磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第171号(行興寺研究 近世文書篇)
行興寺の近世史
家康朱印地の伝承と江戸期古文書「御恐書付を以奉願上候」を読む
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田市池田の行興寺には、慶長8年(1603年)に徳川家康が朱印地を寄進したと伝わる。本稿は、この伝承の当否を裁くのではなく、行興寺に伝わる江戸期の古文書「御恐書付を以奉願上候」を史料として読み、朱印地という特権をもつ近世寺院の実態に接近する。方法として、家康寄進を伝承の層に、文書に記された年紀・文言を「その文書にそう書かれている」という水準の事実に、そこから導かれる解釈を推定に腑分けする。そのうえで、嘆願書・減免願という文書の性格──作成主体・宛先・目的・信頼性──に踏み込み、特権地を得た寺がなお繰り返し減免を願い出た背景を、天竜川左岸という水害リスクの高い立地と重ねて検討する。個々の嘆願の年月日や、水害と財政難の直接の因果は、本稿の範囲では確認できておらず、この「未確認」と「史料に記載がない」ことを区別しつつ、財政難の記述を誇張せず淡々とたどる。願書という同時代の実務文書は、伝説とは異なる角度から池田の近世を照らす。
キーワード:行興寺/朱印地/御恐書付を以奉願上候/徳川家康/嘆願書・減免願/天竜川/史料批判
1. 問題設定 ── 朱印地伝承をどう読むか
磐田市池田、天竜川の左岸に立つ行興寺は、熊野御前の伝説と国天然記念物の長藤で広く知られる時宗の寺である。だがこの寺には、華やかな伝説とはまったく別の系統に属する史料が伝わっている。慶長8年(1603年)に徳川家康が朱印地を寄進したという伝承と、その朱印地をめぐって江戸期に作成された古文書群である。本稿は、熊野御前の物語をいったん脇に置き、この近世文書の側から行興寺の歩みを読み直す。
出発点で断っておきたいのは、本稿が「家康が本当に寄進したのか」を裁定する論考ではない、という点である。近世寺院の由緒には、開基や寄進を著名な武将・貴人に仮託する例が少なくない。家康寄進の伝承もまた、その真偽を一次史料で確かめる作業と、その伝承が江戸期の文書のなかでどのように働いたかを読む作業とは、はっきり分けて考える必要がある。本稿が主として扱うのは後者、すなわち文書の側からたどれる寺の実務である。
そのために、本稿では情報を三つの水準に腑分けして扱う。第一に伝承、すなわち家康寄進のように地域や寺に語り継がれてきた事柄。第二に、文書に記された年紀・文言そのもの、すなわち「その文書にそう書かれている」という水準の事実。第三に、その記載から導かれる解釈・推定である。この三層を混同すると、「文書にそう書いてある」ことと「それが史実である」こととが地続きに語られ、伝承がいつのまにか史実へと横滑りしてしまう。この横滑りを避けることが、本稿の方法上の要である。
あわせて、「未確認」と「記載なし」を厳密に区別する。後述するとおり、個々の嘆願書の年月日や結末について、本稿が参照しえた範囲では詳細を確認できていない。これは「そうした記録が存在しない(=記載なし)」ことを意味するのではなく、「管見の限り、その記載に突き当たっていない(=未確認)」という状態にとどまる。一次史料の博捜によって未確認が既知へ転じる余地は残されている。以下ではこの区別を一貫して保ち、確度の異なる事柄を同じ平面に並べないよう努める。
本稿がこの近世文書に一篇を割く理由も、あらかじめ述べておきたい。行興寺をめぐる記述は、これまで熊野御前の伝説と長藤に厚く、朱印地の古文書は参考資料の一行として触れられるにとどまってきた。しかし、伝説が寺の由緒を語るのに対し、古文書は寺の実務を語る。由緒は後世の視点から過去を整えて叙述するが、実務文書はその時々の必要に迫られて作成される。両者は同じ寺の別の顔であって、伝説の陰に置かれてきた実務の側を正面から読み直すことに、独立した意義があると考える。以下の検討は、その読み直しの一つの試みにほかならない。
2. 史料の性格 ──「御恐書付を以奉願上候」という願書
