失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語中泉地区 / 大池事件

中泉|二之宮・水利の歴史

大池事件 ── 水をめぐる二之宮と下手六村の争い

池を使う側と、その水を受ける村々。二つの量水標石が取り決めを記憶する。

磐田市二之宮の南端にある大池は、静かな水辺である。しかし明治期、この池の利用と水位をめぐって、二之宮と下流側の村々は長い対立に入った。埋立計画、養魚設備、板堰、民事訴訟、県知事の仲裁。熊切正次『磐田ことはじめ 第一編 町内の風土記』88〜90頁と静岡県の施設資料を照合し、「大池事件」と呼ばれた水利争いをたどる。

本稿の要点
  • 大池は二之宮だけの池ではなく、下流の農業用水と結びつく水利施設だった。
  • 明治初年の埋立計画は、下手村々の反対によって取りやめになったと記録される。
  • 養魚設備と板堰を契機に対立が訴訟へ進み、明治32年(1899年)に県知事の仲裁で和解した。
  • 和解後の水位調整に用いた二つの量水標石のうち、一つが鹿苑神社境内に現存する。

池を残すか、耕地にするか

同書は、大池を「往古の大之浦の名残」と伝える。ただし、これは地域に残る地形伝承であり、池の成立年代を直接証明するものではない。確認できる記録としては、宝暦5年(1755年)から二之宮村の百姓が周辺を開発し、池として残った部分が二町歩余りあったとされる。

明治元年(1868年)、駿府藩は大池の半分を埋め立てて耕地にする計画を立てた。ところが池の水を必要とする下手の村々が反対し、計画は取りやめになったという。池の所有や所在地だけを見れば二之宮の問題に見えるが、水は村境を越えて流れる。大池の扱いは、下流の田畑にとっても切実だった。

時期出来事意味
宝暦5年(1755年)以後二之宮村の百姓が周辺を開発耕地化と池の維持が並行する
明治元年(1868年)駿府藩が池の半分の埋立を計画下手村々の反対で中止
明治期二之宮が池中に養魚設備を設置大原など六村が撤去を要求
明治28年(1895年)久保川に板堰を設置したと記録妨害解除を求める民事訴訟へ
明治32年(1899年)県知事の仲裁で和解量水基準標による水位調整へ

埋立計画が消えた後、二之宮側は大池を養魚場として利用しようとし、池の中に設備を設けた。これに対し、大原など下手六村は設備の撤去を申し入れたが拒まれ、双方の衝突が始まったと同書は記す。

さらに明治28年、二之宮側が大池に流入する久保川へ板堰を設けたことから、六村は妨害解除を求めて静岡地方裁判所浜松支部へ民事訴訟を起こした。控訴・上告が繰り返され、県・郡の行政官、近隣町村長、地方の有力者らが調停しても、すぐには決着しなかったという。

争点は「魚を飼うか、米を作るか」という産業の違いだけではない。池の水位を高く保ちたい側と、必要な時期に下流へ水を流してほしい側では、同じ水面を見ても望む管理が異なる。大池事件は、水の量と流す時期を共同で決める仕組みがなければ、上流と下流の利害を調整できないことを示した。

明治32年、県知事の仲裁によって和解が成立し、現地で祝賀会が開かれたとされる。以後は、中大原の水神社境内と二之宮の鹿苑神社境内に設けた量水基準標を使い、大池の水位を調節する取り決めになった。

静岡県の現在の施設案内は、二つの基準標石のうち二之宮の鹿苑神社境内の一基が残り、中大原側の標石は失われて案内碑だけが水神社境内に残ると説明している。争いの結末が文書だけでなく、石の基準として土地に刻まれた点が重要である。

史料の限界。 本稿が事件の経過に用いた『磐田ことはじめ』は1995年刊行の地域史資料であり、訴状・判決文・和解書の原本は未照合である。事件名、当事者の主張、裁判の各段階を厳密に確定するには、裁判記録や村方文書の確認が必要である。一方、量水標石の現状は静岡県の公開資料で確認した。

中泉27町内の成り立ちでは二之宮を地区全体の中に置き、磐田の低湿地に残った木の道具では水辺の土地が資料を残す条件を扱っている。また、見付と中泉、二つの中心から磐田へを読むと、大池周辺が駅前とは異なる水田・村落の履歴を持つことが分かる。

  • 原資料88〜90頁と静岡県施設資料を照合し、新規公開。

参考資料

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