磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第194号(福田民俗研究 二)
中野白山神社の白酒祭を読む
濁り酒が結ぶ村と神 ── 醸造と献酒の所作から読む例祭
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
福田・豊浜中野の白山神社例祭「白酒(しろき/しろざけ)祭」は、その年の新米から仕込んだ濁り酒(白酒・どぶろく)を神前に供える市指定無形民俗文化財である。本稿は、この行事を文化財名や指定年からではなく、「濁り酒を醸し、神に献じる」という所作の側から読み直す。公開資料に記される次第──10月第1日曜の例祭、地区から選ばれた3人の杜氏による約1か月前からの仕込み、投餅──を史実の層に、疫病退散や神託をめぐる由来譚を伝承の層に腑分けし、両者を混同しない。そのうえで、濁酒神事・新嘗・直会という収穫儀礼の一般的枠組みと、白山信仰の勧請史を補助線として、白酒が村と神とを結ぶ媒体として働いてきた過程を記述する。創建を熊野勧請に説く社伝と白山を称する社名との齟齬、醸造行事の成立年代については本稿では未確認とし、史料に記載のない事柄と区別して提示する。起源の一元化を避け、確度の層を保ったまま資料を積み上げることを本稿の立場とする。
キーワード:白酒祭/濁酒神事/白山信仰/新嘗・直会/宮座・頭屋制/中野白山神社/史料批判
1. 問題設定 ── 白酒祭を「濁り酒の神事」として読む
静岡県磐田市福田、遠州灘にほど近い豊浜中野の白山神社に、毎年秋の例祭で、その年収穫した新米から仕込んだ白酒(しろき/しろざけ、通称どぶろく)を神前に供える行事が伝わる。地域では「どぶろく祭り」と呼び習わされ、2005年(平成17年)に磐田市の指定無形民俗文化財となった1。海辺の集落に続くこの祭りは、文化財名と指定年を記して終わる読みものとしてはすでに紹介されている。本稿はそこから一歩踏み込み、行事の核にある「濁り酒」という供物そのものに焦点を据える。
問うべきは、なぜ澄んだ清酒ではなく、醪(もろみ)を漉さない濁った酒でなければならなかったのか、という点である。無形民俗文化財は、建物や古文書のように形あるものとしては残らない。所作、供え物、担い手の役割、季節の巡りといった、目に見えにくい要素の連なりによって伝えられる。白酒祭を読むとは、したがって「白酒(濁り酒)を醸し、神前に供え、人が戴く」という一連の所作が、この村で何を担ってきたのかを読むことにほかならない。供物の性格から祭礼の意味へ遡るのが、本稿の方法である。
あわせて、資料の確度を初めに断っておく。本稿が事実として扱うのは、行事の次第や指定に関わる公開情報である。一方、行事の起源や由来として語られる物語は、地域に伝わる伝承として区別して扱う。素材となる公開資料は必ずしも厚くない。薄い箇所は憶測で埋めるのではなく、濁酒神事・新嘗・直会・白山信仰・宮座研究といった一般的な知見を補助線として引き、確度の腑分けと史料批判によって論を厚くする。とりわけ、一次史料に突き当たっていない「未確認」と、資料にそもそも記述がない「記載なし」とを、終始区別する。
以下ではまず、公開資料で確認できる次第と、伝承として語られる由来とを分けて示す。続いて白酒すなわち濁酒とは何かを醸造の側から押さえ、白山信仰と中野の社の関係、新嘗・直会という収穫儀礼の枠組み、由来譚の物語構造を順に検討する。そのうえで各地の濁酒神事や宮座研究の一般論と照らし合わせ、最後に、白酒が村と神を結ぶ媒体として果たしてきた働きを結論として述べる。
2. 記録される次第と語られる由来
まず、公開資料によって確認できる範囲を確定する。中野白山神社の例祭は、毎年10月の第1日曜に豊浜中野の白山神社で行われ、その年の新米から仕込んだ白酒を神前に供えることから、通称「どぶろく祭り」と呼ばれる。仕込みを担うのは地区内から選ばれた3人の杜氏で、例祭のおよそ1か月前から酒造の場に入り、白酒を醸す。当日には参拝者へ餅をまく投餅も行われ、新米の実りと無病息災を祝う場となる2。これらの次第は、磐田市および観光協会の公開情報に基づく事実情報として扱ってよい。ただし、いずれも当事者による一次記録ではなく、行事を外へ紹介するために編まれた二次的な記述である点は、あらかじめ留保しておく。
