SCHOOL HISTORY | 磐田の高等学校
磐田西高等学校の歴史
中泉商業学校としての出発
磐田西高校の出発点は、昭和十四年(一九三九)三月、中泉町立中泉商業学校の設立が許可されたことにある。県や国が上から設けた学校ではなく、中泉という町が自前で商業の学校を持とうとした点が、この沿革の出発を性格づけている。
中泉は、東海道の宿場町である見付の西側に位置し、近世から近代にかけて市と商いの場として栄えた土地である。鉄道の駅(現在の磐田駅)が中泉側に置かれたことも、人と物が集まる中泉の商業的な性格を強めた。そうした町が、簿記や算盤、商業実務を教える学校を求めたのは自然な流れであった。商業教育は、中泉という土地の産業のあり方そのものから生まれた営みだったといえる。
当初の中泉商業学校は乙種の商業学校として始まり、昭和十七年(一九四二)四月には静岡県磐田商業学校と改称し、より本格的な商業学校へと位置づけを改めた。校章が定められたのもこの時期である。中泉の町立学校が、県下の商業教育の一翼を担う学校へと踏み出した段階であった。
戦時下の転換と戦後の復元
太平洋戦争の戦局が悪化するなか、商業教育は国の方針によって縮小・転換を迫られた。昭和十九年(一九四四)、磐田商業学校は静岡県磐田工業学校へと転換させられる。商人を育てる学校から、軍需と直結する技術者を育てる学校への切り替えであり、全国の商業学校に共通して起きた措置であった。中泉に生まれた商業の学びは、ここでいったん途切れる。
戦争が終わると、工業学校は役割を失った。昭和二十一年(一九四六)三月に磐田工業学校は廃止され、同年四月、ふたたび商業学校として復元される。戦時の工業化を経てなお、中泉の地で商業教育を取り戻そうとした動きが、この復元には表れている。土地が育ててきた学びの性格は、戦争という大きな断絶を挟んでも消えなかった。
磐田北高校から分離した磐田商業
戦後の学制改革は、この学校にも大きな組み替えをもたらした。昭和二十三年(一九四八)四月、県立への移管とともに新制高等学校へ移行し、静岡県立磐田実業高等学校となる。翌昭和二十四年(一九四九)四月には、近隣の県立高校と統合され、静岡県立磐田北高等学校の一部となった。中泉の商業教育は、ここで一度、総合的な高校のなかに溶け込む形になる。
しかし統合は長くは続かなかった。昭和二十七年(一九五二)四月、磐田北高校から商業科が分離独立し、静岡県立磐田商業高等学校が誕生する。これは、商業を独立した専門の学校として立て直した転機であった。中泉商業学校に始まった実学の系譜は、ここで「磐田商業」という名のもとに、ふたたび一つの学校として歩み始める。地域で長く「磐商(ばんしょう)」と呼ばれてきた学校である。
昭和三十八年(一九六三)十一月には創立五十周年を迎え、「道 自ら求め自ら拓く」という校訓が定められた。自ら学び、自ら道をひらくという言葉は、商いの現場で求められる自立の姿勢とも重なる。中泉の商業教育が積み上げてきた性格を、簡潔に言い表した校訓といえる。
- 所在地
- 静岡県磐田市中泉
- 源流
- 1939年 中泉町立中泉商業学校
- 独立年
- 1952年 磐田北高校から分離(磐田商業高校)
- 現校名
- 1991年 静岡県立磐田西高等学校に改称
- 設置学科
- 普通科・総合ビジネス科
普通科併設と磐田西高等学校への改称
長く商業の専門高校であった磐田商業は、平成に入ると大きく性格を変える。昭和六十四年・平成元年(一九八九)四月、商業英語科を廃して普通科を設置した。これは、商業科一本でやってきた学校が、普通科を併せ持つ学校へと舵を切った転換である。翌平成二年(一九九〇)四月には事務科を廃止して情報処理科を新設し、簿記や商業実務に加えて、情報を扱う力を育てる学校へと進んだ。
そして平成三年(一九九一)四月、校名を静岡県立磐田西高等学校へ改めた。「磐田商業」という、源流の中泉商業学校以来の商業の名を外し、磐田の西に立つ高校という、地理に基づいた校名へと変えたのである。これは、商業専門校から普通科・専門学科を併せ持つ総合的な高校への性格転換を、校名のうえでも示した大きな節目であった。地域の人にとっては、長く親しんできた「磐商」の名が消えた出来事でもある。
校名は変わったが、創立を昭和十四年の中泉商業学校に置く点は受け継がれている。平成二十一年(二〇〇九)に創立七十周年、令和元年(二〇一九)に創立八十周年の記念式典が行われたのは、いずれも一九三九年を起点とした数え方による。校名を改めてなお、中泉に始まる歴史を自らの根として保ち続けている。
総合ビジネス科と実学教育の現在
平成十六年(二〇〇四)四月、情報処理科と経理科を廃し、総合ビジネス科が設置された。簿記・会計、情報処理、商業実務といった従来の専門分野を、一つの学科のなかで横断的に学べるように再編したものである。会計の知識、情報を扱う技能、そして社会で働くうえでの基礎を、まとめて身につける学科として整えられた。
総合ビジネス科では、簿記検定や情報処理に関する資格取得、金融や経済の仕組みの理解、いわゆる金融リテラシーの習得などが重視される。これは、目の前の暮らしや仕事に役立つ知識を学ぶという、中泉商業学校以来の実学の考え方を、現代の経済社会に合わせて受け継いだものといえる。算盤と簿記から始まった学びが、情報と金融の時代に形を変えて続いている。
もう一方の普通科は、平成元年の設置以来、進学や幅広い進路に対応する学びを担ってきた。専門の総合ビジネス科と、普通科という二つの柱を持つことが、現在の磐田西高校の姿である。商業の専門校という単一の性格から、地域の多様な進路を受け止める総合的な高校へと、長い時間をかけて移り変わってきた。
部活動も学校文化の一部として根づいている。なかでも剣道部は、県大会や東海大会といった舞台で継続的に成績を残し、卒業生による応援の輪も続く、学校の伝統の一つとして知られる。文武の両面で地域に名を知られてきたことも、この学校の歩みの一面である。
中泉の商業教育が地域に残したもの
中泉商業学校に始まり、磐田商業を経て磐田西高校へと続くこの八十年余りの歩みは、磐田の商業教育・実学教育の歴史そのものである。簿記、算盤、会計、情報処理といった学びは、卒業生を通じて磐田・遠州の商店、金融機関、事業所、役所などに広く流れ込み、地域経済の実務を支える人々を生み出してきた。
校名が「中泉」「磐田商業」「磐田西」と移り変わるなかでも、変わらずに受け継がれてきたのは、暮らしと仕事に直結する力を育てるという実学の姿勢である。中泉という土地が、自前の商業学校を求めた昭和十四年の選択は、その後の磐田の働き手の育ち方を方向づけた選択でもあった。
長い歴史のなかでは、生活指導や信頼回復が問われた局面もあった。しかし学校の歩みを地域史として読むうえで本質的なのは、危機をどう受け止め、再生してきたかという過程である。中泉に芽生えた実学の精神は、そうした浮き沈みを越えて、いまも磐田西高校の学びのなかに息づいている。学校の歴史をたどることは、中泉という商いの町の歴史をたどることでもある。