失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
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LOCAL HISTORY | 福田の先覚者たち ①

大庭八郎助 — 学制以前の福田を支えた寺子屋の師

明治5年(1872年)に学制が発布され、全国に小学校が置かれていく。その制度がまだなかった時代に、福田の村では一軒の寺子屋がひらかれていた。師は大庭八郎助。手本を自ら書き、読み書きとそろばんを教え、月並みの清書を貼り出して子どもの励みにした。学校が来る前の福田で、村の「学び」を内側から支えた一人である。『郷土の先覚者たち 第一集』の最初に置かれたこの人物から、海辺の村の教育の原風景をたどる。
本ページは、公開資料・地域資料をもとに磐田物語が独自に整理した地域史コンテンツであり、行政機関の公式ページではない。原資料の本文をそのまま引き写したものではなく、内容は独自の言葉で再構成している。人名・地名・年号は資料で確認できる範囲を軸とし、判読に迷う箇所は「[要確認]」と記して残した。
人物
大庭八郎助(おおば はちろうすけ)。地域では「八郎」とも呼ばれた。
時代
幕末〜明治。寺子屋は明治5年(1872年)の学制発布より前から開かれていた。
関係地
福田の村(現在の静岡県磐田市福田地区)。
分野
教育(寺子屋・手習い・そろばん)。村役・庄屋層との関わり。
遺構
「八郎塾の墓碑」と伝える石碑の写真が資料に収められている。
出典
福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』福田町教育委員会、昭和55年(1980年)。

大庭八郎助という人

『郷土の先覚者たち 第一集』は、福田の発展に関わった人びとを11の項目で紹介する冊子である。その先頭、「郷土の教育をもり上げた人」として置かれているのが大庭八郎助だ。冊子の構成そのものが、福田というまちがまず「教育」から語りはじめられていることを示している。

八郎助は、明治5年(1872年)の学制が発布される以前から、福田の村で寺子屋を開いていた人物として描かれる。生没年や家系の細部までは資料からは確かめにくいが[要確認]、村のなかで読み書きを教える役割を担い、子どもたちや親から「先生」として頼られていたことが、いくつもの逸話から伝わってくる。本文には「八郎先生」「八郎塾」といった呼び方がみえ、地域では名と塾が一体のものとして記憶されていたらしい。

資料に添えられた写真には、「八郎塾の墓碑」と伝える石碑が写っている。塾そのものはとうに失われても、師の名を刻んだ石が村に残されたという事実が、八郎助という人がどれほど地域に大切にされてきたかを物語る。学者として書を著したわけでも、官に出て名を上げたわけでもない。それでも、村の子を一人ひとり育てた仕事が、石碑となって後の世に手渡されている。

学制以前の学び ── 寺子屋という場

明治5年(1872年)の学制発布は、日本に近代的な学校制度を一気に持ち込んだ出来事として知られる。だが、それ以前の日本がまったくの無学だったわけではない。江戸時代を通じて、町や村には寺子屋(手習所)という民間の学びの場が無数にあり、庶民の子に読み書きそろばんを授けていた。遠州一帯も例外ではなく、福田のような海辺の村にも、こうした学びの拠点が存在していた。

寺子屋では、寺子(子ども)が師匠のもとに通い、年齢も学びの進み具合もまちまちなまま、同じ部屋で学んだ。教材になったのは「往来物」と呼ばれる手紙文の手本や、地名・人名・商いの用語などを並べた教科書で、子どもはそれを繰り返し書き写しながら文字と語彙を覚えていった。決まった学年も卒業もなく、一人ひとりの呑み込みに合わせて進むのが寺子屋の学びだった。

八郎助の寺子屋も、この江戸以来の手習いの系譜のうえにある。海と砂地に向き合って暮らす福田の村で、漁や農の合間に子を通わせ、文字とそろばんを身につけさせる。読み書きができれば、証文を読み、帳面をつけ、よその村や町と取引ができる。海辺の村の生計にとって、寺子屋の学びは決して飾りではなく、暮らしを立てるための実用の技だった。

手本・そろばん・清書の貼り出し

資料が伝える八郎助の教え方は、寺子屋の典型をよく示している。八郎助は子どもに渡す手本を自ら筆で書いた。市販の手本に頼るのではなく、寺子一人ひとりに合わせて文字を書き与え、それをなぞらせ、書き写させて学ばせたという。師の手から生まれた文字が、そのまま子の手本になる。手習いの教育が、いかに師匠個人の力量に支えられていたかがうかがえる。

教えられたのは、読み書きとそろばんである。文字を読み、書き、数を数え、勘定する。これは商いや日々の暮らしに直に役立つ、生活に密着した学びだった。資料には、八郎助が子どもの気持ちをよくつかみ、楽しみながら学べるよう工夫した師であったことがうかがえる記述がある。机に向かう手習いだけでなく、節句の行事や遊びを織りまぜて、子どもが通うのを苦にしないようにした様子も語られている。

なかでも印象的なのが、清書の貼り出しである。八郎助は、月並み(毎月決まった日)に寺子の清書を取り、よく書けたものを塾に貼り出した。自分の字が貼られれば子どもは嬉しく、次はもっと上手にと励む。互いの字を見比べ、競い合いながら腕を上げていく。点数や順位で縛るのではなく、ほめて伸ばすこの工夫が、寺子たちの励みになっていたという。手習いという地味な学びを、子どもが前向きに続けられる場へと変える、師の細やかな心くばりがそこにある。

