磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第209号(御厨地域史 総論)
御厨の成り立ち ── 荘園御厨から鉄道の駅までの沿革
神領・供御所領に発した地名が、近世の村・明治の町村・平成の駅名へと生き延びる連続を追う
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田市東部の「御厨(みくりや)」は、中世の荘園に由来すると考えられる古い地名でありながら、2020年に開業した東海道本線の御厨駅として、いまも新しい姿で生きている。本稿は、この地名の連続性を軸に、御厨地区の成り立ちを行政沿革として整理する総論である。まず「御厨」という語が神饌を調える神領・供御を貢する所領を意味することを確認し、当地を伊勢神宮領の御厨とみる説を通説・推定の層に位置づける。続いて近世の村々、明治22年(1889年)の御厨村成立と同27年(1894年)の南御厨村分立、昭和30年(1955年)の磐田市編入、平成17年(2005年)の新設合併という行政の年代を史料の層で確定し、地名の由来(推定)と沿革の年代(史実)とを腑分けする。そのうえで御厨駅の開業を、古い地名が近代の行政名を経て再び地図の表面へ浮上した事例として読む。「未確認」と「記載なし」を区別し、地名の連続を過度に神話化しない態度を保った。
キーワード:御厨/荘園御厨/鎌田御厨/町村制/御厨村/御厨駅/地名の連続
1. 問題設定 ── 荘園の名が駅名になるまで
磐田市の東部に、御厨と呼ばれる一帯がある。鎌田・新貝・稗原・東貝塚といった集落を含むこの地域は、磐田物語では九つの地区分類の一つ「御厨地区」として整理されてきた。そして2020年、この地に東海道本線の新駅・御厨駅が開業した。愛野と磐田のあいだに設けられたこの駅の名は、周辺の地域名をそのまま採ったものである。ここで一つの事実に気づく。「御厨」という語は、辞書的にはきわめて古い時代の制度に属する言葉であり、それが二十一世紀の鉄道駅の名として、現に人々の口にのぼっているのである。
本稿の関心は、この時間的な隔たりにある。古代から中世にかけて成立したと考えられる荘園の名が、近世の村、明治の行政村、昭和・平成の合併を経て、現代の駅名にまで受け継がれている。この連続は、決して自明のものではない。日本の地名の多くは、明治の町村制や昭和・平成の大合併のたびに改められ、消えていった。旧村名が新市名に吸収されて日常から失われた例は、磐田市域にも数多い。そのなかで「御厨」の名が、行政区画の単位を変えながらも千年近く生き延び、しかも近年になって駅名として再浮上したことは、地名史の観点から記録に値する。
ただし、この連続を語るには慎重さが要る。地名が同じ文字で継承されていることと、その地名が指す範囲や意味が同じであり続けたこととは、別の事柄である。中世の荘園としての御厨、明治の行政村としての御厨村、現在の地区区分としての御厨地区は、いずれも「御厨」を名としながら、その領域も性格も一様ではない。地名の連続を一本の線で結んでしまうと、この範囲の伸縮や意味の変化が視野から抜け落ちる。本稿は、連続を強調するためではなく、連続の内実を腑分けするために、地名と行政沿革の両面から御厨の成り立ちをたどる。
あわせて、確度の層を区別する姿勢を最初に断っておきたい。本稿では、史料で確認できる事柄を史実、学界で広く受け入れられているが一点で確定はできない事柄を通説、根拠はあるが未確定の事柄を推定、地域で語り継がれてきた事柄を伝承として書き分ける。とりわけ「御厨」の地名の由来は推定・通説の層に属し、明治以降の行政沿革の年代は公的記録に基づく史実の層に属する。この二つを混同して「荘園御厨が何年に成立し、それが御厨村となり、御厨駅になった」と一直線に語ることは、確度の異なる情報を無理に一つの平面へ押し込める誤りを生む。地区の全体像を扱った御厨地区総論とあわせて読まれることを想定し、本稿はとりわけ地名の連続と行政の沿革に軸を置く。
