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磐田物語 / 矢奈比賣神社と見付天神
祭りと信仰 | 見付天神の記憶

矢奈比賣神社と見付天神
── 女神と学問の神が重なる社

見付の人々が「お天神さま」と呼んで親しむこの社の、正式な名は矢奈比賣神社(やなひめじんじゃ)という。もともとここに祀られていたのは、菅原道真ではなく、矢奈比賣命という一柱の女神だった。学問の神・天神様として知られる今の姿の奥には、もっと古い信仰の層が眠っている。裸祭の熱気からいったん離れて、この社そのものの成り立ちと、今の境内をゆっくり歩いてみたい。

もとは、女神を祀る社だった

「見付天神」という通称のせいで、この社は最初から菅原道真を祀っていたと思われがちである。しかし、それは正確ではない。矢奈比賣神社の主祭神は、今も昔も矢奈比賣命という女神である。安産・子育て・良縁を見守る神として、古代からこの地に鎮まってきた。菅原道真――学問の神として知られるあの人物――が合わせ祀られたのは、ずっと後のことなのである。

矢奈比賣神社の古さそのものは、平安時代の史料にすでに記されている。『続日本後紀』や『日本三代実録』に神階を授かった記事があり、『延喜式神名帳』にも名を連ねる、由緒正しい式内社である。この沿革の細部は、当サイトの「見付天神裸祭」特集の中で年表として整理しているので、ここでは深追いしない。押さえておきたいのは、菅原道真が来る以前から、この地には矢奈比賣命という女神を祀る信仰が、すでに根を張っていたという一点である。

菅原道真を迎えた日

伝えられるところによれば、正暦4年(993年)8月11日、太宰府天満宮から菅原道真の御霊がこの社へ勧請されたという。これ以後、矢奈比賣神社は「見付の天神様」「見付天神」と呼ばれるようになり、学問の神・天神信仰がこの地に重なっていった。なぜ、もとからあった女神の社に、道真を迎え入れることになったのか。その経緯を詳しく語る史料は、今のところ見当たらない。ただ、平安時代の中頃といえば、都でも各地でも、道真の怨霊を鎮め、学問の神として祀り直す動きが広がっていた時期にあたる。見付という遠江国の中心地にあった古社もまた、その大きな流れの中に組み込まれていったのだろう。

こうして、一つの社に二つの神格が重なった。安産・縁結びの女神・矢奈比賣命と、学問の神・菅原道真である。今日、この社を訪れる人の願いごとが、七五三や安産祈願から、受験の合格祈願まで幅広いのは、この二重の由来のためにほかならない。

境内を歩く ── 末社と石造物

鳥居をくぐり、本殿・幣殿・拝殿へと続く参道を進むと、この社が長い年月のなかで抱え込んできたものの多さに気づかされる。境内には、本社のほかにいくつもの境内社が祀られている。

霊犬神社霊犬・悉平太郎を祀る社。人身御供を退けたと伝わる霊犬の物語は、当サイトの別稿でくわしく扱っている。近年はペットの参拝先としても親しまれる。
氷室神社少名彦名命を祀る。大国主命とともに国づくりに関わったとされる神で、医薬・知恵にゆかりが深い。
大神宮遥拝所天照大神を遥かに拝むための場所。伊勢神宮を身近に感じるための、遥拝という古くからの信仰の形である。
山神社高龗神・迦具土神・大山咋神を祀る。水や火、山を司る神々への祈りが、境内の一角に息づいている。

境内には、社殿だけでなく、石造物もいくつか残っている。筆塚・印塚と呼ばれる石碑、六ツ石、御池、そして「梅之湯御霊水之井戸」と名づけられた井戸である。筆塚や印塚は、使い終えた筆や印を供養するために建てられることが多い石碑で、学問の神を祀るこの社にふさわしい佇まいを見せている。ただし、いつ、誰によって建てられたのかを明らかにする資料までは確認できておらず、ここでは「学問への信仰がこの境内にも刻まれている」という事実の紹介にとどめておきたい。境内の一角には、延喜式内社・生雷命神社の跡地と伝わる「雷塚」もある。かつてこの一帯に、いくつもの古社が寄り添うように鎮まっていたことをしのばせる。