八郎助の寺子屋 ── 学びの流れ(模式図) 師が手本を書く 寺子に合わせ 自ら筆で なぞり・写し 読み書き そろばん 月並みの清書 毎月決まった日 に書き取る 貼り出し よい字をほめ 励みにする 寺子は二、三十人ほど。年齢も進み具合もまちまちなまま、同じ場で学んだ。
八郎助の寺子屋における学びの流れを示す模式図(磐田物語による自作)。資料の記述をもとに整理したもので、図そのものは当時の様子を正確に再現するものではない。

村が「学び」を支えた ── 庄屋・村役と寺子屋

寺子屋は、行政が作った学校ではない。師匠が自分の家や借りた一室を教場にし、村の子を受け入れて成り立っていた。八郎助の塾も、村のなかに自然と生まれた学びの場だった。資料は、こうした寺子屋が庄屋や村役といった村の世話役層と関わりながら営まれていた様子を伝えている。読み書きそろばんは、年貢の帳面や証文を扱う庄屋・村役の仕事に欠かせず、村を治める側にとっても、村の子に読み書きが行きわたることは大切だったのである。

八郎助の寺子は、二、三十人ほどだったと記される。一軒の塾としては相応の数で、海辺の村に確かな学びの需要があったことを示している。子を寺子屋へ通わせるのは親であり、その親をまとめ、村の運営を担ったのが庄屋・村役層だった。八郎助という一人の師の働きは、村ぐるみで子を育てようとする土壌のうえに支えられていた。同じ冊子に並ぶ幕末の庄屋や、漢学・俳諧の人びとと合わせて読むと、海と砂地に向き合う福田の村が、その内側に学びと文化の層を着実に育てていたことが見えてくる。

ここに、福田の教育を考えるときの大事な視点がある。学校は外から「与えられた」ものだが、寺子屋は村が自分たちで「用意した」ものだった。八郎助の塾は、近代学校が来る前に、地域の側がすでに人を育てる仕組みを持っていたことの証である。福田の教育史は、明治5年(1872年)の学校開設から始まるのではなく、その手前の、村が自前で学びを支えた長い時間から始まっている。

学制発布と寺子屋の終わり

明治5年(1872年)、政府は学制を発布し、全国を学区に分けて小学校を置く方針を打ち出した。身分や男女を問わず、すべての子に学校教育をという理念のもと、村々にも小学校が設けられていく。福田の地でも、ほどなく近代的な学校が産声を上げることになる。

新しい学校制度のもとで、八郎助の寺子屋のような民間の手習所は、しだいにその役目を学校へ譲っていった。これは全国の寺子屋がたどった道でもある。各地で、寺子屋の師匠が新しくできた小学校の教員に転じたり、それまで通っていた寺子がそのまま小学校の児童になったりして、寺子屋の蓄積は近代学校へと受け継がれていった。福田で八郎助の塾がどのように学校へ移り変わったかの詳細は資料からは追いきれないが[要確認]、村が育てた学びの土台があったからこそ、新しい学校もすみやかに根づくことができたと考えてよい。

師から子へ手渡された手本、清書を貼り出してほめる工夫、楽しみながら学ばせる心くばり。八郎助が一軒の塾で積み重ねたものは、制度が変わっても消えはしなかった。学校という器は新しくなっても、そこで子を育てる営みの核には、寺子屋以来の手習いの精神が流れていたといえる。

いまの福田に残る教育の原風景

現在の磐田市福田地区は、別珍(綿ビロード)織物や遠州灘のシラス漁で知られる、海に近いまちである。その福田で最初に名を挙げられた先覚者が、産業でも自治でもなく、寺子屋の師・大庭八郎助だったことには意味がある。海と砂地という厳しい条件のなかで暮らしを立てるには、まず人が育たなければならない。文字を読み、数を数え、外の世界とやり取りできる力を、村は何より大事にした。八郎助の塾は、その出発点に立っている。

福田は、平成17年(2005年)に磐田市・竜洋町・豊田町・豊岡村とともに合併し、現在の磐田市の一部となった。村は町になり、町は市の一地区になった。それでも、村が自分たちの手で子を育てようとした記憶は、地名や石碑のかたちで土地に残っている。「八郎塾の墓碑」と伝える石は、その記憶を今に伝える小さな道しるべだ。

八郎助は、晩年まで子どもの教育に心を傾けた人だったと資料は伝える。学者として名を残すことよりも、村の子を一人でも多く育てることに生涯を注いだ。その地道な仕事が、のちの福田の教育の礎になっている。学制以前の福田を内側から支えた寺子屋の師の姿は、いまの磐田市福田地区の学びの原風景として、静かに記憶しておきたい一人である。

手本を自ら書き、清書を貼り出してほめる。学校が来る前の福田で、村の子を一人ひとり育てたのが、八郎助という寺子屋の師だった。 ── 『郷土の先覚者たち 第一集』「郷土の教育をもり上げた人」を読んで

参考資料

  • 福田町史編纂委員会 編『郷土の先覚者たち 第一集』福田町教育委員会、昭和55年(1980年)11月15日発行。「1 郷土の教育をもり上げた人 大庭八郎助」の項。

本ページは上記資料をもとに、磐田物語が独自に整理・再構成した地域史コンテンツである。本文の丸写しではなく、人名・年号・地名は資料で確認できる範囲を軸とし、判読に迷う箇所や資料から確定できない事項は「[要確認]」と記している。寺子屋・往来物・学制についての一般的な背景は、広く知られた歴史的事実の範囲で補った。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。

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