太田川の治水史 ──
磐田のもう一つの川を読む
太田川という川
太田川(おおたがわ)は、森町北部の山地に源を発し、森町・袋井市を経て、磐田市との境をなしながら南下し、福田(ふくで)で遠州灘に注ぐ川である。途中で、敷地川(しきじがわ)・逆川(さかがわ)などの支流を合わせながら流れ下る。敷地川と谷の集落や向笠地区で見たとおり、磐田市の東部・北部に降った雨は、西の天竜川ではなく、この太田川水系に集まって海へ向かう。つまり太田川は、磐田の「東半分」を潤し、そして時に脅かしてきた川なのである。
天竜川が、日本を代表する大河の風格をそなえているのに対し、太田川は、流域面積も流量も、はるかに小さい。地図の上では、目立たない中小河川の一つにすぎない。しかし、「小さい川だから安全」とは限らない。むしろ逆である。流域が狭く川が小さいぶん、大雨が降ると、水が一気に集まって水位が急激に跳ね上がる。天竜川がゆっくりと水位を上げる大河なら、太田川は、短時間で牙をむく、身近で油断ならない相手だった。流域の村々にとって、太田川は、天竜川とはまた別種の恐ろしさを持つ川だったのである。磐田の川の歴史は、この東西二つの川を、両方見なければ完結しない。天竜川の物語ばかりが語られてきたが、東の太田川にも、それに劣らぬ暮らしと格闘の歴史が刻まれているのである。
中世の湊・元島 ── 川が開いた海への口。 川は、恐ろしい相手であると同時に、大きな恵みをもたらす存在でもあった。とりわけ太田川の河口部は、古くから海と川が出会う、豊かな結節点だった。別稿(元島遺跡)で扱ったとおり、河口近くの元島(もとじま)には、中世の湊(みなと)の遺跡が眠っている。太田川をさかのぼる川の道と、遠州灘へ開かれた海の道とが、この元島の湊で結び合わされていたと考えられているのである。山からの産物が川を下り、海の産物や遠くの物資が海から届く ── その積み替えの場が、河口の湊だった。
この河口の恵みは、時代を下っても受け継がれた。近世には福田湊が、漁業と海運の拠点として大いに栄える。そして、川が長い年月をかけて運んできた土砂と栄養がつくりだした河口の潟湖(せきこ)と砂丘の地形は、近代になってウナギ養殖という新しい産業まで生み出した。川が運ぶ土砂は、河口に平らな土地と穏やかな水面を用意し、そこに湊が開かれ、漁場が広がり、養魚池がつくられた。太田川は、氾濫で人を脅かす一方で、その同じ働きによって、河口に暮らしと産業の場を用意してきた。恵みと脅威は、一つの川の、表と裏なのである。人々は、その両面と向き合いながら、河口から山あいまで、長い年月にわたって、この太田川とともに生きてきたのである。
太田川の流路と流域、元島遺跡・福田湊・ウナギ養殖という河口部の歴史は、既存の別稿・資料で確認できる。県営太田川ダムが平成21年(2009年)に完成したことは公的資料で確認できる。一方、近世〜近代の太田川の個々の洪水年・被害の規模・改修工事の記録は今回の調査では網羅できておらず、流域町村の郷土資料・水利組合の記録での確認が課題である。本文で述べた微高地への集落立地や竹藪・堤による水防は、低地の一般的な水防の知恵に基づく記述で、太田川流域の個別事例を悉皆調査したものではない。太田川流域の治水・水害史は、天竜川に比べて研究の蓄積が薄く、地域史の空白として今後の掘り起こしが待たれる分野である。
川がつくった土地
そもそも、太田川流域の平地そのものが、川の働きによってつくられたものである。山地を削って運ばれてきた土砂が、長い年月をかけて下流に堆積し、平らな沖積地(ちゅうせきち)を形づくった。敷地(しきじ)の谷あいから、袋井・磐田の境の平野、そして福田の河口の低地まで ── 太田川と支流が運んだ土砂が、この一帯の土地の骨格をつくったのである。人々は、その川がつくった土地に田を開き、村を営んできた。
だからこそ、太田川流域の暮らしは、川と切り離せない。川がもたらす水は、田を潤す命の水であると同時に、氾濫すれば田も家も押し流す脅威でもあった。流域の村人にとって、太田川と付き合うことは、生きることそのものだった。恵みを受け取りながら、脅威に備える ── その微妙なバランスの上に、太田川流域の暮らしは成り立っていた。次に、その「備え」の知恵を見てみよう。
氾濫と付き合う ── 流域の村の知恵。 ダムも堤防も、頼れる公共事業もなかった時代、太田川流域の村々は、自分たちの知恵と工夫で、川と付き合ってきた。その方法は、大きく二つあった。一つは、土地の使い方の工夫である。低地の集落は、周囲よりわずかに高い自然堤防(しぜんていぼう)の微高地(びこうち)の上に営まれ、洪水のときにも水につかりにくいように配慮された。そして、家を建てるには不向きな低い土地は、あえて水田にする。水田は、氾濫したときには水をいったん受け止める「遊水地(ゆうすいち)」の役目も果たした。人が住む場所と、水があふれる場所を、地形を読んで巧みに使い分けたのである。
