横須賀街道と福田 ──
海沿いのもう一つの街道
横須賀という城下町
街道の名の由来である横須賀は、現在の掛川市南部(旧大須賀町)の町である。天正6年(1578年)ごろ、武田方の高天神城に対抗するため徳川家康の命で横須賀城が築かれ、江戸時代には譜代大名の城下町として、遠州南部の政治・経済の中心となった。この横須賀の城下から西へ、太田川を渡り、福田・掛塚方面と結ぶ東西の道が「横須賀街道」と呼ばれた。東海道が幕府の公道だとすれば、横須賀街道は地域の生活と物流が育てた在郷の街道である。城下町というのは、単に殿様の住む町ではない。人と物が集まり、商いが立ち、周辺の村々を経済的に束ねる、地域の中心地でもあった。横須賀もまた、遠州南部一帯の産物が集まり、また各地へと送り出される、物と人の結び目だった。その中心から西へと伸びていく道の一つが、福田を通り抜けて天竜川方面へ至る、この横須賀街道だったのである。
ここで、「街道」という言葉が持つ二つの顔について、少し整理しておきたい。私たちがふつう街道と聞いて思い浮かべるのは、東海道や中山道のような、幕府が定めた五街道 ── いわば「国の道」である。宿場が置かれ、本陣が構えられ、参勤交代の大名行列が通る。だが、日本の道はそれだけではなかった。国の道の隙間を縫うように、地域の暮らしそのものが踏み固めてきた無数の在郷の道があった。横須賀街道は、まさにその後者を代表する道である。公の記録には大きく残らないが、そこに生きた人々にとっては、東海道以上に日々の暮らしと結びついた、なくてはならない道だった。この「もう一本の街道」に光を当てることは、教科書には載らない、地面に近いところの歴史を掘り起こすことでもある。
福田を通る道 ── 松並木の記憶
別稿(横須賀街道の松並木)で扱ったとおり、福田地域には横須賀街道の松並木の記憶が残る。砂丘地帯の道は、豊浜の黒松防風林と同じく、飛砂と潮風から旅人と道を守るために松に縁どられていた。道筋には秋葉山常夜燈も立ち、夜の道行きを照らした。街道といっても本陣や関所があるわけではない。漁売りの天秤棒、綿の荷車、嫁入りの行列、祭りの屋台の巡行 ── この道を行き交ったのは、そうした村と村の日常だった。
松並木は、単なる景観のためではない。遠州灘に面したこの一帯は、絶えず海から強い潮風と飛砂が吹きつける、道にとっては過酷な土地である。何も植えなければ、砂は道を埋め、風は旅人の歩みを阻む。だからこそ人々は、道の両側に松を植え、その根で砂を留め、その枝で風をやわらげた。松並木とは、自然の猛威に抗って道を保ち続けるための、いわば生きた防護壁だったのである。豊浜の黒松防風林と同じ発想が、街道の姿をとってあらわれたものだといえる。いま福田の旧道に残る一本の老松は、そうした先人の営みが、百年を越えて生き延びた姿にほかならない。
横須賀城とその城下の歴史、福田地域に横須賀街道の松並木・秋葉山常夜燈の記憶が残ることは、資料・別稿で確認できる。一方、横須賀街道の磐田市域内の正確な道筋(現在のどの道にあたるか)や、宿・立場の詳細は今回の調査では確定できておらず、絵図・古老の記憶による確認が課題である。
湊と湊を結ぶ ── 物流の東西軸
この街道の経済的な役割は、遠州灘沿いの湊と町を横につなぐことにあった。西の端には天竜川河口の掛塚湊、途中には太田川河口の福田湊、東には横須賀城下と、その外港の役割を担った湊々。海が荒れて船が出せないとき、あるいは小口の荷を運ぶとき、湊と湊を陸路でつなぐこの道が生きた。福田の織物が育った背景にも、原料と製品を運ぶこうした地域の交通網がある。綿の原料が湊から運び込まれ、織り上がった製品がまた湊から積み出されていく ── その一連の流れを陸で支えたのが、この街道だった。産業は、それを運ぶ道とともに育つ。福田が織物の町として栄えた背景には、海の湊と、それをつなぐ横須賀街道という、目立たないが確かな物流の骨組みがあったのである。東海道という「国の道」に対して、横須賀街道は遠州南部の経済圏を束ねる「地域の背骨」だった。
とりわけ重要だったのが、海の道と陸の道の結び目としての役割である。当時の物流の大動脈は、なんといっても船であった。米も塩も綿も、大量の荷を運ぶなら海路が一番速く、安い。しかし遠州灘は「遠州灘の荒波」と恐れられた難所であり、風が強まれば船はたちまち出られなくなる。そんなとき、湊で足止めされた荷を次の湊へと陸送でつないだのが、この横須賀街道だった。海が閉じれば陸が開く ── 海路と陸路が互いを補い合うことで、遠州南部の物流は途切れずに回り続けたのである。街道沿いの村々は、その中継を担う人足や馬を出し、荷の積み替えや宿の世話をして、暮らしの糧を得ていた。道は、沿道に生きる人々にとって、そのまま生業の場でもあった。