本稿が「行政沿革」という切り口を選ぶのには理由がある。地名の由来を語ろうとすると、どうしても中世の荘園の実態という、史料の乏しい領域へ深く踏み込まねばならない。そこは魅力的な問いに満ちているが、確実に言えることは驚くほど少ない。これに対し、明治以降の町村制と合併の経緯は、公的な記録によって年月日の単位まで確定できる。地名の連続という主題を、確実に言える骨組みの上に立てるためには、まず行政沿革という堅い足場を固め、そこから由来という柔らかい領域へ手を伸ばすのが順序として正しい。由来から沿革へと下るのではなく、沿革から由来へと遡ることで、どこまでが確実でどこからが推定なのかの境目を、読者に見えるようにしておきたい。
2. 「御厨」とは何か ── 語義と地名の起こり
まず語そのものを確認しておく。「御厨」は、字義としては神や貴人の食事を調える「厨(くりや)=台所」に敬称の「御」を冠した語である。歴史的には二つの系統の用法があった。一つは、神社に供える神饌を調え貢納するために設けられた所領、すなわち神領としての御厨である。もう一つは、天皇の食膳に供する供御(くご)を貢するために置かれた所領、供御所領としての御厨である。いずれも「食を調え、上位の存在へ捧げる」という機能に由来する語であり、後には貢納を担う一定の領域そのものを指す地名として各地に定着した。
東国において「御厨」を名とする地の多くは、伊勢神宮の神領と関わって成立したと説かれてきた。伊勢神宮は平安期以降、諸国に御厨・御園と呼ばれる神領を広く設け、そこから神宮へ贄(にえ)などを貢がせた。遠江国もその例外ではなく、国内に複数の伊勢神宮領が知られる。磐田東部の御厨についても、地域資料はこれを伊勢神宮の神領に由来する「鎌田御厨」と結びつけて説明することが多い1。ただし、素材とした地域資料自身がこの点に「要確認」と付していることは重く受け止めるべきで、当地の御厨が伊勢神宮領であったと断ずるには、なお一次史料による裏づけの吟味を要する。本稿はこれを、根拠のある推定ないし地域における通説の層に置く。
ここで方法上の区別を明示しておく。当地を伊勢神宮領の御厨とする説明を裏づける荘園関係の一次史料に、筆者は管見の限りまだ十分には突き当たっていない。これは「そのような史料が存在しない(=記載がない)」ことを意味しない。あくまで「成立の事情や領主関係を直接に語る史料を、本稿の調査範囲では確認できていない(=未確認)」という状態である。荘園としての御厨が、いつ、誰の手で、どの範囲に営まれたのかという問いは、地名の由来を語るうえでの核心でありながら、なお開かれた問いとして残る。地名が古いことと、その由来が確定していることとは別なのである。
それでも、「御厨」という語が神領・供御所領という中世的な制度に根ざす地名であること自体は、語義から確かである。当地の人々が、少なくとも中世のある時期に、この一帯を「御厨」と呼び習わしていたと考えることには無理がない。地名としての御厨の起こりを、伊勢神宮領説を有力な推定として受け止めつつ、その領主関係の細部については判断を保留する──これが、現在の資料状況に照らした穏当な立場である。
3. 中世から近世へ ── 荘園の解体と村々の形成
荘園としての御厨がどのような経緯で解体していったのかを、当地に即して直接語る史料は、本稿では確認できていない。しかし中世から近世への一般的な過程に照らせば、その大筋は推測できる。荘園制は、中世を通じて武家の在地支配が強まるなかで実質を失い、戦国期の動乱と、それに続く近世大名による検地・村切りの過程で、行政の単位としての意味を失っていった。かわって近世の地域を編成したのは、検地帳に登録された「村」である。荘園の名は、しばしば村名や小字として痕跡を残しながらも、支配の単位としては村へと置き換えられていった。
御厨の場合、この置き換えの結果として、近世には鎌田・新貝・稗原・東貝塚・新出・東脇・和口・東新屋・大立野・蛭池・南島・小島といった村々が、この一帯に分立して存在していた。これらの村名は、明治の町村制施行時に合併の構成単位として記録に現れることから、少なくとも近世後期には独立した村として成立していたことがわかる。荘園御厨という一つの領域が、近世には複数の小さな村へと分かれていたのである。地名「御厨」は、この段階では個々の村名としては表面に出ず、この一帯を漠然と指す広域の呼称として、いわば水面下に潜んでいたとみることができる。
