磐田原台地と古墳分布 ──
台地の縁に眠る、時代の異なる王たち
磐田原台地という舞台
磐田原台地は、天竜川の東岸にひろがる洪積台地で、標高は北部で最高約130mに達し、南に向かって約1.1%の勾配でゆるやかに下る。天竜川西岸に広がる三方原台地と同時期の隆起運動によってできたとされ、かつての天竜川がつくった扇状地の礫層が、そのまま台地の表面として残された、いわゆる河成段丘である。台地面には複数の谷(谷津)が刻まれ、地下水面が深いという性質を持つ。水はけがよい反面、水利には恵まれず、後の時代には深刻な水不足に悩まされることになる(磐田原の水不足と開発史は別記事で扱う)。
この「水に乏しいが見晴らしがよく、水害を受けにくい台地」という土地の性質が、古墳時代の人々の土地利用を強く規定した。生活と生産の場は台地下の低地・沖積地に営まれ、有力者の墓は、その低地を見下ろす台地の縁に築かれる――という住み分けが、弥生末から古墳中期まで、数百年にわたって繰り返されたと考えられる。台地の縁には、現在確認されているだけでも500基前後ともいわれる古墳・墳墓が分布するとされ、磐田原台地は遠江における古墳時代の中核的な墓域の一つに数えられる。
弥生から古墳へ ── 新豊院山古墳群(台地北部・豊岡)。 台地北部、向笠竹ノ内の新豊院山古墳群は、弥生時代中期の土器棺墓から、古墳時代前期の前方後円墳までが一つの丘に積み重なる、国指定史跡である(1987年〈昭和62年〉7月3日指定)。30基以上の小型古墳・台状墓・周溝墓がA〜D地区に分かれて分布し、構造が確認された主要な遺構は3基。2号墳(全長34m)は県内最古級の前方後円墳の一つとされ、竪穴式石室から舶載の三角縁神獣鏡や直刀・鉄鏃などが出土している。台地の古墳群の中でも、もっとも早い時期にさかのぼる遺構であり、弥生の墓制から古墳という新しい墓制へ移り変わる過渡期の姿を伝えている。詳しくは新豊院山古墳群と台地上の支配者で扱っている。
台地南東縁の大古墳群 ── 御厨古墳群(台地南東部・御厨)。 台地の南東縁、鎌田・新貝には、松林山古墳(全長107m、4世紀後半築造と推定)を中心に、高根山古墳・御厨堂山古墳などが連なる御厨古墳群がある(国指定史跡、平成13年3月26日指定)。研究では、松林山→高根山→御厨堂山という系統と、京塚→秋葉山→稲荷山という、二つの並行する首長の系譜が想定されている。松林山古墳から出土した三角縁神獣鏡は、ヤマト王権が各地の有力者に配布したと考えられる威信財で、新豊院山2号墳の副葬鏡と同じ系統に連なる。同じ台地の上の異なる地点――向笠と鎌田・新貝――から、ともに王権とのつながりを示す鏡が見つかっていることは、この台地に複数の有力な首長が並び立っていたことをうかがわせる。松林山古墳出土の鏡については三角縁四神四獣鏡で、古墳群全体については御厨古墳群で詳しく扱っている。
台地西南端の中期古墳群 ── 兜塚古墳と見付・中泉の古墳群
台地の西南端、現在の見付・中泉にあたる一帯には、新豊院山や御厨よりもやや時代の下る、古墳時代中期(5世紀前半ごろ)の古墳群が集まっている。中心となるのが、見付のかぶと塚公園内に保存されている兜塚古墳である。直径80m・高さ8mという、静岡県内最大級の円墳で、2段築成、中段には幅の広いテラス(平坦面)を持つ。「兜塚」という名は、墳丘の側面が兜を伏せた形に似ることに由来するという。戦時中、塹壕を掘削した際に墳頂部が発掘され、仿製の三神三獣鏡(径20cm)、ガラス玉16個・棗玉2個・管玉32個・勾玉3個などの玉類、大刀2振(現在は所在不明)が出土した。これらの出土品は磐田市埋蔵文化財センターに保管されている。
