この記事の要点
向笠小学校の歴史は、校名の変遷だけを追っても見えてこない。寺を借りて始まった近代教育、向笠村の成立、戦時下の学校制度、戦後の施設整備、自然と向き合う平成期の環境教育、そして少子化を受けた学校統合。その一つ一つが、向笠という土地が近代から現代へ移っていく過程と重なっている。
本稿は、PDF「向笠小学校の歴史調査」を基礎資料とし、既存の磐田物語記事と照合して再構成した。校名変更や市立化の年月には資料間で表記に幅があるため、断定できない箇所は「とされる」「再確認を要する」と明記する。
向笠の学校史は、寺院から始まった
PDF「向笠小学校の歴史調査」によれば、向笠地区で近代教育が立ち上がった最初の場所は、現在の学校の敷地ではなかった。1873年(明治6年)4月、向笠竹之内・篠原・向笠西の3村が合同し、法雲寺を借りて「向笠学校」を開いたとされる。同じ年の11月には、より広域の4村合同として「磐田学校」が新豊院を仮校舎に開校した。
明治初期の学校は、はじめから専用校舎を持っていたわけではない。見付学校が宣光寺・省光寺を仮校舎としたように、地域の寺院は、近代教育を受け止める最初の器であった。向笠の場合も、法雲寺、新豊院、定福寺という寺院を移りながら、村の子どもたちが新しい制度としての学校に出会っていった。
ここで新豊院の名が出てくることは、向笠らしい。新豊院の背後には、国指定史跡の新豊院山古墳群があり、周辺には弥生から古墳時代へつながる墳墓の記憶が重なっている。近代学校の始まりが、古代から中世の記憶を抱える寺院空間に置かれたことは、向笠の学校史を土地の長い時間の中で読む手がかりになる。
村の成立と、学校の独立
1875年(明治8年)には、校舎は向笠竹之内68番地の定福寺へ移ったとされる。寺を借りる時代はしばらく続くが、1884年(明治17年)5月、向笠竹之内に専用校舎が新築された。これにより、向笠の学校は寺院への間借りから離れ、地域の教育施設として独立する。
その翌年、1885年(明治18年)には友永小学校と合併し、「友永小学校向笠分校」となったと資料は伝える。しかし1889年(明治22年)、町村制施行によって向笠村が成立すると、学校は「向笠尋常小学校」として再び独立した。行政の村ができることと、村の学校が独立することは、別々の出来事ではなく、同じ地域形成の流れの中にあった。
向陽の成り立ちで整理したとおり、向陽地区は古くから一つの行政地名だったわけではない。大藤・向笠・岩田という旧村のまとまりが、戦後の学校区と生活圏の中で結び直されてきた。その中で向笠小学校は、向笠村の名をもっとも長く日常の中に残した施設の一つであった。
権現下の校地へ
1905年(明治38年)3月、向笠小学校は向笠竹之内権現下351番地へ移転したとされる。ここが、2026年の閉校まで続く校地となった。学校の歴史を「どこに建っていたか」から読むと、この移転は大きな節目である。寺院を借りる学校から、村の中に校地を持つ学校へ変わっただけでなく、以後の校舎増築、校庭拡張、体育館、プール、ビオトープまで、この場所を中心に積み重なっていくからである。
大正期から昭和初期にかけて、施設整備は段階的に進んだ。1923年(大正12年)には南校舎、1933年(昭和8年)には後に講堂として使われる校舎が落成し、1936年(昭和11年)には二宮尊徳像が除幕されたと資料は記す。二宮像は、当時の修身教育や勤勉の徳目を象徴する存在であり、学校が知識だけでなく生活規範を教える場であったことを物語る。
1943年(昭和18年)には校庭北西端の山を切り崩して校地を拡張したとされる。山を削って校地を広げるという行為は、学校が地域の労力と土地に支えられていたことを示す。向笠の学校は、土地の上に建っていただけでなく、土地を作り替えながら大きくなっていった。
戦争、地震、そして戦後の小学校へ
1941年(昭和16年)4月、国民学校令により、向笠尋常小学校は向笠国民学校へ改められた。これは向笠だけの出来事ではなく、全国の初等教育が戦時体制の中へ組み込まれていく制度変更であった。磐田物語の別稿「竜洋の学び舎の歩み」で扱った掛塚国民学校と同じ時代の変化である。
