失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語ブログ / 見付と中泉、人口で比べる磐田の二つの中心

見付と中泉、人口で比べる
磐田の二つの中心

机の上に広げた町の見取り図を真上から見た生成イメージ。上側では街道の帯に沿って赤い屋根の家が細長く連なり、下側では線路と駅の建物のまわりに青い屋根の家が固まっている。二か所に丸い印が付き、破線で結ばれている。左には棒の高さで数を比べた紙、鉛筆、コンパスが置かれている
記事内容をもとに生成したイメージです。実在の町並み・地図・統計資料を撮影したものではありません。

この記事は、磐田市が公表している住民基本台帳の人口表を入口にして、見付と中泉の人口について磐田物語の既存ページに書かれている記録へ案内するためのものである。両地区の歴史や、どちらが中心であったかについて、新しい史実をここで述べることはしない。過去の人口・戸数はすべて既存ページの記述の要約であり、現在の人口・世帯数は磐田市の公表資料の引用である。割り算と比率の計算だけは筆者によるもので、その旨を本文中に明記してある。統計は2026年8月31日に確認した。

「磐田って、結局のところ見付と中泉のどっちが大きい町なんだろう」

磐田市の住民基本台帳では、2026年7月末現在で見付地区24,569人、中泉地区18,300人。見付が6,269人多い。ただし磐田物語の掛塚湊のページが引く統計では、昭和25年に見付12,949人・中泉14,030人と順位が逆だった。区域の取り方も年ごとに違い、三つの数字を一本の線ではつなげない。

いまの人数は、見付地区24,569人、中泉地区18,300人

磐田市が毎月まとめている「住民基本台帳町別人口」の令和8年(2026年)7月末現在の表では、見付地区の人口は24,569人・10,904世帯、中泉地区の人口は18,300人・8,857世帯である。差は6,269人。同じ表で磐田市全体は163,224人・72,421世帯なので、二つを合わせた42,869人は市の約26パーセントにあたる。市の統計は「磐田市の人口」のページから毎月公開されている。

この数字を出すまでに、私は一度つまずいた。同じページに「地区別人口」という表があるのに、そこには見付も中泉も出てこないのである。そちらの地区は磐田・福田・竜洋・豊田・豊岡の5つ、つまり平成の合併前の旧市町村の枠だった。見付地区・中泉地区の人数が載っているのは、その隣に置かれた町別人口表の小計行のほうである。磐田市は自治会について「5支部・29地区・300自治会で構成されています」と自治会の一覧ページに記しており、見付・中泉はこの29地区のほうに属する。同じ市の同じ月の資料に、「地区」という言葉が二通り入っている。

切り方はもう一つある。同じ日付の大字別の表を見ると、大字「見付」は15,606人、大字「中泉」は7,251人である。地区どうしで比べれば見付は中泉の約1.34倍だが、大字どうしで比べると約2.15倍になる。同じ台帳の、同じ7月末の数字である。倍率だけが、線の引き方で0.8倍ぶん動く。この二つの比率は、公表値をもとに私が割ったものである。

昭和25年には、中泉のほうが多かった

磐田物語の掛塚湊 ── 遠州の小江戸、その繁栄の軌跡は、掛塚・見付・中泉の三つを人口で並べた、このサイトで唯一のページである。同ページによれば、明治24年(1891年)の時点では掛塚7,072人、見付6,733人、中泉4,026人で、掛塚が最も多かった。ところが昭和25年(1950年)には掛塚6,847人に対し、見付12,949人、中泉14,030人。中泉が見付を1,081人上回っている。

この60年ほどで、中泉は約3.5倍、見付は約1.9倍になった計算である(4,026人と14,030人、6,733人と12,949人から筆者が算出した)。掛塚湊のページは、鉄道が中泉すなわち現在の磐田駅を通ったこと、見付と中泉が街道と鉄道の結節点として伸びたのに対し、水運を基盤とした掛塚の位置づけが変わっていったことを、この数字の背景として説明している。駅の開業から昭和15年の磐田町成立、昭和17年の磐田駅への改称までの流れは、見付と中泉、二つの中心から磐田へにまとめられている。

