失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語ブログ / 磐田になぜ古墳が多いのか

磐田になぜ古墳が多いのか ──
兜塚・堂山を読む

机の上に広げた等高線の図面と川の帯、円墳と前方後円墳をあらわす二つの赤い印、巻尺、緑青の浮いた円い銅鏡、鉛筆、土器のかけらを真上から見た生成イメージ
記事内容をもとに生成したイメージです。実在の古墳・出土品・調査現場を撮影したものではありません。

この記事は、磐田市文化財課がまとめた兜塚古墳・堂山古墳の調査成果を入口にして、磐田物語の既存ページに書かれている磐田の古墳の記録へ案内するためのものである。古墳の年代・規模・被葬者について、新しい史実をここで述べることはしない。事実はすべて既存ページと磐田市の公表資料の要約に留めた。面積と坪の換算だけは筆者の計算であり、その旨を本文中に明記してある。指定情報・施設情報は2026年8月31日に確認した。

「磐田って、やたら古墳が多い気がする。どうしてこの街ばかりなんだろう」

磐田物語の古墳から見る磐田は、その理由を文化財の数ではなく地形に求めている。天竜川と太田川にはさまれた磐田原台地は、周囲の低地より一段高く水につかりにくい。縁に立てば川と遠州灘まで見わたせる。高くて安全で見晴らしがよく、陸の道と川の道が交わる。墓を築く条件が、この土地にそろっていた。

「九百基」という数は、文化財の話ではなく地形の話である

磐田物語の古墳から見る磐田 ── 台地と川がつくった、王たちの土地は、磐田には九百基を超える古墳があるといわれる、と書き出したうえで、その数の理由を文化財そのものではなく足もとの地形に求めている。鍵になるのは磐田原台地である。天竜川と太田川にはさまれたなだらかな台地で、周囲の低地よりも一段高く、水害を受けにくい。

台地の縁に立てば、天竜川の流れも、はるか遠州灘までも見わたせる。高くそびえる墓は、生きている人にも、川を行き交う人にも、力を見せつけることができた。だから主要な古墳が台地の縁に集まっているのは偶然ではない、と同ページは書く。もうひとつの鍵は川である。天竜川と太田川は洪水をもたらす脅威であると同時に、山と海をつなぐ交通の道でもあった。その流れを押さえた者が富と力を握り、東西を結ぶ陸の道と南北の川の道が交わる位置に、大きな墓を築いた。

不動産の仕事をしている私の言葉に直すと、こういうことになる。磐田に古墳が多いのは、古代の磐田が特別にえらかったからではない。高くて水につかりにくく、川と海が見える土地という条件が先にあり、その条件がえらい人を呼び寄せた。土地が先で、人はあとである。宅地の売れ方と、順番はまったく同じだ。

兜塚古墳の直径84メートルを、坪に直してみる

磐田市見付・一言のかぶと塚公園、総合体育館の横に残る小山が兜塚古墳である。磐田物語の兜塚古墳 ── 直径84m、東海地方最大級と判明した円墳によれば、磐田市文化財課が令和7年度に行った測量調査と出土遺物の再整理により、築造時の姿は直径約84メートル・高さ約8メートル程度の円墳であったことが明らかになった。名古屋市の国史跡・八幡山古墳と並び、円墳としては東海地方最大級の規模とされる。

「直径84メートル」と聞いても、私にはまだ大きさが入ってこない。だから坪に直す。半径42メートルの円の面積は約5,540平方メートル、坪にすればおよそ1,676坪である。1区画33坪の分譲地に置き換えると、約50区画分になる。50世帯が暮らす住宅地とちょうど同じ広さの土を、一人の墓のために盛り上げた計算になる。重機のない時代に、である。ここから先は私の電卓の上の話で、出典のある数字は直径84メートルまでだと断っておく。

比べてみて、自分でも意外だったことがある。磐田物語の銚子塚古墳・小銚子塚古墳 ── 磐田原台地に眠る、静岡県内第3位の前方後円墳によれば、県内第3位の銚子塚古墳は全長108メートル、その後円部は直径60メートル・高さ8メートルである。円の面積に直すと約2,827平方メートル、855坪ほど。兜塚の円は、その約2倍にあたる。全長で並べれば銚子塚のほうが大きいのに、円の部分だけを取り出すと兜塚のほうが広い。