戦時下の向笠小学校を揺さぶったのが、1944年(昭和19年)12月の昭和東南海地震である。PDFは、校舎の傾斜、壁の落下、井戸屋の倒壊などの被害が記録されているとする。物資の乏しい戦争末期に学校施設が損傷することは、単なる建物被害ではない。子どもたちの学びの場が、戦争と自然災害の両方にさらされたということである。
終戦後、1947年(昭和22年)4月の学制改革によって、学校は向笠村立向笠小学校となり、新制中学校も発足した。1955年(昭和30年)に向笠村が磐田市へ編入されると、磐田市立向笠小学校へ改称されたとPDFは整理する。一方、既存記事では市立化を1956年(昭和31年)4月とする表記もあるため、校名変更の正確な月日は今後、市史・学校沿革資料で再確認したい。
高度経済成長期の学校施設
戦後復興から高度経済成長期にかけて、向笠小学校は施設面で大きく変わった。1952年(昭和27年)に2階建て4教室が新築され、1956年(昭和31年)には校舎西端の山をさらに崩して校地を広げ、1957年(昭和32年)には6教室が増築されたと資料は伝える。山を切り開く学校整備は、戦前から戦後へ続く向笠小の特徴でもある。
1958年(昭和33年)には給食室が建設され、完全給食が始まった。給食は、単に昼食を出す制度ではない。家庭の食生活、衛生、子どもの健康、地域の農業や流通とも結びつく。1970年(昭和45年)の歯科優良校、1972年(昭和47年)の学校給食優良校という受賞は、学校が地域の子どもの身体を支える場として評価されたことを示している。
1964年(昭和39年)にはプールが竣工し、1973年(昭和48年)には体育館が建設された。翌1974年(昭和49年)には創立100周年記念行事が行われ、1983年(昭和58年)には現在の主力校舎となる鉄筋コンクリート造校舎が竣工したとされる。寺を借りて始まった学校は、この頃には現代的な施設を備えた地域の中心施設になっていた。
校訓「誠実」と、権現山のツツジ
平成期以降の向笠小学校を象徴する言葉が、校訓「誠実」である。PDFは、この言葉に「まじめで嘘をいわない」「心を打ち込み、やり抜く姿」「言行が一致している」という意味が込められていたと整理している。
その校訓は、額に入って教室に掲げられるだけではなかった。1991年(平成3年)6月、学校南側の権現山中腹にツツジが植えられ、「せいじつ」という文字が形づくられたとされる。坂を上がって運動場へ出る子どもたちの視界に、山肌の文字が入る。理念が紙ではなく地形に刻まれているところに、向笠小学校らしさがある。
学校の理念が、校舎の内側ではなく、山の斜面、校庭、池、広場へ広がっていく。これは、後にビオトープやトンボ広場へつながる向笠小の教育の性格を、早くから示していたのかもしれない。
ビオトープと環境教育
向笠小学校の平成期の特色として、環境教育は欠かせない。1997年(平成9年)10月に「トンボの池」が完成し、2003年(平成15年)2月にはトンボ広場に大規模なビオトープが整えられた。2003年から約2年をかけて、3年生から6年生までの児童が主体的にツリーハウスをつくったとPDFは伝える。
この取り組みは、学校の美化活動というより、土地を学ぶ授業であった。向笠地区には、桶ケ谷沼や鶴ケ池など、湿地・池・トンボの記憶が濃い場所がある。校庭にビオトープをつくることは、地域の自然を学校の中へ縮めて持ち込む作業でもあった。
2004年(平成16年)の全国学校ビオトープコンクール奨励賞、2006年(平成18年)の環境大臣賞、2011年(平成23年)の野生生物保護功労文部科学大臣奨励賞、2012年(平成24年)・2014年(平成26年)の日本生態系協会賞など、外部評価も続いたとされる。受賞歴は結果であり、本質は、子どもたちが校庭を観察し、手を入れ、自然を自分たちの学びの場として育てたことにある。
閉校と、向陽小学校への継承
21世紀に入ると、向笠小学校も少子化の流れを避けることはできなかった。磐田市教育委員会は、向陽中学校の学区内にある向笠小学校・大藤小学校・岩田小学校を統合し、向陽中学校敷地内に新しい小学校を建設する、向陽学府小中一体校構想を進めた。
2014年(平成26年)4月には、向陽学府による小中一貫教育が本格的に始まっていたとPDFは整理する。物理的な校舎統合は、その後に続く段階である。2023年(令和5年)には創立150周年を迎え、児童主体の「かがやきフェスタ」と創立150周年記念式典が行われたとされる。
