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磐田物語見付地区 / 三本松から富士見町へ

見付|富士見町・都市形成

三本松から富士見町へ ── 区画整理がつくった戦後住宅地

眺望の町名、道路と宅地の再編、学校の新設。見付東部が住宅地になるまで。

見付東部の台地は、かつて三本松と呼ばれた。昭和23年(1948年)に富士見町へ改称され、戦後の住宅増加と富士見台土地区画整理を経て、一丁目から四丁目までの市街地へ変わった。熊切正次『磐田ことはじめ』24〜25頁と磐田市の土地区画整理資料を照合し、古い小地名が戦後的な町名と都市空間へ置き換わる過程を追う。

本稿の要点
  • 富士見町の旧称は三本松で、見付東部の台地に位置した。
  • 富士山の眺めがよいことから、昭和23年に富士見町へ改称されたと原資料は記す。
  • 磐田市資料では富士見台土地区画整理は昭和38〜51年度、面積21.1ヘクタール、換地処分は昭和46年10月12日である。
  • 住宅増加を受けて昭和55年(1980年)に富士見小学校が開校し、地域の生活圏が整った。

三本松という土地

三本松は見付宿の東側、磐田原台地の上にあった旧称である。『磐田ことはじめ』は「富士山の眺めが良いところ」だったため、昭和23年に富士見町と改称したと説明する。三本松から富士見町への変化は、目印となる松の名から、眺望と新しい住宅地の印象を前面に出す名への転換だった。

ただし、富士山を望めたという説明は地域資料の記述であり、命名決定文書を本稿で確認したわけではない。また「三本松」は見付祇園祭の御旅所名にも残るため、旧称が完全に消えたわけではない。自治会名が変わっても、祭礼や場所の呼び方には古い名前が残る。

高度経済成長期、見付東部では住宅が急増した。『磐田ことはじめ』は昭和38年に土地区画整理組合が設立され、昭和46年に事業が完成し、富士見町一丁目から四丁目に分割されたと記す。

一方、磐田市の現行資料は「富士見台」地区について、組合施行、昭和38〜51年度、面積21.1ヘクタール、換地処分は昭和46年10月12日とする。原資料の「昭和46年完成」と換地処分日は一致するが、市資料が昭和51年度までを事業期間とする理由は、組合文書を未確認のため確定できない。

時期出来事土地の変化
昭和23年(1948年)三本松から富士見町へ改称旧小地名から新しい町名へ
昭和38年(1963年)富士見台土地区画整理が始まる道路・宅地の再編
昭和46年(1971年)10月12日に換地処分一丁目〜四丁目の市街地形成
昭和51年度(1976年度)市資料上の事業最終年度事業全体の完了段階
昭和55年(1980年)富士見小学校開校人口増に対応する生活圏の整備

区画整理は、道路を直線にし宅地を作るだけでは終わらない。住民が増えれば、学校、公園、集会施設、防災設備が必要になる。原資料は、磐田北小学校の児童増加を見込み、富士見町を中心とする新学区を設けて昭和55年に富士見小学校を開校したと記す。

町名の改称、区画整理、丁目の設定、学校の開校は、別々の出来事に見える。しかし土地の側から見ると、一つの流れである。三本松という小地名で呼ばれた台地が、道路と宅地を備えた富士見町になり、そこで暮らす子どもたちの学校が必要になった。

富士見町は、宿場町の東坂よりさらに東の台地に広がる。旧東海道の町並をそのまま延ばしたのではなく、自動車交通と住宅地に適した区画を新たに作った。そのため見付の中でも、宿町・馬場町の細長い町割りとは異なる景観を持つ。

見付26町内の町名変遷では三本松を26町内全体の改称史に置き、磐田市見付の歴史と町内案内では富士見町を見付東部の住宅地として位置づける。古い町並との比較には明治42年、見付の町の中枢、道路整備の現在には見付・中泉の生活道路改良がつながる。

資料間の差。 1995年刊行資料は昭和46年を事業完成と記し、磐田市の現行一覧は施行年度を昭和38〜51年度、換地処分を昭和46年とする。本稿では両方を併記し、「自治会・丁目の成立」「換地処分」「事業全体の終了」を同じ日付として扱わない。刊行資料掲載の人口値は歴史的な時点情報であるため、現在の人口説明には用いていない。

  • 原資料24〜25頁と磐田市土地区画整理資料を照合し、新規公開。

参考資料

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