行興寺に伝わる江戸期の古文書のうち、本稿が中心に据えるのは「御恐書付を以奉願上候(おそれながらかきつけをもってねがいあげたてまつりそうろう)」と題する一件である。豊田郷土を研究する会が編んだ『熊野ものがたり』(2009年)は、この文書を翻刻して紹介しており、本稿の記述もこの刊本の紹介に依拠する1。行興寺というと熊野御前の伝説ばかりが語られがちだが、寺にはこうした実務的な近世文書もまた伝存してきた。
文書名それ自体が、史料の性格を雄弁に語っている。「恐れながら書付を以て願い上げ奉り候」とは、江戸期に百姓や寺社が領主・役所へ願い出るさいに用いた定型の書式であり、この一句だけで、当該文書が上位の権力に宛てた嘆願(願書)の形をとることが分かる2。すなわちこれは、寺が自らの窮状や要求を、へりくだった文体で上申した文書である。帳簿や記録ではなく、相手に何かを願い出るための文書だという点を、まず押さえておきたい。
この書式上の性格は、史料批判の出発点として決定的に重要である。願書は、事実を中立に書き留める帳簿類とは異なり、願いを聞き届けてもらうという明確な目的をもって作成される。そこに記された困窮の描写は、実態の反映であると同時に、減免を引き出すための修辞でもありうる。したがって願書を読むさいには、記載内容を額面どおりに史実とみなすのではなく、「誰が」「誰に宛てて」「何を得るために」書いたのか、という作成の文脈を、つねに併せて問わねばならない。この問いを欠いた読みは、修辞を史実と取り違える危険をつねに抱える。
もう一点、文書の伝存の経路にも注意がいる。これらの古文書は、ほかならぬ行興寺に伝来したものであり、寺の側に保存されてきた。寺が保存を選んで残した文書は、寺領の権利や特権を裏づける根拠として意味をもつものが残りやすい。逆に、寺にとって不利な文書や、権利の主張に関わらない些事の記録は、伝来の網からこぼれ落ちやすい。伝来した文書の束それ自体に、寺の関心による選別が働いている可能性を、あらかじめ勘定に入れておく必要がある。残った文書だけを見て近世の寺の全体像を語ることには、この意味でも慎重でありたい。
史料の性格を、もう一段掘り下げておく。願書は、寺の側が自らの窮状を訴える文書であるから、そこで語られる寺の来歴や朱印地の由来もまた、願いを支えるために整えられた叙述でありうる。仮に願書のなかに家康寄進の由緒が引かれていたとしても、それは由緒の史実性を証するのではなく、寺がその由緒を権利の根拠として持ち出したことを示すにすぎない。すなわち願書は、伝承が近世の実務のなかで「使われた」痕跡を伝えるのであって、伝承そのものの真偽を裏づける史料ではない。この区別を保つことが、朱印地伝承を近世文書から扱ううえで欠かせない前提となる。
3. 家康朱印地の伝承 ── 慶長8年という年紀
行興寺の朱印地伝承は、家康が浜松城主のころこの地を訪れ、熊野の古跡をしのんで朱印地を寄進した、という筋立てで語られる。その年紀は慶長8年(1603年)とされる。朱印地とは、将軍や大名が朱印状によって寺社に安堵した領地で、その地の年貢が免除される特権をもつ3。行興寺がこの朱印地を持つ寺として近隣から一目置かれてきたことは、一般向けの記事でもたびたび触れられてきた。
まず年紀そのものを吟味する。慶長8年は、家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開いた年にあたる4。全国の寺社に対する朱印地の一斉安堵が制度として本格化するのは、この前後から三代家光期にかけてのことである。したがって慶長8年という年紀は、家康個人がこの地を訪れたという逸話の色彩を帯びつつも、幕府による寺社領安堵という近世の制度的な画期と、時期の点では符合している。もっとも、両者が符合することは、行興寺への寄進を史実として裏づけるものではない。制度の画期に合わせて由緒の年を整えるという営みは、近世寺院の由緒形成にしばしば見られるからである。
本稿の立場を一文で示せば、家康の来訪と寄進そのものは伝承の層にとどめ、確定した史実とはしない、というものである。t002・t037も、家康来訪の逸話について「郷土の伝承や後世の物語によるところが大きい」と留保をつけていた。一方で、行興寺が江戸期を通じて朱印地を保持し、それを前提として役所とやり取りしていたこと自体は、後述する嘆願書の存在から相当の確からしさで推し量ることができる。「寄進の起源」は伝承、「朱印地を保持していた事実」は文書から導ける推定、という腑分けが要点である。伝承の真偽が確かめられなくても、その伝承を根拠に寺が現に振る舞っていた痕跡は、文書の側から追える。