この点は、地名の連続を考えるうえで重要である。「御厨」は、中世に荘園の名として現れたのち、近世にはいったん行政上の表舞台から退き、鎌田をはじめとする個々の村名がその場を占めた。にもかかわらず、地域を束ねる名としての「御厨」は失われず、明治の町村制で新たな行政村の名として再び採用されることになる。地名は、行政の単位として使われていない期間にも、地域の記憶のなかで保たれうる。近世の村々の下に、より大きなまとまりとしての御厨の意識が伏在していたからこそ、明治の合併に際してこの古名が選び直されたと考えるのが自然であろう。
なお、近世の各村がそれぞれどの領主の支配下にあったか、また荘園御厨の領域が近世のどの村々の範囲に対応するかといった具体は、検地帳や領知の史料を博捜しなければ確定できない。本稿はこれらの細部には立ち入らず、荘園から村への編成替えという大きな流れと、そのなかで地名「御厨」が広域名として保たれた可能性を指摘するにとどめる。個々の集落の重層的な成り立ちについては、西貝という重層地域で扱った旧集落・寺社・開発の積み重なりの議論が、御厨東側の実態を知る手がかりとなる。
荘園から村への移行を、当地の一次史料で連続的に追えないことは、正直に認めておかねばならない。中世の御厨がどの村々の範囲に対応し、いつ、どのようにその実体を失ったのかを直接に語る文書に、筆者は本稿の調査範囲では突き当たっていない。これは「そうした文書が存在しない」ことの証明ではなく、「まだ確認できていない」という状態にすぎない。したがって本節で述べた「近世に村々へ分解し、地名は広域名として伏在した」という筋立ては、遠江の他地域における荘園解体の一般的な過程からの類推であって、当地に即して実証されたものではない。この推論の性格を明示したうえで、なお御厨という広域名が近世に途絶えず、明治の合併で新村名として選び直された事実から逆算するとき、地域の意識のなかに御厨というまとまりが保たれていたと考えることには、一定の蓋然性があると判断する。
4. 明治の町村制 ── 御厨村の成立と南御厨村の分立
行政沿革を史料の層で確定できるのは、明治以降である。1889年(明治22年)4月1日、町村制の施行にともない、鎌田・新貝・新出・稗原・東脇・和口・東新屋・大立野・東貝塚・南島・小島・蛭池の各村が合併して、山名郡御厨村が発足した2。近世に分立していた村々が、近代的な行政村として一つにまとめられたのである。ここで注目すべきは、その新しい村の名として「御厨」が選ばれたことである。合併の構成村のなかに「御厨」を名のる村はなかった。それでもこの古い広域名が新村名に採用されたのは、この一帯を御厨と呼ぶ地域の意識が、近世を通じて保たれていたことを示唆する。
ところが、成立してまもなく、この御厨村は分裂を経験する。1894年(明治27年)5月31日、東脇・新出・和口・東新屋・大立野・蛭池・南島・小島の各大字が、南御厨村として分立した3。この結果、御厨村に残ったのは鎌田・新貝・稗原・東貝塚の四大字のみとなった。わずか五年で村域の過半が分かれたことになる。分立の理由を直接語る史料には本稿では触れていないが、低地・農地・水路を共有する南部の村々が、地理的なまとまりを根拠に独立を選んだ可能性は、その後の南御厨村域の性格からうかがえる。南御厨村の生活圏としての独自性については、別稿で低地の村としての成り立ちを論じた。
さらに1896年(明治29年)4月1日、郡の廃置分合により、御厨村の所属は山名郡から磐田郡へと変更された。これは村域の変更をともなわない、上位の郡区分の再編である。ここまでの明治期の三つの出来事──1889年の御厨村成立、1894年の南御厨村分立、1896年の郡変更──は、いずれも公的な記録に基づいて年代を確定できる史実であり、荘園御厨の由来をめぐる推定とは資料の性格を明確に異にする。地名の連続を語るときには、この史実の層と推定の層を混同しないことが肝要である。
この明治期の経緯は、「御厨」という名がひとつの範囲に固定されていなかったことを、はっきりと示している。1889年の御厨村は十二の村を含む広い範囲を指したが、1894年以降の御厨村は四大字に縮んだ。分立した南御厨村もまた「御厨」を名に含む。同じ地名が、五年のあいだに指し示す領域を大きく変え、しかも二つの村へ分かれてなお受け継がれた。地名の連続とは、このように範囲の伸縮や分岐をともなう、複雑な過程なのである。
