磐田の消防史 ──
火消し・消防組・火の見櫓の記憶
木と紙の町の宿命
茅葺きと板葺きの家々が軒を接する近世の町場で、火事は共同体を一夜で滅ぼす災害だった。風の強い遠州では特にそうである。別稿(掛塚の火災と消防)で扱ったとおり、湊町・掛塚は幾度も大火に見舞われ、火事の記憶が秋葉信仰の熱心さと消防組織の発達を同時に生んだ。消火の技術が未熟な時代、火消しの仕事は「燃えている家を消す」ことよりも、「風下の家を壊して延焼を断つ」破壊消防が中心だった。鳶口や刺股といった道具は、そのための道具である。
村の火消しから消防組へ
江戸時代の村や町では、若者組や五人組(福田村五人組帳には火の用心の掟が並ぶ)を母体に、火事の際に駆けつける火消しの組が作られていた。明治に入ると、これらは「私設消防組」として再編され、明治27年(1894年)の消防組規則によって、府県知事の監督下に置かれる公設の「消防組」に統一される。組頭以下の組員は地元の若者たちで、火事とあれば家業を放り出して駆けつけた。ポンプは手押しの腕用ポンプから、大正・昭和にかけてガソリンポンプへと進化し、各町村の消防組は、その揃いの法被と出初式とともに、地域の誇りでもあった。
火の見櫓と半鐘 ── 町の耳と目
消防組の時代を象徴する風景が、火の見櫓である。集落を見下ろす鉄骨や木組みの櫓の上に半鐘が吊られ、火事を見つけると、打ち方の緩急で火元の遠近を知らせた。別稿(磐田の火の見櫓)で扱ったとおり、磐田市域にも火の見櫓は各地に建てられ、その一部は今も集落の空に残っている。サイレンと電話が普及する以前、火の見櫓は町の耳と目であり、その下の消防小屋(器具置場)とともに、集落の防災の中心だった。秋葉常夜灯が「祈りの塔」だとすれば、火の見櫓は「備えの塔」である。二つの塔が並び立つ風景こそ、遠州の集落の原風景だった。
破壊消防から消防組(明治27年消防組規則)、警防団(昭和14年)、消防団(昭和22年)への制度の流れは消防制度史で確認できる。掛塚の大火と消防組の発達、磐田市域の火の見櫓の存在は既存記事で確認できる。一方、磐田市域の各消防組の結成年・装備・出動記録の網羅は未調査であり、消防団史・町村誌での確認が課題である。
戦争と消防 ── 警防団の時代
昭和14年(1939年)、戦時体制のもとで消防組は防空監視などを担う「警防団」に改組された。空襲の時代、警防団は火たたきとバケツリレーで焼夷弾に立ち向かうことを求められ、銃後の暮らしの最前線に立たされた。戦後の昭和22年(1947年)、警防団は解体され、新しく発足した消防団に引き継がれる。さらに市町村の常備消防(消防本部・消防署)が整備されると、磐田の消防は「常備の署」と「地域の団」の二本立てとなって現在に至る。
磐田の消防のあゆみ
| 時代 | 組織と道具 |
|---|---|
| 江戸時代 | 村の火消し(若者組・五人組)。破壊消防。纏・鳶口・竜吐水 |
| 明治27年(1894)〜 | 消防組規則により公設消防組へ。腕用ポンプ、火の見櫓と半鐘 |
| 大正〜昭和初期 | ガソリンポンプの導入。出初式が地域行事に |
| 昭和14年(1939) | 警防団に改組。防空の担い手に |
| 昭和22年(1947)〜 | 消防団発足。のち常備消防(消防署)との二本立てへ |
火消しの記憶を残す
消防の歴史は、集落ごとの小さな英雄たちの歴史である。半鐘を打った人、ポンプの梶棒を握った人、法被の背に町の名を負った人 ── その名の多くは記録に残っていない。各地区の消防団に眠る古い記念写真や表彰状、器具庫の隅の腕用ポンプは、磐田の防災の記憶を伝える一級の資料である。災害伝承碑と同じく、失われる前の記録が急がれる分野だといえる。
主な参考資料
- 消防制度史概説(消防組規則・警防団令・消防組織法)
- 磐田物語「掛塚の火災と消防」「磐田の火の見櫓に残る信仰と文化の記憶」「秋葉常夜灯」「福田村五人組帳」「銃後を守る」
磐田市域の各消防組の個別記録は未調査であり、本文中で課題として明示している。
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