朱印地伝承の機能にも、一言しておきたい。近世の寺にとって、著名な武将による寄進の由緒は、単なる名誉ではなく、朱印地の権利を根拠づける実際的な資産でもあった。家康寄進という物語は、寺が朱印地の安堵や減免を願い出るさいの、正当性の源泉として働きえた。伝承の史実性が確かめられなくても、その伝承が近世の実務のなかで確かな役割を果たしていたことは、じゅうぶんに考えられる。伝承を「事実か否か」だけで測るのではなく、「どう使われたか」という水準で捉えると、朱印地伝承は寺の近世史のなかに確かな居場所をもつ。
池田の地には、行興寺のほかにも家康と結びつく由緒が伝わる。天竜川を渡す池田船頭衆は、家康から渡船の特権を認める朱印状を得たと伝えられ(「船頭自治と徳川家康の朱印状」参照)、川筋にほど近い気子島の豊田山薬師堂は、家康から40石の朱印地を受けたと伝わる(「豊田山薬師堂と40石の朱印地」参照)。家康の名を由緒に戴く在地の記憶が、天竜川左岸の一帯に幾重にも層をなしていた。行興寺の朱印地伝承も、こうした地域的な「家康由緒」の一つとして位置づけると、その成り立ちが見えやすくなる。伝承は孤立して生まれるのではなく、周囲の同種の由緒と響き合いながら形をとる。
4. 江戸期の嘆願・減免願 ── 作成主体と目的
「御恐書付を以奉願上候」には、寺領をめぐる嘆願や、年貢・諸役の減免を願い出る文言が含まれるとされる。『熊野ものがたり』の紹介によれば、こうした願い出は江戸期の複数の時点にわたって繰り返された。ただし、個々の嘆願がいつ、どのような理由で出され、どう裁定されたのかという具体的な経緯は、本稿が参照しえた範囲では確認できていない。この点は未確認として、断定を避ける。年代の並びを装って確かでない情報を書き連ねることは、かえって史料への信頼を損なうからである。
ここで、願書という史料の作成主体と目的を、あらためて腑分けしておく。差出人は行興寺(住持)であり、宛先は寺社を管轄する役所ないし領主の側である。目的は、寺領にかかる負担の軽減、あるいは朱印地の権利の再確認にあった。願書は、この差出・宛先・目的の三点セットのなかで初めて意味をもつ文書であって、そこに書かれた窮状は、宛先を説得するために選ばれ、配列された言葉である。同じ困窮でも、誰に何を求めて書くかによって、強調される事柄も語調も変わる。
もっとも、このことは記載内容を一律に割り引くべきだ、という意味ではない。誇張された窮状であっても、その誇張が説得として成立するには、役所の側にも「行興寺は苦しいらしい」という一定の前提が共有されている必要がある。まったくの虚構では願書は機能しない。したがって、個々の数字や情景描写を史実とみなすことには慎重であるべきだが、寺が繰り返し減免を願い出ねばならない程度には財政が不安定であった、という水準の推定は、願書の存在それ自体から相当の確からしさで導くことができる。ここでも、確度の高い推定と、額面どおりには受け取れない記載とを、分けて扱う。
注目すべきは、朱印地という特権を得ていた寺が、なお減免を願い出ている点である。朱印地は年貢免除の特権地であるが、それは寺のすべての費用を賄うことを意味しない。堂舎の修復、境内の維持、水害への対応、朱印地の免除では覆いきれない諸役の負担など、寺の経営には絶えず支出がのしかかった。特権をもつことと、経営が安定していることとは、まったく別の事柄である。嘆願の反復は、この二つの落差を示す痕跡として読める。特権地の寺だから豊かであった、と短絡してはならない。
なお、朱印地は将軍の代替わりごとに、新たな朱印状によってあらためて安堵を受け直す必要があった。この継目安堵(つぎめあんど)の手続きは、寺にとって権利を維持するための不可欠の実務であり、そのたびに文書の作成・提出・保管が要求された。行興寺に近世文書が伝来した背景には、こうした権利維持の実務の反復があったと考えられる。伝来した文書の厚みは、寺が自らの権利をどれほど繰り返し確認し続けねばならなかったかの、間接的な指標でもある。
