失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 横須賀街道の松並木を読む

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第224号(福田地区研究 街道景観篇)

横須賀街道の松並木を読む

街道景観に刻まれた地域の記憶 ── 近世街道並木の制度・機能・保存をめぐって

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市福田

要旨

横須賀街道は、遠州灘沿岸の横須賀(現・掛川市)と内陸の東海道筋とを結んだ近世の脇往還であり、その沿道には松並木が伴っていたと伝えられる。本稿は、福田地区に関わる地域資料に記録された横須賀街道の松並木を対象とし、街道並木という近世的な景観装置がどのように成立し、どのように失われ、どのように記憶されてきたかを、史料批判の観点から読み直す。松並木の存在とその記録は史実として扱いうる一方、植栽の由来や年代を直接に裏づける一次史料は、管見の限り確認できていない。本稿はこの「未確認」を「史料に記載がない」ことと区別したうえで、街道並木の制度史・機能・保存をめぐる一般的知見を補助線として、確度の異なる情報を層に腑分けする。松並木を単独の名所としてではなく、街道景観に刻まれた地域の記憶として位置づけ、断定を避けつつ後続の調査に開かれた記述をめざす。

キーワード:横須賀街道/松並木/街道並木/脇往還/景観の記憶/史料批判/福田

1. 問題設定 ── 街道の松並木を「景観の記憶」として読む

街道に沿って延びる松並木は、近世の日本各地に見られた景観であり、いまも東海道の一部区間などに保存木として残る。並木は単なる植栽ではなく、道を歩む者に木陰を与え、風や飛砂をさえぎり、道筋の連続を目に見える形で示す装置であった。横須賀街道の松並木も、そうした街道景観の一つとして、福田地区に関わる地域資料に記録が残されている1。本稿は、この松並木を手がかりに、街道並木という近世的な景観装置の成立・機能・喪失・記憶を、確度の層を区別しながらたどることを課題とする。

本稿がとる視点は、松並木を「いつ植えられ、いま何本残るか」という一点の事実へ還元するのではなく、街道景観に刻まれた地域の記憶として読むことにある。並木は、それを植え、維持し、伐り、惜しんできた人々の営みの累積であり、その累積の過程そのものが地域の履歴を映す。したがって、植栽年や本数を確定できないことは、この主題を語る妨げにはならない。確定できる部分とできない部分を腑分けし、街道並木一般の知見を補助線として置くことで、断片的な記録からも十分に読み解ける余地が生まれる。

ただし、素材となる地域資料は情報の乏しいものである。そこには横須賀街道の松並木という名称と、福田地区という所在、いくつかの断片的な語が記されるにとどまり、植栽の由来や現状を具体的に語る記述は乏しい。この薄さを埋めるために本稿がとる手続きは、憶測で事実を補うことではない。街道並木の制度史・景観論・並木保存という、より広い文脈の一般的知見を援用し、そこに素材の記録を位置づけることで、確からしさの水準を保ったまま論を厚くする。素材にない固有の年代・数値・人名を新たに作り出すことは、本稿では厳に避ける。

そのために、あらかじめ四つの確度の層を定義しておく。第一に史実、すなわち史料によって確認できる事柄。第二に通説、学界で広く受け入れられているが一点では確定しがたい事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。あわせて本稿は、一次史料に突き当たっていない状態を指す「未確認」と、史料にその記載が存在しない「記載なし」とを一貫して区別する。この二つを混同すると、単に筆者が調べ及んでいないだけの事柄を、あたかも史料的に否定されたかのように誤読する危険が生じるからである。

なぜ松並木という主題が、地域の記憶として繰り返し立ち現れるのか。それは、並木が個人の所有物ではなく、道を行き交う共同の暮らしのなかに置かれた景観であったことと無関係ではない。個々の建物や屋敷は所有者とともに移り変わるが、街道の並木は、宿・村・領・幕府といった重なり合う主体によって支えられ、旅人・商人・巡礼・地元の人々が等しく仰ぎ見る共有の風景であった。共有されていたからこそ、並木は特定の誰かの記憶にとどまらず、地域の集合的な記憶として語り継がれる素地をもった。松並木を読むことは、こうした共有の景観をめぐる記憶のありようを読むことでもある。