ここで、私は自分の計算にブレーキをかけなければならない。掛塚湊のページが引く1891年と1950年の数字は見付町・中泉町という町の単位、2026年の数字は自治会連合会の区分による地区の単位である。同じ「見付」「中泉」という名でも、囲っている線が違う。だから「昭和に中泉が抜き、そのあと見付が抜き返した」という一本の物語を、私はここで書けない。書けたら気持ちがいいのに、書けない。

江戸の見付宿は1,014戸・3,918人、中泉に同じ形の数字はない

江戸時代の見付については、戸口の推移がかなり細かく残っている。磐田物語の見付宿のすがたと戸口 ── 木戸から木戸まで、家数と人口を数えるは、『東海道遠州見付宿』(田中友次郎編著、1974年)第一章にもとづいて、家数と人口の推移を表に並べている。寛永15年(1638年)の225軒、明和7年(1770年)の600軒・約2,200人、天保13年(1842年)の1,014戸・3,918人、明治12年(1879年)の1,440戸・6,561人である。

見付の家数・人口(磐田物語「見付宿のすがたと戸口」の表から抜粋)
年代家数人口
寛永15年(1638年)225軒
明和7年(1770年)600軒約2,200人
天保13年(1842年)1,014戸3,918人
明治12年(1879年)1,440戸6,561人

一方、中泉について同じ形の戸口の数字を載せた既存ページを、私は磐田物語のなかに見つけられなかった。中泉側で近世の規模を示す数字として出てくるのは代官の支配石高で、しかもそれは6万石余とも、十万石とも、7万7千石とも伝えられており、既存ページはいずれも通説の概数として慎重に扱っている。加えて、その石高は中泉という村の村高ではなく代官が支配した範囲の高である、という注意も別のページに書かれている。町の大きさの物差しには、そのままでは使えない。

なぜ片方にだけ数字が残るのか。制度の違いが効いている。見付は幕府が指定した東海道の宿駅で、人馬を出す義務と引き換えに、家数・人口・旅籠の数を繰り返し書き上げさせられた。中泉については、幕府から正式に「宿」として指定された記録は見当たらないと既存ページが記す。数えられた側にだけ、数字が残る。帳簿は町の大きさを測るためではなく、負担を割り当てるために作られたのだから、当然といえば当然である。

人口を世帯数で割ってみる ── 見付2.25人、中泉2.07人

不動産の仕事をしていると、人口の数字を見たときにまず世帯数で割る癖がつく。家が何軒要るかは、人の数ではなく世帯の数で決まるからである。2026年7月末の磐田市の人口の表で割ってみると、見付地区は24,569人÷10,904世帯で1世帯あたり2.25人、中泉地区は18,300人÷8,857世帯で2.07人になった。磐田市全体は163,224人÷72,421世帯で2.25人である。見付は市の平均どおり、中泉だけが0.18人ぶん小さい。この割り算は筆者によるもので、市が公表している数値ではない。

0.18人は、聞いた瞬間には小さく感じる。ところが中泉地区の8,857世帯にかけ直すと、およそ1,600人ぶんになる。仮に中泉地区の世帯が市の平均と同じ大きさだったなら、同じ世帯数のままで人口は2万人近くになっていた計算である。人口の差6,269人のうち、4分の1ほどは「人が少ない」ではなく「一戸あたりが小さい」という形で出ている、と読むこともできる。

ここから先は、私の解釈である。一戸あたりの人数が小さい町は、単身や二人暮らしの住まいが多いことが多い。駅の近くに集合住宅が建つ町では、よく見る形である。ただし統計はその理由を教えてくれない。世帯が小さい理由は、高齢のご夫婦だけが残った家が増えたからかもしれないし、若い単身者が入ってきたからかもしれない。表の数字は、その二つを区別してくれない。

断っておくと、この段落は私の意見であって体験談ではない。私は中泉地区の世帯を訪ね歩いたわけではなく、市の窓口で説明を受けたわけでもない。公表された表の数を割っただけである。それでも、家を扱う側から見ると、人口の差より世帯の大きさの差のほうが、その町でどんな住まいが求められているかをよく映すことがある。

