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磐田物語 / 新豊院山古墳群と台地上の支配者
古墳 | 向笠・磐田原台地

新豊院山古墳群と台地上の支配者 ──
弥生から古墳へ、向笠の丘に眠る記憶

磐田市向笠竹ノ内、小さな丘陵の上に、弥生時代の墓から古墳時代前期の前方後円墳までが積み重なっている。国指定史跡・新豊院山古墳群である。一つの丘の上で、墓のかたちが時代とともにどう変わっていったかを追いながら、この台地を治めた人々の姿を考える。

向笠の丘という舞台

新豊院山古墳群は、静岡県磐田市向笠竹ノ内に所在する。磐田原台地の東縁にあたる小丘陵の上、北緯34度46分16秒・東経137度52分23秒あたりの尾根筋に、30基以上の小型古墳・台状墓・周溝墓が分布し、地形上の広がりに応じてA〜Dの4地区に分けられている。台地の縁という立地は、この時代の墓地に共通する条件で、低地の生活の場を見下ろす高台に墓を築くことで、被葬者の存在を景観そのものに刻む効果があったと考えられている。

発掘のきっかけは、1955年(昭和30年)の調査で、弥生時代中期の土器棺墓、弥生時代後期の土坑墓、古墳時代前期の台状墓・前方後円墳の存在が確認されたことにさかのぼる。その後、1980年(昭和55年)8月からは、D地区での土取り工事に先立つ調査が行われ、前方後円墳(推定)2基と台状墓1基のほか、弥生時代の土坑墓・土器棺墓があらためて確認された。こうした二度にわたる調査の積み重ねを経て、1987年(昭和62年)7月3日、国の史跡に指定されている。指定範囲全体で構造が具体的に確認された主要な遺構は、1号墳・2号墳・3号墳の3基である。

弥生から古墳へ ── 墓制の変化を一つの丘で見る。 この古墳群のもっとも大きな価値は、弥生時代中期の土器棺墓、弥生時代後期の土坑墓、そして古墳時代前期の台状墓・前方後円墳が、同じ丘の上に連続して営まれている点にある。多くの古墳群は、古墳時代に入ってから初めて墓域として選ばれた場所に営まれるが、新豊院山では、それよりも古い弥生の墓が同じ尾根に先行して存在した。埋葬習俗が土器棺や土坑という素朴な形から、盛土をともなう台状墓、さらに前方後円墳という定型化した古墳へと移り変わっていく過程を、一つの丘の上、狭い範囲の中で連続的にたどれる点が、この史跡の学術的な価値を支えている。

3号墳は方形台状墓(1辺12m)で、箱形木棺から剣・鉇(やりがんな)・鉄鏃と、古墳時代前期の壺形土器が出土した。台状墓は、盛土をして墓域を一段高くするという点で古墳に近づきながらも、前方後円墳のような定型的な墳形をまだ持たない、いわば弥生の墓と古墳の中間に位置する墓制である。3号墳に副葬された剣や鉇・鉄鏃という武器・工具類は、古墳時代前期の副葬品としてはごく一般的な組み合わせであり、後述する2号墳の舶載鏡のような突出した威信財は伴わない。この落差は、同じ丘の上でも、被葬者の地位に段階があったことをうかがわせる。

1号墳前方後円墳(推定)。全長33m。丘陵の東端に位置し、主体部は未発掘。
2号墳前方後円墳。全長34m(前方部11m)。丘陵の高所に立地し、県内最古級の前方後円墳の一つとされる。
3号墳方形台状墓。1辺12m。箱形木棺から剣・鉇・鉄鏃、壺形土器が出土。
その他A〜D地区にわたり、弥生時代の土器棺墓・土坑墓を含む小型古墳・周溝墓が30基以上分布。

2号墳の副葬品が語ること

新豊院山2号墳は、後円部に竪穴式石室(長5m、幅約1m、高0.7m)を持つ。石室の中には木棺が納められていたと推定され、そこからは、舶載(中国大陸から伝わった輸入品)の三角縁神獣鏡、直刀、槍先、鉄剣、銅鏃・鉄鏃、小型素文鏡が出土した。1号墳は主体部が未発掘のままであるのに対し、2号墳はこうして構造と副葬品の内容が具体的に判明している数少ない例であり、この古墳群の性格を語るうえで中心的な資料になっている。