東海道(袋井宿 ─ 見付宿 ─ 掛川宿) 遠州灘(海岸・飛砂と潮風の帯) 横須賀 城下・湊 福田 沿岸の村・湊 横須賀街道(脇往還) ※沿岸集落の相互関係を示す概念図であり、実際の街道の詳細な経路・距離を示すものではない。
図1 横須賀街道の位置関係(概念図)。遠州灘沿岸を横に走り、東海道筋と海辺の村々・湊を結ぶ脇往還として描いた。松並木はこの街道景観の一部をなした。経路の細部は要確認である。

2. 史料で確認できること ── 記録の輪郭と限界

まず、素材とした地域資料から確認できる範囲を確定しておく。そこに記されるのは、横須賀街道の松並木という名称、福田地区に関わる歴史・史跡としての位置づけ、そして湊・港・街道・東海道・米といった、周辺の地理と生業を示すいくつかの語である。これらは、松並木が沿岸の交通と経済の文脈のなかで記憶されてきたことを示す手がかりであり、街道景観としての輪郭を描く足場になる。松並木という景観がこの地に関わる記録として伝えられていること自体は、史実の層で扱ってよい。

問題は、記録の性格である。この資料は、名称や語を短く並べる二次的な性格が強く、松並木の植栽年代・本数・管理主体・現在の状態を具体的に記す一次記録ではない。資料には年代を思わせる数字がいくつか現れるが、それらが松並木の植栽や維持の事実と結びつくことを裏づける記述は、資料本文のなかに見あたらない。したがって本稿は、こうした数字を松並木の年代として採用しない。植栽の由来や年代を直接に示す一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。これは、そのような史料が存在しないと断定できること(記載なし)を意味しない。あくまで、管見の限りそれに突き当たっていない(未確認)という状態である。

一方で、資料に積極的な記述がない事柄もある。松並木の現在の残存状況、保存や管理を担う主体、正確な所在の区間などは、素材資料に記載がない。ここで重要なのは、「未確認」と「記載なし」を書き分けることである。植栽年代は、どこかに史料がありうるのに筆者が突き当たっていない未確認の事柄であり、現状や管理主体は、素材資料がそもそも語っていない記載なしの事柄である。両者は、今後の調査で埋めるべき空白の性格が異なる。前者は史料の博捜によって、後者は現地調査や行政資料の照合によって接近すべき問いである。

この区別を保ったまま、松並木を地区史のなかに置き直すと、周辺の記録との接続が見えてくる。福田は遠州灘に面し、湊と漁業、海辺の生業に関わる記憶が積み重なる地区であり、その沿革は福田地区トップにまとめられている。街道と湊は別個の主題ではなく、陸の道と海の道が交わる結節として一体に読むべきものである。福田漁港から産業の記憶を読むで扱われる湊の記憶と、本稿の街道景観とを重ねることで、松並木は孤立した名所ではなく、沿岸の交通網のなかの一要素として位置づけられる。

記録の輪郭を確定する作業には、もう一つの効用がある。何が分かっていて何が分かっていないかを明示しておくと、後から資料を持ち寄る人が、どこに手を入れればよいかを見通せる。植栽の年代を問うなら地方文書や絵図へ、経路を問うなら古地図や地籍へ、現状を問うなら現地や行政資料へ──というように、空白の性格に応じて調査の入口が定まる。断片的な記録を前にして途方に暮れるのではなく、確度の層と空白の種類を仕分けておくこと。それ自体が、地域史を継続的に育てるための下ごしらえになる。本稿が記録の限界をあえて詳しく述べるのは、この下ごしらえを次の書き手へ引き継ぐためである。