一方、この行事の起源として語られるのは、次のような由来譚である。かつて白酒を氏神に供えて村の安全を願う習わしがあったところ、ある年これを取りやめたために、その年に疫病が流行した。以後、疫病退散を願って毎年白酒を造り、神前に供えるようになったという。これとは別に、江戸時代の初め頃に疫病が流行した際、「白山を信仰し、どぶろくを献じて祈願せよ」との神託があり、これによって悪疫を退散させたとも伝わる。いずれも同社に伝わる由来の語りであり、確定した年代や被害の規模を伴うものではない。したがって本稿は、これらを史実ではなく伝承として扱う。
ここで史料批判の観点を一つ加えておきたい。同じ行事に、疫病退散を説く型と、白山への神託を説く型という、複数の由来譚が併存している。複数の縁起が並ぶこと自体は、地方の祭祀にはしばしば見られる。問題は、どちらが正しいかを裁定することではなく、それぞれの語りが行事に何を意味づけているかを読むことにある。前者は「祭りを絶やすと災いが来る」という継続の論理を、後者は「白山を信仰せよ」という社名の由来づけを、それぞれ担っている。行事の成立が具体的にいつであったかを直接記す一次史料には、本稿の範囲では突き当たっていない。これは「そのような記録が存在しないと断定できる」ことを意味しない。あくまで未確認であり、史料そのものが伝わらないのか、伝わるが把握できていないのかは、なお別に検証を要する。中野白山神社の年中行事全体を扱った十日祭(お箱)とあわせて読むと、この社が複数の重要な行事を抱えてきたことがうかがえる。
3. 白酒(濁酒)とは何か ── 醸造の民俗と献酒
白酒祭の核心にある白酒とは、醪を漉さずに造る濁った酒、いわゆる濁酒(どぶろく)である。米・米麹・水を発酵させた醪を、布などで漉して澄ませたものが清酒であり、漉す前の白く濁った状態のものが濁酒にあたる。古代の祭祀では、色の白い酒を白酒(しろき)、これに植物の灰を加えて黒くした酒を黒酒(くろき)と呼び、対にして神に供えた記録が知られる。神に献じる酒として、澄んだ酒よりむしろ濁った酒が古い形を伝えるとみる理解は、民俗学において広く共有されてきた。中野の白酒祭が「白酒」の語を冠していることは、この古い献酒の系譜の上に置いて読むことができる。
醸造の工程をたどると、この供物がなぜ手間のかかる神事となるのかが見えてくる。新米を洗い、蒸し、麹と水、そして酒母を合わせて醪を仕込む。醪は日を追って発酵し、やがて酒の香を放つ。清酒であればここで漉す工程が入るが、濁酒はそれを経ず、白く濁ったまま神前に運ばれる。杜氏が例祭の約1か月前から仕込みに入るという資料の記述は、この発酵に要する日数と符合する。新穀を醸して酒とし、漉さずに供えるという一連の作業は、単なる飲料の製造ではなく、その年の実りを神に返す所作として組み立てられている。
白酒・黒酒という対の呼称にも、少し立ち入っておきたい。古代の祭祀において、白酒はそのままの白い酒を、黒酒はこれに久佐木(くさき)の灰を加えて色を帯びさせた酒を指し、二つを一対として神に供えることが正式とされた。中野の行事が「白酒」の語を単独で用いていることは、必ずしも古代の白酒・黒酒の対を直接継いだことを意味しない。むしろ、濁った新酒を広く白酒と呼ぶ、より一般的な語法の上にあると読むのが穏当である。とはいえ、澄んだ酒を最上とする後世の酒造観とは異なり、濁ったままの酒に神事上の価値を認める感覚が、この語の選択に働いていることは見てとれる。供物の名の一語にも、古い献酒観の名残がひそんでいる。