2026年(令和8年)3月14日、閉校式と感謝の集いが向笠小学校体育館で行われ、同年3月31日に閉校した。最後の卒業生は22名であったとPDFは伝える。そして2026年4月1日、向陽中学校敷地内に磐田市立向陽小学校が開校した。
新しい向陽小学校のコンセプトは「日本一やさしさが育つ学校」とされる。新校舎には、旧3校のシンボルカラー、ラーニングセンター、交流コモンズ、サブアリーナ、ランチルームなどが設けられた。とくにランチルームは、向笠小学校の伝統を引き継ぐ空間として位置づけられている。名前としての向笠小学校は消えたが、学校空間の一部は新しい学校へ移されたのである。
向笠小学校年表
| 年 | 出来事 | 読みどころ |
|---|---|---|
| 1873年4月 | 法雲寺に向笠学校を開設 | 寺院を借りた近代教育の始まり。 |
| 1873年11月 | 新豊院を仮校舎として磐田学校開校 | 向笠小学校の源流として語られる節目。 |
| 1875年 | 定福寺へ移転 | 法雲寺・新豊院・定福寺を渡り歩いた時期。 |
| 1884年 | 向笠竹之内に校舎新築 | 寺院借用から専用校舎へ。 |
| 1889年 | 向笠尋常小学校として独立 | 町村制による向笠村成立と連動。 |
| 1905年 | 向笠竹之内権現下351番地へ移転 | 閉校まで続く校地の成立。 |
| 1941年 | 向笠国民学校に改称 | 戦時体制下の教育制度へ。 |
| 1944年 | 昭和東南海地震で校舎被害 | 戦争末期の学校を襲った自然災害。 |
| 1947年 | 向笠村立向笠小学校へ | 戦後の6・3制と新制中学校の時代。 |
| 1955年頃 | 磐田市立向笠小学校へ改称 | 資料により1955年・1956年の表記差がある。 |
| 1974年 | 創立100周年記念行事 | 地域の学校として1世紀を刻む。 |
| 1983年 | 鉄筋コンクリート造校舎竣工 | 現代的校舎への更新。 |
| 1991年 | 権現山にツツジ文字「せいじつ」 | 校訓を地形に刻んだ象徴。 |
| 2003年 | トンボ広場にビオトープ完成 | 環境教育の中心的な場。 |
| 2006年 | 全国学校ビオトープコンクール環境大臣賞 | 校庭を地域自然の学びに変えた成果。 |
| 2023年 | 創立150周年 | 閉校前の大きな節目。 |
| 2026年3月31日 | 閉校 | 153年の校名に幕。 |
| 2026年4月1日 | 磐田市立向陽小学校開校 | 向笠・大藤・岩田の3校から新しい学府へ。 |
向笠の名は、どこへ残るのか
向笠小学校の閉校は、一つの校名が消える出来事である。しかし、向笠の名がただ消えたわけではない。向笠地区の地名、向笠城の伝承、太田川・敷地川の土地の記憶、高塚太郎平の道づくり、そして学校の153年が重なって、向笠という名は地域の記憶の中に残り続ける。
新しい向陽小学校は、向笠・大藤・岩田を一つにする学校である。統合は、古い名前を消すだけではなく、それぞれの旧村の記憶を同じ校舎の中に持ち寄ることでもある。向笠小学校の歴史を記録しておく意味は、閉じた学校を懐かしむことだけではない。向陽という新しいまとまりの中で、どの土地からどんな学びが来たのかを、後からたどれるようにすることである。
用語メモ
1941年(昭和16年)の国民学校令により、それまでの尋常小学校・高等小学校を改めて設けられた初等教育機関。向笠尋常小学校もこの制度変更で向笠国民学校となった。
生きものが生息する空間を意味する語。向笠小学校ではトンボ広場や池を中心に、児童が自然を観察し、手を入れながら学ぶ環境教育の場として整えられた。
向陽中学校の敷地内に、向笠小学校・大藤小学校・岩田小学校を統合した向陽小学校を置き、小中一貫の教育環境を整える構想。2026年4月1日に向陽小学校が開校した。
更新履歴
- 2026年7月17日 新規公開。PDF「向笠小学校の歴史調査」をもとに、向笠小学校の創立・校地変遷・施設整備・環境教育・閉校と向陽小学校への継承を整理した。
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