旧赤松家と、
海をわたった見付の人
まず押さえたい事実
- 旧赤松家は、海軍中将・男爵の赤松則良の邸宅跡で、現在は旧赤松家記念館として公開されている。
- 磐田市公式ページは、赤松則良を「近代日本の造船技術の先駆者」とし、明治期に磐田原台地に茶園を開拓した人物と説明している。
- 明治20年代に建てられた門・塀・土蔵が残り、門・塀は県指定文化財、土蔵を含む建物群は県・市の指定文化財として扱われている。
- 磐田市文化財課の説明では、赤松は幕臣として咸臨丸で渡米し、オランダ留学を経て、明治政府のもとで造船技術者として功績をあげた。
見付宿の北側、河原町のあたりを歩くと、ふいに赤レンガの構えが目に入る。明治の洋風建築を思わせる、堂々とした門と塀。その奥に、土蔵や庭園がひろがっている。これが旧赤松家、今は記念館として公開されている場所である。旧見付学校の白い校舎とはまた違った、重厚な明治の空気が、ここには流れている。
赤レンガの門が残るまち
旧赤松家でまず目をひくのは、なんといっても赤レンガの門・塀・土蔵である。明治二十年代に建てられたこれらの建物は、明治建築の特徴をよく今に伝えており、近代建築としての価値が高い。県と市の指定文化財になっている。レンガ造りの門をくぐると、よく手入れされた庭園があり、その奥に記念館が建つ。木造の旧見付学校とはまた違う、レンガと洋風意匠の取り合わせが、文明開化の時代の気分を感じさせる。
この邸を築いたのが、赤松則良という人物である。海軍中将、そして男爵。近代日本の造船技術の先駆者として知られる。だが、この人の名は、磐田の人にもそれほど広くは知られていないかもしれない。けれど、その生涯をたどると、幕末から明治へという、日本がもっとも大きく変わった時代の、まさにど真ん中を生きた人だったことがわかる。
| 場所 | 磐田市見付の旧赤松家記念館。見付宿の北側、河原町北バス停近くに位置する。 |
|---|---|
| 人物 | 赤松則良。幕臣として咸臨丸で渡米し、オランダ留学を経て、明治政府下で造船技術者・海軍軍人として活動した。 |
| 建物 | 明治20年代の門・塀・土蔵が残る。赤レンガを巧みに積み上げた門・塀が、明治の面影を伝える。 |
| 文化財 | 磐田市公式の県指定文化財一覧では「旧赤松家門・塀」として紹介される。記念館ページでは門・塀・土蔵が県・市指定文化財と説明されている。 |
| 現在 | 平成16年8月に記念館がオープン。赤松家ゆかりの文化財や寄贈資料を展示している。 |
咸臨丸で、太平洋をわたる
赤松則良が歴史の表舞台に現れるのは、幕末のことである。安政の末、日本はアメリカと結んだ修好通商条約の批准書を交換するため、使節を派遣することになった。その随行艦として、太平洋をわたったのが、あの有名な咸臨丸である。勝海舟や福澤諭吉が乗っていたことで知られるこの船に、則良も乗り組んでいた。ときに、わずか十九歳だったという。
サンフランシスコへの航海は、嵐にもまれる、命がけの旅だった。当時の日本人にとって、太平洋をわたって異国へ行くなど、想像を絶することである。その船に、二十歳にも満たない青年が乗っていた。則良が、いかに早くから将来を嘱望された俊英だったかが、うかがえる。さらに彼は、帰国後ふたたび海をわたり、オランダへ留学する。そこで、近代海軍の要である造船の技術を、本格的に学んだのである。
幕末という時代は、こうした若者たちの好奇心と気概によって、動いていった。古い体制が崩れ、新しい国の形を、誰も知らないまま手探りでつくっていく。その最前線に、海の向こうの技術を持ち帰る役目を担った青年たちがいた。赤松則良も、その一人だったのである。
ここで大切なのは、咸臨丸の名前だけで赤松を語り切らないことである。咸臨丸の渡米は、赤松の長い経歴の入口にすぎない。市公式の文化財解説が重視しているのは、渡米、オランダ留学、明治政府下での造船技術、そして見付での屋敷と磐田原開拓が一つの線でつながる点である。旧赤松家は、単に「有名人が住んだ家」ではなく、幕末の海外経験と明治の技術導入が、見付という土地に着地した場所として読む必要がある。
近代日本の海軍を、つくる
明治の世になると、則良は新政府のもとで、その学びを存分に発揮する。日本がこれから近代国家として立っていくには、強い海軍が要る。そして海軍には、軍艦を自分たちでつくり、修理し、維持する技術が欠かせない。則良は、その造船技術の先駆者として活躍した。横須賀をはじめとする造船の現場で、彼の学んだ知識が活かされていったのである。やがて海軍中将にのぼり、男爵の位も授けられた。
世界を見て、最先端の技術を持ち帰り、近代国家の屋台骨づくりに身を投じる――。則良の生涯は、激動の時代を、まさに駆けぬけたものだった。咸臨丸の青年は、日本の海軍を支える重鎮へと成長していったのである。
赤松則良の経歴と、見付に残る痕跡
