磐田市中泉には、江戸時代前期から続く俳諧の系譜がある。その起点にあたるのが、野口在色という俳人である。在色は松尾芭蕉(桃青)と親しく交流し、その俳風は在桂・一透と弟子へ受け継がれ、後には鎌田の医師・江塚吉年が作庭したと伝わる「青楓亭」を舞台に、多くの文人が訪れる俳諧の拠点が育っていった。この系譜は明治・大正期には倉島可尹や松島十湖に受け継がれ、全国規模の俳句結社にまで発展する。
- 野口在色は江戸前期の俳人で、松尾芭蕉(桃青)と交流があったと伝わる。『俳諧解脱抄』には、在色が芭蕉に俳諧の心得を尋ねた逸話が記されている。
- 在色の没後、五十回忌にあたる明和5年(1768年)に『野口在色追善集』が編まれ、子孫や門弟らの句が収められた。
- 鎌田の医師・江塚吉年が作庭したと伝わる「青楓亭」では、享保19年(1734年)から明和9年(1772年)にかけての俳諧撰集『青楓亭撰集』(通称『歌仙紅葉』)が編まれ、遠州の俳諧に多大な影響を与えた。
- 明治・大正期には、倉島可尹(明治2年〜大正5年)や松島十湖といった宗匠が磐田の俳壇を牽引し、全国の同好の士が名簿に名を連ねる「不二俳壇」(不二俳社)が組織された。明治45年2月時点の投吟者は463人、静岡県内だけでも110人を数えた。
公式情報の整理
- 中心人物
- 野口在色(江戸前期)、倉島可尹・松島十湖(明治・大正期)
- 野口在色の墓
- 草崎
- 主な著作・撰集
- 『野口在色追善集』(明和5年/1768年)、『青楓亭撰集(歌仙紅葉)』
- 俳諧結社
- 不二俳壇(不二俳社)、投吟者463人(明治45年/1912年2月時点)
- 青楓亭
- 鎌田・江塚玄泰邸の跡地(鎌田の医師・江塚吉年が作庭と伝わる)
このページでは、磐田の俳諧の系譜を、磐田市歴史文書館 第20回企画展「遠州の俳諧〜野口在色三百回忌を迎えて〜」(平成30年/2018年1月10日〜2月28日)の資料に基づいて整理する。
野口在色と松尾芭蕉
野口在色の年齢や経歴の詳細は明らかでないが、『俳諧解脱抄』には、在色が松尾芭蕉(桃青と改める前)に俳諧の心得を尋ねたという逸話が記されている。要約すると、在色は「隠者となって俳諧の会を催したいが、その心得はあるだろうか」と芭蕉に尋ね、これに対して芭蕉が「私に取り立てて師匠と言えるほどのことはできないが、句と句をつなぐ発句の面白さについては話せることがある」といった趣旨で応じたという内容である。在色は当初、俳諧師の会に望んで入門したわけではなかったとされ、句を読み取ってもらう中で師弟の関係が生まれていった、という経緯が伝えられている。
在色の没後、五十回忌にあたる明和5年(1768年)には『野口在色追善集』が編まれた。追善集には、子孫や門弟らの句が収められ、在色の俳風が世代を超えて受け継がれていたことがうかがえる。「末の子や 恵も朽ちぬ 墓の霜」「面影も 咲きしづたへや 夢の秋」など、子や孫にあたる人々が在色を偲んで詠んだ句が伝わる。系図資料『野口家先祖伝記』には、在色に連なる一族の系譜が詳しく記録されている。
青楓亭撰集 ── 鎌田に育った俳諧の拠点
鎌田の医師・江塚吉年が作庭したと伝わる「青楓亭」は、江戸時代の医業のかたわら風雅な生活を楽しんだ吉年の屋敷にあった庭で、松や楓など36種類もの木々が植えられていたという。この庭を舞台に、享保19年(1734年)から明和9年(1772年)にかけての俳諧・漢詩・和歌をまとめた『青楓亭撰集』(通称『歌仙紅葉』)が編まれた。同書は「多くの文人墨客が訪れ、詩歌を贈答した」と評され、楓の枝を接木して仕立てた「歌仙紅葉」にちなんで名づけられている。渡辺蒙庵や太田巴静、大島蓼太など、地元の俳人だけでなく京都・大阪から東西の著名な俳人が訪れる、遠州の俳諧における一つの中心地となっていた。
明治・大正期の磐田俳壇 ── 倉島可尹と松島十湖
明治から大正にかけて、磐田の俳諧を牽引したのが倉島可尹(明治2年〜大正5年/1869〜1916年)である。可尹は嘉永2年〜大正5年に活躍した俳人で、門下で立机を許された俳人仲間からも慕われた。松島十湖(磐田市域にも影響を与えた俳人)は、磐田市城にも門人が多く、俳句活動に大きな影響を与えたと伝わる。この時代、豊田郡池田村に生まれた大橋葉蘭(明治35年/1902年〜平成5年/1993年)は、秋葉神社の奉納句会に投句し、六十六歳で濱人の跡を継いで俳誌『みづうみ』の創刊者に選ばれるなど、磐田地方の俳諧を受け継いでいった。
明治末年に「不二俳壇」(不二俳社)と称する俳句結社が組織され、全国の同好の士が名簿に名を連ねた。明治45年(1912年)2月時点の「不二俳壇投吟者名簿」によれば、投吟者463人のうち、関東が154人、東海・北陸が191人、県内内訳では磐田が26人、浜名が17人などとなっており、遠州地方を中心に広く全国から俳句が寄せられていたことがわかる。俳句募集のチラシは各地に配布され、神社への奉納俳句や公会堂の新築記念行事などにあわせて、様々な機会に俳句が募集された。
芭蕉に俳諧の心得を尋ねた在色から、鎌田の庭で歌仙を詠んだ文人たちへ。そして明治・大正には、全国から数百人が句を寄せる俳壇へ。中泉に根を張った俳諧の系譜は、三百年近い時を超えて受け継がれてきた。
参考資料
- 磐田市歴史文書館 第20回企画展「遠州の俳諧〜野口在色三百回忌を迎えて〜」図録(平成30年/2018年1月10日〜2月28日)
- 『野口家先祖伝記』(穂積利幸家蔵)、『野口在色追善集』、『青楓亭撰集(歌仙紅葉)』
- 寺田良穀『郷土俳人 野口在色と談林十百韻』(平成14年刊)
野口在色の生没年や、芭蕉との交流の詳細な時期については、企画展資料で紹介されている範囲にとどめ、それ以上の推測は行っていません。