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磐田物語 / 遠州忩劇
磐田共通 | 戦国

遠州忩劇 ──
桶狭間のあと、磐田の国衆たちの乱

永禄3年(1560年)5月、桶狭間で今川義元が討たれた。その衝撃は、駿府よりもむしろ遠江で大きな地殻変動を起こす。天竜川流域の国衆たちが、次々と今川家に背いたのである。「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれるこの大乱を、磐田の土地の側からたどる。

「忩劇」という言葉

忩劇(そうげき)とは、慌ただしい騒乱、という意味の古語である。この呼び名は後世の歴史家の命名ではなく、当の今川氏真(うじざね)の発給文書に「遠州忩劇」の語が現れることに由来する。つまり、鎮圧する側の今川氏自身が、遠江の状況を「忩劇」と呼ばざるを得なかった。研究上は「遠州錯乱」とも呼ばれ、永禄5年(1562年)ごろから永禄9年(1566年)ごろにかけて、遠江国内、とりわけ天竜川流域の国衆(くにしゅう、在地領主)たちが起こした、今川氏への連鎖的な反乱を指す。

発端 ── 桶狭間と若き当主

永禄3年の桶狭間の敗戦で、今川家は当主義元だけでなく、多くの重臣と将兵を失った。跡を継いだ氏真は領国の立て直しを急ぐが、三河では松平元康(のちの徳川家康)が自立し、今川領国の西の壁が崩れていく。遠江の国衆たちにとって、今川家は「従っていれば所領を守ってくれる存在」ではなくなりつつあった。誰につくべきか ── 天竜川の東西で、家々の思惑が渦を巻き始める。

飯尾連龍の乱 ── 引間城の攻防

忩劇の中心となったのが、引間城(ひくまじょう、現在の浜松市)の城主・飯尾連龍(いいのおつらたつ)である。連龍は永禄6年(1563年)ごろまでに今川氏への「逆心」を明らかにし、氏真は永禄7年(1564年)2月、引間城を攻めたが落とせなかった。攻城戦は周辺に広がり、天竜川をはさんだ磐田側の土地も、軍勢の往来と物資徴発の舞台になったと考えられる。膠着の末、連龍は永禄8年(1565年)12月、和睦の名目で駿府に呼び出され、今川勢に攻められて誅殺された。しかし当主を謀殺するというこの強硬策は、かえって遠江国衆の不信を深め、乱の火種は消えなかった。

確認できること・できないこと
遠州忩劇の呼称が今川氏真の文書に由来すること、飯尾連龍の反乱と永禄8年12月の誅殺、永禄7年の引間城攻めは、研究の整理で確認できる。一方、磐田側の国衆(堀越氏・匂坂氏など)の具体的な動向は一次史料が乏しく、「離反したとされる」という水準にとどまるものが多い。本文でもその区別を保って記す。

磐田の国衆はどう動いたか

では、天竜川の東、磐田側の国衆たちはどう動いたのか。見付端城の堀越氏は、遠江今川氏の流れをくむ一族でありながら、この動乱のなかで今川宗家から離反したとされる。ただしその詳細な動向を伝える一次史料は確認されていない。匂坂城の匂坂氏のような台地北縁の国衆も、今川・武田・徳川の三つの力のあいだで去就を探ることになる。国衆にとって離反は理念の問題ではなく、家と所領を残すための生存戦略だった。そして見付の町人たちは、領主層の混乱をよそに、自治的な町の運営でこの時代をしのいでいく。武士の争乱と町の自治が並走するところに、戦国末期の見付の面白さがある。

乱の終わりと、次の嵐

連龍の死後も混乱は永禄9年(1566年)ごろまで続き、氏真はどうにか遠江の表面的な平穏を取り戻した。しかしそれは嵐の間の静けさにすぎなかった。永禄11年(1568年)12月、武田信玄が駿河へ、徳川家康が遠江へ、同時に侵攻を開始する。忩劇で疲弊し、国衆の信頼を失っていた今川領国は、ほとんど組織的な抵抗ができないまま崩壊した。家康の遠江攻略は、見付をはじめとする磐田の土地を新しい時代へ引き込んでいく。忩劇は、今川の遠江支配の終わりの始まりであり、徳川の時代の助走だったことになる。

遠州忩劇 関連年表

出来事
永禄3年(1560)桶狭間の戦い。今川義元戦死、氏真が継ぐ
永禄5年(1562)ごろ遠江国衆の動揺が表面化(遠州忩劇の始まり)
永禄6年(1563)引間城主・飯尾連龍の逆心が明らかになる
永禄7年(1564)氏真、引間城を攻めるが落とせず。支城・頭陀寺城は落城
永禄8年(1565)12月連龍、駿府で誅殺される
永禄9年(1566)ごろ乱が沈静化
永禄11年(1568)12月武田の駿河侵攻・徳川の遠江侵攻。今川領国崩壊へ

「忩劇」が磐田に残したもの

遠州忩劇そのものの主戦場は天竜川の西、引間城の周辺だった。しかしこの乱が崩した今川支配の空白にこそ、家康の遠江入りと見付築城計画、そして磐田が戦場になった時代が続いていく。磐田の戦国史を読むとき、一言坂や三方ヶ原の合戦の前段に、この「国衆たちの静かな離反の連鎖」があったことを知っておくと、時代の流れは格段に立体的になる。大きな合戦の陰で、家を守るために迷い、賭け、消えていった小さな家々の決断 ── 忩劇とは、そういう無数の決断の総称である。

主な参考資料

磐田側の国衆の動向は一次史料が乏しく、「〜とされる」の水準で記した箇所がある。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。