「どちらが中心か」に、人口の表は答えない

見付と中泉のどちらが中心かという問いに、人口の表は答えを出さない。答えの大部分は、区域の線をどこに引くかを決めた時点で、すでに決まっている。地区で比べれば1.34倍、大字で比べれば2.15倍。町の実力が動いたのではなく、囲い方が動いただけである。数字を並べてきた自分で言うのも妙だが、そう認めるほかない。

磐田物語の中泉旧市街の町名変遷――中央町・七軒町・田町・石原町などは、この点をはっきり書いている。同ページが引く令和7年(2025年)3月末の磐田市統計書では、中央町205世帯449人、七軒町110世帯242人、田町187世帯339人、石原町541世帯1,179人。四つを足しても2,209人で、中泉地区の18,300人の1割強にすぎない(この足し算は筆者による。基準日が1年4か月ずれている点にも注意がいる)。中泉という名で呼ばれる人口の大半は、旧市街の外側にある。

役割で読み分けるほうが、たぶん実態に近い。見付と中泉、二つの中心から磐田へは、見付を古代・街道・教育・祭礼の中心、中泉を近世行政・鉄道・駅前商業の中心として整理し、「どちらが本当の中心か」と競わせる必要はないと書く。数字を一通り並べたあとで読み返すと、このページが数値の比較をあえて置かなかった慎重さが、よく分かる。

それでも私は、1891年・1950年・2026年の三つを一本の折れ線グラフにしたくなる。区域が違うと自分で書いたそばから、並べたくなる。この誘惑には、いまのところ私は勝てていない。答えを出さずに、誘惑があることだけを書き残しておく。

今日できる確認をひとつ

今日のうちにできることを一つだけ挙げるなら、磐田市の「磐田市の人口」のページを開いて町別人口表を落とし、自分が住んでいる町の行を探すことである。自分の町の人数と世帯数を人口÷世帯数で割ってみると、2.25という市の平均に対して、自分の町がどちら側にいるかが分かる。これは10分もかからない。

そのうえで読む順にすると、次のようになる。上から順にやれば、途中でやめても無駄にならない。

  1. 磐田市見付の歴史と町内案内で、見付地区26町内の人数を町ごとに見る
  2. 見付宿のすがたと戸口で、江戸の帳簿が何をどう数えたかを読む
  3. 掛塚湊で、掛塚・見付・中泉が並んだ二つの時点の数字を見る
  4. 中泉旧市街の町名変遷で、数字を比べる前にそろえるものを確認する
  5. 見付と中泉、二つの中心から磐田へで、数字の話を役割の話へ戻す

最後にひとつ。磐田物語の磐田市見付の歴史と町内案内は、見付地区の人口を2026年5月末で24,570人と記している。市の表の2026年7月末は24,569人。2か月で1人である。もちろんこれはたまたまで、傾向を語れる数字ではない。それでも、統計は毎月書き換わっているという当たり前のことを、この1人が思い出させてくれる。私が今日引いた数字も、来月には別の数字になっている。

よくある質問

見付と中泉、人口が多いのはどちらですか。

磐田市が公表する住民基本台帳町別人口によれば、2026年7月末現在で見付地区24,569人・10,904世帯、中泉地区18,300人・8,857世帯である。見付のほうが6,269人多い。ただし同じ台帳の大字別の表では大字「見付」15,606人、大字「中泉」7,251人となり、倍率は約1.34倍から約2.15倍へ動く。どの区域で切るかによって差の大きさが変わるため、数字を引くときは区域の名前も一緒に控えておくとよい。

昔から見付のほうが多かったのですか。

磐田物語の掛塚湊によれば、明治24年(1891年)は掛塚7,072人・見付6,733人・中泉4,026人で、昭和25年(1950年)は掛塚6,847人・見付12,949人・中泉14,030人だった。昭和25年の時点では中泉が見付を1,081人上回っている。ただしこれは町の単位の数字で、現在の地区の数字とは区域が異なる。同じ折れ線の上に並べることはできない。

