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LOCAL HISTORY | 福田の先覚者たち ⑨

寺田范三 — 教育一筋に生きた努力の人

遠州灘に近い豊浜の村に生まれ、小学校の代用教員からはじめて、働きながら学び続け、やがて文学博士となり高等学校の教授にまで至った人物がいる。寺田范三である。学制が地域に根づいていく時代に、ひとつずつ資格と学問を積み上げていったその歩みは、まさに「努力の人」と呼ぶにふさわしい。福田町教育委員会が昭和55年(1980年)に編んだ『郷土の先覚者たち 第一集』が伝える、この教育者の生涯をたどる。
本ページは、公開資料・地域資料をもとに磐田物語が独自に整理した地域史コンテンツであり、行政機関の公式ページではない。原資料の本文をそのまま引き写したものではなく、内容は独自の言葉で再構成している。人名・地名・年号は資料で確認できる範囲を軸とし、判読に迷う箇所は「[要確認]」と記して残した。とりわけ姓の表記・学位授与の年・勤務校の正式名称には判読に迷う部分があり、その旨を本文中に示している。

寺田范三という教育者

『郷土の先覚者たち 第一集』のなかで寺田范三を語る章には、一枚の挿絵が添えられている。和服を着た老人が、ひとり机に向かい、書を広げて読みふけっている姿である。背後には床の間や巻物が描かれ、学問に囲まれた人物であることが一目で伝わる。派手な事業を起こしたわけでも、大きな役職で名をとどろかせたわけでもない。けれども資料は、この地道に書を読み続けた人を「努力の人」として、福田の先覚者の一人に数えている。

范三は、明治24年(1891年)に豊浜村(現在の磐田市豊浜)の生まれと記される。資料には「字三六番地」といった具体的な生地の番地まで添えられ、遠州灘に面した砂地の漁村に根を持つ人だったことがわかる。幼くして母を亡くし、養子としての縁組みもあったらしいことが、年譜のなかにうかがえる。決して恵まれた出発ではなかったが、そこから学問の世界へと長い距離を歩いていったところに、この人の生涯の芯がある。

晩年の范三は「羊山」という号を用いた。資料には「精誠家を潤す」と読める一幅の書や、漢詩の句を記した軸が紹介されており、漢学・漢詩の素養が深かったことを物語っている。教える側に立ちながら、自らも生涯にわたって学び、書をよくする人であり続けた。教育者であると同時に、一人の学究の徒だったといえる。

主な分野
学校教育・物理化学・哲学/のち文学博士
生まれ
明治24年(1891年)/豊浜村(現在の磐田市豊浜)[番地の細部は要確認]
羊山(ようざん)[読み要確認]
姓の表記
章の見出しは「寺田范三」。一方で本人の教員免許状・卒業証書には「堀江范三」と記されており、改姓または養子縁組による表記の異同があるとみられる。[要確認]
関係地
豊浜・寺溝(福田)/のち見付・静岡・東京・京都・北京
出典
『郷土の先覚者たち 第一集』(福田町教育委員会、1980年)

なお、章の見出しと年譜では「寺田范三」と表記されるが、資料に図版として載る本人の小学校教員免許状や東京高等師範学校・静岡師範学校の卒業証書には「堀江范三」の名がある。生家の姓と、後に名乗った姓とが異なっていた可能性が高く、幼少期の養子縁組とも関わるとみられるが、どちらが本姓でいつ改めたのかまでは資料からは確定できない。本ページでは見出しに従って「寺田范三」と記しつつ、この異同を[要確認]として残しておく。

砂地の村から学問の道へ

范三の歩みでまず驚かされるのは、その学びの長さである。資料に載る年譜をたどると、彼は一足飛びに高等教育へ進んだわけではない。豊浜の村から寺溝尋常小学校(福田)に通い、明治31年(1898年)に同校を卒業、明治33年(1900年)には高等科を終えている。ここまでは、当時の村の子どもの一般的な学歴である。

転機は、教える側に立ったことだった。明治30年代の終わりごろ、范三は地元の高等小学校で訓導の職に就き、明治39年(1906年)には小学校教員の免許を得ている。資料に図版として載る「小学校教員免許状」が、その出発点を物語る。学校で子どもを教えながら、自分自身もまだ学び続ける――その二重の歩みが、ここからはじまる。

明治44年(1911年)には静岡県師範学校を卒業し、教員としての正規の資格を固めた。だが范三の学びはそこで止まらない。大正期に入ると、大日本農学会の通信教育、東京物理学校、そして大正12年(1923年)には東京高等師範学校を卒業し、物理化学を専門として身につけていく。理科系の教員として、当時最先端の知識を働きながら吸収していったことになる。

さらに大正末から昭和にかけて、范三は文系の学問へも踏み込んでいく。京都帝国大学文学部の哲学科に選科生として学び、昭和5年(1930年)ごろには北京へ留学して、古代中国哲学(支那哲学)の研究に取り組んだと記される。理科の教員でありながら、東洋哲学にまで分け入っていったその振れ幅の大きさは、尋常のものではない。そして昭和25年(1950年)ごろ、ついに文学博士の学位を授けられる。資料には「文学博士学位記」の写真も掲げられている。[学位授与の年・大学名は要確認]

1891 豊浜に 生まれる 1906 小学校教員 免許 1911 静岡県 師範学校卒 1923 東京高等 師範学校卒 1930頃 北京留学 哲学研究 1950頃 文学博士 [要確認] 代用教員から文学博士まで ── 寺田范三の歩み 小学校で教えながら、生涯にわたって学び続けた
年表は資料の略歴をもとに磐田物語が作成した模式図(年の一部は判読に迷うため[要確認])。小学校の現場に立ちながら師範学校・物理学校・大学・留学と学びを重ね、最後に文学博士へと至った歩みを示す。

