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磐田・昭和50年代 | 開発と文化財保護のはざまで

遠淡海の里 ── 昭和50年代、磐田原に描かれた幻の自然・歴史公園構想

高度経済成長期の乱開発のなかで、磐田原の古墳や遺跡は次々と姿を消していった。昭和41年から50年までの10年間だけで、記録に残る破壊は遺跡12ヶ所・古墳40基におよぶ。こうした危機感を背景に、磐田市教育委員会は市域全体を「遠淡海の里」としてまとめ上げる、壮大な自然・歴史公園構想を描いていた。実現しなかったこの計画の中身を、当時の報告書からたどる。

磐田市教育委員会がまとめた「磐田市の歴史、自然環境の保護と活用の現状と対策について」と題する報告書がある。表紙には松林山古墳出土の二神二獣鏡の写真が飾られ、本文は「磐田市のプロフィール」から始まり、地域開発と文化財保護の対立、埋蔵文化財の破壊状況の統計、そして市域全体を対象とした「遠淡海の里」という自然・歴史公園構想へと展開していく。奥付や発行年月日の記載はないが、本文中に「人口6万8千人」「本年度一般会計予算48億5千万円」「昭和48年度より市土地利用対策委員会が発足」といった記述があり、埋蔵文化財の破壊統計も昭和50年までで区切られていることから、昭和50年(1975年)前後の状況を踏まえ、昭和51年(1976年)頃に作成されたものとみられる。

本稿の要点

公式情報の整理

資料名
「磐田市の歴史、自然環境の保護と活用の現状と対策について」磐田市教育委員会
作成時期(推定)
昭和51年(1976年)頃(本文中の人口・予算規模・破壊統計の記載年から推定)
破壊状況統計
昭和41〜50年(1966〜1975年)、遺跡12ヶ所・古墳40基
固定資産税免税措置
昭和47年(1972年)6月、市議会で市税条例の一部改正を可決・施行
構想の中核施設
「遠淡海風土記の丘」(寺谷・匂坂地区、165,000m²、予算7億円、主管は静岡県・静岡県教育委員会)

「点」から「面」へ ── 磐田原を覆った開発の波

報告書は、磐田市内の文化財破壊の足取りを次のように振り返っている。戦後から昭和30年代前半までは、個人的な開墾や住宅建築など小規模工事による、いわば「点」の破壊であった。それが昭和30年代後半から40年代前半にかけて、東海道幹線建設、東名高速道路建設をはじめ、市内各地区にわたって道路整備などの工事が盛んになり、点から線へと開発が広がった。さらに昭和40年代後半からは、圃場整備・耕地整理等により線から面へと移行し、当時は土砂採取工事によって「文化財は根こそぎ破壊され、面より立体へと文化財破壊は進行しとどまるところを知らない現状」にあったと記されている。

報告書はこの背景を、太平洋工業ベルト地帯の一環として工業都市化を迎えた磐田市の後進性と、早急に解決を迫られた諸問題として説明する。東海道本線磐田駅前の商業地域近代化、土地区画整理事業による住宅造成、磐田原東部台地の工業地帯化、東南部水田地帯の農業構造改善事業と北部台地の圃場整備事業による農業近代化。これらが当時の市政の主要施策として推進されるなかで、台地上の雑木林や原野を切り開く開墾工事、宅地造成工事が盛行し、磐田原の自然と文化財を最もよく保存していた地域から失われていったという。

破壊の結果として報告書が挙げるのは、磐田原の自然環境破壊(自然地形・植物相・動物や昆虫相の激変と絶滅化)、歴史環境の破壊(遺跡・古墳等の埋蔵文化財の破壊)、災害の危険の増大(土砂崩れや洪水の危険の増大)、農産物等への悪影響(台地縁部の採土による乾燥化や防風林の消失)、そして大型ダンプカーの往来による交通障害や事故の増加である。

昭和41〜50年 市内埋蔵文化財の破壊状況

報告書には「昭和41〜50年 市内埋蔵文化財の破壊状況のあらまし」と題する一覧表が掲載されている。年度ごとに、破壊または緊急調査の対象となった遺跡・古墳の数、工事名、概要がまとめられており、10年間の合計は遺跡12ヶ所・古墳40基におよぶ。