見付地区・中泉地区の人口は、どこで調べられますか。

磐田市の「磐田市の人口」のページに毎月掲載される町別人口表に、地区の小計行として載っている。同じページの「地区別人口」の表は磐田・福田・竜洋・豊田・豊岡という旧市町村単位の5地区で、見付・中泉は出てこないので注意がいる。見付・中泉が属するのは自治会連合会の区分による29地区のほうである。大字ごとの数字を見たい場合は、同じページの大字別人口表を使う。

  • 磐田市「磐田市の人口」。市全体の人口163,224人・72,421世帯(令和8年7月末現在)は、この資料による。2026年8月31日確認。
  • 磐田市「住民基本台帳町別人口 令和8年7月末現在」(R080731machi.xls)。見付地区24,569人・10,904世帯、中泉地区18,300人・8,857世帯は、この表の地区小計行による。2026年8月31日確認。
  • 磐田市「住民基本台帳大字別人口 令和8年7月末現在」(R080731ooaza.xlsx)。大字「見付」15,606人・6,775世帯、大字「中泉」7,251人・3,490世帯は、この表による。2026年8月31日確認。
  • 磐田市「自治会概要・一覧」。「※5支部・29地区・300自治会で構成されています。」の記述は、この資料による。2026年8月31日確認。
  • 明治24年(1891年)の掛塚7,072人・見付6,733人・中泉4,026人、昭和25年(1950年)の掛塚6,847人・見付12,949人・中泉14,030人という比較は、磐田物語「掛塚湊 ── 遠州の小江戸、その繁栄の軌跡」(磐田市歴史文書館 第14回企画展の資料による)から引いた。
  • 見付の家数・人口の推移(寛永15年225軒、明和7年600軒・約2,200人、天保13年1,014戸・3,918人、明治12年1,440戸・6,561人)は、磐田物語「見付宿のすがたと戸口 ── 木戸から木戸まで、家数と人口を数える」(『東海道遠州見付宿』田中友次郎編著、1974年、第一章による)から引いた。
  • 中泉旧市街四町の世帯数・人口(令和7年3月末の磐田市統計書、中央町205世帯449人・七軒町110世帯242人・田町187世帯339人・石原町541世帯1,179人)と、区域や基準日をそろえる必要があるという注意は、磐田物語「中泉旧市街の町名変遷――中央町・七軒町・田町・石原町など」による。
  • 見付地区の人口2026年5月末24,570人は、磐田物語「磐田市見付の歴史と町内案内」による。見付と中泉の役割の読み分け、磐田町成立と磐田駅への改称の経緯は、磐田物語「見付と中泉、二つの中心から磐田へ」による。中泉代官の支配石高が通説の概数として扱われていること、それが村高ではなく支配高であること、中泉が幕府から正式に宿として指定された記録が見当たらないことも、いずれも磐田物語の既存ページの記述に従った。
  • 1世帯あたり人数(見付地区2.25人、中泉地区2.07人、市全体2.25人)、地区どうし約1.34倍・大字どうし約2.15倍という比率、明治24年から昭和25年への約3.5倍・約1.9倍、0.18人差をおよそ1,600人ぶんとした換算、中泉旧市街四町の合計2,209人は、いずれも上記の公表値・既存ページの値をもとにした筆者(大石浩之)の計算である。小数第3位を四捨五入し、人数は概数で示した。
磐田物語を書いている大石浩之の顔写真。眼鏡をかけ、腕を組んで正面を向いたモノクロの肖像

大石浩之(磐田市/不動産業・宅地建物取引士)

静岡県磐田市で不動産と介護の仕事をしながら、郷土史の資料を読み、現地を歩いて書き留めている。研究者ではない。磐田物語を始めた理由ははじめにに書いた。

人口・世帯数は毎月更新される。ここに挙げた数値は2026年8月31日時点で公表されていたものであり、最新の値は磐田市の統計のページで確かめてほしい。区域の区分(旧市町村単位の5地区、自治会連合会の29地区、大字、町)は目的によって使い分けられており、異なる区分の数値をそのまま比較することはできない。過去の人口については、資料や集計の目的によって値が食い違う場合がある。土地・建物の個別の判断については、専門家に確認を。

  • 初版公開。

この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。