朱印地の免除が及ぶ範囲にも、注意を要する。朱印状によって免除されるのは、原則としてその朱印地にかかる年貢であって、堤防の普請役や助郷といった諸役、あるいは臨時の賦課までが一律に免れたわけではない。天竜川の治水普請が課される土地柄であれば、こうした役負担は寺の経営を圧迫する要因となりえた。減免を願い出た対象が年貢だったのか諸役だったのか、あるいは臨時の負担だったのかは、願書の文面を逐条に読み分けて初めて判別できる。本稿の範囲では、その判別に必要な文面の精査にまで踏み込めておらず、この点も未確認の課題として残る。
5. 天竜川の水害と寺の困窮 ── 立地と財政
行興寺の立地は、その財政を考えるうえで無視できない条件である。寺は天竜川の左岸、氾濫原にあたる池田に位置する。天竜川は「暴れ天竜」と呼ばれ、江戸期を通じてたびたび氾濫を繰り返した大河である(「天竜川の治水年表」参照)5。池田の地も、その水害の圏内にあった。川がもたらす渡河交通の利と、川がもたらす水害の害とを、同時に背負う土地であったといってよい。
水害は、寺の経営に二重の打撃を与えうる。第一に、寺領や周辺の田畑が冠水・流失すれば、寺の収入基盤そのものが痩せる。第二に、水害からの復旧は堂舎や境内の維持費を押し上げる。朱印地の年貢免除は、この二つの打撃を直接には補償しない。むしろ、免除地であるがゆえに、通常の年貢減免という一般の救済の枠組みからは外れ、独自に嘆願を要した可能性すら考えられる。特権地であることが、かえって救済の谷間を生んだという見方も、可能性としては排除できない。
ただし、行興寺の古文書に残る財政難の記述が、特定の水害と直接に結びつくことを示す記載は、本稿の範囲では確認できていない。願書の困窮描写を、ただちに「何年の洪水による」と結びつけるのは、史料の裏づけを欠いた推論になる。ここでも「未確認」と「記載なし」を分けておきたい。両者を結ぶ具体的な記載に突き当たっていないというのが正確な現状であって、両者が無関係だと断ずるのでもなければ、そうした記載が存在しないと決めつけるのでもない。水害年次と嘆願時期の突き合わせは、今後の検証に開かれた課題である。
確実に言えるのは、天竜川平地に立地する寺院として、水害が財政の恒常的なリスク要因であった、という一般的な水準にとどまる。この地理的条件を背景として押さえたうえで、個々の嘆願を過大にも過小にも読まず、確認できる範囲の事実に即して淡々と記述することが、本稿のとる態度である。財政難を悲話として脚色することは、史料の言葉を超えてしまう。逆に、特権地だからと困窮を軽んじることも、願書が現に反復された事実に反する。抑制の効いた記述こそが、この土地の寺の近世に釣り合う。
天竜川の治水は、江戸期には流域の村々に重い普請役を課す事業でもあった。堤の維持と修復は、水害の被害それ自体とならんで、流域に暮らす者の負担を恒常的に押し上げた。行興寺の立地する池田がこの普請の圏内にあったとすれば、水害の直接の被害と、治水普請にともなう負担とが、二重に寺の財政へ影を落とした可能性がある。ただし、これもまた願書のどの記述がどの負担に対応するのかを確定できていない以上、可能性の指摘にとどめる。確実に言える記述と、ありうる推論とを、ここでも混ぜないでおきたい。
6. 史料批判 ── 願書から何をどこまで読めるか
ここまでの検討を、史料批判の枠組みとして整理しておく。願書という史料から何をどこまで読み取れるかは、記載の種類ごとに信頼性の水準が異なる。書式・文体・差出の事実といった文書の外形的な属性は、比較的高い確度で扱える。これに対し、窮状の程度や被害の規模といった内容の記載は、目的に規定された修辞を含むため、額面どおりには受け取れない。同じ一通の文書のなかでも、確度の高い部分と低い部分とが同居している。
この点を、行興寺の近世をめぐる事項ごとに整理したのが表1である。各事項を、伝承・推定・文書記載・未確認といった確度の層に分け、典拠と史料批判上の留意点を対等の粒度で並べた。特定の事項を強調する書式を避け、確度の勾配そのものを可視化することを目的としている。
| 事項 | 確度の層 | 典拠・根拠 | 史料批判上の留意点 |
|---|---|---|---|
| 家康の来訪・朱印地寄進 | 伝承 | 寺・地域の言い伝え | 一次史料で寄進を裏づけられない。著名武将への仮託の類型に注意。 |