副葬品も具体的である。同じページは、銅鏡1面(三神三獣鏡、径20.1センチ)、勾玉・棗玉・管玉といった玉類が計50点、鉄刀2振以上が見られると記す。この鏡は中国製ではなく日本国内で作られた大型品で、近畿地方を中心とするヤマト政権より手に入れたものと考えられるという。昭和54年の第1次発掘調査を皮切りに、5度の発掘調査が行われている。

兜塚でもうひとつ驚いたのは、この墳丘の使われ方の変転である。同ページによれば、戦時中は古墳のすぐ南側に陸軍第一航空軍情報連隊(中部第129部隊)の本部が置かれ、墳丘の上には監視所の鉄塔が建てられた。戦後、昭和22年に県立静岡農林専門学校が、昭和26年に静岡大学農学部が設立されると、墳丘の一部に学生会館が建てられた時期もある(現在は撤去)。およそ1,600年前に築かれた墓の上に、鉄塔と学生会館が順に載っていたことになる。

名前の由来についても、同ページの書き方は慎重である。享和3年(1803年)の『遠江古跡図絵』が、一言坂の戦いの際に本多平八郎忠勝が兜を脱ぎ捨てて奮戦したことを名の由来として伝えている。ただしこれは江戸時代の書物に記された伝承であり、発掘調査で裏づけられた史実ではない、と念が押されている。私もその線を越えない。

堂山古墳の全長110メートルは、いま校舎の下にある

磐田市御厨・東貝塚の堂山古墳は、全長約110メートルを測る静岡県最大級の前方後円墳である。磐田市が公表している県指定文化財の解説ページ「堂山古墳出土遺物」も、「堂山古墳は5世紀に造られた県内最大規模を誇る全長約110mの前方後円墳です」と記している。同ページの更新日は2023年3月20日である。

磐田物語の堂山古墳 ── 全長110m、静岡県最大級の前方後円墳によれば、この墳丘は昭和30年代の東部小学校建設に伴う造成などで多くが削られ、現在は周溝と墳丘の一部が残るのみである。かつての全容を、現地で直接目にすることはできない。一方その造成に伴う発掘調査では、県内で最も多種・多量の埴輪が出土した。円筒埴輪のほか、甲冑や鶏などをかたどった形象埴輪が含まれ、畿内の埴輪製作技術が用いられた埴輪もあるという。

ここで私は立ち止まる。学校を建てるために県内最大級の古墳を削ったことを、いまの物差しで責める気には、正直なれない。昭和30年代の磐田で子どもの数がどれだけ増えていたか、代わりの用地をどこに求められたか。土地を扱う仕事をしていると、そちらのほうが先に浮かぶ。だからといって、それでよかったとも言えない。この件について、私はまだ自分の中で答えを持っていない。

そのかわり、削られた墳丘の下から出た品々は残った。同ページは、2026年が堂山古墳の発掘から70年の節目にあたると書いている。磐田市文化財課の企画展「イワタの巨大古墳〜兜塚から堂山へ〜」は、磐田市立中央図書館展示室で2026年7月25日から8月30日まで開かれ、堂山古墳出土の埴輪や鉄製品などが展示された。この記事を書いている2026年8月31日は、会期が終わった翌日である。

台地の縁に、時代の違う王が並んでいる

磐田の大型古墳は、一か所に固まってはいない。磐田物語の磐田原台地と古墳分布 ── 台地の縁に眠る、時代の異なる王たちは、新豊院山古墳群・御厨古墳群・兜塚古墳などが台地の縁に点在する様子を俯瞰し、弥生末から古墳時代中期までの分布と時代の推移をたどっている。同じ台地の縁に、時代の違う有力者の墓が並んでいる、という見取り図である。

そのうちの一つ、銚子塚古墳・小銚子塚古墳は、磐田原台地西縁の寺谷に隣接して並ぶ。銚子塚古墳は全長108メートルで静岡県内第3位、隣接する小銚子塚古墳は全長46メートルの前方後方墳で、県内で確実な例が5例しかない希少な形式とされる。両古墳とも正式な発掘調査は行われておらず、明治13年(1880年)に地元の有志が銚子塚古墳の中心部を発掘した記録が残るのみで、被葬者像は規模と立地からの推定にとどまる。

