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磐田物語 / 磐田農業高等学校の歴史

SCHOOL HISTORY | 磐田の高等学校

磐田農業高等学校の歴史

磐田農業高等学校は、明治29年に見付町で開校した中遠簡易農学校を起点とする、百二十年を超える歴史をもつ学校である。県立への移管、中泉への移転、戦後の高等学校改編を経て、生産・流通・環境・食品・生活の五学科を抱える現在へ続く。本稿では、この学校を「農業高校」という枠ではなく、磐田の食・農・環境・地域産業の近代化を支えてきた場所として読み直す。
本稿は学校案内ではなく地域史の記録である。校訓・沿革・施設・卒業生については、磐田農業高校公式サイト、静岡県、磐田市、文化財関連の公開資料で確認できた事項をもとに記述した。在校生数・偏差値・進学実績の類は扱わない。
見付から中泉へ ── 学校名の変遷 明治29年(1896) 中遠簡易農学校(見付町に三郡組合立として開校) 明治33〜34年(1900〜01) 県立に移管し静岡県立農学校へ。明治41年、中泉へ移転 大正8年(1919) 静岡県立中泉農学校と改称 昭和23年(1948) 静岡県立磐田農業高等学校と改称し、現在へ
校名の主な変遷を四段で示した模式図。年代・名称は公式沿革に基づくが、すべての改称を網羅したものではない。

明治29年、遠州の農業教育として始まる

磐田農業高等学校の出発点は、明治29年(1896年)4月、見付町に置かれた中遠簡易農学校である。磐田・豊田・山名の三郡が組合立として設けた学校で、はじめから一つの自治体ではなく、遠州中部の郡が手を組んで支える農業教育の場であった。中遠という名は、この広域の枠組みをそのまま映している。

「簡易」という語は、当時の実業教育の制度に由来する。明治期の日本は、近代国家として産業を起こす過程で、農業の担い手を体系的に育てる必要に迫られていた。遠州は古くから米作とともに茶・養蚕・畑作の盛んな土地であり、その近代化を地域の側から支える人材を育てる場として、この学校は生まれた。

明治32年には実業学校令にもとづいて程度を引き上げ、中遠農学校と改称した。簡易な講習に近い段階から、より本格的な農学校へと性格を変えていったのである。創立からわずか数年のうちに学校の格を上げていった事実は、地域が農業教育に寄せた期待の大きさを示している。

「高品性、重労働」という校訓

明治37年(1904年)10月、学校は「高品性、重労働」という校訓を定めた。今日まで受け継がれるこの四字は、農業教育の精神をきわめて簡潔に言い表している。「高品性」は人としての品格を高くもつこと、「重労働」は労を惜しまず手を動かして働くことを指す。

農業は、机上の知識だけでは成り立たない。土をつくり、種をまき、季節に合わせて作物の世話を続ける営みであり、頭と手の両方が要る。「高品性、重労働」という言葉は、知識を備えた人格と、汗を流す労働とを切り離さずに育てるという、この学校の一貫した構えを表している。

校訓が定められた明治37年は、日露戦争が始まった年でもある。国全体が産業と人を総動員へと向けていった時代に、遠州の農学校が掲げたのが「品性」と「労働」であったことは、農業教育が単なる技術伝習ではなく、人をつくる教育として意識されていたことを物語る。

中泉の記念館が伝える明治の学校建築

学校は明治33年に県立へ移管され、静岡県農学校、ついで静岡県立農学校と名を変えた。そして明治41年(1908年)、見付町から中泉地区の現在地へと移転する。中泉は東海道の宿場・見付に隣接し、のちに鉄道の駅も開かれて遠州の物資が集まる場所となった土地である。農業の学校が、人と物が行き交うこの結節点に置かれた意味は小さくない。

移転にともない、明治42年(1909年)には講堂が建てられた。これが現在「静岡県立磐田農業高等学校記念館」と呼ばれる建物である。木造平屋建、桁行17.5メートル・梁間12メートルの寄棟造で、屋根は桟瓦葺、外壁は下見板張という、明治後期の公立学校建築の特徴をよく残している。正面のアーチ型の玄関ポーチは後年の改装によるものだという。

この記念館は、平成13年(2001年)10月12日に国の登録有形文化財(建造物)として登録された。百年以上前に建てられた講堂が、いまも校地に残り、文化財として守られている。明治の遠州が農業教育に何をかけたのかを、図面や年表ではなく一棟の建物として今日に伝える、貴重な存在である。