| 慶長8年(1603年)という年紀 | 伝承(制度と時期符合) | 寺伝、江戸開府の年 | 幕府の寺社領安堵の画期と符合するが、寄進の史実性は別問題。 |
| 江戸期に朱印地を保持した事実 | 推定(確度高) | 嘆願書の存在、継目安堵の実務 | 文書のやり取りから間接的に推し量る。 |
| 減免を繰り返し願い出た事実 | 文書記載=事実 | 「御恐書付を以奉願上候」 | 願書が現に伝来。ただし個々の年月日・結末は未確認。 |
| 窮状の程度・被害の規模 | 未確定 | 願書の困窮描写 | 減免を得るための修辞を含みうる。数値は額面どおりに取れない。 |
| 水害と財政難の直接的因果 | 未確認 | ── | 両者を結ぶ具体的な記載に未到達。無関係とも断じない。 |
この表から見えるのは、行興寺の近世について語りうることが、一様な確からしさで並んでいるのではなく、確度の勾配をもって層をなしている、という事実である。家康寄進は伝承の頂に、減免嘆願の反復という文書事実は最も堅い基盤に位置し、その中間に、朱印地保持の推定が置かれる。史料批判とは、この勾配を平らにならさず、各記載をそれが属する層のまま記述する作業にほかならない。勾配を無視して一枚の物語に均してしまえば、伝承が史実に格上げされ、確かな文書事実がかえって埋もれる。
この確度分類は、固定した結論ではなく、今後の史料によって書き換えられることを前提とした暫定の見取り図である。たとえば役所側に朱印地の安堵や減免の裁定を記した帳簿が見つかれば、いま「文書記載=事実」にとどまる嘆願の反復は、その年月日と結果をともなった史実へと格上げされる。逆に、願書の困窮描写が他の寺にも共通する定型の文言であったと判明すれば、窮状の記載はいっそう慎重に扱わねばならなくなる。確度の層は、新たな史料との照合によって上下しうるものであり、その可動性をあらかじめ明示しておくこと自体が、史料批判の誠実さに属する。
願書を史料として用いる利点も、あわせて確認しておきたい。編纂された寺誌や由緒書が、後世の視点から過去を整えて語るのに対し、願書は、その時々の必要に迫られて作成された同時代の実務文書である。目的に規定されているという弱点は、裏返せば、寺が現実にどのような局面で、何を役所に求めたのかという、生きた行政の断面を伝える強みでもある。伝承が語る「起源」よりも、願書が示す「実務」のほうが、近世の寺の日常には近い。華やかな寄進の物語の陰で、寺が毎年のように権利を確認し、負担の軽減を願い続けていた、その地道な反復こそが、近世寺院の実相であった。
最後に、方法上の含意を一つ補っておく。願書のような一種類の史料に依拠して寺の近世を論じるとき、その一種類が何を語り、何を語らないのかを見極めることが、多くの史料を並べること以上に大切になる。願書は、寺が困ったときに書いた文書であるから、平時の経営や、順調だった時期のことは、そもそも語られにくい。伝来した願書の束が困窮を色濃く映すのは、寺がつねに困窮していたからとは限らず、困窮こそが文書を生む契機だったからでもある。この史料の偏りを勘定に入れて初めて、願書は近世寺院の実態への確かな入口となる。
7. 背景 ── 池田という土地と近世寺院の実態
行興寺の近世を、より大きな近世寺院の一般像のなかに置いてみる。江戸期の寺院は、幕藩体制のもとで檀家制度に組み込まれ、朱印地や寺領、檀家からの布施、そして時に困窮時の嘆願によって経営を成り立たせていた。行興寺の姿は、この一般像の地域的な一例として読むことができる。特別に困窮した寺というより、朱印地をもつ在地寺院がひとしく抱えた条件が、この寺の文書に表れていると見るのが穏当である。
池田という土地の性格も、寺の経営を条件づけた。池田は天竜川の渡船場を擁し、船頭衆の自治で知られた在郷町的な場であった。渡河交通の要衝であることは人と物の往来を生む一方、氾濫原であることは水害のリスクを恒常化させた。行興寺は、この両義的な土地の只中に立っていた。長藤と熊野伝説で参詣を集める寺であると同時に、水害と財政難に向き合う一個の経営体でもあった。信仰の場であることと、経営体であることとは、同じ一つの寺の表裏であった。