5. 昭和・平成の合併 ── 磐田市への編入と再編
近代の御厨村は、戦後の市町村合併の波のなかで、独立した自治体としての歴史を閉じる。1955年(昭和30年)1月1日、御厨村は大藤村・向笠村、および南御厨村の一部とともに磐田市へ編入された4。これにより、明治以来六十余年つづいた御厨村は消滅し、その区域は磐田市の一部となった。ここで「御厨」は、自治体の名としては地図から姿を消す。しかし地名そのものが消えたわけではない。旧御厨村の各大字は磐田市の大字として存続し、地域を指す通称としての「御厨」も、人々の暮らしのなかに残りつづけた。行政村としての御厨の終焉は、地名としての御厨の消滅を意味しなかったのである。
注意を要するのは、南御厨村の扱いである。1955年の編入では、南御厨村は「一部」が磐田市へ入ったと記録されており、村域の全体が一様に磐田市へ移ったわけではない。南御厨村として分立した区域は、現在の南部地区(磐田物語の地区分類でいう01005)とも関わりをもつ。したがって、旧南御厨村の各大字が現在どの地区に属するかは、単純に「御厨地区」と一括りにはできない。この点について素材とした地域資料も「要再確認」と付しており、本稿もまた、旧南御厨村域の帰属を確定的に述べることは控える。ここでも「未確認」と「記載なし」の区別が生きる。資料が沈黙しているのではなく、精査すべき対応関係がなお残されているのである。
さらに半世紀を経た2005年(平成17年)4月1日、旧磐田市は豊田町・竜洋町・福田町・豊岡村と新設合併し、現在の磐田市が発足した5。この平成の大合併により、磐田市の範囲は大きく広がったが、御厨の各大字はそのまま新磐田市の一部として引き継がれた。旧磐田市の内部にあった御厨の地名は、より大きな新市のなかでも位置を保った。行政区画が二重、三重に組み替えられても、大字の水準では御厨の地名が変わらず残されたことは、地名の粘り強さを示す事例といえる。
こうしてみると、昭和・平成の合併は、御厨を自治体名の座から外しはしたが、地名としての御厨を消し去りはしなかった。むしろ、大字という最も基層の地名の単位に「御厨」由来の集落名を保ちながら、地域全体を指す通称としての「御厨」を暮らしのなかに残した。行政の再編は上位の区画を何度も塗り替えたが、その下で地名は静かに存続を続けた。この基層における存続があったからこそ、次章でみる御厨駅の命名が、唐突な創作ではなく、地域に根ざした呼称の採用として受け止められたのである。
昭和・平成の合併を、地名の側から振り返ると、二つの水準を区別することの大切さがあらためて見えてくる。一つは自治体名という上位の水準であり、ここでは御厨は1955年に姿を消した。もう一つは大字という基層の水準であり、ここでは鎌田・新貝をはじめとする御厨由来の地名が、区画の再編をくぐり抜けて残った。合併とは、上位の水準を塗り替える営みではあっても、基層の地名まで一律に消し去るものではない。この二層の別を見落とすと、「1955年に御厨は消えた」とも「御厨はずっと続いている」とも、どちらも言えてしまい、議論がかみ合わなくなる。正確には、自治体名としての御厨は1955年に終わり、地名としての御厨は大字と通称の水準で存続した──こう二層に分けて記述することで、消滅と存続という一見矛盾する事態が、同じ地名の異なる水準の出来事として整合的に理解できる。
6. 御厨駅の開業 ── 地名の再帰
2020年(令和2年)、東海道本線の愛野・磐田間に、新駅・御厨駅が開業した。磐田市が請願して設けられた駅であり、その名は周辺の地域名「御厨」を採ったものである。ここに、本稿が冒頭で提示した時間の隔たりが、具体的な事実として立ち現れる。中世に荘園の名として現れ、明治に行政村の名となり、昭和の合併で自治体名の座を退いていた「御厨」が、二十一世紀に入って、こんどは鉄道駅の名として地図の表面へ再び浮上したのである。
