備され、耕作道も拡張されたが、その一方で広大な敷地が道路や水路に削られ、減反政策も相まって一部は休耕地となるなど、近代化特有の課題も経験することとなった。
さらに時代の波は、この山峡の地を大きく変貌させた。南側の旧道は幅員8メートルの幹線道路(袋井浜北線)へと拡幅・舗装され、中央線や歩道が整備された。また、老朽化した向笠小学校が耐震化に伴って池之谷の西寄り高台へと新築移転し、向笠幼稚園、新築された向笠公民館の正門もすべて池之谷に面して配置された。大身旗本の野望による池干拓、水と泥に挑み続けた三百年の百姓の汗、そして戦後の土木技術。かつて龍神が潜むと恐れられた辺鄙な谷間は、いまや子どもたちの歓声が響き、車が行き交う「向笠地区の中心核」として新たな時を刻んでいる。
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参考資料・史料上の限界
- 向笠史談会編『ふる里向笠』、1984年、116~123頁「加々爪甲斐守と池之谷」。
- 明暦2年の池之谷新田検地、寛文10年の地頭記録は、向笠西寺田家所蔵古文書および磐田市誌編纂資料に基づく。
- 深田の耕作状況(松丸太、黒ブク、耕耘機水没)および昭和46年の道路陥没・隆起の記録は、同書筆者の実見・体験記録による。
更新履歴
- 公開。明暦2年の加々爪甲斐守による池干拓、中井用水の新設、深田耕作の苦難と現代の変貌を整理。