兜塚古墳の周辺、後の遠江国府跡(見付)を中心とする半径2kmほどの範囲には、観音山古墳、京見塚古墳、そして中泉・国府台にある土器塚古墳(直径36m・高さ5m、下部3分の1を地山の削り出し、上部3分の2を盛土で築くという築造技法を持つ)など、複数の中期古墳が集中して分布する。土器塚古墳については土器塚古墳で個別に扱っている。これらの古墳が営まれた地は、のちに国府・国分寺が置かれる見付・中泉の中枢部と重なっており、古墳時代の有力者の勢力圏が、そのまま古代の行政中心地へと引き継がれていった可能性を示している。
各古墳の所在・規模・出土品・指定情報は、Wikipedia・磐田市および静岡県の公式資料で確認できる史実である。一方、「複数の首長系譜」「遠江国造・土師氏との関連」といった被葬者像についての解釈は、考古学的な考察・仮説であり、個々の被葬者を特定する確定的な史実ではない点に留意されたい。特に兜塚古墳は本記事で初めて紹介する古墳であり、被葬者について確定した史実はなく、上記の解釈はあくまで一つの見方として記した。
| 新豊院山古墳群(豊岡・向笠) | 弥生中期〜古墳前期。国指定史跡(1987年指定)。県内最古級の前方後円墳(2号墳、全長34m)。三角縁神獣鏡出土。 |
|---|---|
| 御厨古墳群(御厨・鎌田新貝) | 古墳前期。国指定史跡(2001年指定)。松林山古墳(全長107m)を中心に複数の首長系譜が想定される。 |
| 兜塚古墳(見付・台地西南端) | 古墳中期(5世紀前半)。直径80m・高さ8mの県内最大級の円墳。2段築成。遠江国造・土師氏との関連が指摘される。 |
| 土器塚古墳(中泉・国府台) | 古墳中期(5世紀前半)。直径36m・高さ5m。地山削り出し+盛土の築造技法。 |
| 米塚古墳群(向陽・寺谷台地) | 群集墳。台地の縁に並ぶ古墳群のひとつ。 |
台地の縁に古墳が並ぶ理由
新豊院山、御厨、兜塚・土器塚――時代も規模も異なるこれらの古墳群に共通するのは、いずれも磐田原台地の「縁」に位置していることである。台地の中央部ではなく、低地に向かって傾斜が変わる縁辺部に墓が集中するのは、単なる偶然ではないだろう。低地の生活圏を見下ろす高台に墓を築くことは、被葬者の存在を景観そのものに刻み、権威を可視化する行為であったと考えられる。また台地の縁は、低地からの水を得やすい一方で水害を受けにくい、地盤の安定した土地でもあり、大規模な土木工事である古墳の造営に適した条件がそろっていたとも考えられる。
時代の推移という点でも、新豊院山(弥生末〜古墳前期)→御厨(古墳前期)→兜塚・土器塚(古墳中期)という流れは、台地の異なる場所に、異なる時期の有力者の墓が営まれ続けたことを示している。これは必ずしも単一の系譜が台地を一貫して支配し続けたことを意味するのではなく、時期によって台地上の勢力の中心が移動した、あるいは複数の勢力が並存した可能性も含めて考えるべきものである。それでも、弥生末から古墳中期までの数百年間、磐田原台地が一貫して地域における力の中心であり続け、その後の遠江国府・国分寺の立地にもつながっていったという事実は、この台地の重みを物語っている。
主な参考資料
- Wikipedia「兜塚古墳(磐田市)」「御厨古墳群」「新豊院山古墳群」「土器塚古墳」「磐田原」
- 磐田市公式ウェブサイト「国指定文化財」「地形概況」関連ページ
- 静岡県公式ウェブサイト・しずおか文化財ナビ関連ページ
- 磐田物語「新豊院山古墳群と台地上の支配者」「御厨古墳群」「三角縁四神四獣鏡」「米塚古墳群」「土器塚古墳」「磐田原の水不足と開発史」
あわせて読みたい
この地域の家・土地・空き家について
古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。
相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。