ジュビロ磐田前史 ──
工場のサッカー同好会が日本一になるまで
1970年、工場の同好会から
すべては、一つの同好会から始まった。昭和45年(1970年)、ヤマハ発動機の磐田工場で、サッカー好きの社員たちが集まって、サッカー同好会をつくった。昼休みや仕事のあとにボールを蹴る、ごくささやかな集まりである。この同好会を母体に、1972年、会社の正式なサッカー部として「ヤマハ発動機サッカー部」が創部された。当時の日本の企業スポーツの典型どおり、選手はあくまで会社の社員であり、練習は仕事を終えたあとの時間に行われた。まだ、Jリーグもプロ選手も存在しない時代の話である。
この工場のクラブが、大きく飛躍する転機となったのが、昭和49年(1974年)である。元日本代表の名ウィング・杉山隆一(すぎやまりゅういち)を、監督兼選手として迎え入れたのだ。日本を代表したスター選手の招聘は、「本気で強くなる」という会社の宣言だった。この決断を境に、ヤマハ発動機サッカー部は、東海地方の一実業団クラブから、全国に名の知れた強豪へと、一段ずつ階段を上りはじめる。杉山隆一という一流を迎えたことは、単に戦力が一人増えたという以上の意味を持っていた。トップレベルを知る選手が加わることで、練習の質も、勝利への意識も、チーム全体が一段引き上げられる。地方の企業クラブが本気で頂点をめざすとき、まず必要なのは、目標の高さを体で知る者の存在だった ── 杉山の招聘は、そのことをよく物語っている。
東山にグラウンドができた。 強化の歩みは、施設の面でも進んだ。昭和53年(1978年)、本社にほど近い東山(ひがしやま)に、専用のヤマハ発動機東山総合グラウンドが開設された。これが、現在のヤマハスタジアムの前身である。御厨(みくりや)の一角に生まれたこの練習と試合の拠点は、当初は「企業の福利厚生施設」にすぎなかった。しかし、この場所こそが、のちにJリーグの熱狂の舞台となり、「町のスタジアム」へと、その役割を大きく変えていくことになる。専用グラウンドを持つということは、本格的なクラブへの、確かな一歩だった。整った芝のグラウンドで、選手たちは天候に左右されず、心ゆくまで練習に打ち込めるようになった。設備が選手を育て、選手が実力を高め、その実力が次の設備投資を呼ぶ ── ここでも、企業クラブならではの好循環が回りはじめていた。そして翌昭和54年(1979年)、チームは日本サッカーリーグ(JSL)の1部への、初昇格を果たす。全国のトップリーグへの、堂々の仲間入りだった。工場の同好会として産声をあげてから、わずか9年。遠州の一企業のクラブが、いよいよ日本サッカーの表舞台へと駆け上がっていく、その助走がここに整ったのである。
1982年の天皇杯、1987年のリーグ制覇
1部に上がったチームは、さらに強化の手を打つ。昭和57年(1982年)、のちに日本代表監督として日本を初のワールドカップ出場へ導くことになるオランダ人、ハンス・オフトをコーチに迎えた。当時としては珍しい、本格的な外国人指導者の招聘である。近代的な戦術と規律を持ち込んだオフトのもとで、ヤマハは、その年の第62回天皇杯全日本サッカー選手権で、ついに優勝を果たす。企業クラブとして手にした、記念すべき最初の全国タイトルだった。
さらに、チームは頂点をめざす。昭和62年(1987年)、ブラジルから、アンドレとアディウソンという二人の実力者が加入した。堅い守備を誇る日本人選手たちに、ブラジル人コンビの華麗な攻撃力が加わったチームは、1987/88シーズンの日本サッカーリーグ1部で、堂々の初優勝を成し遂げる。ついに、名実ともに「日本一」のクラブになったのである。1970年、工場の昼休みに始まった同好会が、わずか17年でこの高みに到達した ── これは、企業スポーツの一つの成功物語であると同時に、地方の一都市が全国の頂点をつかんだ、痛快な物語でもあった。地道な強化を、一歩ずつ、しかし着実に積み重ねた成果だった。
同好会の発足(1970年)、創部(1972年)、杉山隆一の招聘(1974年)、東山グラウンド開設(1978年)、JSL1部昇格(1979年)、天皇杯優勝(1982年度)、JSL初優勝(1987/88年)、ジュビロ磐田への改称(1993年)とJリーグ参入(1994年)は、クラブ・会社の沿革資料で確認できる。個々の試合内容・観客数などの細部は本稿では扱っていない。
なぜ、地方の工場から日本一が生まれたか。 ここで、少し立ち止まって考えてみたい。なぜ、大都市ではなく、遠州の一工場のクラブから、日本一が生まれたのだろうか。その背景には、いくつかの要素が重なっている。一つは、ヤマハ発動機という企業が、本気でスポーツに投資したことである。強化費を惜しまず、スター選手や外国人指導者を招き、専用グラウンドを整えた。企業の明確な意志なくして、この躍進はなかった。