こうして数字を並べると、順位の話に見えてくる。ただ、県内第3位も東海地方最大級も、比べ方を決めたあとにしか出てこない言い方である。全長で比べるか、円の直径で比べるか、盛った土の量で比べるか。物差しを変えれば順番は変わる。私が坪に直したのも、ひとつの物差しにすぎない。順位そのものより、なぜここにこの規模が要ったのかを考えるほうが、土地の見え方は変わると私は考えている。

念のため書いておくと、この段落は私の意見であって体験談ではない。私は発掘の現場に立ち会ったことがなく、墳丘の測量に加わったこともない。見ていないものを見たようには書かない。私にできるのは、資料に書いてあることと、自分の商売の物差しとを、混ぜずに並べることだけである。

会期は終わった。それでも、今日から見に行ける場所がある

企画展「イワタの巨大古墳〜兜塚から堂山へ〜」は、2026年8月30日で会期を終えている。ただし、堂山古墳の出土品そのものは県指定文化財として保存・公開されている。磐田物語の堂山古墳によれば、出土品のうち鞘形埴輪は、磐田市埋蔵文化財センターのもっとも目立つ場所に展示されているという。JR御厨駅の南口にも、同じ鞘形埴輪のモニュメントが置かれている。

磐田市の施設ガイドによれば、磐田市埋蔵文化財センターの所在地は磐田市見付3678-1、開館時間は午前8時30分から午後5時まで、休館日は国民の祝日と年末年始(12月29日から1月3日まで)、入館は無料、電話は0538-32-9699である。2026年8月31日に確認した。展示替えや臨時休館があるため、出かける前に確かめてほしい。

現地について一つだけ付け加える。古墳から見る磐田が書いているとおり、古墳の多くは普通の住宅地や農地のなかにあり、いまも土地の所有者や地域の人々によって守られている。私有地に立ち入らない、墳丘を傷つけない、地域の方の暮らしを妨げない。土地を扱う仕事をしている側から言えば、ここは譲れない一線である。

今日できる確認をひとつ

磐田の古墳を知りたいと思ったとき、今日のうちにできることを一つだけ挙げるなら、地図を開いて磐田原台地の縁がどこを走っているかを指でなぞってみることである。台地の縁と、主要な古墳の位置は、かなりの部分で重なる。縁の線が見えると、そのあとに読む記事の解像度が変わる。

そのうえで読む順にすると、次のようになる。上から順にやれば、途中でやめても無駄にならない。

  1. 古墳から見る磐田で、台地・川・海という三つの条件を押さえる
  2. 兜塚古墳で、直径84メートルという規模がどう確かめられたかを読む
  3. 堂山古墳で、失われた墳丘と、残った出土品の関係を読む
  4. 銚子塚古墳・小銚子塚古墳で、未発掘のまま残されている古墳があることを知る
  5. 磐田原台地と古墳分布で、これらを一枚の分布図に戻す

四番目は飛ばされやすい。発掘されていない古墳が国指定史跡として残っているという事実は、「調べればわかる」という思い込みを静かに崩してくれる。わかっていないことが、わかっていない形のまま残されている。それを空白のまま次の人へ渡すのが、このサイトの役目だと私は思っている。

全部を今日読みきる必要はない。磐田の古墳が多いのは土地の条件が先にあったからで、その条件は今も足もとにある。それを知っただけで、今日の成果としては十分である。

よくある質問

磐田市に古墳が多いのはなぜですか。

磐田物語の古墳から見る磐田は、その理由を地形に求めている。天竜川と太田川にはさまれた磐田原台地は周囲より一段高く、水につかりにくい。台地の縁は見晴らしがよく、東西の陸の道と南北の川の道が交わる交通の要衝でもあった。大きな墓を築ける有力者と、築くのにふさわしい土地の条件がそろっていた、という読み方である。同ページは、磐田には九百基を超える古墳があるといわれる、と記している。

兜塚古墳はどれくらいの大きさですか。

磐田物語の兜塚古墳によれば、磐田市文化財課が令和7年度に行った測量調査をもとに築造時の姿を復元したところ、直径約84メートル・高さ約8メートル程度の円墳であったことが明らかになった。名古屋市の国史跡・八幡山古墳と並び、円墳としては東海地方最大級とされる。面積に直すと約5,540平方メートル、坪では約1,676坪になるが、この換算は筆者の計算である。