3. 近世街道並木の制度史 ── 並木はなぜ植えられたか

横須賀街道の松並木を理解するために、まず街道並木という制度の一般的な成り立ちを押さえておく。近世の街道並木は、幕府による交通体系の整備と不可分に成立した。徳川家康による全国的な街道整備の一環として、慶長9年(1604年)に一里塚の設置が命じられ、その塚上や街道沿いへの植樹が進められたことは、街道史の通説として広く受け入れられている2。並木は、旅人の便宜と道路の保護を兼ねた公共的な施設として、幕府と沿道の宿・村によって維持された。

街道並木は、東海道や中山道といった主要な五街道にとどまらず、それらを補う脇往還にも及んだ。脇往還とは、五街道以外の主要な陸路を指し、地域の産物の輸送や参詣・湯治の往来を担った道である。こうした道の沿道にも、並木や松の植栽が行われた例は各地に知られる。並木の設置と維持は、必ずしも幕府直轄でなくとも、街道が通る領内の藩や、街道に接する宿・村の負担によって支えられた。並木の維持を財政的に支える仕組みとして、通行者や沿道から一定の負担を徴する例も見られたとされる。

並木の管理には、植栽したのちの補植が欠かせない。並木は放置すれば枯損・倒伏により歯が欠けるように失われるため、枯れた木を植え継ぐ「植継ぎ」が制度として組み込まれていた。並木を管理する役や、並木の伐採・植栽を規制する取り決めが置かれた例もあり、街道並木が一度植えれば済むものではなく、世代を越えて維持し続けなければ保てない施設であったことがうかがえる。並木が長く景観として存続したという事実は、その背後に継続的な維持の営みがあったことの証左である。

もっとも、横須賀街道の松並木が、こうした制度史の一般像のどこに位置づくのかを直接に示す史料は、本稿では確認できていない。植栽が幕府の政策に発するのか、藩や村の自主的な営みに発するのか、あるいは飛砂防止の海岸林として植えられた松林が街道と重なって並木のように見えたものなのか──これらはいずれも推定の域を出ない。街道の並木という制度史の枠組みは、あくまで松並木を読むための補助線であって、横須賀街道の個別事情をそのまま説明するものではない。なお、街道の分岐や道標をめぐる地域の記憶については、見付宿を扱った見付宿西側の追分と池田近道の論考も、街道景観を読む視点を補う。

制度史の一般像から一つ確かに言えるのは、街道並木が「自然に生えた林」ではなく「人が意図して並べ、手をかけて保った施設」だったという点である。木が一定の間隔で列をなし、路面の両側に相対して立つという並木特有の姿は、自然の植生には生じにくい。したがって、たとえ植栽の主体や年代が未確認であっても、そこに並木が存在したという事実そのものが、それを植え維持した人の営みの存在を含意する。松並木を景観として読むとき、私たちはその背後に、名の伝わらない多くの手の働きを想定しなければならない。並木は、匿名の維持労働の集積として立っていたのである。

街道整備一里塚・植樹 並木植栽松の列植 維持・管理宿・村の負担 植継ぎ枯木の補植 存続景観化 街道並木の制度 ── 植えて終わらず、維持され続ける 植継ぎが維持へ還流する循環(破線)が、並木を長期に存続させた。
図2 街道並木の制度過程。植栽ののち、維持と植継ぎの循環が続いてはじめて並木は景観として存続する。横須賀街道の松並木がこの過程のどこに位置づくかは、本稿では未確認である。

4. 松並木の機能 ── 日除け・防風・道標・修景

街道並木、とりわけ松の並木は、いくつかの実用的な機能を兼ねていた。第一に日除けである。夏の街道を歩く旅人にとって、並木の落とす木陰は暑さをしのぐ休息の場であり、日射を弱める帯であった。第二に防風・防砂・防雪である。風の強い平野や海辺では、並木が風を弱め、飛砂や吹雪から道を守った。第三に道標としての機能である。並木は道筋を線として際立たせ、視界の悪い日でも道の続く方向を示した。第四に修景、すなわち景観を整える働きであり、並木の連なりは道行きに一定のまとまりと風格を与えた3