参詣を集める寺であることと、財政に苦しむ経営体であることとは、矛盾しない。むしろ、長藤や熊野伝説によって参詣者を迎える寺であればこそ、堂舎や境内を相応に整える負担も大きかったと考えられる。名の知られた寺には、名にふさわしい維持が求められる。参詣の賑わいと経営の苦しさは、同じ一つの寺のなかで併存しえた。伝説に彩られた寺の像と、願書がにじませる経営の苦渋とを、どちらか一方に還元せず併せて見ることが、行興寺の近世を立体的に捉える鍵になる。
こうして見ると、朱印地をめぐる古文書は、熊野御前の伝説とは異なる角度から池田の近世を照らす。伝説が寺の「物語」を伝えるとすれば、願書は寺の「経営」を伝える。誰がどの土地の権利をもち、それをどう安堵され、負担をどう軽減しようとしたか──こうした問いの束は、華やかな縁起の背後で、寺と地域の人々が現実に担っていた営みを浮かび上がらせる。行興寺の草創縁起や熊野御前の物語については、一般向けの「行興寺の近世史(記事版)」および関連記事に譲り、本稿は近世文書の側の記述に徹した。二つの系統は、いずれ一つの寺史のなかで合流させるべきものである。
付言すれば、こうした近世文書の読みは、地域史の書き手にとっての実践的な訓練でもある。手元にある一片の史料から、確かに言えることと、言えそうなことと、まだ言えないこととを腑分けする作業は、祭礼であれ寺院であれ、あるいは一軒の家の来歴であれ、地域の過去を書くすべての場面に通じている。行興寺の願書を読む本稿の手続きは、その意味で、池田という一寺の話を超えた射程をもつ。確度の境界を丁寧に引く姿勢こそ、素材の乏しい主題を扱うときに最も試される。
朱印地という古い土地の権利の記録は、現代の登記や境界の確認とも、遠くつながっている。誰がどの土地について、どのような権利をもつのかを文書で確定し、代替わりのたびに確認し直し、次の世代へ引き継ぐ──この関心の形は、江戸期の朱印地文書にも、現代の土地の相続や境界の確認にも、共通して流れている。近世文書を読むことは、土地と権利をめぐる息の長い営みの、一つの断面に触れることでもある。過去の寺が繰り返した権利の確認は、いまを生きる私たちが自らの土地について行う手続きと、案外に近い姿をしている。
8. 結論 ── 伝承の腑分けと願書の実務史へ
本稿は、行興寺に伝わる江戸期の古文書「御恐書付を以奉願上候」を手がかりに、家康朱印地の伝承と近世寺院の実態を読んできた。得られた見取り図はこうである。家康の寄進そのものは伝承の層にとどまり、一次史料では裏づけられない。慶長8年という年紀は幕府による寺社領安堵の制度的な画期と時期的に符合するが、それは寄進を史実として保証するものではない。伝承は伝承として、その位置を保ったまま記述する。
他方で、行興寺が江戸期を通じて朱印地を保持し、なお減免を繰り返し願い出ていたことは、伝来した願書の存在から相当の確からしさで推し量れる。特権を得た寺がなお困窮を訴えた背景には、朱印地の免除では覆いきれない支出と、天竜川左岸という水害リスクの高い立地があった。ただし、個々の嘆願の年月日や、水害と財政難の直接の因果は、本稿の範囲では未確認であり、それを「記載なし」と混同しない。未確認は、今後の博捜によって既知へと転じうる保留の状態である。
あわせて確認しておきたいのは、本稿の抑制が、行興寺の近世を貧しく描くためのものではない、という点である。確度の層を守る記述は、語りうることを削るのではなく、語りうることをその確からしさに応じて正しく置き直す作業である。家康寄進の伝承は、伝承として豊かな意味をもち続ける。減免嘆願の反復は、文書事実として寺の実務を確かに伝える。それぞれを適切な層に据えることで、かえって寺の近世は、伝説一色でも困窮一色でもない、複数の相をもった姿として立ち上がる。
方法の面で本稿が示そうとしたのは、願書という一種類の史料を、伝承・文書記載・推定・未確認の各層に腑分けして読む手続きである。「文書にそう書いてある」ことと「それが史実である」こととを地続きにせず、確度の勾配を保ったまま記述する。この禁欲的な手続きこそが、素材の乏しい在地寺院の近世を、後世の調べものに耐える形で書き留める方途だと考える。派手な物語を急いで組み立てるより、確かなことと不確かなことの境界を丁寧に引くほうが、結局は寺の歴史を長く支える。