献酒という行為の意味も確認しておきたい。神に供える酒を神酒(みき)と呼ぶが、新穀から醸した新酒を供えることには、その年最初の収穫物を神に捧げる初穂の性格が重なる。田で得た米が、村人の手で酒へと姿を変え、神に献じられ、やがて直会を通じて人の口に戻る。濁り酒は、この村と神とのあいだを往還する媒体である。澄んだ酒ではなく濁った酒であることは、精製の度合いの問題というより、新穀をできるだけそのままの姿で神に返すという、素朴で古い献酒観の名残とみることができる。
中野の具体的な作法について、本稿が言いうる範囲は限られる。3人の杜氏を地区内から選ぶという点は、村落の祭祀組織において、神酒の醸造を特定の家や役が交代で担う頭屋(当屋)制的な運営を思わせるが、中野の杜氏がどのように選ばれ交代するかを記す資料には突き当たっていない。この点は推定にとどめる。また、明治期に酒造規制が強化されて以降、自家用の濁酒醸造は原則として禁じられ、神社の神事用などに限って例外的に認められてきた経緯が一般に知られるが3、中野の醸造がいかなる法的枠組みのもとで続けられているかは、公開資料には記載がなく、本稿では踏み込まない。ここでも、一般的背景として言いうることと、中野について未確認であることとを区別しておく。
4. 白山信仰と中野の社 ── なぜ白山なのか
行事名にも社名にも冠される「白山」は、加賀・越前・美濃の三国にまたがる白山(はくさん)を神体山とする山岳信仰に由来する。加賀国一宮の白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)を本社とし、白山比咩大神(菊理媛神とされる)などを祀るこの信仰は、中世以降、修験の活動と結びつきながら各地へ広まり、全国におびただしい数の白山社が勧請された4。遠州の海辺の集落に白山神社があること自体は、この全国的な勧請の広がりのなかに置けば、格別に珍しいことではない。むしろ問うべきは、この社の由緒がどう語られてきたか、という点にある。
ここで一つの齟齬に触れておかねばならない。中野白山神社の創建は、寛正3年(1462年)4月、紀伊国(現在の和歌山県)の熊野山本宮より御正体を勧請し、氏神としたことに始まると伝えられる。しかし、これは字義どおりに読めば熊野信仰の勧請であって、白山信仰そのものの勧請ではない。社名は白山を称しながら、社伝は熊野からの勧請を説く。この不一致をどう理解するかは、慎重を要する問題である。白山と熊野はともに中世の修験が深く関わった霊地であり、修験者の廻国のなかで複数の霊地の信仰が一つの村社に重ねられていった可能性は考えうるが、これを裏づける中野固有の史料には突き当たっていない。社名と社伝の齟齬は、本稿では未確認の論点として記録するにとどめ、断定を避ける。
社殿の歩みとして、延宝5年(1677年)と元禄14年(1701年)に修繕が行われ、安政元年(1854年)の大地震で社殿が大破した後、翌年に再び修繕されたと伝わる。また同社には、鎌倉時代後期の作とされる絹本著色釈迦十六善神画像が伝わり、白酒の例祭とあわせて、信仰と文化財が幾重にも積み重なってきた土地であることをうかがわせる。もっとも、創建年や修繕年代は社伝および観光協会の紹介文に基づく伝承的記述であり、一次史料による裏づけは今後の課題として残る。ここでも、伝えられている年紀を史実の年表と同一視しない態度を保つ。仏画を伝えつつ白山・熊野の神を祀るという神仏習合の重層は、この社の由来がいくつもの信仰の層を抱え込んできたことを物語る。
5. 新嘗と直会 ── 収穫儀礼としての白酒祭
白酒祭を、その年の新米を用いる点に着目して読み直すと、収穫儀礼の系譜が浮かび上がる。新穀を神に供え、その年の実りを感謝し、翌年の豊穣を願う儀礼は、宮中の新嘗祭(にいなめさい)を頂点として、各地の村落祭祀に広く分布する。新米を醸した白酒を神前に供える中野の例祭は、この新嘗系の収穫儀礼の一つの現れとして位置づけられる。秋の稲刈りを終えた10月に営まれるという時期も、収穫儀礼としての性格と整合する。ただし、中野の白酒祭が制度としての新嘗祭と直接の系譜関係にあると主張するわけではない。あくまで、新穀奉献という所作の型を共有する行事として読む、という推定である。