これらの機能のうち、遠州灘沿岸を走る道にとって特に重要でありえたのは、防風と防砂である。遠州灘の海岸は、強い潮風と飛砂にさらされる地帯であり、沿岸には飛砂を抑えるための海岸林が近世から近代にかけて広く造成されてきた。松は、痩せた砂地でも育ち、潮風に耐える性質をもつため、海岸林の主要な樹種とされてきた。街道が海辺の砂地を通る区間では、街道の並木と飛砂防止の海岸林とが、機能の面でも景観の面でも重なり合っていた可能性がある。ただし、横須賀街道の松並木がこの海岸林的な性格をどの程度もっていたかは、素材資料からは判断できず、推定にとどまる。

道標としての機能は、街道景観の記憶という本稿の主題と深く関わる。並木は、道そのものが失われても、木の列としてしばらく道の記憶を地上に残す。逆に、木が失われれば、道はたちまち周囲の風景に溶け込み、どこが街道であったかが見えにくくなる。並木は、道を「見える道」として保つ装置であり、その喪失は道の記憶の希薄化を伴う。松並木を景観の記憶として読むとは、この可視性の装置がもっていた役割を、あらためて言葉にする作業でもある。

樹種として松が選ばれたことにも意味がある。松は成長がさほど速くはないが、寿命が長く、砂地・痩地・潮風といった厳しい条件に耐える。街道並木に求められたのは、短期に茂ることよりも、長い年月にわたり道を守り続ける持続性であり、松はその要求に適していた。加えて、松は日本の景観意識のなかで、街道や海辺の風景と強く結びついた樹種であり、松並木という語が喚起する情景そのものが、近世の街道文化の記憶に連なっている。松であることは、機能と情緒の双方において、街道景観の一部をなしていた。

これらの機能は、互いに独立しているのではなく、一本の松のうちに束ねられていた点に注意したい。同じ一本の木が、旅人には木陰を与え、道には風と砂の盾となり、遠くから見る者には道筋を示し、風景としては連なりの美を成す。並木の効用を機能ごとに腑分けして説くことはできるが、実際の景観のなかでは、それらは分かちがたく重なっていた。だからこそ、並木が一区間でも失われると、木陰も、防風も、道標も、修景も、同時に失われる。松並木の喪失が景観の記憶に与える打撃が大きいのは、それが多くの働きを一挙に担っていたからにほかならない。

街道(路面) 潮風・飛砂 → 木陰(日除け) ← 並木が風を弱める 防風・防砂 日除け・木陰 道標・修景 松並木の機能 ── 街道の断面から見る
図3 街道の断面模式図。松並木は路面の両側に立ち、木陰・防風防砂・道標・修景の機能を一度に担った。沿岸区間では飛砂防止の海岸林と機能が重なりえた(推定)。

5. 横須賀街道という脇往還 ── 地理と経済の背景

横須賀街道の松並木を、より広い地理のなかに置いてみる。横須賀は、遠州灘に近い地に城下町が営まれた地であり、現在は掛川市の一部となっている。横須賀街道は、この横須賀の城下と、内陸の東海道筋とを結ぶ脇往還であったとされる。海に近い城下町にとって、内陸の宿場や城下との往来は、政治・経済の両面で不可欠であり、街道はその往来を支える動脈であった。松並木は、この動脈の沿道に伴われた景観であったと考えられる。

脇往還としての横須賀街道が担ったのは、人の往来だけではない。海辺の地は、塩や海産物といった沿岸の産物を内陸へ送り、内陸からは米をはじめとする物資を受け取る、交易の結節であった。素材資料に湊・港・米といった語が現れることは、この街道が経済の道でもあったことをうかがわせる。塩や海産物が陸路で運ばれ、湊を介して海路とも結ばれる──こうした物流の網のなかに街道は組み込まれていた。並木は、この物流を担う人と荷の往来を、日々見守る存在であった。