街道が結んだ文化圏
道は物だけでなく、文化も運ぶ。福田の東西屋台や中泉式屋台に見られる祭り文化の広がり、中野白山神社の行事のような信仰の分布は、東海道筋よりもむしろ、この海沿いの帯に沿って連なっている。遠州弁のなかでも海側の言葉には共通の癖があるといわれるのも、この東西の往来の名残だろう。行政の区分(磐田市・掛川市・袋井市)を越えて、「遠州横須賀文化圏」とでも呼ぶべき帯が海沿いに横たわっていることは、街道を補助線にすると、よく見えてくる。
なぜ、道に沿って文化が似通うのだろうか。それは、道が人の縁を運ぶからである。祭りの屋台をつくる大工の腕は、道を伝って隣の村へと伝わる。嫁入りや養子縁組は、往来のある村どうしで結ばれることが多い。ある神社の信仰が広まるのも、参詣の道があってこそだ。人が行き来する範囲が、そのまま言葉や習俗の似通う範囲となる ── 文化圏とは、つまるところ「人の往来の圏」なのである。だからこそ、いまの市や町の境界線ではなく、かつて人々が実際に歩いた道を頼りに地域を眺め直すと、教科書の地図には引かれていない、もう一つの磐田南部の姿が浮かび上がってくる。海沿いに東西に伸びるこの文化の帯は、横須賀街道という一本の道が、長い歳月をかけて織り上げてきたものなのだ。
いまでは自動車道が整い、人の移動は道に縛られなくなった。それにともなって、こうした街道が育てた文化圏の輪郭も、少しずつぼやけつつある。だからこそ、まだその面影が松並木や屋台や言葉に残っているうちに、それを地域の記憶として書き留めておくことには意味がある。横須賀街道は、単なる古い道の名ではない。遠州南部の人々がどんな範囲でつながり、どんな文化を分かち合ってきたのかを教えてくれる、生きた手がかりなのである。
横須賀街道と福田 ── まとめ
| 横須賀街道 | 横須賀城下(現掛川市)と福田・掛塚方面を結んだ海沿いの在郷街道 |
|---|---|
| 福田の面影 | 松並木(f039)・秋葉山常夜燈(f038)が道筋の記憶を伝える |
| 役割 | 湊と湊、村と村を結ぶ物流・生活・祭り文化の東西軸 |
| 課題 | 市域内の正確な道筋・立場の特定は今後の調査課題 |
海沿いの道から磐田を見る
東海道と北への秋葉道、そして海沿いの横須賀街道。この三本の道を一枚の地図に重ねてみると、磐田という土地の姿が、ぐっと立体的に見えてくる。東西に貫く幕府の大動脈・東海道、そこから北の山へと信仰の旅人を導く秋葉道、そして南の海沿いを東西に走る暮らしの街道・横須賀街道 ── 磐田は、この性格の異なる三本の道が交わる、まさに遠州の十字路だった。国の道と、信仰の道と、暮らしの道。その三つが一つの土地で出会っていたことが、磐田という町に、多様な人と物と文化が集まる下地を与えていたのである。性格の違う道が交わる場所には、必ず人と情報が集まり、市が立ち、新しいものが生まれる。磐田が古くから遠州の要地であり続けた理由の一つは、まさにこの「道の交わり」にあったといってよい。
私たちはつい、東海道という一本の有名な道だけで、この地方の歴史を語ってしまいがちだ。だが、実際に人々が生きた土地の歴史は、記録に残りにくい無数の在郷の道の上にこそ広がっていた。横須賀街道に光を当てることは、そうした「もう一つの歴史」を取り戻す試みでもある。福田の旧道をたどって、ふと一本の老松の木立を見つけたなら、それはただの名もない並木ではないかもしれない。遠州南部の暮らしと祭りと言葉を、東西に運び続けた街道の、生き残りの一本 ── そう思って眺めれば、見慣れた道端の風景も、百年の物語を秘めた景色として立ちあらわれてくるはずである。歴史は、遠い都や有名な事件のなかにだけあるのではない。日々の暮らしが行き交った一本の道、そこに植えられ守られてきた一列の松、その土地に生きた人々の足の運びのなかにこそ、いちばん確かな歴史は刻まれている。横須賀街道は、そのことを静かに教えてくれる、遠州灘の砂丘に沿って続いた、海沿いのもう一つの街道なのである。
主な参考資料
- 横須賀城・旧大須賀町に関する資料(掛川市)
- 磐田物語「横須賀街道の松並木を地域の記憶として読む」「福田地域の秋葉山常夜燈を地域の記憶として読む」「福田湊の発展と遠州の漁業史」「掛塚湊の成立と廻船問屋」「見付から福田・掛塚方面へ向かう旧道」
市域内の正確な道筋は未確定であり、本文中で課題として明示している。
あわせて読みたい
この地域の家・土地・空き家について
古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。
相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。