この命名を、単なる懐古趣味とみるのは当たらない。前章までにみたとおり、御厨の地名は、自治体名としては1955年に消えたあとも、大字や地域の通称として途切れることなく存続していた。駅名としての採用は、この基層に生きていた地名を、近代交通の結節点の名として顕在化させた出来事である。いわば、水面下に保たれていた地名が、駅という新たな公共の場を得て、ふたたび表舞台に立った。地名の連続は、行政区画の消長とは別の水準で保たれ、鉄道という近代の装置によって思いがけない形で更新されたのである。
ただし、地名の連続を過度に神話化することには慎重でありたい。御厨駅の「御厨」と、中世の荘園御厨とのあいだには、千年に近い時間と、範囲・性格の幾重もの変化が横たわる。駅名が採ったのは、あくまで現在の地域名としての御厨であって、荘園御厨の領域をそのまま指すものではない。「荘園の名がそのまま駅になった」という物語は、聞こえはよいが、そのあいだにある近世の村々への分解、明治の合併と分立、昭和・平成の再編という、地名が経てきた複雑な過程を覆い隠してしまう。連続を語ることと、その連続を単純化しないことは、両立させねばならない。
それでもなお、御厨駅の開業が地名史の観点から興味深い事例であることは変わらない。多くの旧地名が近代以降の行政再編のなかで失われていったのに対し、御厨は、自治体名の座を降りてなお大字と通称として生き延び、しかも新駅の命名を機に公共の名として復活した。地名が生き延びるには、それを日々使う人々の暮らしと、それを名として選び直す制度的な契機の双方が要る。御厨は、その両方に恵まれた地名だといえる。地名の連続とは、放っておいても保たれるものではなく、暮らしと制度の双方に支えられて初めて続く、能動的な継承の産物なのである。
付言すれば、御厨駅の命名は、地名を保存する側にも一つの示唆を与える。地名は、記念碑や資料のなかに凍結して守るよりも、駅名・字名・施設名といった日々使われる場を得ることで、はるかに確かに受け継がれる。使われることが、地名にとっての最良の保存なのである。御厨が中世からいまへ続いてきたのは、それが常に何ものかの名として使われ続けてきたからにほかならない。
7. 現在の学校区と大字 ── 生活圏としての御厨
地名の連続を、制度や年表の水準だけでなく、現在の生活圏の水準でも確認しておきたい。まず学校区である。御厨地区は、中学校では神明中学校の区域にあたる。小学校では、東部小学校(校区の一部が該当)と田原小学校が、この地区に関わる。通学区域は地域の子どもたちの日常的な生活圏を画するものであり、行政の大字区分とはまた別の、暮らしのまとまりを映す。ただし正確な通学区域は市の運用によって変わりうるため、細部は磐田市の最新情報によるべきである。ここでは、御厨が現在も一つの生活圏として機能していることの指標として、学校区に触れるにとどめる。
次に大字・町名である。御厨地区に関係する主な大字・町名としては、鎌田・新貝(新貝一〜三丁目を含む)・稗原・東貝塚といった旧御厨村四大字の系譜を引く地名のほか、西之島・上南田・安久路(一〜二丁目)・城之崎・東脇・新出・和口・東新屋・大立野・東新町・玉越・西島・三ケ野・三ケ野台・明ケ島原・彦島などが挙げられる。さらに、西貝塚の一部・富士見台の一部・見付の一部・明ケ島の一部・岩井の一部のように、町の一部のみが当地区に該当する地名もある(大字・学校区の一覧は御厨の成り立ち資料に整理した)。これらのうち、鎌田・新貝・稗原・東貝塚は、明治の町村制で御厨村を構成し、1894年の分立後も御厨村に残った四大字であり、荘園御厨から御厨村、そして現在の大字へと連なる地名の背骨をなす。
ここで「〜の一部」という表記に注意しておきたい。西貝塚や見付、岩井などは、その全体が御厨地区に属するのではなく、町の一部だけが当地区にかかる。これは、地区の境界が旧村界や大字界と完全には一致しないことを意味する。行政上の大字と、磐田物語が便宜的に用いる地区区分とは、必ずしも同じ線で引かれていない。地区区分はあくまで地域を整理して語るための枠組みであって、法的な区画そのものではない。この点を踏まえずに大字と地区を等号で結ぶと、境界付近の地名の帰属を誤って断定することになる。地名の連続を扱ううえでも、こうした境界の曖昧さを、曖昧なまま正確に記述することが求められる。