福田は、この沿岸の交通網のなかで湊と生業をもつ地であった。海の道と陸の道が交わる沿岸の村々は、街道景観を成立させる現実的な母体である。渡船や湊が交通の要をなしたことは、掛塚の渡しを扱った掛塚地区から東西への渡船場跡から産業の記憶を読むにも見られるとおりであり、街道・湊・渡しは、遠州灘沿岸の交通を構成する一連の要素として読むことができる。松並木は、この交通網の陸の部分を可視化する景観として、沿岸の生活のなかに置かれていた。

ただし、横須賀街道が福田地区のどの区間をどのように通っていたのか、そして松並木がどの区間に伴われていたのかについては、素材資料からは特定できない。街道の呼称は、時代や地域によって指す範囲が一定しないことがあり、同じ「横須賀街道」の名でも、区間や経路の理解には幅がありうる。この経路と区間の問題は、古地図・絵図・近代の地籍資料などを照合してはじめて詰められる課題であり、本稿では未確認の事柄として、今後の検討に委ねる。地理の背景は松並木の意味を厚くするが、その厚みは、経路の細部を断定することによってではなく、沿岸の交通網という文脈を丁寧に描くことによって得られる。

沿岸の道は、内陸の街道とは異なる条件のもとに置かれていた。海に近い地では、砂の移動や高潮、河口の付け替えによって、地形そのものが時代とともに変化する。道もまた、そうした地形の変化に応じて微妙に付け替えられることがあり、街道の経路が数百年にわたり一定であったとは限らない。松並木がある区間に伴われていたとしても、その区間の道筋自体が後世に動いた可能性は残る。地形の変化が大きい沿岸の街道を扱うときには、現在の地形をそのまま近世に投影しないという慎重さが要る。この点でも、経路を一つに断定せず、変化の余地を含んだ形で記述しておくことが穏当である。

海・湊 塩・海産物 横須賀街道 松並木の沿道 内陸・東海道 米・物資 街道を介した交易 ── 海と内陸を結ぶ 松並木の沿道は、塩・海産物と米・物資が行き交う経済の道でもあった。
図4 街道を介した交易の模式図。横須賀街道は海辺の産物と内陸の物資を結ぶ経済の道でもあり、松並木はその往来を沿道から見守る景観であった。

6. 並木の喪失と保存 ── 松枯れ・道路改良・記憶化

街道並木は、近代以降の各地で大きく姿を減じた。その一般的な要因は複合的である。第一に、道路の改良である。荷車や自動車の通行に合わせて道幅を広げ、路面を舗装する過程で、路傍の並木は支障木として伐られることが多かった。第二に、街道そのものの役割の変化である。鉄道や新道の開通によって旧街道の交通量が減ると、並木を維持する動機と負担の担い手が失われ、植継ぎが途絶えて並木は歯抜けになっていった。並木の喪失は、しばしば道の役割の交替と連動していた。

第三の、そして松並木に固有の要因が、松枯れである。近代以降、マツ材線虫病(いわゆる松くい虫の被害)が各地の松を枯損させ、海岸林や街道並木の松に深刻な打撃を与えてきたことは、林業・緑化の分野で広く知られている4。街道並木の松も、この病害と無縁ではありえなかった。老齢の並木松は、病害・気象害・環境の変化が重なると一挙に失われやすく、いったん失われた並木を旧に復すことは容易でない。松並木の脆さは、それが長い維持の営みの上にかろうじて成り立っていたことの裏返しである。

こうした喪失に対して、各地では並木や海岸林を保存し、記録に残す取り組みが重ねられてきた。歴史的な並木を天然記念物や保存木に指定し、あるいは保存会や地域の手で植継ぎを続ける営みは、失われゆく景観を次の世代へ手渡そうとする試みである。並木が実物として保てない場合でも、写真・絵図・地誌・聞き取りによって、その姿と由来を記録に残すことができる。景観の記憶化とは、失われた、あるいは失われつつある景観を、言葉と記録のなかに定着させ、後世が参照できる形にする作業にほかならない。

