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磐田物語池田荘と葛巻 / 条里制と立券文書

中世荘園を掘り下げる | 池田荘・地理学編

池田荘の条里制と立券文書
── 微高地から復元する荘域

立券文書に記された地名を手がかりに、天竜川がつくった微高地の分布と、江戸期の絵図に残る坪割りの痕跡から、池田荘の条里制と荘域を復元しようとした研究をたどる。

池田荘については、荘園としての成立や松尾神社領という側面が別記事ですでに語られている。ここではもう一歩踏み込み、立券文書に書き込まれた地名と、天竜川がつくった地形そのものから、荘域と条里制の姿を組み立てようとした地理学的な研究を読む。手がかりは、洪水と河道変化を繰り返してきた土地の上に、なお読み取れる微高地の並びと、地名の記憶である。

この記事で分けて扱うこと

立券文書に残る地名を、いまの地図に置く

池田荘の立券文書(嘉応3年〈1171年〉の文書とされる)には、荘内のいくつもの地名が書き込まれている。これらを現在の地名と照らし合わせると、多くが今もほぼ同じ場所に残っていることがわかる。研究者や地元の伝承によって、次のような対応が推定されてきた。

富田郷浜松市中野町の富田で、大見里・宮前とともに池田郷内にあったと伝わる。
大見里同市中野町大見。
高木郷竜洋町高木。
気子嶋豊田町気子島。
長須賀磐田市長須賀。
蜆嶋竜洋町海老島。
草前郷磐田市草崎。
国吉保浜松市国吉町。
羽婆里半場町。

これらの地名は、江戸時代の絵図や古文書にも部分的に登場し、天竜川の洪水・氾濫・河道の西遷によって幻となった地名も少なくない。しかし気子島のように、条里制地割の地名を今に伝えていると考えられるものもある。地名の重なりは、荘域を確定する決定打ではないが、荘の広がりを推定する手がかりとして重視されてきた。

条里制とは何か ── 一里・一町・一坪の単位

条里制とは、大化改新の際に行われたとされる土地区画法で、東西と南北に通じる平行線によって土地を分割し、南北の並びを「条」、東西の並びを「里」と呼んで、位置を明確にするための仕組みである。里はさらに六町四方(三六〇歩=約六四四メートル四方)の正方形に分けられ、一町(約六四メートル四方、三六〇歩)を単位に、里の中を北から順に一坪、二坪、三坪と数えていく。一坪は約一反(三六〇歩)にあたり、色紙型または千鳥式(連続式)の区画法によって坪番号が振られた。

条里制地割は実際には畦・溝・道路などによって区画され、おおむね郡単位に統一されていたとされる。長方形の区割りは実測では畦畔に従って並べられて十等分され、これを「長地型(短冊型)」と呼び、正方形の区画を東西に二列で十等分したものを「半折型(色紙型)」と呼ぶ。こうした地割の残存は、天竜川下流域のように洪水・氾濫・河道の西遷によって幾度も土地が姿を変えた地域では、そのまま残ることが難しい。

谷岡博士グループによる微高地の復元

天竜川下流域における松尾神社領池田荘の歴史地理学的研究(谷岡武雄博士)は、まず空中写真によって微高地地形を解読し、微高地(旧中州、自然堤防)と低地(流跡)の別を明らかにした。そのうえで野外観察によってそれを確かめ、「池田荘域およびその付近の地形」「航空写真の解読による微高地の分布」という図を作成している。図には、天竜川の旧河道(網状流跡・バックマーシュ)、上位・下位の段丘、松尾神社の位置、乾田と湿田の境界などが示され、気子島・草崎・海老島・高木といった地名が、微高地の上に位置していたことが読み取れる。

この微高地の計測結果は次の第1表にまとめられている。荘域およびその周辺の微高地は、左岸・右岸あわせて総計2,720.5ヘクタール、平均すると一つの微高地あたり約57.9ヘクタールという規模であった。

集計区分荘域およびその周辺における微高地
総計2,720.5ヘクタール
平均(1微高地あたり)約57.9ヘクタール
個別の例左岸:匂坂西(11.5ha)、池田〜源平新田(86.0ha)、気子〜森子(82.5ha)など/右岸:東鶴見〜老間町(137.5ha)、中平松〜西平松(36.5ha)など

研究はこの計測結果について、立券文書の頭書に記された荘域の総面積(約657町余)を現在の丈量単位に修正したうえで、郷・保・村・嶋などおよそ一五〇の居住単位で割ってみると、実際の微高地の平均面積とはおおむね近い値になる、と述べている。微高地が開発の主な対象となる一方、旧河道や低地はのちに水田として開発され、やがて本流が連続的な堤防で固定されていった――という土地の成り立ちが、この計測から見えてくる。