堂山古墳は今も見ることができますか。

墳丘は昭和30年代の東部小学校建設に伴う造成などで多くが削られ、現在は周溝と墳丘の一部が残るのみである(堂山古墳)。企画展「イワタの巨大古墳〜兜塚から堂山へ〜」は2026年8月30日で会期を終えた。ただし堂山古墳出土遺物は県指定文化財で、磐田市埋蔵文化財センターに展示されている。入館は無料である。

  • 磐田市「堂山古墳出土遺物」(県指定文化財の解説ページ、更新日2023年3月20日)。堂山古墳が「5世紀に造られた県内最大規模を誇る全長約110mの前方後円墳」であること、葺石・埴輪をめぐらしていたことは、この資料による。2026年8月31日確認。
  • 磐田市「県指定文化財」。堂山古墳出土遺物の種別(考古資料)・指定年月日(平成8年3月22日)・所在地・所有者は、この資料による。2026年8月31日確認。
  • 磐田市「施設ガイド 埋蔵文化財センター」。所在地(磐田市見付3678-1)・開館時間・休館日・入館料・電話番号は、この資料による。2026年8月31日確認。
  • 磐田市役所が2026年8月6日に公表した企画展「イワタの巨大古墳〜兜塚から堂山へ〜」の報道発表資料。「近年の調査により東海地方最大級の円墳であることが判明した兜塚古墳からは、大型銅鏡が出土しています」「今年は、静岡県最大級の前方後円墳『堂山古墳』の発掘から70年の節目にあたります」の記述、会期が「8月30日(日)まで」であること、会場が磐田市立中央図書館展示室で入場無料であることは、この資料による。配信元がプレスリリース配信サービスであり、当ブログの外部リンク基準(公的機関等のドメインに限る)の対象外のため、URLは掲げない。2026年8月31日確認。
  • 兜塚古墳の規模(直径約84m・高さ約8m程度)、令和7年度の測量調査と出土遺物の再整理、東海地方最大級という位置づけ、副葬品(三神三獣鏡・玉類50点・鉄刀2振以上)、戦中の中部第129部隊と墳丘上の鉄塔、戦後の学生会館、『遠江古跡図絵』が伝える名の由来とその扱いは、磐田物語「兜塚古墳 ── 直径84m、東海地方最大級と判明した円墳」(磐田市文化財課「いわた文化財だより」第254号ほかによる)から引いた。
  • 堂山古墳の現況、昭和30年代の東部小学校建設に伴う造成、出土した埴輪の多様さ、発掘から70年、企画展の会期(2026年7月25日〜8月30日)と会場、鞘形埴輪の展示場所は、磐田物語「堂山古墳 ── 全長110m、静岡県最大級の前方後円墳」(同「いわた文化財だより」第256号ほかによる)から引いた。
  • 「九百基を超える古墳があるといわれる」という記述、磐田原台地と天竜川・太田川・遠州灘の関係、台地の縁という立地の意味、見学時の注意は、磐田物語「古墳から見る磐田 ── 台地と川がつくった、王たちの土地」による。
  • 銚子塚古墳の規模(全長108m、後円部 直径60m・高さ8m)、小銚子塚古墳(全長46mの前方後方墳、県内5例のみ)、正式な発掘調査が未実施であること、明治13年の発掘記録は、磐田物語「銚子塚古墳・小銚子塚古墳」による。台地の縁における古墳分布の俯瞰は、「磐田原台地と古墳分布」による。
  • 面積と坪への換算は筆者(大石浩之)の計算である。円周率を3.14159、1坪を3.305785平方メートルとして計算し、端数を四捨五入した。1区画33坪という分譲地の区画割りは、換算の目安として筆者が置いた仮の数値であり、公表資料に基づくものではない。
磐田物語を書いている大石浩之の顔写真。眼鏡をかけ、腕を組んで正面を向いたモノクロの肖像

大石浩之(磐田市/不動産業・宅地建物取引士)

静岡県磐田市で不動産と介護の仕事をしながら、郷土史の資料を読み、現地を歩いて書き留めている。研究者ではない。磐田物語を始めた理由ははじめにに書いた。

古墳の規模・年代・指定内容は、調査の進展によって書き改められることがある。展示の内容、開館時間、休館日も変わりうるため、出かける前に磐田市の最新の公表情報を確かめてほしい。古墳の多くは私有地や住宅地のなかにあり、見学の可否は場所によって異なる。所在地や立ち入りの可否についての個別の判断は、磐田市文化財課に確認を。

  • 初版公開。

この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。