もう一つ見逃せないのが、遠州という土地の風土である。「やらまいか」の進取の気性と、静岡が古くからサッカーの盛んな「サッカー王国」だったこと ── この二つが、ヤマハのクラブを下から支えた。地元にサッカーを愛する土壌があり、少年サッカーが盛んで、良い選手が育つ環境があった。企業の投資と、土地の風土。その両方がかみ合ったからこそ、遠州の一工場のクラブは、全国の頂点まで駆け上がることができたのである。日本一は、偶然の産物ではなく、企業と地域が育てた必然の果実だった。
ジュビロ誕生 ── 企業の部活から、町のクラブへ
そして、時代が動く。平成5年(1993年)、日本サッカーの歴史を塗り替えるプロリーグ、Jリーグが華々しく開幕した。ヤマハ発動機サッカー部は、この大きな流れのなかで、企業の一部活から独立したプロクラブへと生まれ変わる道を選んだ。Jリーグ準会員として新たに名のったチーム名が、「ジュビロ磐田」である。「ジュビロ(Júbilo)」とは、ポルトガル語で「歓喜」を意味する。会社の名ではなく、地元の町の名「磐田」を高々と掲げたこと ── そこに、このクラブが「企業のもの」から「地域のもの」へと生まれ変わる決意が込められていた。
平成6年(1994年)にJリーグへ参入すると、ジュビロ磐田は、まさに歓喜の名にふさわしい黄金時代を築き上げる。「ゴン」の愛称で親しまれた中山雅史(なかやままさし)、卓越したパスセンスの名波浩(ななみひろし)ら、日本代表級の選手を擁したチームは、1997年・1999年・2002年のJリーグ年間優勝、そして1998-99年のアジアクラブ選手権制覇と、国内外のタイトルを次々と手にした。特に2002年、一年を通して圧倒的な強さを見せたチームは、Jリーグ史に残る名チームと語り継がれている。人口わずか17万人ほどの磐田が、アジアの頂点に立つクラブを擁する ── ジュビロ磐田は、日本で最も小さな「日本一のクラブのある町」の一つを、この地に実現したのである。
スポーツのまち磐田へ。 ヤマハ発動機がこの町で育てたのは、サッカーだけではない。ラグビー部(現在の静岡ブルーレヴズ)もまた磐田で強豪へと育ち、さらにオリンピックのメダリストを含む、数々のトップアスリートが、この町から羽ばたいていった。いつしか磐田は、「スポーツのまち」として全国に知られるようになったのである。
この好循環の構造を、整理してみたい。ヤマハという企業がスポーツを育て、そのスポーツの活躍が磐田という町の名を全国に高め、そして高まった町の誇りが、子どもたちに「自分もあの舞台に立ちたい」という夢を育てる ── 企業城下町の記事で描いた磐田とヤマハの深い関係。その関係が生んだ、最も幸福で、最も目に見えやすい果実が、このスポーツだったといえるだろう。試合の日、ヤマハスタジアムに灯る青い光。その光は、遠く1970年、磐田工場の昼休みに社員たちが蹴っていた一つのボールから、半世紀にわたって受け継がれてきた物語の、輝かしい現在地なのである。一つの町が、企業とともにスポーツを育て、そのスポーツが今度は町の誇りとなって人々を照らす ── その静かで確かな循環の物語は、これからも磐田の地で、新たな一章を加えながら書き継がれていくにちがいない。
同好会からJリーグまで ── 年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1970年 | ヤマハ発動機磐田工場にサッカー同好会発足 |
| 1972年 | ヤマハ発動機サッカー部 創部 |
| 1974年 | 元日本代表・杉山隆一を監督兼選手に招聘 |
| 1978年 | 東山総合グラウンド(現ヤマハスタジアム)開設 |
| 1979年 | 日本サッカーリーグ1部に初昇格 |
| 1982年 | 第62回天皇杯優勝(コーチ:ハンス・オフト) |
| 1987/88年 | 日本サッカーリーグ1部 初優勝 |
| 1993年 | Jリーグ準会員に。「ジュビロ磐田」へ改称 |
| 1994年 | Jリーグ参入。以後、年間優勝3回(1997・1999・2002)など黄金時代へ |
主な参考資料
- Wikipedia「ヤマハ発動機サッカー部」「ジュビロ磐田」
- ヤマハ発動機株式会社「スポーツ活動」(企業情報)
- 磐田物語「ヤマハ発動機と企業城下町としての磐田」「御厨駅と現代の御厨」「磐田のオリンピックメダリストの足跡を読む」
あわせて読みたい
この地域の家・土地・空き家について
古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。
相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。