横須賀街道の松並木が、現在どのような状態にあるのか──かつての並木がどの程度残るのか、保存の取り組みがあるのか、あるいはすでに失われているのか──については、素材資料に記載がない5。したがって本稿は、その現状について断定を控える。ここで確認しておくべきは、記録が乏しいこと自体が、街道並木という景観の置かれた状況の一端を映しているという点である。失われやすく、維持に手のかかる景観であればこそ、記録に残す作業には意味がある。本稿もまた、その記憶化の一つの試みとして位置づけられる。

記憶化には、実物の保存とは異なる強みと弱みがある。強みは、実物が失われても、記録は残り、後から補い、書き改められる点にある。一枚の古写真、一筆の絵図、一人の古老の証言が、それぞれ断片であっても、集まれば失われた並木の姿を輪郭づける。弱みは、記録が選び取られたものであり、記録に残らなかった部分は容易に忘れられる点にある。何を書き留め、何を書き留めないかという選択が、後世に伝わる記憶の形を左右する。だからこそ、記憶化の作業においては、確かなことと不確かなことを区別し、空白を空白として明示しておくことが、実物の代わりにはならないまでも、誠実な記録の条件になる。

植栽・維持景観の成立 道路改良支障木の伐採 松枯れ病害・老齢化 喪失並木の消失 記憶化記録に残す 並木の喪失と記憶化 ── 実物から記録へ 実物が失われても、記録として景観の記憶を残す道が開かれている。
図5 並木の喪失から記憶化への過程。道路改良・松枯れ・老齢化が重なると並木は失われるが、記録に残すことで景観の記憶は次代へ手渡される。横須賀街道の松並木の現状は本稿では記載なしとする。

7. 確度の腑分け ── 史実・通説・推定・伝承

ここまでの検討を、確度の層に整理しておく。松並木を語る要素は一枚岩ではなく、確からしさの水準を異にする複数の事柄が混在している。それらを同じ平面で扱うと、確度の低い推定を史実のように語り、あるいは記録の乏しさをもって主題そのものを軽んじる誤りに陥る。以下の表は、松並木をめぐる主要な要素を、その確度の層と、今後の確認の方向とともに並べたものである。特定の要素を過度に強調せず、各要素の情報の粒度をそろえることで、読者が自ら確からしさを判断できる状態をつくることを意図している。

表1 横須賀街道の松並木をめぐる要素の確度 ── 層・内容・今後の確認
要素確度の層内容の要旨確認の状態と方向
松並木の存在・記録史実横須賀街道の松並木が福田地区に関わる景観として記録に伝わる。素材資料で確認できる。地誌・古写真で補強しうる。
街道並木の制度通説近世の街道整備に伴い、街道沿いに並木が植栽・維持された。街道史の通説。横須賀街道への適用は個別検討を要する。
松並木の機能通説・推定日除け・防風・防砂・道標・修景を兼ねた景観装置であった。並木一般の知見。沿岸区間の海岸林的性格は推定。
植栽の由来・年代未確認いつ・誰が・なぜ植えたかを直接示す一次史料に未到達。未確認(記載なしではない)。地方文書・絵図の博捜を要する。
経路・区間未確認福田地区内での街道の経路と並木の区間が特定できない。未確認。古地図・地籍資料の照合で接近する。
現状・管理主体記載なし残存状況・保存の取り組み・管理主体が素材資料にない。記載なし。現地調査・行政資料で確認すべき事柄。

この表から読み取るべきは、松並木という一つの主題のなかに、確度の異なる層が同居しているという事実である。松並木が景観として記録に伝わることは史実として扱える。街道並木の制度や機能は、街道史・景観論の通説と推定によって輪郭を与えられる。一方、植栽の由来・年代や経路・区間は未確認であり、現状・管理主体は素材資料に記載がない。同じ主題を語りながら、要素ごとに立脚する層が異なるのであって、この差を消してしまうと、松並木の像は不当に鮮明にも、不当に希薄にもなりうる。