もう一つは、水を防ぐ工夫である。豊浜の砂丘と黒松の防風林が海からの風と砂を防いだのと同じように、川沿いに植えられた竹藪(たけやぶ)や、盛り土した堤は、増水した川の水が集落へ流れ込むのを防ぐ、暮らしの装置だった。竹の根は土を固め、堤は水をせき止める。こうした小さな備えの積み重ねが、村を水害から守っていた。
それでも、水と隣り合う暮らしの厳しさは、村の規範のなかにも刻まれている。福田村の五人組帳の掟に、難破船(破船)が流れ着いたときの処理の取り決めが定められていたことは、水辺の村の日常に、いかに水の災いが組み込まれていたかを物語る。天竜川の「暴れ天竜」の劇的な治水史に比べれば、太田川と村人の付き合いは、地味で目立たない。しかし、身近な小さな川と、来る年も来る年も根くらべを続けてきたこの歴史もまた、まぎれもなく確かな「治水の歴史」なのである。
近代の改修から太田川ダムへ
村人の知恵と工夫による治水には、おのずと限界があった。近代に入ると、より本格的な治水事業が太田川にも及ぶ。国や県の手による築堤(ちくてい)や河道の整理が加えられ、流域の水田地帯は、次第に安定していった。それでも、川の氾濫が完全に止まったわけではない。台風のたびに増水は繰り返され、太田川流域の治水は、戦後になってもなお、解決すべき課題であり続けた。
その近代治水の、一つの到達点といえるのが、上流の森町に建設された県営太田川ダムである。平成21年(2009年)に完成したこのダムは、大雨のとき水をいったんためて下流の増水をやわらげる「洪水調節」と、暮らしに使う「水道用水の供給」という二つの役割を担い、流域の安全度を大きく引き上げた。金原明善の堤防からダム群と農業水利へと至る天竜川の壮大な治水の物語に比べれば、太田川の治水は地味に見えるかもしれない。しかし、規模こそ違え、ここにも確かに、「暴れる川を治め、その水を暮らしに使う」という、近代治水の同じ物語が流れている。大きな川も小さな川も、人がそれと格闘してきた歴史の重みは、変わらないのである。
太田川と磐田 ── 流域の記憶
| 時代 | 出来事・様子 |
|---|---|
| 中世 | 河口部に元島の湊。川の水運と海運の結節点 |
| 近世 | 福田湊の繁栄。流域の新田開発と水防の暮らし |
| 近代 | 築堤・河道整理。河口部でウナギ養殖などの水産業が発達 |
| 平成21年(2009) | 上流(森町)に県営太田川ダム完成。洪水調節と利水 |
二つの川で磐田を読む。 西に天竜川、東に太田川。磐田は、この二つの川に挟まれた土地である。そして、磐田原台地は、その二つの川の水を分ける、分水嶺(ぶんすいれい)として、両者のあいだに横たわっている。磐田という土地のかたちは、この二つの川と一つの台地の関係のなかに、すべて書き込まれているといってよい。
ところが、磐田の川の歴史は、これまで圧倒的に天竜川に偏って語られてきた。「暴れ天竜」の治水、池田の渡船、掛塚湊の水運 ── 天竜川をめぐる物語は豊かに書かれてきた一方で、東の太田川の物語は、まだ断片的にしか語られていない。福田湊やウナギ養殖といった河口の話はあっても、川そのものの歴史、流域の暮らしの歴史は、ほとんど手つかずのままである。
流域を襲った洪水の記録、堤の普請を伝える古文書、川で魚をとった人々の記憶、そして支流の一つひとつが刻む地形の履歴 ── これらを丹念に集めていけば、磐田の「東半分」の歴史は、いまよりずっと立体的に浮かび上がってくるはずである。天竜川という一本の太い補助線だけでなく、太田川というもう一本の線を引くこと。そうして初めて、磐田という土地の全体像が見えてくる。目立たない小さな川にこそ、まだ語られていない土地の記憶が、静かに眠っているのである。ふだん何気なく渡っている太田川の橋の上で、この川が磐田の東半分を潤し、脅かし、そして育ててきた長い歴史を、少し思い浮かべてみてほしい。
主な参考資料
- 静岡県 太田川ダム関連資料(平成21年完成)
- 磐田物語「元島遺跡」「福田湊の発展と遠州の漁業史」「太田川河口のウナギ養殖と淡水水産」「敷地川と谷の集落」「天竜川の「暴れ天竜」と決壊の歴史」
太田川の個々の洪水・改修の記録は未網羅であり、本文中で課題として明示している。
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