坪並みの3つの仮説 ── 連続式・平行式

条里の坪(一町四方の区画)に番号をどう振っていたかについては、大きく分けて次の三つの方式が考えられる。一坪から三六坪まで、六町四方の里の中でどう並べるかによって、①連続式、②平行式(縦方向)、③平行式・千鳥式(横方向)に分かれる。研究では、この三方式のいずれが池田荘に適用されていたかを、①文書に示された位置を重視すること、②荘境付近において池田荘城内に入り組んでいる隣接荘領のものは、できるだけ矛盾の起こらないように解釈すること、③傍示の位置を守ること、という三原則のもとで検証している。

その結果、以上の三原則を守って、連続式もしくは平行式坪並み十六形式のうち、可能性のないもの十二形式を除くと、若干の可能性があるかなり有力なものは次の三形式となった。文書に関しては岡本郷と池田郷の場合二里まであげられている。里の方は右の如くとすれば、則に従って北から南へ数え進んだと考えてよかろう。しかし、平行式は他の郡の例から推しても可能性が薄いから、結局(一)の連続式(千鳥式)が最も多くの条件を満たすこととされる。

松尾神社を基準に、条理線を復元する

研究はさらに、荘域内で位置の動かない松尾神社を基準点として、条理線の方向そのものを復元しようと試みている。荘内に祀られた各地の松尾神社(前野・海老島・宮之一色・長須賀・新島など)を結ぶ線を手がかりに、南北の理線・東西の陌線の方向を推定し、これを左岸の坪並みの位置と重ね合わせる作業である。あわせて、浜松付近の条里制遺構について歌川学氏が蜆嶋(海老島)で推定した坪並みとも突き合わせている。

ただし、この工程で扱われている古文書の記述はかなり難読で、区画線の具体的な位置づけまで本記事で断定することは避けたい。ここで言えるのは、複数の手がかり(松尾神社の位置、隣接荘園との整合、歌川氏の別研究)を重ね合わせても、前章で導かれた「連続式(千鳥式)」という結論と大きく矛盾しない、という程度にとどめておきたい。嘉応の立券文書自体には条(南北方向の並び)についての記載がなく、この点は坪並みの型から推定するほかない、という限界も研究は率直に記している。

江戸期の絵図に見える条里の痕跡

大橋いち氏が所蔵する江戸時代の池田村絵図には、条里制の名残と思われる土地区割りが見られるという。荘域内で条里制の坪並みを直接示す資料はほかに見つかっていないが、大橋家の古文書には「上ノ段」という地名があり、竜洋町の旧十束村地内にも「上ノ段(俗称うえんだん)」という小字が残る。こうした地名も、条里制の地割りに関係した名残であろうと研究は推定している。荘内の坪並みを一つに確定することはむずかしいが、こうした小さな地名の積み重ねから、可能性の高い姿を考えてみる価値はある、と研究は結んでいる。

在家集落の構造 ── 輪中集落として

網状に分布する旧河道や低地によって分断された微高地の上に、荘園時代の集落はどのような形で立地していたのだろうか。研究は、街道沿いや堤防上に列状に発達した渡津町(池田)のような集落(輪中集落)を除けば、この地域の荘園時代の集落は、まとまった村落というより、微高地ごとに散らばった疎居に近い景観だったのではないか、と推定している。

立券文書には、富田郷・蜆嶋・葛巻郷・高木郷などの各郷・保・村・嶋の中に、田畠とあわせて「壱所畑在家壱宇」(田畑一か所と家一軒)といった記載が見える。これは、条里の坪番号で位置を示すのではなく、微高地一つひとつに小さな在家(住居)が点在していたことを示すものと読める。荘域が地形の凹凸の上に成り立っていたぶん、村のまとまりも、平坦な条里地帯の集落とは違う形をとっていたと考えられる。

復元研究が教えてくれること

この一連の研究がわかりやすく教えてくれるのは、荘園の境界や土地割りは、文書の文字だけでは決して確定できないということである。天竜川という「動く川」の上に成り立った荘園だからこそ、地形そのものを読み、微高地の並びを測り、江戸期の絵図と重ね合わせるという手間のかかる作業が必要になった。谷岡博士グループの研究は、その手間を惜しまず、松尾神社という不動の一点を基準に、蓋然性のもっとも高い坪並みを組み立てようとした試みである。

池田・気子島・草崎・長須賀・高木・海老島――これらの地名を歩くとき、そこに広がる田畑の一枚一枚が、かつて条理の坪として数えられていたかもしれないと想像してみる。確定はできない。しかし、地形と地名と古文書が、うっすらと重なって見えてくる瞬間は、たしかにある。

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主な参考資料

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。