市内埋蔵文化財の破壊状況(昭和41〜50年、抜粋)
年度遺跡工事名概要
昭和41年古墳計7基東名高速道路建設(道路公用)、みかん園造成工事(個人)3基調査・須恵器鉄器出土、玉類・銅釧出土の後期古墳群
昭和42年中近古墳墓1ヶ所(多数)工場敷地造成工事(企業)陶質蔵骨器出土、墓制・葬法の歴史を究明
昭和43年遺跡4ヶ所・古墳11基磐田原圃場整備工事道路建設(県営圃場)、明ヶ島地内採土工事、工場敷地造成工事無土器時代石器類出土、後期古墳の須恵器・鉄器出土、全国的にめずらしい窯葬墳を発見
昭和44年遺跡2ヶ所・古墳2基牧場建設工事(個人)弥生時代の墳墓(古墳発生期の形態を示す貴重な資料)、竪穴住居跡を発見
昭和45年古墳7基・遺跡4ヶ所工場敷地(企業)、採土工事(個人企業)、道路拡張工事、土地改良事業城之崎・新貝17号墳(鏡・玉類出土)、貝塚の一部破壊、集落跡の研究資料
昭和46年古墳2基道路拡張工事、採土工事古墳時代後期の資料
昭和47年なし
昭和48年遺跡1ヶ所・古墳4基工業用水場建設、大藤幼稚園建設県教委主催調査
昭和49年なし
昭和50年古墳2基採土工事

個別の保存例として、大塚古墳群・米塚古墳(昭和43年度、圃場整備事業による道路変更、各地主負担)、松林山古墳(昭和43年度、新幹線建設工事による線路変更)、京見塚古墳(昭和43年度、採土・市有地との交換)、稲荷山古墳(昭和46年度、採土・地主負担と業者補償)、米塚古墳(昭和49年度、住宅造成・業者より買収)、大塚古墳群(昭和50年度、採土・業者負担)が挙げられている。工事計画の変更や一部中止によって保存された例だが、報告書は「別の業者、不動産業者に前回より有利な条件で売却され、企業サイドの開発計画が立案される場合が多く、文化財該当地が個人から業者へと移動しており、地主であると共に市民でもあった旧所有者たちの素朴な文化財愛護思想のみでは、保存することは不可能となった」とも記し、善意による協力に頼る文化財行政の限界を率直に指摘している。

固定資産税の免税措置と、広報・教育活動

文化財所在地の原状保存や工事の変更・一部中止による保存については、国・県指定史跡などごく限られた文化財を除き、地主や起業者への経済的な補償は困難であった。市として実現できる対策として、文化財所有地の固定資産税免税があり、市税条例の一部改正が昭和47年(1972年)6月の市議会に上程・可決され、施行された。免税対象は、すでに税法上の優遇措置がある指定文化財を除く、未指定すべての文化財である。報告書は「免税額がきわめて少額のため、全く実効がないとの批判も多い」としつつも、市の文化財及び文化財を所有・所在した土地の所有者に対する「導重と散意(原文ママ)を表するもの」として理解を求めている。

あわせて、より多くの市民に文化財への理解を深めてもらうための広報活動として、婦人学級・婦人会・高齢者学級・老人クラブなどを対象とした市内文化財の見学会、小学校上級生を対象とした施設・文化財見学と遠足コースへの組み込み、児童文化館における文化財クラブ(10年前より、月1回の郷土史講座・見学・奉仕活動)、文化財保存顕彰会の育成と見学会、市内主要文化財への説明標示板の建立などが行われていたことが記されている。

「遠淡海の里」構想 ── 市域全体を自然・歴史公園に

報告書の後半は、こうした現状を踏まえた「自然環境・歴史環境の保護対策の将来構想」にあてられている。文化財や自然を保存する根本的な解決策は土地の公有化以外にないが、各時代にわたる多種多様な文化財の所在地と磐田原の自然地帯を短期間に公有化することは不可能であるとしたうえで、当面は農地法・公園法・文化財保護法等、個別の法・条例の適用が可能なものから保護指定や施設整備を進め、各施設を総合的・有機的に関連づけて活用していく方針が示されている。その終局の目的として掲げられたのが、点在する文化財や自然を「点から線へ、さらに面に拡げ」、磐田市域全体を自然・歴史公園として活用するという構想であった。