ここで「未確認」と「記載なし」の区別を、もう一度確認しておきたい。植栽の由来・年代や経路は、どこかに史料が伝わっている可能性があるのに、筆者がそれに突き当たっていない「未確認」の事柄である。これに対し、松並木の現状や管理主体は、素材とした資料がそもそも語っていない「記載なし」の事柄である。両者は、埋めるべき空白であることは同じでも、その空白の性格と、接近の方法が異なる。未確認は史料の博捜によって、記載なしは別種の資料や現地調査によって埋めるべきものであり、両者を混同すれば、調査の方向を誤ることになる。

以上を踏まえ、本稿の立場を一文で示す。すなわち本稿は、横須賀街道の松並木を、確度の異なる層に腑分けしたうえで、植栽年代や経路を断定せず、街道景観に刻まれた地域の記憶として記述し、後続の調査に開かれた形で残すという立場をとる。断定を急がないことは、慎重さの表明であると同時に、この主題を将来の追記に対して開いておくための、積極的な方法上の選択である。

この腑分けの手続きは、松並木という一主題を超えて、地域史の記述一般に応用できる。地域の歴史を書くとき、私たちはしばしば「結局どうだったのか」という問いに引き寄せられ、乏しい手がかりから一つの筋書きを急いで組み立てたくなる。しかしその急ぎ足は、確度の低い推定を確定した事実のように語り、選ばれなかった可能性を切り捨てることにつながりやすい。ここで示した四層の腑分けと、未確認・記載なしの区別は、そうした性急な結論を戒め、それぞれの事柄を、それが属する確からしさの水準のなかで正当に扱うための、地味だが確かな作法である。街道並木の一例を通じて確かめたこの作法は、他の景観・史跡・人物を読むときにも、そのまま持ち運ぶことができる。

史実 史料で確認 通説 学界で支持 推定 根拠あり未確定 伝承 地域で語り継ぐ 未確認 史料に未到達(ありうる) 記載なし 資料が語らない 確度の四段階と、二つの空白の区別
図6 確度の四段階と「未確認/記載なし」の弁別。四層の腑分けに加え、空白を二種に区別することが、松並木を性急に鮮明化も希薄化もしないための前提となる。

8. 結論 ── 景観の記憶としての松並木

本稿は、横須賀街道の松並木を、街道並木という近世的な景観装置の制度史・機能・保存の文脈に置き、確度の層を区別しながら読み直した。得られた見取り図は次のとおりである。松並木が福田地区に関わる街道景観として記録に伝わることは史実として扱える。街道並木の制度と、日除け・防風・防砂・道標・修景という機能は、街道史・景観論の通説と推定によって輪郭を与えられる。一方、松並木の植栽の由来・年代や、街道の経路・区間は本稿では未確認であり、現在の残存状況や管理主体は素材資料に記載がない。

この見取り図が示すのは、松並木という主題が、確定できる事実の乏しさゆえに語りえないのではなく、確度の層を腑分けすることでこそ、その厚みを取り戻せるということである。街道の並木は、植えて終わる施設ではなく、維持され、植え継がれ、やがて失われ、そして記録に残されていく、長い時間の営みの累積であった。その累積の過程を、確からしさの水準を保ったまま言葉にすることが、松並木を景観の記憶として読むという作業の内実である。植栽年や本数を一つの数字に決めることよりも、この過程を丁寧にたどることのほうが、地域史の記述にとっては実りが多い。