収穫儀礼を構成するもう一つの要が、直会(なおらい)である。直会とは、神に供えた酒食を、祭りの後に参加者が分かち合って戴く神人共食の場を指す。神に献じられた新酒は、そこで再び人の口へと戻る。図1に示したように、白酒はこの往還の媒体であり、村が醸し、神に献じ、人が戴くという循環を一巡することで、その年の実りが村と神のあいだで確かめ合われる。中野の白酒祭において直会がどのような形で行われるかを具体的に記す資料には突き当たっていないが、濁酒を供える収穫儀礼が共食を伴うことは一般的であり、新米の白酒が神と人とを媒介する構図そのものは、この祭りの核として読み取ってよい。
当日の投餅も、この収穫儀礼の文脈に置くと理解しやすい。餅は新穀を搗いて成形した供物であり、それを参拝者へまく行為は、神前に集まった実りを人々へ分け与える分配の所作にあたる。白酒が液体の形で神と人を結ぶとすれば、餅は固体の形で同じ実りを共同体へ行き渡らせる。献酒と投餅は、収穫の恵みを神に返し、再び人へ分配するという一つの主題を、酒と餅という二つの供物で表していると読める。福田の年中行事を通観した大石浩之の磐田論考 第164号で述べた村の信仰暦のなかに、この秋の白酒祭を置くと、正月から春、そして秋へと巡る一年の祈りの環のなかで、収穫を締めくくる位置にあることが見えてくる。
祭りの場を、村の空間に沿って眺めておきたい。田で得た新米は、村内の酒造の場へ運ばれて白酒となり、社殿へ運ばれて神に献じられ、直会や投餅を通じて再び村人のもとへ戻る。米・酒・餅という供物が、田・醸造の場・社・共食の座という場所を巡り歩く。この空間の巡りは、祭りが村の生活圏そのものを舞台としていることを示す。海辺の集落でありながら、白酒祭の中心にあるのは稲作の実りであり、遠州灘の漁とはまた別の、田の恵みをめぐる祈りがここに続いてきた。福田の海の暮らしを扱った福田港と海の暮らしと対に置くと、一つの地区が海と田の双方に祈りを重ねてきたことがうかがえる。
6. 由来譚を読む ── 中断・災厄・回復の物語構造
「祭りを絶やすと災いが来る」という語りの型
物語の骨子。前掲の由来譚のうち、疫病退散を説く型を取り出すと、その筋立ては明快である。白酒を供える習わしがあった(平常)→ ある年これを取りやめた(中断)→ 疫病が流行した(災厄)→ 以後、毎年欠かさず供えるようになった(回復・継続)。中断が災厄を招き、再開が秩序を回復するという、四つの局面から成る構造をもつ。
語りの型としての位置。この「祭りを怠ると祟りがあり、再開して鎮まる」という筋立ては、各地の祭祀縁起に広く見られる型である5。特定の一社にのみ固有の史実というより、祭りを絶やしてはならないという規範を、共同体が自らに言い聞かせるために語り継ぐ物語の型と捉えられる。中野の由来譚をこの型のなかに置くと、それが行事の継続そのものを動機づける機能をもってきたことが読み取れる。毎年の仕込みという手間のかかる営みを絶やさぬ理由を、村はこの物語のかたちで保持してきた。
神託版のはたらき。もう一つの、「白山を信仰し、どぶろくを献じて祈願せよ」との神託を説く型は、別の機能を担う。こちらは、なぜ白山なのか、なぜ濁り酒なのかという、行事の中心にある二つの要素を、神の言葉として一挙に根拠づける。社名と供物の由来を神託に帰することで、行事の細部に必然性を与えているのである。前節で触れた社名と社伝の齟齬を、村の側から埋め合わせる語りとしても読める。
二つの型の関係。疫病退散型と白山神託型は、矛盾するものではなく、むしろ補い合う関係にある。前者が「なぜ絶やしてはならないか」という継続の理由を語るのに対し、後者は「なぜ白山であり、なぜ濁り酒なのか」という選択の理由を語る。継続の理由づけと、対象・供物の由来づけとが、二つの物語に役割分担されているとみることができる。両者がともに「江戸時代の初め頃の疫病」という同じ背景を共有している点も見落とせない。疫病という共通の危機を核として、一方は行事の存続を、他方は行事の内容を根拠づける。二つの由来譚は、別々に伝わりながら、同じ危機の記憶から枝分かれした語りとして読める。