「努力の人」という人物像

資料が范三を語るときの鍵になる言葉は、「努力」である。本文には、長い間の努力がついに実を結んだ、という趣旨の一節が置かれている。華やかな成功譚としてではなく、地道な積み重ねの果実として、彼の博士号や教授職が語られているところに、この章の性格がよくあらわれている。

その歩みを年譜で追えば、なぜ「努力の人」と呼ばれたのかがよくわかる。十代で小学校を出て、二十歳前から教壇に立ち、給料を得て働きながら、夜や合間に学び続けた。師範学校、物理学校、大学の選科、留学――そのどれもが、すでに職を持つ大人が、改めて学び直すために選んだ道である。一度学校を出てしまえばそこで学びは終わる、という生き方を、范三はとらなかった。

豊浜の砂地の村に生まれ、決して豊かではない出発から、独学にも近い努力で学問の高みに登っていったこと。それは、家柄や財力ではなく、本人の意志と粘りによって人生が押し開かれていく姿である。挿絵に描かれた、ひとり机に向かう老人の後ろ姿は、その長い努力のすべてを背負っている。福田の人びとが范三を先覚者の一人に選んだのは、彼の肩書きそのものよりも、この「学び続ける姿勢」そのものを、子どもたちに伝えたかったからだろう。

長い間の努力が、ついに実を結ぶ。書を読み、学び続けることをやめなかった人の生涯が、そう語りかけてくる。 ── 『郷土の先覚者たち 第一集』寺田范三の章を読んで(趣意の再構成)

学校が地域に根づく時代の教育

范三が教員になった明治30年代から40年代は、日本の学校制度がようやく地域の隅々まで根を下ろしていく時期にあたる。明治5年(1872年)の学制発布、明治19年(1886年)の小学校令、そして明治40年(1907年)には義務教育が6年に延びる――こうした制度の整備が進むなかで、村々には尋常小学校・高等小学校が置かれ、子どもたちがそろって学校に通うことが当たり前になっていった。

その現場を担ったのが、范三のような地元出身の教員である。当時は、教員養成の制度もまだ十分でなく、代用教員として教壇に立ちながら、働いて得た資格で正規の訓導へと進む者が多かった。范三が小学校教員免許を得てから静岡県師範学校を卒業するまでの歩みは、まさにこの時代の教員の典型でもあった。学校が地域に根づくということは、こうして地元の人間が教える側に回り、次の世代を育てていく循環が生まれることでもあった。

范三はやがて、磐田郡見付の高等小学校で訓導を務めたのち、東京物理学校・東京高等師範学校で学び直し、理科の専門教員へと専門性を高めていく。そして昭和期には、東京府立の高等学校(現在の大学にあたる教育機関と記される)や青山師範学校で教授・教員養成にあたったとされる。[勤務校の正式名称・現在の対応校は要確認]。村の小学校から、教員を育てる側へ。彼の経歴は、地域に学校が根づいた時代から、その学校を担う先生をどう養うかという次の段階へと、教育が成熟していく過程を一身に映している。

福田の教育史の系譜のなかで

寺田范三を、福田の教育史という長い流れのなかに置いてみると、その位置がはっきりしてくる。『郷土の先覚者たち』には、范三のほかにも教育や学問に関わる人びとが並ぶ。明治の学制より前から村で寺子屋を開いていた大庭八郎助、漢学を究めた大竹萬吉[要確認]、俳諧を地域に伝えた早苗庵知何[要確認]。読み書き・そろばんを教えた寺子屋、漢詩漢文の素養、文芸の手ほどき――近代の学校が来る前から、福田には人を育てようとする営みが、いくつもの形で続いていた。

范三は、その流れを近代の学校制度のなかで引き受けた人だといえる。彼自身、号を「羊山」と称し、漢詩漢文をよくした。寺子屋・漢学という旧来の学びの素地のうえに、師範学校・物理学校・大学という近代の高等教育を接ぎ木し、最後は哲学の研究で文学博士に至った。古い学問と新しい学問の両方を身につけた点で、范三は福田の教育史の節目に立つ人物である。

遠州灘に面した福田・豊浜は、強い季節風と飛砂、荒い波と向き合いながら、漁業や砂防、織物や温室園芸で暮らしを立ててきた村である。そうした生活に追われる土地から、働きながら学び続けて学問の高みに登った人が出たということ自体に、この地域の教育への思いの強さがにじむ。砂地の村は、海と砂を相手にする仕事だけでなく、人を育てる仕事にも長い時間をかけてきた。寺田范三の生涯は、その積み重ねがたしかに実を結んだひとつの証として、福田の記憶のなかに刻まれている。

参考資料

  • 福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』福田町教育委員会、昭和55年(1980年)11月15日発行。「寺田范三 ── 教育一筋に生きた努力の人」の章および巻末の略歴・図版(学位記・免許状・卒業証書・自筆の書幅)による。

本ページは上記資料をもとに、磐田物語が独自に整理・再構成した地域史コンテンツである。本文の丸写しではなく、人名・地名・年号は資料で確認できる範囲を軸とし、判読に迷う箇所は「[要確認]」と記している。とくに姓の表記(寺田/堀江)、文学博士の学位授与の年、勤務した高等学校の正式名称と現在の対応校については、原資料の判読が難しく確証を得られていない。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。

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