赤松則良の経歴は、幕末・明治の大きな転換を映している。幕臣として学び、海を渡り、海外の技術を吸収し、明治政府のもとで近代海軍・造船の仕事に関わった。その人物が、公職を退いたのちに見付へ戻り、屋敷を築いた。磐田市文化財課の説明では、徳川家を慕って見付に居を構え、その一族や代理人の手によって磐田原の開拓が進められたとされる。
この一文は、旧赤松家を読むうえで重要である。赤松則良の晩年は、単なる隠居ではない。磐田原台地の茶園開拓という土地利用の歴史にも関わっている。海軍・造船という国家規模の仕事をしてきた人物が、晩年には台地の開拓と地域の産業に関わる。旧赤松家の門・塀・土蔵は、その転換を物語る物証でもある。
世界を見た人が、見付を選ぶ
そして、ここからが、磐田にとって大切なところである。これだけの経歴をもつ人物が、公職を退いたあと、晩年を過ごす地として選んだのが、見付だった。明治二十五年(1892年)に予備役となった則良は、翌年、本籍を見付に移し、この邸を築いた。世界をその目で見た人が、最後に腰を落ちつけたのが、東海道の宿場町・見付だったのである。
なぜ見付だったのか。則良は、この邸を構えるとともに、磐田原台地に茶園を開拓したと伝えられる。海軍の重鎮が、晩年には茶づくりに取り組んだ。激しく動いた前半生のあとに、この土地の静けさと、土に向き合う暮らしを求めたのかもしれない。世界を駆けた人が、遠江の落ちついたまちで余生を送る。その選択そのものが、見付という土地のもつ、ある種の懐の深さを物語っているように思う。
則良が開いた茶園は、その後の磐田原のお茶づくりにもつながっていく。一人の人物の晩年の営みが、土地の産業の歴史に、そっと根を残している。旧赤松家は、ただ一人の偉人の邸宅というだけでなく、その人を受け入れ、その営みを育てた、まちの記憶の場でもあるのだ。
なぜ門と塀が重要なのか
旧赤松家の文化財としての中心は、残された赤レンガの門・塀である。磐田市公式の県指定文化財ページは、門や塀について「レンガを巧みに積み上げたもの」と説明し、明治の面影を残す記念物として、県や市の文化財に指定されているとする。建物全体がそのまま完全に残っているわけではないからこそ、門・塀・土蔵が、屋敷の構えと時代の空気を伝える手がかりになる。
赤レンガは、旧見付学校の白い木造校舎とは違う種類の近代性を見せる。旧見付学校は、教育制度と地域の学びを象徴する建物である。一方、旧赤松家のレンガは、幕末に海外へ出た人物が、明治の技術と美意識を背景に見付へ構えた邸宅の表情を伝える。見付には、宿場町、学校、寺社、近代住宅が重なっている。その重なりを歩いて感じられる点に、旧赤松家の価値がある。
訪ねるときに見るポイント
旧赤松家記念館は入館無料で、磐田市公式の施設案内では火曜から日曜の午前9時から午後4時30分まで利用できるとされる。休館日は月曜、祝日の翌日、年末年始などで、訪問前には最新の開館情報を確認したい。アクセスは、JR磐田駅前バスターミナルから遠鉄バス「二俣山東行き」に乗り、「河原町北」下車徒歩1分と案内されている。
現地では、まず道路側から門と塀の連なりを見る。次に、レンガの積み方、土蔵との位置関係、庭園の奥行きを見る。記念館では、赤松家ゆかりの文化財や寄贈資料を通して、赤松則良を「咸臨丸の一場面」だけでなく、見付に暮らした人物として捉え直すことができる。
次の世代へ、手渡したいもの
旧赤松家は、ただの古い洋館なのではない。ここは、幕末に世界へ飛び出し、近代日本の海軍を築いた一人の人物が、最後に選んだ場所である。赤レンガの門の向こうには、太平洋をわたった青年の物語と、晩年に土と向き合った穏やかな日々とが、ともに息づいている。
歴史というと、教科書に載る大きな出来事ばかりに目がいく。けれど、その大きな歴史をつくった人が、たしかにこの見付に暮らし、ここで人生を閉じた。咸臨丸という日本史の一場面と、見付という足もとの土地とが、赤松則良という一人の人物を通じて、つながっている。そのことに気づくと、まちの見え方が少し変わる。
赤レンガの門の前を通るとき、隣にいる人に伝えてみる。「ここに住んでいた人はね、昔、咸臨丸っていう船で、アメリカまで行ったんだよ」と。何気ない明治の洋館が、急に、大きな海と時代につながった場所に見えてくる。次の世代へ残したいのは、そういう「足もとと世界がつながっている」という感覚なのだと思う。
主な参考・裏づけ
- 磐田市公式ウェブサイト「施設ガイド 旧赤松家記念館」:概要、所在地、開館情報、展示内容。
- 磐田市公式ウェブサイト「旧赤松家門・塀」:県指定文化財としての説明、赤松則良の経歴、門・塀・土蔵の説明。
- 磐田市公式ウェブサイト「旧赤松家だより」:旧赤松家の展示・季節行事に関する継続的な情報。
- 本記事は、上記の公的情報をもとに、見付の地域史として読み直したもの。本文中の考察は磐田物語の整理であり、事実関係は市公式資料に基づいて確認した。
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