史実性の扱い。いずれの型も、確定した年代や被害の規模を伴わず、これを史実として断ずることはできない。江戸時代初め頃という時代の枠は語られるが、それを裏づける同時代の記録には突き当たっていない。しかし、伝承であることは価値の低さを意味しない。むしろ、村が何を記憶として選び取り、どのような論理で行事を続けてきたかを読む対象として、由来譚はきわめて重要である。史実の当否とは別の水準で、これらの物語が白酒祭を支えてきた。
7. 比較の中の白酒神事 ── 宮座・村落祭祀の一般論
中野の白酒祭を、より広い村落祭祀の文脈に置いて眺めておきたい。新穀から濁り酒を醸して神に供える行事は、名称や規模を違えながら各地に伝わってきた。そこに共通して見られるのは、神酒の醸造を村内の特定の役が担い、収穫の季節にこれを供え、共食によって分かち合うという枠組みである。村落の祭祀組織を論じる宮座研究では、神事を執り行う資格をもつ家々が座を構成し、当屋(頭屋)が年ごとに交代で祭祀の中心を担う仕組みが各地で報告されてきた。神酒の醸造は、しばしばこの当屋の重要な務めであった。中野で3人の杜氏を地区内から選ぶという運営は、こうした頭屋制的な祭祀組織のありようと響き合う。ただし繰り返せば、中野の杜氏の選定や交代を記す資料には突き当たっておらず、この対応は推定の域にある。
比較を整理するために、確認できる事柄と一般論とを、確度を明示して並べておく。次の表は、中野白山神社の白酒祭について公開資料に記される事柄を左列に、濁酒神事一般に見られる型を中列に、そして本稿がそれぞれをどの確度で扱うかを右列に配したものである。特定の観点を優位に置かず、各観点の情報量をそろえることで、どこまでが史実で、どこからが一般論からの補いなのかを、読者が見分けられる状態をつくることを意図している。
| 観点 | 中野白酒祭(公開資料の記載) | 濁酒神事・村落祭祀の一般像 | 本稿での確度の扱い |
|---|---|---|---|
| 供える酒 | その年の新米から仕込んだ白酒(濁り酒・どぶろく)。 | 新穀から醸した濁酒。白酒・黒酒を対で供える古例も。 | 供物の内容は史実。古例との連続は一般論からの読み。 |
| 醸造の担い手 | 地区内から選ばれた3人の杜氏。 | 当屋(頭屋)など村内の役が神酒を醸す。 | 3人の杜氏は史実。頭屋制との対応は推定。 |
| 仕込みの時期 | 例祭の約1か月前から酒造の場に入る。 | 収穫後、祭日に合わせて仕込む。 | 時期は史実。発酵日数との符合は一般論で補う。 |
| 祭日 | 10月第1日曜。 | 収穫を終えた秋に営む例が多い。 | 祭日は史実。収穫儀礼としての位置づけは推定。 |
| 由来の語り | 疫病退散型・白山神託型の二つが伝わる。 | 「中断すると祟る」型の祭祀縁起が広く分布。 | 由来は伝承。物語構造の共通性は一般論。 |
| 成立年代 | 明示なし(江戸初め頃と由来譚が語る)。 | 近世以前に遡る例もあるが確定は難しい。 | 行事の成立を記す一次史料は未確認。 |
この対照から見えてくるのは、中野の白酒祭が、濁酒神事という広い型の一つの現れでありながら、その細部については確認できる部分と未確認の部分とが入り混じっている、という実情である。供える酒、担い手の人数、仕込みの時期、祭日は資料で確認できる。一方、それらが収穫儀礼や頭屋制の型にどう連なるか、行事がいつ成立したかは、一般論からの推定か、あるいは未確認にとどまる。史料批判の要点は、この確認できる層と推定・未確認の層とを、同じ確からしさで語らないことにある。表の右列は、まさにその境界を可視化するために設けた。
