磐田市池田は、旧東海道が天竜川を渡った渡船場の里である。その東のはずれに建つ時宗の寺・行興寺(ぎょうこうじ)には、毎年4月、紫の花房を長く垂らす「熊野(ゆや)の長藤」が咲く。花の名は、平安時代末期にこの地で生きたと伝わる女性・熊野御前に由来する。平家の武将・平宗盛(たいらのむねもり)に見初められて都へ上り、病の母を案じて故郷・池田への帰郷を願ったという物語は、御伽草子や謡曲「熊野(ゆや)」にも姿を変えて残り、地元・豊田郷土を研究する会が編纂した『熊野ものがたり』(平成21年〈2009年〉刊)にも整理されている。ここでは、その伝承と、行興寺に伝わる古文書・地名が語る歴史とを、史実・伝承・後世の考証に分けながら紹介したい。
- 熊野御前は、御伽草子「烏帽子折」などに並び称された5人の美女のひとりとされ、遠江国池田の生まれと伝わるが、本名は明らかでない。
- 母を思う帰郷の物語は、謡曲「熊野」の題材にもなり、行興寺に伝わる熊野絵巻・熊野道場由来記・熊野寺旧跡之畧縁起という古文書とともに、池田の地に受け継がれてきた。
- 地名「ゆや野」、宝篋印塔(伝・熊野と母親の墓)、句碑、そして国指定天然記念物「熊野の長藤」は、伝説と史実の境界がはっきりしないまま、800年以上にわたって語り継がれてきた記憶のかたちである。
熊野御前とはだれか
熊野御前の物語がもっとも古い形で残るのは、室町時代に成立した御伽草子「烏帽子折(えぼしおり)」である。そこには、当時の日本で美人の誉れが高かった5人の女性の名が並んで語られている。一番は手越(てごし、駿河国)の長者の娘・千手の前、二番は遠江国池田の熊野、三番は黄瀬川(きせがわ)の亀鶴(かめつる)、四番は相模国の長者の娘・虎御前、五番は武蔵国入間の白拍子・唐糸(からいと)である。この並びから、熊野が中世を通じて広く知られた美女のひとりとして扱われてきたことがうかがえる。
池田の熊野は、平清盛の三男・平宗盛に寵愛された女性と伝わる。ただし、彼女の本名がはっきりしないというのが実情である。江戸時代の記録では「熊野御前」あるいは単に「熊野」と呼ばれ、それ以前には「熊野の前」とも「熊野の侍従」とも書かれた。地元・豊田郷土を研究する会が編纂した『熊野ものがたり』でも、「熊野」という単純な音読みでよいのか、「くまの」「ゆまの」のように読むべきかを含め、決着していないとされている。伝承の多くの部分がその後の文学作品や後世の物語によって形づくられてきたこともあり、本稿でも「そう伝えられている」という留保をつけながら紹介したい。
母を思う熊野の物語
熊野をめぐってもっともよく知られているのが、病の母を案じる帰郷の物語である。都で宗盛に仕えていた熊野のもとに、故郷・池田の老母が病であるという便りが届く。熊野は帰郷を願い出るが、宗盛はにわかに許さず、折しも催された京都東山・清水寺の花見の宴に同行するよう命じたという。舞ううちに時雨が桜を散らすのを見た熊野は、老いた母の姿と重ね合わせ、一首の和歌を詠んだと伝わる。
いかにせん都の春も惜しけれど 馴れし東(あづま)の花や散るらん
(都の春も名残惜しいけれど、住み慣れた東国の花=母もまた、散ってしまうのではないでしょうか)
この歌に心を動かされた宗盛が、ついに帰郷を許したという筋立ては、謡曲「熊野」の骨格にも通じている。謡曲では、熊野が東海道を下って池田へ帰る道行(みちゆき)が、車宿・逢坂の関・四条五条の橋・清水寺・地主権現などの名所を織り込みながら謡われ、京から遠江へと続く道のりの遠さが際立つ構成になっている。史実としてどこまで確かめられるかは別として、母を思う娘の情と、都の春の名残惜しさとが重なり合う物語として、長く親しまれてきた。
熊野絵巻と謡曲「熊野」
行興寺には、熊野の生涯を描いたと伝わる「熊野絵巻」(巻子本)が受け継がれている。世阿弥自筆と伝わる能楽書『熊野道場』に由来する名だともいわれ、制作年代については室町期にさかのぼるという説がある一方、絵の様式や紙質からは江戸期に描かれたと考える見方も示されており、いずれの説にも確定的な根拠はない。行興寺では、この絵巻を寺宝として大切に保管し、貴重な文化財として位置づけている。
一方、謡曲「熊野」は世阿弥の作と伝えられ、『平家物語』巻十「海道下(かいどうくだり)」の一場面をふくらませたものと考えられている。「熊野(ゆや)松風に米の飯」という言い回しが残るほど、『松風』と並んで長く愛されてきた人気曲である。池田の地元では、謡曲クラブの人たちが毎年、行興寺の熊野御前の命日にあたる4月吉日に「熊野」を奉納してきた歴史があり、こうした稽古と奉納が、物語を土地の記憶として今日まで生かし続けている。
行興寺と熊野道場由来記
行興寺は時宗(じしゅう)の寺院である。時宗は鎌倉時代に一遍上人(いっぺんしょうにん)が開いた念仏の教えで、諸国を遊行して念仏をすすめた僧たちの活動とともに各地に道場が営まれた。行興寺に伝わる古文書「熊野道場由来記」「熊野寺旧跡之畧縁起」によれば、寺の草創は熊野御前の菩提を弔うための草庵にさかのぼるとされ、正応3年(1290年)には本堂が建てられたと伝えられている。その後、応仁元年(1467年)ごろには、他阿真教(たあしんきょう)ら時宗の僧たちによって寺が再興されたという記録も残る。