大字の水準でみたとき、御厨の成り立ちは、単一の起源から一本の線で伸びてきたのではなく、複数の集落が寄り集まり、分かれ、再編されながら現在の姿に至った、束としての歴史であることがわかる。荘園御厨という広域の名の下に、鎌田をはじめとする村々があり、それぞれが独自の成り立ちをもつ。地区としての「御厨」は、それらの集落を束ねる上位の呼称であり、束ねられる個々の地名にはまた別の物語がある。総論としての本稿は束の輪郭を描いたが、その内側の一つひとつの集落史は、なお個別に書き継がれるべき主題として残されている。
| 旧町村・旧地域名 | 時期・変遷 | 現在の主な大字・町名 | 確度の層 | 留意点 |
|---|---|---|---|---|
| 御厨(荘園)/鎌田御厨 | 中世 | 鎌田 ほか(広域名) | 推定・通説 | 伊勢神宮領説は推定。領域・領主は未確認。 |
| 近世の村々 | 近世 | 鎌田・新貝・稗原・東貝塚・新出・東脇 ほか | 史実 | 検地帳等に基づく村。荘園との領域対応は未確認。 |
| 御厨村(成立時) | 1889年成立 | 上記12村を統合 | 史実 | 山名郡所属。1896年に磐田郡へ。 |
| 御厨村(分立後) | 1894年以降 | 鎌田・新貝・稗原・東貝塚 | 史実 | 南御厨村分立により4大字に縮小。 |
| 南御厨村 | 1894年分立 | 東脇・和口・新出・東新屋・大立野 ほか | 史実 | 1955年に一部が磐田市へ。南部地区とも関係し帰属は要再確認。 |
| 御厨地区(現在) | 1955年〜 | 上記各大字+西之島・城之崎・玉越 ほか | 史実 | 「〜の一部」を含み、地区界は大字界と一致しない。 |
8. 結論 ── 地名の連続をどう記述するか
本稿は、御厨地区の成り立ちを、荘園御厨に由来する地名から2020年の御厨駅までの行政沿革として整理し、その全体を「地名の連続」という一つの視点から読み解いてきた。得られた見取り図は次のとおりである。「御厨」は、神領・供御所領を意味する中世的な語に発し、当地では伊勢神宮領の御厨に由来すると考えられている。ただしその領域や領主関係を直接語る一次史料は本稿の範囲では未確認であり、由来は推定・通説の層にとどまる。一方、1889年の御厨村成立、1894年の南御厨村分立、1896年の郡変更、1955年の磐田市編入、2005年の新設合併、そして2020年の御厨駅開業という行政・鉄道の年代は、いずれも公的記録に基づく史実として確定できる。
この由来(推定)と沿革(史実)の腑分けこそ、本稿がもっとも重んじた手続きである。地名が古く、しかも連続していると、人はつい「荘園御厨が御厨村となり御厨駅になった」と、一本の因果の線で語りたくなる。だがその語り口は、確度の異なる情報を同じ平面に並べ、あいだにある近世の村々への分解、明治の分立、昭和・平成の再編という屈曲を平らに均してしまう。連続は事実だが、その連続は直線ではなく、範囲の伸縮と分岐と再編をともなう、折れ曲がった線である。地名の連続を記述するとは、この折れ曲がりを省略せずに書き留めることにほかならない。
したがって本稿の立場は明確である。御厨の地名の連続は、これを神話として美化するのでも、単なる偶然として切り縮めるのでもなく、暮らしと制度の双方に支えられた能動的な継承の産物として記述すべきである。自治体名の座を退いてなお大字と通称として生き延びた地名が、新駅の命名という制度的契機を得て公共の名へ復活した──この過程は、地名がどのように生き延びるのかを示す一つの好個の事例である。「未確認」を「記載なし」と言い換えず、推定を史実と偽らず、連続を単純化しない。この禁欲的な手続きの先にこそ、御厨という地名が千年をかけて描いてきた軌跡の全体が、正確な像を結ぶ。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を記しておく。第一に、荘園御厨の成立事情と領域、伊勢神宮領説の当否は、遠江国の荘園関係史料の博捜によって、未確認を史実へ近づけられる余地がある。第二に、旧南御厨村域の各大字が現在どの地区に帰属するかは、南部地区との関係を含めて、なお精査を要する対応関係として残る。第三に、鎌田・新貝・稗原・東貝塚をはじめとする個々の集落の成り立ちは、総論では輪郭を描くにとどめたが、それぞれが独自の集落史をもつ。これらの主題は、御厨地区の他の論考とともに、束の内側を一つずつ埋めていく作業として書き継がれるべきものである。地名の連続を一枚の絵として仰ぐのではなく、その連続を支えた無数の小さな継承を、確度の層を保ったまま積み上げていくこと──それが、地域の成り立ちを後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。