もう一点、比較から得られる視座を述べておく。各地の濁酒神事を横に並べると、白酒祭は決して孤立した奇習ではなく、新穀奉献という日本の村落祭祀の基層に連なる行事であることがわかる。しかし同時に、白山を称しながら熊野勧請を伝えるという中野固有の由緒や、疫病退散と白山神託という二重の由来譚は、この村ならではの歴史の襞を刻んでいる。一般的な型に還元して説明しつくすのでも、逆に固有の奇習として孤立させるのでもなく、共通の基層の上に固有の襞を読むことが、地方の民俗を扱う際の要諦であると考える。磐田市の指定文化財を一覧した磐田市の指定文化財一覧のなかに白酒祭を戻して眺めれば、市域の無形民俗が、それぞれ共通の基層と固有の由緒とを併せもつことが見えてくる。
海辺の集落に稲作の実りを核とする白酒祭が続いてきたことにも、あらためて触れておきたい。豊浜中野は遠州灘に面した集落でありながら、この祭りの中心を占めるのは漁の恵みではなく、田で得た新米である。海に生きる集落が、同時に田の実りへの祈りを保ってきたという事実は、沿岸部の村がしばしば漁と農の双方に足場を置いてきたことを思い起こさせる。白酒祭は、この村が漁業一色ではなく、稲作の周期に沿った信仰の暦をも抱えてきたことの証しである。海の行事と田の行事とが一つの集落に共存する姿は、遠州灘沿岸の生活文化を理解するうえで見落とせない。白酒祭を漁村の奇習として孤立させず、農の収穫儀礼の系譜に正しく位置づけることが、この行事を読む前提となる。
8. 結論 ── 濁り酒が結ぶ村と神
本稿は、中野白山神社の白酒祭を、濁り酒の醸造と献酒という所作の側から読み、公開資料に記される次第を史実の層に、疫病退散や白山神託の由来譚を伝承の層に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。10月第1日曜の例祭、3人の杜氏による約1か月前からの仕込み、投餅は、公開資料で確認できる事実である。一方、行事の起源や成立年代を直接記す一次史料は、本稿の範囲では未確認であり、この状態は「記録が存在しない」という記載なしの状態とは区別される。
そのうえで、白酒すなわち濁酒が、この行事の中心にあることの意味を論じた。新米を醸し、漉さずに濁ったまま神に供え、直会と投餅を通じて村人へ戻す。白酒は、村が神へ実りを返し、神が村へ恵みを分かつ、その往還の媒体である。収穫儀礼としての新嘗の枠組み、直会という神人共食の場、頭屋制的な醸造の担い手、白山信仰の勧請史──これらの一般的な知見を補助線として引くことで、資料の薄い部分を憶測で埋めることなく、白酒祭が村と神を結ぶ営みとして続いてきた過程を描くことができた。
本稿の立場を一文で示せば、こうなる。白酒祭は、新穀奉献という村落祭祀の広い基層の上に、白山と熊野、疫病と神託という中野固有の由緒を重ね合わせた行事であり、その読解は、共通の型への還元と固有性の孤立化のいずれをも避け、確度の層を保ったまま行われねばならない。史実は史実として、伝承は伝承として、未確認は未確認として書き分けること。この禁欲的な手続きこそ、海辺の集落に続く一つの祭りを、後世の調べものに耐える形で残す方途である。
最後に、本稿が残した課題を明記する。第一に、行事の成立年代については、近世・近代の地方文書や社の記録を博捜することで、未確認を一歩前へ進めうる余地がある。第二に、白山を称しながら熊野勧請を伝える社名と社伝の齟齬は、修験の廻国や近隣の神社との関係を含めて、なお検討を要する。第三に、中野の杜氏の選定・交代の実態や直会の具体は、当事者への聞き取りと記録によって、推定を史実へ押し上げうる。これらはいずれも、本稿が設定した確度の腑分けの枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと引き上げていく作業に属する。福田の年中行事全体のなかで白酒祭が占める位置については、本論考シリーズの福田民俗研究として、稿を改めて論じたい。
注
- 中野白山神社例祭(白酒)は磐田市指定無形民俗文化財。指定年月日は2005年(平成17年)11月21日、保存団体は白山神社氏子とされる。指定名称・所在地・保存団体は磐田市公式サイトおよび磐田市観光協会の公開情報による。↩