残された課題も明記しておく。第一に、「御恐書付を以奉願上候」の個々の願書について、年月日・宛先・裁定の結果を、翻刻と役所側の史料との照合によって確定する作業。第二に、天竜川の水害年次と寺の嘆願の時期を突き合わせ、未確認の因果を検証する作業。第三に、池田船頭衆や豊田山薬師堂の朱印状と併せ、天竜川左岸の「家康由緒」の全体を一つの近世史として描く作業である。これらはいずれも、本稿が引いた確度の層を、未確認から史実へと一歩ずつ押し上げていく作業に属する。熊野御前の伝説と近世文書という二つの系統を架橋する試みは、稿を改めて論じたい。
注
- 豊田郷土を研究する会編『熊野ものがたり』平成21年(2009年)所収「御恐書付を以奉願上候」(pp.42-47)による。本稿における当該文書の内容・書式に関する記述は、この刊本の翻刻・紹介に依拠する。↩
- 「恐れながら書付を以て願い上げ奉り候」は、江戸期に百姓・寺社が領主や役所へ願い出るさいに用いた定型の書式であり、上位権力に宛てた嘆願(願書)であることを示す。↩
- 朱印地は、将軍が朱印状によって寺社に安堵した領地で、その地の年貢が免除される。将軍の代替わりごとに、新たな朱印状による継目安堵を受け直す必要があった。↩
- 慶長8年(1603年)は、家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開いた年にあたる。全国の寺社領の一斉安堵が制度として本格化するのは、この前後から三代家光期にかけてである。↩
- 天竜川の氾濫と治水の経過については、磐田物語「天竜川の治水年表」(r027)および「天竜川の地形と歴史」(r024)を参照。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 t037「行興寺の近世史 ── 徳川家康の伝承と朱印地の古文書」の主題を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。家康寄進を伝承、願書の文言を文書記載の事実、朱印地保持を推定として区別し、「未確認」と「記載なし」を一貫して分けて扱った。
参考文献・参考資料
- 豊田郷土を研究する会編『熊野ものがたり』平成21年(2009年)3月31日発行(「御恐書付を以奉願上候」pp.42-47)。
- 行興寺蔵「御恐書付を以奉願上候」。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、近世の該当章)。
- 静岡県編『静岡県史』通史編・近世(該当章)。
- 寺社領安堵制度・朱印地/黒印地に関する近世史研究の概説(幕府の寺社領政策の該当章)。
- 近世在地寺院の財政・嘆願文書に関する研究の概説(願書・訴願史料論の該当章)。
- 磐田物語「行興寺の近世史 ── 徳川家康の伝承と朱印地の古文書」(t037) https://iwata-monogatari.net/t037.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語「行興寺と熊野(ゆや)の長藤」(t002) https://iwata-monogatari.net/t002.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語「船頭自治と徳川家康の朱印状」(t017) https://iwata-monogatari.net/t017.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語「豊田山薬師堂 ── 坂上田村麻呂の伝承と40石の朱印地」(t064) https://iwata-monogatari.net/t064.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語「天竜川の治水年表」(r027) https://iwata-monogatari.net/r027.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語「天竜川の地形と歴史」(r024) https://iwata-monogatari.net/r024.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。