したがって本稿の結論は、次のように要約できる。横須賀街道の松並木は、街道景観に刻まれた地域の記憶として、断定を避けつつ、確度の層を明示した形で書き留めるべき主題である。「未確認」を「記載なし」と取り違えず、通説や推定を史実と偽らず、伝わる記録を軽んじない──この禁欲的な手続きこそが、乏しい記録から確かな記述を立ち上げる方途である。松並木を、失われやすい景観として惜しむだけでなく、記録に残し、後続の調査へ手渡していくこと。その営みのなかでこそ、街道の松並木がかつて担っていた役割と、それが映す地域の履歴が、少しずつ像を結んでいくはずである。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、松並木の植栽の由来・年代については、近世・近代の地方文書、絵図、地誌、古写真を博捜することで、未確認の状態を前進させられる余地がある。第二に、街道の経路と並木の区間は、古地図・地籍資料・現地の地形を照合することで、より精確に描きうる。第三に、松並木の現状については、現地調査と行政・保存関係の資料の確認によって、記載なしの空白を埋めるべきである。これらはいずれも、本稿が設定した確度の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。街道景観の記憶を、確度の層を保ったまま積み上げていくこと──その地道な手続きの先に、横須賀街道の松並木という景観の全体像が、後世の読み手の前に少しずつ立ち上がってくるだろう。並木は失われても、それを読み解こうとする営みが続くかぎり、景観の記憶は絶えることなく次の世代へ受け継がれていく。

本稿が扱った福田をはじめ、遠州灘沿岸の集落には、街道や湊とともに受け継がれてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。街道景観を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 横須賀街道の松並木は、福田地区に関わる歴史・史跡の記録として地域資料に伝わる。本稿はその記録の存在を史実として扱い、植栽の由来・年代は未確認として区別する。素材とした一般向け記事については本稿末尾の参考文献を参照。
  2. 慶長9年(1604年)の一里塚設置と、それに伴う街道沿いの植樹は、近世街道史の通説として広く受け入れられている。個別の街道・区間における実施の有無は、それぞれ史料に即して確認を要する。
  3. 街道並木の機能(日除け・防風・防砂・道標・修景)は、並木・海岸林に関する一般的知見に基づく整理であり、横須賀街道の松並木に固有の機能を直接記す史料によるものではない。
  4. マツ材線虫病(松くい虫被害)は、近代以降、各地の松林・海岸林・並木松に深刻な被害を与えてきた。街道並木の松の喪失を考えるうえで無視できない要因である。
  5. 松並木の現状・残存状況・管理主体は、素材資料に記載がない。本稿はこれを「未確認」とは区別される「記載なし」の事柄として扱い、現地調査・行政資料による確認を今後の課題とする。

付記:本稿は一般向け記事 f039 の主題を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、松並木の存在・記録を史実、街道並木の制度・機能を通説・推定、植栽の由来・年代および経路を未確認、現状・管理主体を記載なしとして扱った。

参考文献・参考資料

  • 磐田物語 f039「横須賀街道の松並木を地域の記憶として読む」 https://iwata-monogatari.net/f039.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「見付宿西側の追分と池田近道」大石浩之の磐田論考 第211号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/211/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語「福田漁港から産業の記憶を読む」(f049) https://iwata-monogatari.net/f049.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語「掛塚地区から東西への渡船場跡から産業の記憶を読む」(r054) https://iwata-monogatari.net/r054.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語「福田地区トップ」 https://iwata-monogatari.net/01008-fukude.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、街道・交通および福田・沿岸の章)。
  • 掛川市『掛川市史』(掛川市、横須賀・遠州灘沿岸および脇往還の章)。
  • 静岡県編『静岡県史』通史編(静岡県、近世交通・街道の章)。
  • 児玉幸多『宿駅』(日本歴史新書、至文堂、近世街道・宿駅制度に関する概説)。
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」(天然記念物・並木等の項) https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 林野庁「松くい虫(マツ材線虫病)被害対策」関連資料 https://www.rinya.maff.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 国土地理院「地理院地図」(遠州灘沿岸・旧街道筋の地形確認) https://maps.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 佐口行正氏所蔵史料(街道・沿岸集落関係)。