- 例祭日(10月第1日曜)、地区内から選ばれた3人の杜氏による約1か月前からの仕込み、投餅、通称「どぶろく祭り」は、磐田市観光協会等の紹介記事による。いずれも当事者による一次記録ではなく、行事を外部へ紹介するために編まれた二次的記述である点に留意を要する。↩
- 明治期に酒造規制が強化されて以降、自家用の濁酒醸造は原則として禁じられ、神社の神事用などに限って例外的に認められてきた経緯が一般に知られる。中野の醸造がいかなる法的枠組みのもとで行われているかは公開資料に記載がなく、本稿では未確認とする。↩
- 白山信仰は加賀・越前・美濃の三国にまたがる白山を神体山とし、加賀国一宮の白山比咩神社を本社とする。中世以降、修験と結びついて各地に勧請された。全国の白山社の分布については『国史大辞典』「白山信仰」の項などを参照。↩
- 「祭りを中断すると災いが起こり、再開して鎮まる」という祭祀縁起の型は各地に広く分布する。中野の由来譚もこの型に連なるが、確定した年代や被害を伴う史実としては確認できない。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 f020「中野白山神社例祭(白酒)」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、次第・指定に関わる公開情報を史実、由来譚を伝承、収穫儀礼や頭屋制との対応を推定として扱った。「未確認」(一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(資料に記述がない)を区別している。
参考文献・参考資料
- 磐田市公式ウェブサイト「無形民俗文化財」中野白山神社例祭(白酒)の項 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田市観光協会「白山神社(絹本着色釈迦十六善神画像・どぶろく祭り)」紹介ページ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田お宝見聞帳「中野白山神社・絹本着色釈迦十六善神画像・十日祭(お箱)・例祭(白酒)<通称:どぶろく祭>」 (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 f020「中野白山神社例祭(白酒)」 https://iwata-monogatari.net/f020.html (本稿の素材記事、最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 f019「中野白山神社十日祭(お箱)」 https://iwata-monogatari.net/f019.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語「大石浩之の磐田論考 第164号 福田の年中行事 ── 正月から春への村の信仰暦」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/164/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 c021「磐田市の指定文化財一覧」 https://iwata-monogatari.net/c021.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 柳田國男『日本の祭』弘文堂、1942年。
- 折口信夫「大嘗祭の本義」(『折口信夫全集』所収、初出1928年)。
- 肥後和男『宮座の研究』弘文堂、1941年。
- 『国史大辞典』「白山信仰」「神酒」「新嘗」「直会」の各項、吉川弘文館。
- 『日本国語大辞典』「しろき(白酒)」「くろき(黒酒)」「どぶろく(濁酒)」の各項、小学館。
- 磐田市『磐田市史』通史編(福田・沿岸部の民俗に関する該当章)。
- 佐口行正氏所蔵史料(福田地区の社寺・年中行事関係)。