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磐田物語 / 見付 / 長州征伐

幕末|宿場と軍事通行

長州征伐と見付宿 ── 幕府軍通行の負担

軍事史を、宿泊割、人馬継立、川留め、賃銭という沿道の実務から読み直す。

文久3年(1863年)の八月十八日の政変、元治元年(1864年)の禁門の変と第一次長州征伐、慶応2年(1866年)の第二次長州征伐へ進むなか、東海道では軍勢と御用荷物の通行が重なった。見付宿は本陣・旅籠・民家を宿泊へ振り向け、助郷村へ人馬を触れ、川留めによる日程変更へ対応した。本稿は『図説 磐田市史』と『東海道遠州見付宿』第七章を照合し、確定できる記録と推定を分ける。

本稿の要点
  • 将軍家茂は文久3年、元治元年、慶応元年に上洛し、陸路と海路の選択で見付の負担が変わった。
  • 同書所引の水野家日記は、慶応元年の見付宿泊と大井川川留めによる日程変更を記す。
  • 『図説 磐田市史』には助郷人足約1万人・馬500疋という数値があるが、延べ数か同時動員かを区別する必要がある。
  • 新政府も宿附助郷を再編しており、幕府から新政府への転換を無償対有償だけで説明しない。

上洛と征伐を分けて数える。 将軍上洛と長州征伐は関係するが、同じ通行ではない。将軍本人の上洛、供奉諸藩の往来、征伐軍の西下、役人と御用荷物の通行が別々の日程で宿を通った。人馬数を比較するには、誰の通行か、休泊の有無、先触の予定数、実績数をそろえる必要がある。

『東海道遠州見付宿』238〜239頁は、水野家日記等から家茂の三度の上洛を整理する。文久3年の第一回では見付は昼休、帰路は海路であった。元治元年の第二回も海路の比重が大きい。慶応元年の第三回には見付宿泊があり、大井川の満水・川留めが日程を変えた。詳しくは水野氏記録が見た幕末に分けた。

軍勢を泊める。 本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠だけでは大軍を収容できない。大通行が見付宿に来た日で確認した文久2年(1862年)の御宿割下帳は、宿泊先を割り付けるため見付宿の家を数えた。軍勢通行でも、本陣から旅籠、寺、民家へ配宿する作業が必要になった。

宿泊帳の家数は人足・馬の実働数ではない。宿割は収容、先触は予定、助郷割付は供給元、継立帳は実績を記す。四種の帳簿を混ぜれば「見付へ何人来たか」という総数が過大にも過小にもなる。

1万8千人から3万人という幅。 『図説 磐田市史』が紹介する記録には、半月余りの滞在者について約1万8千人から3万人という幅がある。この差を現場の混乱だけで説明することはできない。予定人数、通過人数、延べ宿泊人数、軍勢と人足の合計など、数えた対象が違う可能性がある。

本稿は「見付宿人口の数倍が同時に滞在した」とは断定しない。日別の宿割と出立記録がなければ、同時滞在の最大値は求められない。確定できるのは、宿の通常収容力を超える通行が続き、民家と寺を含む配宿が必要だったという構造である。

助郷人足約1万人・馬500疋

同じく『図説 磐田市史』には、助郷から人足約1万人、馬500疋が動員されたとの数値がある。これも延べ数、先触の割付、実働のいずれかを原史料で確認する必要がある。数字が大きいことだけを根拠に、一日の同時動員とみなさない。

第六章の全頁確認により、見付宿助郷が第一期68ヶ村、天保13年以後84ヶ村、文久2年以後123ヶ村へ広がったことが分かった。詳しくは助郷68ヶ村を参照されたい。軍事通行期の負担は、この広い供給圏へ配分された可能性があるが、村別の割付は個々の助郷帳へ戻って確かめる必要がある。

不足した米・薪・敷物。 見付宿問屋は、米、薪、敷物、風呂桶、馬桶などの不足を中泉代官所へ願い出たとされる。品目は大通行が人馬だけでなく、食事、燃料、寝具、入浴、馬の給水まで動かしたことを示す。ただし借用願に並ぶ数量と、実際に受け取った数量は別である。

宿の負担を復元するには、借用願、受取証文、返済・返却記録を接続する。願い出た品のすべてが届いたとは限らず、宿内調達や助郷からの持込みも考えられる。物不足の情景を推測で補わず、帳簿の工程を追う。

賃銭と買人馬。 幕府公用では無賃または低い御定賃銭の継立があり、宿と助郷は不足分を負担した。自前人馬が足りなければ買人馬を雇う。同書231頁の天保10年集計では、買馬約1,100疋分、買人足約6,600人分が記される。元治元年には人馬と支払が大きく増えたと同書は指摘する。

ただし天保10年と元治元年の金額差を、そのまま長州征伐の費用としない。賃銭割増、物価、通行回数、助郷範囲が異なる。助郷人馬の賃銭と代勤では、御定賃銭、買人馬費、助成、刎銭を分けている。

幕府軍と新政府軍。 従来の記事は、幕府軍が徴発し、新政府軍が賃銭と減免で支持を得たという対比を強く描いていた。第七章の改革文書を読むと、新政府も見付宿附属新助郷を加え、勤高に応じた出役を命じている。支払方式と役人選任は変わったが、沿道の人馬へ依存する構造は残った。

本稿の立場は、幕府と新政府を善悪で裁かず、無賃・御定・相対、助郷範囲、役人組織、会計監督の違いを比較することである。制度転換は伝馬所から駅逓へで扱う。

史料の性格と本稿の限界。 『図説 磐田市史』は市民向け通史であり、事件と数値を要約する。『東海道遠州見付宿』は水野家日記、問屋御用留、勘定帳を多く引用するが、刊行物による翻刻・集計である。本稿は両書を照合したが、所引一次史料原本を確認していない。

したがって人足約1万人、馬500疋、滞在者1万8千〜3万人は、出典の文書種別を付して再検証すべき数値として掲げる。次の課題は、日付別に先触、宿割、助郷割付、継立実績、借用願、支払帳を並べることである。それにより予定と実績、宿内と助郷、物資と人馬を分けられる。

  • 新規公開。
  • 『東海道遠州見付宿』238〜266頁を画像照合し、無出典推定と情緒表現を整理。助郷123ヶ村、買人馬、駅逓改革を加えてL3へ全面改稿。

参考資料

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