近世に入ると、行興寺は徳川家康との縁でも語られている。家康が浜松城主であったころ、この地を訪れて熊野の古跡をしのび、寺に朱印地を寄進したという逸話が伝わり、その年代は慶長8年(1603年)とされる。江戸時代を通じて、行興寺は朱印地を持つ寺として近隣の村々からも大切に扱われ、古文書の中には、寺領をめぐるやり取りや、天竜川の水害で困窮した際の嘆願書なども残されている。これらの古文書は、熊野の伝説だけでなく、池田という土地の近世史を伝える資料としても価値を持っている。
地名「ゆや野」と池田の記憶
池田の東、天竜川沿いには、かつて「ゆや野」と呼ばれた字名(あざめい)が残っていたと伝わる。地元の郷土研究者・門奈幹雄氏の考察によれば、この地名は熊野にちなむとする説がある一方、地形や植生に由来する一般的な地名である可能性も指摘されており、断定はできない。『熊野ものがたり』でも、この地名の由来については複数の見方が併記され、いずれか一つに決めつけることを避けている。
地名の由来がはっきりしないというのは、熊野御前の伝承全体にも通じる特徴である。本名、絵巻の制作年代、寺の創建年、地名の由来──いずれも「諸説ある」「確定できない」という留保がつきまとう。それでもなお、池田の人々がこの物語を大切に語り継いできたのは、伝説の真偽そのものよりも、母を思う心や、故郷への思いという物語の核が、時代を越えて人の心に触れ続けてきたからだろう。
今に伝わる熊野の面影
行興寺の境内には、熊野御前と母親の墓と伝わる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が2基並んで建っている。訪れる人が絶えず花を手向けており、伝説上の人物でありながら、今も土地の人々に大切にされている様子がうかがえる。境内を彩る国指定天然記念物「熊野の長藤」は昭和7年(1932年)7月25日に指定されたノダフジで、推定樹齢は約850年に及ぶという。境内にはこのほか、静岡県指定の長藤5株(昭和47年〈1972年〉9月26日指定)もあり、熊野が植えたとも、その子孫の木とも伝えられている。長藤の傍らには「天竜の川風熊野の藤揺らす」と刻まれた句碑も立ち、藤と川風、そして熊野の名が、ひとつの景色として結ばれている。
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 平安時代末期 | 熊野御前が生きたと伝わる時代。平宗盛に寵愛され、都と池田を行き来したという物語が語り継がれる。 |
| 正応3年(1290年) | 行興寺の本堂が再建されたと、熊野道場由来記に記される。 |
| 応仁元年(1467年)ごろ | 他阿真教ら時宗の僧によって、行興寺が再興されたと伝わる。 |
| 慶長8年(1603年) | 徳川家康が行興寺に朱印地を寄進したという逸話が伝わる。 |
| 昭和7年(1932年) | 行興寺の「熊野の長藤」(ノダフジ)が国の天然記念物に指定される。 |
| 昭和47年(1972年) | 県指定の長藤5株が静岡県の天然記念物に指定される。 |
| 平成21年(2009年) | 豊田郷土を研究する会編『熊野ものがたり』が刊行される。 |
本稿で扱った主な用語
- 御伽草子
- 室町時代を中心に成立した短編の物語群の総称。「烏帽子折」など、熊野御前の名が見える作品も含まれる。
- 宝篋印塔
- 仏塔の一形式。行興寺境内には、熊野御前と母親の墓と伝わる2基が並ぶ。
- 時宗
- 鎌倉時代に一遍上人が開いた念仏の教え。行興寺はこの時宗に属する寺院である。
- 朱印地
- 江戸幕府や大名が寺社に安堵した領地。行興寺は徳川家康による寄進と伝わる朱印地を持っていた。
- 謡曲
- 能の詞章。「熊野(ゆや)」は世阿弥作と伝わる人気曲で、母を思う熊野の帰郷を描く。
- 熊野道場
- 行興寺の前身とされる、熊野御前の菩提を弔うための道場・草庵を指す呼び名。
むすび
熊野御前の本名も、絵巻の制作年代も、地名「ゆや野」の由来も、資料の上では最後まで確定しない。それでも、母を案じる娘の心と、故郷を思う気持ちという物語の核だけは、800年以上にわたって池田の地で語り継がれてきた。行興寺の古文書を守り、謡曲を謡い、藤の木を手入れし、宝篋印塔に花を手向ける──そうした一つひとつの営みが、伝説を土地の記憶として今に残してきたのだろう。家や土地もまた、そこに暮らした人の記憶を宿す器である。熊野の物語が800年を越えて受け継がれてきたように、自分たちの家や土地に残る記憶を、次の世代へどう手渡していくかを考える機会になれば幸いである。
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