注
- 地域資料は当地の御厨を伊勢神宮領の「鎌田御厨」と結びつけて説明するが、当該資料自身がこの点に「要確認」を付しており、成立の事情や領主関係を直接語る一次史料は本稿の範囲では未確認である。よって本稿は由来を推定・通説の層に置く。なお御厨駅は2020年(令和2年)に東海道本線の愛野・磐田間に開業した請願駅で、その名は周辺の地域名「御厨」に由来する。↩
- 1889年(明治22年)4月1日、町村制施行にともない、鎌田・新貝・新出・稗原・東脇・和口・東新屋・大立野・東貝塚・南島・小島・蛭池の各村が合併して山名郡御厨村が発足した。磐田物語 u036「御厨の成り立ち ── 沿革年表・学校区・大字」および沿革に関する公開資料による。↩
- 1894年(明治27年)5月31日、東脇・新出・和口・東新屋・大立野・蛭池・南島・小島の各大字が南御厨村として分立し、御厨村は鎌田・新貝・稗原・東貝塚の4大字となった。↩
- 1955年(昭和30年)1月1日、御厨村・大藤村・向笠村および南御厨村の一部が磐田市に編入された。南御厨村域の帰属については地域資料が「要再確認」と付す。↩
- 2005年(平成17年)4月1日、旧磐田市・豊田町・竜洋町・福田町・豊岡村が新設合併して現在の磐田市が発足した。↩
付記:本稿は一般読者向け資料ページ u036「御厨の成り立ち」の内容を、郷土史研究者向けに再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、明治以降の行政沿革の年代を史実、伊勢神宮領説を通説、荘園の範囲・領主関係を推定として扱った。既刊の御厨地区総論(172号)・南御厨(178号)・西貝(183号)と主題が重ならないよう、本稿は行政沿革と地名の連続に軸を置いた。
参考文献・参考資料
- 磐田物語 u036「御厨の成り立ち ── 沿革年表・学校区・大字」 https://iwata-monogatari.net/u036.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「御厨地区総論 ── 古い地名と新しい暮らしが重なる磐田東部」『大石浩之の磐田論考』第172号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/172/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「西貝という重層地域 ── 旧集落・寺社・開発が積み重なる磐田東側」『大石浩之の磐田論考』第183号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/183/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田市『磐田市史』通史編・資料編(磐田市、該当章)。
- 磐田市教育委員会文化財課『ふるさと散歩 御厨編』(東部編)。
- 磐田市公式サイト「市の沿革・市町村合併」の項 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 『角川日本地名大辞典22 静岡県』角川書店、1982年(御厨村・南御厨村ほかの項)。
- 『日本歴史地名大系22 静岡県の地名』平凡社(遠江国・御厨の項)。
- 静岡県編『静岡県史』通史編・資料編(荘園・御厨に関する章)。
- 東海旅客鉄道(JR東海)「御厨駅」開業に関する公表資料(2020年)。
- 磐田市統計・行政区・大字一覧に関する公開資料。
- 山名郡・磐田郡の郡制沿革に関する公開資料(郡の廃置分合、1896年)。
- 伊勢神宮領・御厨御園に関する研究文献(遠江国内の神領についての概説)。