掛塚屋台と福田の東西組 - 二つの屋台が生まれた背景
このページの位置づけ
このページは、寺田勝彦氏編集・発行『東屋台と西屋台』(郷土史探訪別冊第三集、昭和60年11月20日発行)をもとにした分割ページです。六社神社の由緒や現代屋台の構造説明は既存記事と重なるため、ここでは冊子固有の記録を中心に扱います。
総論ページは 東屋台と西屋台 - 六社神社の秋祭りを支えた福田の二つの屋台 です。
掛塚屋台への憧れ。 冊子は、掛塚屋台を福田の屋台文化の背景として位置づける。豪華な屋台、彫刻、港町の祭礼文化は、福田にとって近くにある大きな手本であった。
祭りの文化を考えるとき、こうした「近くの手本」の存在は、とても重要である。まったく何もないところから、豪華な屋台の文化が突然生まれることはない。近くに立派な先例があり、それを目にし、憧れ、学ぶことで、文化は伝わり、根づいていく。福田にとっての掛塚は、まさにそうした身近な手本だった。天竜川の河口をはさんですぐそばにある掛塚の、絢爛たる屋台と活気ある祭礼は、福田の人々に「祭りとはこれほど豊かなものになりうるのだ」ということを、目に見える形で示していた。近くに優れた手本があったことは、福田の祭りにとって、大きな幸運だったといえるだろう。
ただし福田は、掛塚をそのまま写したわけではない。福田の道、町内のまとまり、六社神社の祭典に合わせて、別の形の屋台文化を作っていった。
掛塚は、天竜川の河口に開けた港町である。廻船問屋が軒を連ね、船で運ばれる富が集まった掛塚には、その経済力を背景に、豪華な彫刻をまとった屋台の文化が育っていた。福田は、その掛塚とすぐ近くに位置する。祭りのたびに、あるいは日々の交流のなかで、福田の若者たちは、掛塚の絢爛たる屋台を目にしていたにちがいない。「自分たちの町にも、あんな屋台がほしい」── そうした憧れが、福田の屋台文化を育てる原動力の一つとなった。文化というものは、こうして隣り合う土地から土地へと、憧れの気持ちとともに、静かに伝わり広がっていく。ただし、憧れをそのまま模倣するのではなく、自分たちの町の実情に合わせて作り変えていったところに、福田の人々の主体性がある。手本を持ちつつ、独自の道を歩む ── 福田の屋台文化は、そうして形づくられていったのである。憧れを出発点としながらも、それを自分たちのものへと消化していく力があってこそ、その土地ならではの祭りは育つのである。
西組と東組という大きな単位
現在の細かな連や町内名の前に、福田には西組と東組という大きなまとまりが意識されていた。冊子は、西組・東組の組織、役員、費用、管理のあり方に触れている。
この東西の区分は、単に地理を左右に分けたものではない。屋台を引く人、費用を出す家、世話をする役員、祭りの進行を支える若者たちを束ねる単位であった。
「組」という言葉は、地縁で結ばれた人々のまとまりを指す。福田では、町全体が西組と東組という二つの大きなまとまりに分かれ、それぞれが一台の屋台を支えていた。屋台を引く人手を出し合い、費用を分担し、役員が全体を取り仕切る ── そうした運営のすべてが、この組という単位を通じて行われた。つまり東西組とは、屋台という一つの祭りの装置を維持し、動かしていくための、地域の組織そのものだったのである。つまり、屋台を語ることは、とりもなおさず、それを支えた人々の組織を語ることでもあるのだ。二台の屋台の背後には、それを担う二つの大きな共同体があったのだ。冊子が、屋台そのものだけでなく、組の役員や費用、管理のあり方にまで目を向けているのは、そうした運営の仕組みこそが、祭りを支える屋台の本体だと見抜いていたからだろう。
屋台を持つことの重さ。 屋台は、買えば終わりではない。保管、修理、曳き回し、雨風への対応、祭礼費用、若者の動員が必要になる。冊子に見える東西組の記録は、屋台を持つことが町内運営そのものだったことを伝える。
福田の屋台史は、美しい屋台の歴史であると同時に、地域がどのように費用を分担し、人を集め、祭りを続けたかの歴史でもある。
一台の屋台を持ち続けるということが、どれほど大変なことか ── これは、祭りの華やかな表面だけを見ていては、なかなか気づかない。まず、大きく重い屋台をしまっておく蔵が要る。どこかが傷めば修理せねばならず、それには腕のよい職人と、まとまった費用がかかる。祭りの当日には、大勢の引き手を集め、けが人が出ないよう気を配りながら、町を曳き回す。雨が降れば、濡らさないための対応も必要になる。そして、それらすべてを支える祭礼の費用を、毎年どう工面するか。屋台を一台持つとは、つまり、こうした果てしない世話を、代々にわたって引き受け続けることを意味したのである。冊子に記された東西組の運営の記録は、屋台がまさに「町内運営そのもの」であったことを、具体的に伝えている。美しい屋台の裏には、それを守り続けた人々の、目立たない、しかし絶え間ない労苦があったのである。祭りが華やかであればあるほど、それを陰で支える人々の苦労も大きい。私たちが祭りの日に屋台の美しさに見とれるとき、その一台を今日まで守り伝えてきた、名もなき人々の長年の献身にも、そっと思いを馳せてみたい。
二つの屋台から多くの屋台へ
東屋台・西屋台は、後の多台数化の前段にある。戦後、各自治会や各連がそれぞれの屋台を求めていくが、その前に東西二つの大きな屋台単位があったことは忘れられやすい。
冊子の価値は、現在の賑わいの前にあった、少ない屋台で町全体を支えた時代を見えるようにしている点にある。
今日、福田の祭りには、多くの自治会や連が、それぞれの屋台を持って参加している。にぎやかに立ち並び、町を練り歩く屋台の数の多さは、そのまま祭りの盛大さの象徴でもある。しかし、その始まりには、東組と西組という、たった二つの大きな屋台単位で町全体の祭りを支えた時代があった。数少ない屋台を、東組・西組という町ぐるみのまとまりで大切に守り、動かしていた ── その原点を知ることは、今の華やかな賑わいがいったいどこから来たのかを理解するうえで、欠かせないことである。今日の祭りの形は、ある日突然できあがったものではない。二つの屋台から多くの屋台へ、大きな組から細かな連へと、実に長い時間をかけて、少しずつその形を変えてきたのである。その移り変わりの底には、それぞれの時代を生きた人々が、どうすれば大切な祭りを絶やさずに続けていけるかを、真剣に考え、知恵をしぼり、工夫を重ねてきた歴史がある。寺田勝彦氏が丹念に編んだ冊子は、そうした長い移ろいの、いちばん古い層を今の私たちに見せてくれる、たいへん貴重な記録なのである。福田の屋台の一台一台の背後に、こうした長い歴史の積み重ねがあることを、心にとめておきたい。祭りをこれからの未来へと確かに受け継いでいくためにも、その来し方をきちんと知っておくことには、大きな意味があるのである。
この冊子から分けた追加ページ
主な参考資料
- 寺田勝彦『東屋台と西屋台』(郷土史探訪別冊第三集、昭和60年11月20日発行)。
- 提供PDF「六所神社の祭り.pdf」。冊子本文・表紙では「六社神社」と表記されているため、本文では冊子表記に従う。
- 磐田物語「六社神社の由緒と海の神々」「屋台の工学と意匠」など既存の福田まつり特集ページ。
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