名称
静岡県立磐田農業高等学校記念館
建築年
明治42年(1909年)/旧・県立農学校講堂
構造
木造平屋建、寄棟造、桟瓦葺、下見板張
登録
平成13年(2001年)10月12日 登録有形文化財(建造物)
所在
磐田市中泉(磐田農業高等学校 校地内)

農業から食品・環境・地域産業へ

大正8年(1919年)、学校は静岡県立中泉農学校と改称した。中泉という地名を冠したこの時期は、地域に根ざした農学校としての性格がはっきりした頃である。昭和に入ると、海外移民講習所が置かれるなど、農業を学ぶ場が時代の要請に応じて役割を広げていった様子もうかがえる。

戦後の学制改革を経て、昭和23年(1948年)に静岡県立磐田農業高等学校と改称し、現在の名となった。その後は園芸科、畜産科、造園科などが順に新設され、農業の中身が多様化していくのに合わせて学科も増えていった。

現在の磐田農業高校は、生産科学科・生産流通科・環境科学科・食品科学科・生活科学科の五学科で構成される。生産科学科は野菜や草花の栽培技術やバイオテクノロジーを、生産流通科は農産物の生産から加工・流通までを学ぶ。環境科学科は森林や緑を含む環境を、食品科学科は食品の加工や微生物・発酵を、生活科学科は食や暮らしに関わる分野を扱う。これらの学科名を並べると、この学校が育てているのが、作物をつくる技術だけでなく、それを売り、加工し、環境を守り、暮らしに結びつける一連の力であることがわかる。農業から食品・環境・地域産業へと裾野を広げてきた歩みが、五学科の構成にそのまま表れている。

大日山演習林から一言農場へ

農業の学校は、教室だけで完結しない。田植えや稲刈りの実習、学校の演習林での林業実習など、実際の土地と向き合う学びがあって初めて成り立つ。磐田農業高校でも、田畑や農場、演習林といった実習の場が学びの土台を支えてきた。大日山に広がる演習林は、樹木や森林に触れ、緑を管理する技術を体で覚える環境系の学びの舞台として知られる。

農場の歴史も、学校の歩みとともに動いてきた。昭和41年(1966年)に開かれた天竜農場は長く実習の拠点であったが、平成28年(2016年)の創立120周年の年に閉場し、翌平成29年(2017年)には一言(ひとこと)の地に一言農場が開かれた。実習の場が時代に合わせて移り変わっていく様子は、この学校が固定された施設ではなく、地域の土地利用とともに生きてきたことを示している。

近年は、地域の事業者や団体と連携した取り組みも目立つ。食品科学科を中心に、麹で発酵させた野菜あんを使う「糀ベジあん」のプロジェクトに加わり、さつまいもや人参、かぼちゃを使った発酵プリンを開発するなど、磐田の食を題材にした商品づくりにも踏み込んでいる。生徒が育てた農産物や加工品が地域のイベントで販売されることもあり、学校の学びは校地の外へとつながっている。

磐田の農業と卒業生が残したもの

磐田を含む遠州地域は、温暖な気候と水利を生かした農業が盛んな土地である。全国に名を知られるクラウンメロンをはじめ、米、野菜、花、茶など多様な作物が育てられ、施設園芸や加工も発達してきた。磐田農業高校が長く担ってきたのは、こうした遠州の農業を技術と人の両面で支える役割である。栽培、流通、加工、環境管理にわたる学科の広がりは、地域の農業がもつ多面性とそのまま重なっている。

この学校からは、各地で農業や食に関わる多くの人が巣立っていった。なかでも、ペシャワール会の一員としてアフガニスタンで農業支援に携わった伊藤和也氏の名は、よく知られている。掛川市に生まれ、磐田農業高校で農業を学んだのち、灌漑と農地の再生に取り組み、2008年に現地で命を落とした。荒れた大地に作物を実らせようとした姿は、「高品性、重労働」という校訓が遠い土地でも生きていたことを思わせる。氏の歩みについては、ここでは敬意を込めて簡潔に記すにとどめたい。

明治29年に三つの郡が手を組んで開いた農学校は、見付から中泉へと場所を移し、農業から食品・環境・地域産業へと学びの幅を広げながら、今日まで続いている。記念館に残る明治の講堂、五つの学科、一言農場、そして各地で農と食を支える卒業生。それらすべてが、磐田という土地の食と農の近代化を、一つの学校がどのように担ってきたかを静かに語っている。

参考資料

この地域の家・土地・空き家について

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