本殿・拝殿 矢奈比賣命・菅原道真 霊犬神社 氷室神社 大神宮遥拝所 山神社 本社を囲むように、いくつもの境内社が鎮まる(構成をもとにした模式図)
矢奈比賣神社の境内には、本社のほかに霊犬神社・氷室神社・大神宮遥拝所・山神社などの境内社があり、筆塚・印塚・六ツ石・雷塚跡地といった石造物も残る。位置関係を厳密に示したものではなく、構成を伝えるための模式図である。

元宮天神社という原点

見付の町なかには、もう一つ、この社と切り離せない場所がある。「元宮天神社」、通称「元天神」と呼ばれる小さな社である。かつては、この地に矢奈比賣神社そのものが鎮座していたと伝えられている。いつの時代に、どのような経緯で今の見付天神の地へ遷ったのか、それを明らかにする記録は残っていない。「詳らかではない」――現地の由緒書きも、そう正直に記すのみである。

断定できないことは、この社の弱みではない。むしろ、千年を超える歳月のなかで、記録に残らない移転や再編がいくつも重ねられてきたことを、静かに物語っている。現在の元宮天神社の社殿は平成8年(1996年)に改築されたもので、決して古めかしい建物ではない。しかし、そこが古社地であるという記憶だけは、絶えることなく受け継がれてきた。見付天神裸祭の一連の神事は、実はこの元宮から始まる。祭りの初日、宮司が榊の枝に木綿を取り付けて元宮に納める「祭事始」という神事があり、そこで初めて祭りの幕が上がる。祭りの主役である本社の裏側に、こうしてもう一つの原点が、ひっそりと控えているのである。

二つの信仰が重なるまち

矢奈比賣神社は、二重の性格を持つ社である。一つは、延喜式に名を連ねる式内社としての、古代からの信仰。もう一つは、菅原道真を迎えて以後の、学問の神・天神様としての信仰である。この二重性は、過去の遺物としてではなく、今も現役の姿として続いている。

毎年1月25日には「初天神合格祈願祭」が執り行われる。25日という日付は、菅原道真の誕生日・命日にゆかりがあるとされ、全国の天神社に共通する特別な祭日である。この日を中心に、中学・高校・大学の受験生はもちろん、就職試験や資格試験、昇級試験を控えた人までもが、合格を祈って参拝する。一方で、境内では変わらず、安産祈願や七五三、初宮参りといった、矢奈比賣命本来の御神徳に連なる祈りも続けられている。一つの境内で、古代の女神への祈りと、近世以降の学問の神への祈りが、何の矛盾もなく共存している。それが、この社の面白いところである。

総社・淡海國玉神社との対

矢奈比賣神社を語るとき、見付の町なかにあるもう一つの古社、淡海國玉神社――遠江国の総社――のことを、避けて通ることはできない。当サイトの別稿では、総社という制度そのものと、見付が遠江国の中心だった記憶を、淡海國玉神社の側から描いた。ここでは、矢奈比賣神社の側から、その関係を補っておきたい。

毎年秋、見付天神裸祭の夜、矢奈比賣命は神輿に乗り、灯りの消えた闇のなかを、淡海國玉神社まで渡っていく。翌日、還御によってふたたび矢奈比賣神社へ戻る。この一往復こそが、祭りの核心である。氏神である矢奈比賣命が、総社という遠江国全体を象徴する場へ出向き、また戻ってくる――その道筋のうえに、見付という町の記憶が幾重にも積み重なっている。矢奈比賣神社と淡海國玉神社は、いわば向かい合う一対の社である。片方だけを見ていては、この町の信仰の全体像はつかめない。御朱印がとなりの社で記帳される慣わしがあることも、二社が日々の参拝のうえでも深く結びついていることを示している。

次の世代へ、手渡したいもの

「見付天神」という呼び名だけを聞くと、この社は菅原道真の社だと思い込んでしまいそうになる。しかし実際に境内を歩けば、女神・矢奈比賣命への信仰の古さと、学問の神への信仰の新しさが、幾つもの境内社や石造物、そして元宮天神社という原点を通して、幾重にも重なり合っていることがわかる。裸祭の熱狂に目を奪われがちなこの社だが、静かな昼間に訪れて、末社を一つひとつ確かめて歩くだけでも、見えてくるものはずいぶん違ってくる。次の世代へ手渡したいのは、そうした重なりに気づく、静かなまなざしなのだと思う。

主な参考

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。