三角縁神獣鏡は、鏡の縁(ふち)が三角形の断面をもち、神像と霊獣を組み合わせた文様を鋳出した青銅鏡で、古墳時代前期の古墳から日本列島各地で計400面近くが出土している。考古学者・小林行雄は、同じ鋳型(同笵)から作られた鏡が離れた地域の古墳にまたがって分布する現象に着目し、これを畿内のヤマト王権が各地の首長に鏡を分け与えたことの跡と考えた。いわゆる「同笵鏡配布説」である。この説の当否や解釈には研究上の議論が続いているものの、三角縁神獣鏡が各地の有力な首長墓に副葬される例が多く、中央との結びつきを示す代表的な威信財とみなされてきたこと自体は、広く共有されている理解である。全長34mという2号墳の規模自体は、御厨古墳群の松林山古墳(全長107mと推定)などと比べれば決して大きくないが、この鏡が納められていたことは、向笠の丘を治めた人物が、地域の中で相応の地位にあり、中央の権威となんらかの形でつながっていたことをうかがわせる。

向笠という土地の記憶。 新豊院山古墳群が営まれた向笠(むかさ)の地名は、鎌倉時代の記録にすでに見えるとされ、古くからこの一帯を指す呼び名として使われてきた。近代の行政区画としては、1889年(明治22年)の町村制施行にともない、向笠竹之内・向笠西・篠原・粕塚・向笠新屋敷(の大部分)・大田(の一部)・岩井といった旧村が合併して、山名郡向笠村が成立している。向笠村は1955年(昭和30年)に磐田市へ編入され、現在は磐田市の一地区としての向笠、およびその中の小字・向笠竹ノ内として地名が受け継がれている。

古墳が築かれた古墳時代と、村の名が行政区画として固まる明治期とでは、1500年近い時間差がある。それでも、弥生・古墳時代からの墓域がそのまま眠っていた丘陵と、後世に「向笠」としてまとまった集落域とが、同じ場所に重なっていることは興味深い。地名の由来そのものは資料の上で確定していないが、古い時代からこの台地の縁が人の営みの単位として意識され続けてきたことは、古墳群の存在とあわせて読むと、より具体的な手触りをもって見えてくる。

台地上の支配者たち ── 御厨古墳群との比較

磐田原台地には、新豊院山古墳群のほかにも、鎌田・新貝の御厨古墳群(松林山古墳ほか)など、複数の古墳クラスターが分布している。御厨古墳群からも三角縁神獣鏡が出土しており、その意味については三角縁四神四獣鏡で詳しく扱っている。同じ「舶載三角縁神獣鏡」という副葬品が、台地上の複数の地点――御厨と向笠――で見つかっていることは、この台地に、それぞれヤマト王権とつながりを持つ、複数の地域首長が並び立っていた可能性を示している。御厨古墳群そのものの全体像は御厨古墳群で読むことができる。台地全体でどのように古墳が分布しているかは、磐田原台地と古墳分布で俯瞰している。

両者を比べると、規模の面では御厨古墳群の松林山古墳が圧倒的に大きく、台地南東縁の有力な首長系譜を代表する存在だったと考えられる。一方、新豊院山古墳群は、単体の古墳としては松林山古墳ほどの規模を持たないが、弥生時代からの墓域としての連続性という点では、御厨古墳群よりも古い段階の記憶を残している。台地の異なる場所に、時期や規模の異なる首長墓が営まれ続けたという事実は、磐田原台地全体が、弥生末から古墳時代を通じて、単一の支配者に一元化されるのではなく、複数の勢力がそれぞれの拠点を保ちながら並び立つ土地であったことを示唆している。

新豊院山古墳群は、単独の古墳としてではなく、磐田原台地という広い舞台の中に置いて読むことで、その意味がより鮮明になる。一つの丘に刻まれた弥生から古墳への変化は、この台地全体で進んでいたであろう、より大きな社会の変化の縮図なのである。向笠という一集落の丘に、時代の異なる墓が積み重なっていること自体が、この土地が長く人々の暮らしと記憶の中心であり続けたことの、何よりの証しといえる。

主な参考資料

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。