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磐田物語中泉地区 / 府八幡宮の大場家

中泉人物史 / 神職・大禰宜

府八幡宮の大場家

大禰宜・神仏習合・大場重光

府八幡宮には、神主を代々務めた秋鹿家とは別に、祭祀と社務を支えた大場家がいた。江戸時代の中泉絵図には「大場図書 八幡社人」と記され、『遠淡海地志』は「下社家」と呼ぶ。本稿では、大禰宜という職、二つの系図が食い違う問題、神仏習合、幕末・明治の大場重光までを、確認できる記録と冊子の推定に分けてたどる。

1. 神主秋鹿家を支えた、もう一つの神職家

府八幡宮編・発行『府八幡宮ものがたり』によれば、大場家の屋敷は府八幡宮大鳥居の正面にあり、平成19年(2007年)の刊行時にも子孫が続いていたという。同冊子が引く江戸時代の中泉絵図には「大場図書 八幡社人」とあり、『遠淡海地志』には「下社家」と記される。少なくとも近世の大場家が、府八幡宮に仕える家として認識されていたことを示す記述である。

府八幡宮の神主を務めた秋鹿家は、神社を代表し、武家・代官としても勢力を持った。一方の大場家は、祭祀の実務や日常の社務を担った家と冊子は位置づける。社殿が兵乱で焼かれた際、『中泉町誌』が旧禰宜が神璽と神器を抱き出したと記すことも、大場家と神社の日常的な近さを伝える材料として紹介される。

記録で確認できる

中泉絵図の「大場図書 八幡社人」、地誌の「下社家」。

冊子の解釈

秋鹿家が代表、大場家が祭祀・実務を担ったという役割分担。

現時点で未確認

屋敷位置の変遷、各人物の任職期間、系図原本の関係。

2. 大禰宜とは何をする人だったのか

大場家系図には「八幡宮大禰宜」とある。「禰宜」は宮司の命を受けて祭祀に奉仕する神職であり、同冊子は大禰宜を宮司に次ぐ位置の高い職として説明する。大場家には大禰宜のほか、小禰宜、社人の記載があり、一家の内部にも役割と分け前があったことがうかがえる。

呼称位置づけ注意点
神主・宮司神社を代表する職。秋鹿家が代々務めたとされる。時代によって制度上の名称・権限は異なる。
大禰宜宮司に次ぐ上位神職。大場家の中心的な職。具体的な職掌は個別記録との照合が必要。
小禰宜・社人祭祀や社務を支える役。同名・欠字があり人物比定は慎重を要する。

冊子が紹介する系図では、大称宜の大場多仲が10石、小称宜の大場某が3石、社人の大場小三郎が3石とされる。府八幡宮の朱印高250石の一部であり、神職家の内部に役職別の収入配分があったことを示す。ただし、この数字は冊子掲載の系図に基づくため、原本の年代と記載事情を確認する必要がある。

3. 初代は誰か ── 二つの系図が一致しない

大場家の由来を考える際、もっとも大きな問題は、誰を初代とするかが確定しないことである。冊子によれば、系図は2種類あり、どちらも初代を「重高」とする。しかし一方は重高を重房の11代後とし、もう一方は重房と重高を同一人物とする。

重高は寛文3年(1663年)に没したと記される。前者を採れば初代重房は室町時代初期まで遡り、後者なら大場家の始まりは江戸初期になる。冊子自体も、江戸末期に作られた系図で、古い史料が失われて由来が分からなくなっていた可能性を述べる。

学説の整理:室町初期起源説と江戸初期起源説を現時点で裁定できない。近世に大場家が府八幡宮の神職として存在したことと、家の始まりの年代とは分けて扱う。

本稿の立場

初代の年代は断定しない。中泉絵図、地誌、棟札など年代を伴う個別史料から、確認できる人物を基準に履歴を組み直す必要がある。

4. 称宜重次に見る神仏習合

冊子は江戸時代の称宜・重次を例に、府八幡宮の神仏習合を説明する。大場図書と号し、享保9年(1724年)に京都の吉田家から神道裁許状を受け、祭典では烏帽子・狩衣を着ることを許されたという。一方、延享4年(1747年)の没後には「重次霊神」という神道的な諡と、「転運常機庵主」という仏教的な戒名の双方を持ったとされる。

この二重性は矛盾ではなく、近世の神社で神と仏が同じ空間に祀られた状況を反映する。府八幡宮には神宮寺と本地堂があり、神仏分離以前は神職家も仏教的な葬送や戒名と無縁ではなかった。神宮寺は府八幡宮と遠江国府の記憶に詳しい。

5. 橘園翁・大場重光 ── 神職から学問へ

幕末から明治にかけて、大場家から重光が現れる。社務所南側には、明治24年(1891年)に建てられた「橘園翁寿碑」があると冊子は記す。碑の説明によれば、重光は文化12年(1815年)、周平と登美子の間に生まれ、8歳で医師・江間軌斎に学び、のちに掛川の石川依平から古典を学んだ。

明治2年(1869年)には神社に奉仕しながら京都へ赴いて嘆願し、東海道近辺の式内社調査にも携わったという。明治4年(1871年)に神官の世襲制が解かれた後も府八幡宮へ戻り、神職を務めた。『中泉町誌』の「府八幡宮神職大場図書」は、この重光に当たる可能性があると冊子は推定する。

重光は小学校成立以前に寺子屋師匠も務めた。磐田の寺子屋・私塾には、府八幡宮神職の「大場図書(重光)」が境松で7〜8名を教えた例が載る。安政地震後の鳥居再建棟札にも、親の周久とともに重光の名があり、「神祇代大称宜」と記されると冊子は紹介する。

神社に仕え、古典を学び、式内社を調べ、子どもを教える。重光の歩みには、近世の神職が明治の知識人へ移っていく時間が重なる。

6. 史料をどう読むか

基礎資料は府八幡宮が平成19年(2007年)に編集・発行した『府八幡宮ものがたり』である。同冊子は『中泉町誌』『遠淡海地志』、大場家系図、棟札、寿碑を紹介するが、本稿では原本を直接照合できていない。

そこで、「絵図に記される」「冊子は推定する」「碑の説明では」と書き分けた。とりわけ、初代重高、重房との関係、歴代称宜の連続性は系図同士が食い違うため確定事項としない。今後確認したい一次史料は、系図2種の原本、吉田家神道裁許状、鳥居再建棟札、橘園翁寿碑の全文、『中泉町誌』所収絵図である。

7. 大場家関係年表

室町初期または江戸初期
大場家の始まりとされる時期。2種類の系図が一致せず確定できない。
寛文3年(1663年)
初代とされる重高が没したと系図に記される。
享保9年(1724年)
大場図書・重次が吉田家の神道裁許状を受けたとされる。
延享4年(1747年)
重次没。神道的な諡と仏教戒名の双方を持つ。
文化12年(1815年)
大場重光が生まれる。
文久元年(1861年)
鳥居再建棟札に周久・重光の名が記されたとされる。
明治2年(1869年)
重光が式内社調査などに携わったとされる。
明治24年(1891年)
橘園翁寿碑が建てられる。

参考資料

  • 府八幡宮編・発行『府八幡宮ものがたり』2007年10月1日、58〜59頁
  • 同冊子が引用する『中泉町誌』『遠淡海地志』、大場家系図、府八幡宮鳥居再建棟札、橘園翁寿碑(原本未照合)
  • 磐田物語「磐田の寺子屋・私塾」c094

更新履歴

  • 初版公開。系図の不一致と史料の限界を明記した。

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