この構想には仮称「遠淡海の里(とおつおうみのさと)」という名が与えられている。かつて西遠地方は「とおつおうみのくに」と呼ばれ、都から遠く離れた大きな湖(淡海)がある国の意とされる。この遠淡海の国の国府は磐田地方にあり、政治・経済・文化の中心地であった。報告書はこの古代の呼称に、市域全体を包括する構想の名を託している。

「遠淡海の里」は、都市公園・森林公園・児童公園・歴史公園などの公園群から、野外教育センターなどの社会教育施設までを総括する「遠淡海の里事務所」を特設し、次のような個別施設を有機的に結びつける構想であった。

「遠淡海の里」構想の主な個別施設(案)
施設名(仮称)予定地構想の概要
磐田原グリンベルト磐田原台地の両縁残存する森林部分を保安林・風致地区に指定し自然公園として管理。ハイキング・サイクリングロードを設置
遠淡海風土記の丘寺谷・匂坂地区(165,000m²)古墳群・長者屋敷の環境整備、磐田原古代博物館、農家の代表的家屋の移築。主管は静岡県・県教育委員会、予算7億円
鶴ケ谷自然公園向笠鶴ケ谷付近裏山の植栽改善、水辺植物園、昆虫類の保護
大池水辺公園於保・大池周辺『万葉集』巻十八に残る「大之浦」の面影を残す大池の浚渫・水質浄化・水鳥園
御厨児童公園御厨地区竪穴住居を復元した野外キャンプ施設、野外観察園、学習館(理科・社会学習コース)、戸外図書館
向笠青少年野外センター向笠竹之内原地内青少年研修センター(会議室・宿泊室)、キャンプ場、野鳥観察センター
御厨史跡公園御厨地区新貝地区の古墳群数十基、稲荷山・松林山古墳(前方後円墳)、秋葉山・高根山・めかくし山古墳などの大形円墳、医王寺庭園を含む

御厨史跡公園については、用地確保の見通しにも触れられている。稲荷山・秋葉山の所在地は連城寺の所有地と個人2名、松林山も連城寺所有、高根山は神明宮の所有地であり、新貝丘陵の多くが寺社の所有地であるため、用地確保は比較的容易であるとし、将来的には一括して国指定史跡の指定を受けるよう努める方針が示されている。

「風土記の丘」も、この規模に該当しない地域に所在する埋蔵文化財・史跡・天然記念物については、実情に合わせた保護設備と整備計画を立案する。開発か保存かという二者択一的発想の転換こそ、開発・文化財両関係者に必要であり、両者はもちろん、一般市民を説得し得る文化財・自然環境の保護理念が確立された時こそ、善意と協力に頼る文化財行政から脱皮できる出発点であろう。──報告書はこう結んでいる。

構想のその後

この報告書に描かれた「遠淡海の里」は、市域全体を対象とする組織化された自然・歴史公園として、記述されている規模での実現には至らなかったとみられる。現在の磐田市に「遠淡海風土記の丘」や「遠淡海の里事務所」という名称の施設は見当たらない。一方で、報告書が同時に触れている遠江国分寺史跡公園の整備(昭和33年からの二期にわたる事業)や、日本最古の小学校校舎である旧見付学校の復元修理工事(昭和49年度からの計画)など、個別の史跡整備は報告書作成前後の時期に実際に進められている。市内に点在する古墳や史跡を巡るハイキングコースの発想も、その後の市内の文化財めぐりのあり方に通じるものがある。壮大な構想全体としては幻に終わったが、そこに込められた「開発と保存の両立」という問いかけと、個々の文化財を守ろうとした関係者の努力の記録として、この報告書は読むことができる。

参考資料

本資料には発行年月日の記載がなく、作成時期は本文中の人口・予算規模・破壊統計の記載から推定したものです。「遠淡海の里」構想がその後どの範囲まで実現・変更・中止されたかについて、本資料以外の続報は確認できていません。

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